前の年代:
紀元前250年〜紀元前200年

紀元前200年 〜 紀元前150年

中国の文献によれば、この頃の日本は、100余の国々の集まりのある島国であり、それを総称して倭(わ)国と呼称していた。
※「倭」を「やまと」としたのは、おそらくは当て字。大和朝廷が成立して以降、外交を目的として「やまと」という発音を「倭」に当てた。
グレコ・バクトリア王/メナンドロス1世(ミリンダ王)と、ナーガセーナ長老との問答。(ミリンダ王の問)

孝元天皇15年/前200年:辛丑

前漢/
冒頓単于が40万の軍勢を率いて代を攻め、その首都・馬邑で代王・韓王信を寝返らせた。
前漢皇帝・劉邦(高祖)が歩兵32万を含む親征軍を率いて討伐に赴いたが、冒頓単于は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された(白登山の戦い)。この時、劉邦は7日間食べ物が無く窮地に陥ったが、陳平の策略により冒頓単于の夫人に賄賂を贈り、脱出に成功した。
冒頓単于は自らに有利な条件で前漢と講和した。これにより、匈奴は前漢から毎年贈られる財物により、経済上の安定を得、さらに韓王信や盧綰等の漢からの亡命者をその配下に加えることで勢力を拡大させ、北方の草原地帯に一大遊牧国家を築き上げることとなった。これには、成立したての漢王朝は対抗する力を持たず、劉邦が亡くなった後に「劉邦が死んだそうだが、私でよければ慰めてやろう」と冒頓単于から侮辱的な親書を送られ、一時は開戦も辞さぬ勢いであった呂雉も、中郎将の季布の諌めにより、婉曲にそれを断る内容の手紙と財物を贈らざるを得なかった。
マヤ/ツォルキンが、マヤの民に対して、テオティワカンの古代神殿の跡地に、巨大な複合建築物「太陽の神殿」を建設させる。
シリア/
パニオンの戦いにおいて、エジプト軍は大敗して多くの領土を失い、東方貿易の中継地点である南シリアの喪失は王朝の経済に大きな痛手を与えた。
収入の低下によって農民に課された重税は反乱を招く事になる。
マケドニア/
マケドニアがギリシア諸都市の安全を脅かしているいう理由でローマがギリシアに干渉し、ギリシアに派兵する。マケドニアはこれに対して武力で対抗する。
第二次マケドニア戦争が起こる。
マケドニア王ピリッポス5世は、スパルタに対して「ローマとの協定から離脱してマケドニアと同盟を結ぶ代償として、マケドニアが支配するアルゴスの領有権をスパルタに与える」との提案を行った。ナビスは当初ピリッポスに対してアルゴス市民からの申し入れが無ければ受入れられないと回答したものの、アルゴスが加盟していたアカイア同盟がナビスに対する非難決議を採択したことを受けて、夜陰に乗じてアルゴス市内に侵入させていたスパルタ兵に市内の要衝を制圧させて、アルゴスの支配権を奪取した。
戦争が始まるとスパルタはマケドニアから離反し、ローマ連合軍側に再び加入して、ローマ軍を支援するために600名のクレタ人傭兵を派遣した。また、アカイア同盟と4ヶ月間の休戦協定を締結。
カルタゴ/
ンニバルは国力の回復を目指し、不可能と思われた賠償金の返済をやり遂げる。
しかし、逆にマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスを始めとするローマの反カルタゴ派の危機感を募らせる事にも繋がってしまう。
また、ハンニバルの改革は効果的ではあったが、かなり強引なものでもあった。それ故に、カルタゴ国内に反ハンニバル派の台頭を許してしまう。

孝元天皇16年/前199年:壬寅

カルタゴ/ 反ハンニバル派は「ハンニバルがシリア(セレウコス朝)と内通している」とローマに讒言し、ローマは事実関係を究明するために調査団の派遣を決定した。身の危険を感じたハンニバルはカルタゴを脱出し、亡命のためシリア王アンティオコス3世の許へ走った。

孝元天皇17年/前198年:癸卯

ローマ/ ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスが、30歳にもならない若さでローマの執政官となる。
ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスはマケドニアとの戦いで、司令官として赴く。
彼の先任者のプブリウス・スルピキウス・ガルバおよびプブリウス・ヴィリウス・タプルスの戦いが消極的であったことから自らはそうなるまいと決意し、兄弟のリュクスを艦隊司令官にして共同作戦を取らせ、且つ第二次ポエニ戦争においてヒスパニアで大スキピオの下でハスドルバルを破った部隊から3000人の精鋭を選び、遠征軍に組み込んだ。
エピロス入りしたフラミニヌスは早速アプソス川近くの隘路に拠っていたピリッポス5世率いるマケドニア軍を破った。敗れたマケドニア軍はテッサリアへと逃げ、追ってきた敵に何も残さないように都市の住民を山地に立ち退かせた後、火を放った。一方フラミニヌスは兵士に対して、自国や保護を託された国の国土を通る場合のように行動せよと命じ、これを守らせた。このため、テッサリアの都市の多くはローマ軍に城門を開いて同盟を結び、アカイア人はマケドニア側からローマ側に寝返った。
その後、ピリッポスから講和の打診がフラミニヌスの許へ来たが、フラミニヌスが示したギリシア人の自治を認め、駐屯軍を撤退させよという条件をピリッポスが拒否したため、実現されなかった。その後、フラミニヌスはボイオティアへと軍を進め、ボイオティアを味方につけた。続いてピリッポスはローマ本国へと講和を求める使者を送り、フラミニヌスも代理人を送って抗弁させたためまたしても、ピリッポスの目論みは失敗した。この結果を知るやフラミニヌスは決戦の準備をし、26000人の軍をテッサリアに進め、後に、アイトリアからの歩兵6000人、騎兵400騎が合流し、計32400人となった。対するピリッポスの兵力は25500人、うち2000人が騎兵だった。そして、両軍はスコトゥサ近くで対陣した。

孝元天皇18年/前197年:甲辰

マケドニア・ローマ/
キュノスケファライの戦いが起こる。
夜から降っていた雨が止んだ後、辺りは濃霧に覆われ、視界が奪われた。そのため、双方は偵察として部隊を分遣し、それらの間でキュノスケファライにて遭遇戦が起こった。双方共に援軍を繰り出して戦っていたが、やがて霧が晴れて視界が回復したので全面衝突の運びとなった。
右翼に陣取っていたピリッポスは自軍が占拠していた高地よりファランクスの全軍を繰り出し、ファランクスのサリッサの槍衾はたちまちローマ軍を蹴散らした。他方、マケドニア軍の左翼の地形は起伏が激しいために、その戦列は崩れ、断続していた。これを見たフラミニヌスは窮地に陥っている左翼を助けずに主力を右翼に集中させ、突撃させた。うまくファランクスを形成できていなかった左翼のマケドニア兵は俊敏な行動に適さない重い甲冑をつけて個々でローマ兵と戦わざるを得なくなった。ファランクスの強さはその密集隊形にこそあるため、一個の集団として戦っている時に強く、逆にファランクスを形成できない場合はその重装備ゆえに強さは損じられる。そして、此度のマケドニア軍左翼はそのような状況で戦った。
ローマ軍右翼はマケドニア軍左翼を敗走させた後、一部はその追撃に移り、他はがら空きになった敵の側面を攻撃した。敵に側面より包囲された残りのマケドニア軍は大混乱に陥り、敗走または降伏した。この戦いでマケドニア軍は8000人の戦死者と5000人の捕虜を出した。これに対し、ローマ軍の戦死者はわずか700人であった。
ピリッポスはフラミニヌスに降伏し、第二次マケドニア戦争におけるマケドニアの敗戦が決定した。
アイトリア人は不満を訴えたものの、フラミニヌスは(イリリアとギリシアの緩衝地帯としての役割から)ピリッポスに王位を維持させた。その代わり、マケドニアの軍勢の全ギリシアからの撤退、1000タラントンの賠償金の支払い、10隻を残した全艦隊の引き渡し、王子デメトリオスを人質としてローマに送らせる、という条件をピリッポスに呑ませた。こうしてマケドニアを破ったフラミニヌスはギリシアの各地で解放者として熱烈な歓迎を受けた。この敗戦の後、ピリッポスは親ローマ路線へと舵を取り、スパルタと対立する事となる。彼の存命中マケドニアはローマと対立することはなかった。
戦争後もスパルタはアルゴスの領有を維持した。

孝元天皇19年/前196年:乙巳

前漢/
秦末期から前漢初期にかけての武将/韓信が死去。
韓信は反乱を起こそうと目論んだが、蕭何の策で捕らえられ、誅殺された。この時、劉邦は遠征に出ていたが、帰って韓信が誅殺されたことを聞かされるとこれを悲しんだ。
彭越が捕らえられて蜀に流されるところを呂雉の策謀により誅殺された。
一人残った英布は反乱を起こした。劉邦はこの時体調が優れず、太子(恵帝)を代理の将にしようかと考えていたが、呂雉らにこれを諫められ、親征して英布を下した。この遠征から帰る途中で故郷の沛に立ち寄って宴会を行い、この地の子供120人を集めて「大風の歌」を歌わせた。
そして沛に永代免租の特典を与え、沛の人たちから請われて故郷の豊にも同じ特典を与えた。
ギリシア/
アカイア同盟は、加盟国の一つであるアルゴスがスパルタの占領下に残ったことに動揺した。アカイア同盟は、アルゴスからスパルタの影響力を排除するために、ローマに対してギリシアへ使節を派遣するように要請することを決定した。ローマはアカイア同盟からの要請に応じたが、理由としてはローマがギリシアを去った後、再建された強力なスパルタがギリシアで勢力を広げる行動を起こすことを懸念したことが挙げられる。
エジプト/
プトレマイオス5世がエジプトの伝統的な儀礼に従い、プトレマイオス朝のファラオとして初めてメンフィスで即位式を挙げ、税金の恩赦を布告した。碑文ロゼッタ・ストーンには、ギリシア語、デモティック、ヒエログリフの3種類の文字によって、紀元前196年にメンフィスで行われた神官会議が記録されている。

孝元天皇20年/前195年:丙午

前漢/
英布戦で受けた矢傷が元で、さらに病状が悪化し、呂雉に対して、今後誰を丞相とするべきかの人事策を言い残して崩御した。
前漢で恵帝が即位(- 紀元前188年)。呂后の専横が始まる。
実権は全て呂雉に握られ後継者を巡る政争で、恵帝の有力な政敵であった趙王劉如意やその生母の戚氏らを復讐として殺害した。
対抗できる者もなく、呂氏の時代がやって来た。呂雉の残虐な行為に衝撃を受けた恵帝は政務を放棄し、酒色にふけった。
燕の衛満が箕氏朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮を建てる。(-108年)
スパルタ/
アゲシポリス3世が、スパルタを追放される。
アゲシポリス3世が、フラミニヌスのスパルタの僭主ナビスとの戦いに加わる。
ローマ・マケドニア・スパルタ/
第一次ナビス戦争が起こる。
ローマ軍の指揮官のティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスがギリシアに到着した。
フラミニヌスはナビスに対して宣戦布告の是非を議論するために、コリントスにギリシアのポリスや周辺国家の代表者を招集した。会議には代理人も含んで、アイトリア同盟、マケドニア、ペルガモン、ロドス、テッサリアそしてアカイア同盟が参加した。ローマの影響力をギリシアから排除することを望んでいたアイトリア同盟とテッサリアを除き、全ての参加者がスパルタへの宣戦布告を支持した。アイトリア同盟とテッサリアはナビスに対して共に事態に当たることを申し出たが、アイトリア同盟はアカイア同盟からの反対に遭い、いかなる方法によってもアイトリア同盟の力を伸長させることを妨害された。
ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスはアカイア人にペロポネソスでのナビスの力を抑えることを説かれ、ナビスに対してアルゴスをアカイアに返すか、ローマと戦争するかのどちらかを選ぶよう迫った。
フラミニヌスは最初にスパルタに使者を送り、ナビスがアカイア同盟にアルゴスを引き渡すか、ローマおよびギリシア連合軍との戦争に直面するかを選択するよう通告したが、ナビスはフラミニヌスの通告を拒否したため、約40,000のローマ連合軍はペロポンネソスへ侵攻した。
ペロポンネソスへ入ったフラミニヌスは、クレオナイで歩兵10,000、騎兵1,000を率いるアカイア同盟の指揮官のアリスタイノスと合流して、そのままアルゴスへ進軍。一方でナビスは義理の兄弟であるピュータゴラースを指揮官として、兵15,000から成る守備隊をアルゴスへ派遣した 。ローマ軍とアカイア同盟の連合軍がアルゴスに進軍していた時、ダモクレスという名の若いアルゴス人が、スパルタの守備隊に対する蜂起をそそのかすことを企てた。数人の支持者と共にダモクレスはアルゴス市街のアゴラに登り、アルゴス市民に向かってスパルタの支配に蜂起することを訴えた。しかし、市民からの反応は全く無く、ダモクレスとその支持者のほとんどがスパルタの守備隊によって殺害された。
ダモクレスの一派でわずかに生き残った者は、アルゴスを脱出してフラミニヌスの軍営地へ逃げ込んだ。ダモクレスの支持者たちはフラミニヌスに次のように訴えた。「もし、ローマ軍の陣営地をアルゴスの城門により近い場所へ動かしていたならば、アルゴス人はスパルタ守備隊に対して反逆を起こしたであろう」。
フラミニヌスは、新たな軍営地の位置を定めるために歩兵および騎兵の各部隊を周辺に派兵した。ローマ軍の小隊がその位置に見当を付けたところ、アルゴスの城門から突撃したスパルタ守備隊の一部隊と、アルゴスの城壁から約300歩の場所で小競り合いになった。ローマ軍はスパルタ軍を撃退し、スパルタ軍はアルゴス市内への撤退を強いられた。
フラミニヌスはその小競り合いが発生した場所に軍営地を移動した。数日間、フラミニヌスはスパルタ軍の攻撃を待ったが、音沙汰無く過ぎた。フラミニヌスはアルゴスの包囲戦の是非について軍事会議を開いた。会議に集合した指導者の内、アリスタイノス以外の全員が戦争における最初の目的は攻め取ることである、としてアルゴスへの攻撃を主張した。
一方、アリスタイノスはアルゴス攻撃の代わりに、スパルタ本国およびラコニアを攻撃するべきであると主張した。フラミニヌスはアリスタイノスの意見を採用して、軍をアルカディアのテゲアへ進めた。さらに次の日にはカリュアイまで進軍したが、カリュアイには増援部隊としてアウクシリア(補助部隊)が待機していた。
紀元前215年にリュクールゴスによってスパルタ王位を廃位されたアギアース家出身のアゲシポリス3世が率いるスパルタの残党や、ピリッポス5世によって送られたテッサリア騎兵400を含むマケドニア兵1,500も含まれており、到着してすぐにローマ軍に加わった。
また、新たにラコニアの海岸にローマ連合軍に味方する船団が到着した。その内訳は、ルキウス・クィンクティウスが指揮する40隻のローマ艦隊、クレタ傭兵が行っている海賊行為を背後で支援するナビスが敗北することにより、自国の商戦が被っている海賊による被害から解放されることを期待したソシラスが率いる18隻のロドスの艦隊、セレウコス朝のアンティオコス3世が侵攻した際にローマの支援を期待し、その好意を得ることを望んだエウメネス2世自らが指揮を取る40隻のペルガモン艦隊であった。
ナビスは10,000のスパルタ正規兵と3,000の傭兵部隊を徴兵した。また、スパルタ領内およびその支配地にある海軍基地より利益を得ていたクレタ傭兵部隊もスパルタへ既に送っていた1,000人に加えて、さらに精鋭の1,000人の兵士を急派した。ローマ軍の接近によりナビスに対する反乱が誘発されかねないことを恐れたナビスは、著名な市民80名を処刑することで、その引き締めを図ることを決めた。フラミニヌスが陣営地より移動してセッラシアを襲撃したのを見て、ナビス側の外国人傭兵部隊が元々はスパルタ側の本陣であったローマ軍が本陣を置く軍営地を攻撃した。突然のナビス軍の急襲に対してローマ連合軍は当初混乱させられたが、ローマ軍の中核であるコホルスが到着したため、スパルタ軍は撤退した。ついで、ローマ軍がメネラーオスの陣営へ続くスパルタの古道を進んでいた際に、ナビス軍の傭兵部隊がそのローマ軍の後背を攻撃した。傭兵部隊が攻撃したローマ軍後衛部隊の司令官のアッピウス・クラウディウスは軍を集結させ、町の城壁の前まで引き換えし、その過程で多数の死傷者を出しながら、傭兵部隊を迎撃した。その時点でローマ連合軍本軍はアミュクライへ進んでおり、道中で周辺の国々より略奪を繰り返していた。その間、ルキウス・クィンクティウスは、自発的に降伏していたラコニアのいくつかの沿岸都市を収容していた。
ローマ連合軍の本軍はその地域で最も大きく、スパルタ海軍の本拠地かつ兵器庫でもあった軍港ギュティオンへ進軍した。陸軍がギュティオンを包囲し始めたときに、ローマ連合軍の海軍が到着し、その内の3隻の船員は数日を掛けて攻城兵器を組み立てて、使用可能な状態とした。この攻城兵器は城壁を蹂躙・荒廃させる効果があったが、ギュティオンのスパルタ守備隊はそれに持ちこたえた。ギュティオンのスパルタ守備隊には2人の指揮官がおり、その内の1人のデクサゴリダスは開城して降伏することを希望する旨をローマ軍のレガトゥスへ伝えた。しかし、それを知ったもう1人の指揮官のゴルゴパスは自らの手でデクサゴリダスを殺害したため、この計画は未遂に終わった。
ゴルゴパスは、近隣地区からフラミニヌスが集めた4,000の増派された兵を率いて戻るまでは抵抗を続けたが、フラミニヌス率いる部隊が到着してローマ軍が再び強襲すると、ゴルゴパスは降伏を強いられた。なお、ゴルゴパスと守備隊は身柄を保護されて、無傷のままスパルタへの帰還を許された。
ギュティオンの包囲戦の間、ピュータゴラースはアルゴスから3,000の兵を率いて、ナビスに加勢するためにスパルタ市に入城した。ナビスはギュティオンが降伏したことを知ると、和平交渉を申し込むためにフラミニヌスへ使節を送ることを決め、スパルタが支配するアルゴスに駐屯するスパルタの守備隊を撤退させ、ローマ軍の脱走兵や捕虜を返還することを申し出た。フラミニヌスは連合軍の指揮官を集めて会議を行ったが、ほとんどの軍指揮官はスパルタを攻略し、ナビスを王位から蹴落とせると考えていた。 フラミニヌスは自身の考えにより、「駐屯する全てのスパルタの守備隊が撤退してアルゴスを明け渡すだけでなく、沿岸のラコニア地方の都市に自治権を付与し、スパルタ海軍の艦船を彼らに与え、翌年から8年間戦争の賠償金を支払い、他のクレタ人のどの都市とも同盟を結ばないと協約を結ぶのであれば、スパルタとローマは6ヶ月間の停戦を結ぶだろう」とナビスに通告した。ナビスはフラミニヌスの要求を拒絶し、ローマ連合軍の包囲戦に耐えうるだけの十分な物資を用意していると返答した。フラミニヌスは50,000の兵をもってスパルタ市へ進軍し、そしてスパルタ市外の戦闘でスパルタ軍を打ち破った後に、スパルタ市の包囲を開始した。フラミニヌスはスパルタ市の包囲戦において、通常の包囲ではなく強襲することを決めた 。スパルタ軍はローマ連合軍の攻撃によく持ちこたえたが、ローマ軍のスクトゥムがスパルタ軍の飛び道具による攻撃を無効化したことでスパルタ軍の反撃は妨げられた。ローマ連合軍はスパルタ市を取り囲む城壁に攻撃の狙いを定めて、城壁を突破した。ローマ連合軍はスパルタ市の郊外に設けられた隘路により進行を阻害されたが、スパルタ市街中心部へ進軍するためにローマ連合軍はその隘路を拡張したことにより、スパルタ軍は徐々に後退することを余儀なくされた。防御網が崩壊しつつあったのを見たナビスはスパルタ市からの逃亡を試みた。しかし、ピュータゴラースは兵を集めて、城壁に最も近い建物に火を放つように命じた。燃えた破片がスパルタ市街地に突入していたローマ連合軍の兵士に降りかかり、多くの死傷者が出た。これを見たフラミニヌスは本軍の陣営を放棄することを命じた。結果的にローマ連合軍の攻撃を3日の間、スパルタ軍は撃退したが、この状況を絶望視したナビスはローマ連合軍に降伏を申し出るために使者としてピュータゴラースを送ることを決めた。当初フラミニヌスはピュータゴラースに会うことを拒絶したが、ピュータゴラースが2度目にローマ軍の軍営地に来訪した際にフラミニヌスが以前にナビスへ通告した内容と同じ内容でスパルタの降伏を受諾した。フラミニウスとナビスの間で合意された和平協定は後にローマで元老院によって批准された。アルゴスでも、スパルタ市が包囲下にあると知ったアルゴス人が反乱を起こした。アルゴス人のアルキッパスは、ティモクラテスが指揮するスパルタの守備部隊を攻撃した。ティモクラテスは砦を明け渡し、ティモクラテスとスパルタの守備部隊は無傷で退去することができた。
また、ナビスの軍隊に徴兵されていた全てのアルゴス人が帰国を許された。
戦後、フラミニヌスはネメアで開催されていた「ネメア競技祭」を訪れ、アルゴスが解放され、自由であることを宣言した。ナビスは講和条約に基づいて、アルゴス、メッセニア、クレタ島の諸都市およびラコニア沿岸都市の領有権を放棄(これら諸都市との同盟を結ぶことも禁じられた)した。アルゴスはアカイア同盟への再加盟が決まり、ラコニア沿岸都市はアカイア同盟の保護下に置かれた。スパルタ海軍の艦船についても小型の2隻を除いた残り全てをスパルタの支配から外れたラコニア沿岸都市へと譲渡された。また、ナビス自身の息子アルメナスを含む5人の人質をローマに引き渡した。ナビスはクレタ島の諸都市から守備部隊を撤退させて、スパルタの軍事力を増強させていた社会的・経済的な政策を撤回しなければならなかった。
フラミニヌスがナビスをスパルタ王位から排除しなかった理由について、リウィウスは「スパルタが海から途絶された内陸国となり、効果的な力を失ったとしても、ローマにとっては成長しているアカイア同盟に対する対抗者としての独立したスパルタの存在を欲したことによる」とし、テオドール・モムゼンも同様の見解を示している。一方で、戦争長期化によりフラミニヌスに代わる別の指揮官がローマから派遣されて自らの名誉が奪われることを恐れたことや、ナビス戦争で活躍したアカイア同盟の指揮官フィロポイメーンが自らと同等の称賛を得たことにフラミニヌスが嫉妬したことをプルタルコスは理由として記している。フラミニヌスは「ナビスを殺害すればスパルタ市民が深刻な危機に陥るからである」と弁明している。
ローマは、スパルタを刺激することを避けるために、スパルタからの亡命者をスパルタ本国へ帰す処置は取らなかった。ただし、ナビスによって夫が追放されて解放奴隷などに嫁がされた女性やその子息に限っては、スパルタ本国への帰国が許された。なお、イタリアへ帰国したフラミニヌスは2つの戦勝によりローマ市内で凱旋式を挙げたが、戦利品としてギリシアの兜やマケドニアの盾の他、黄金3,713リブラ、銀43,270リブラ、ピリッポス5世の肖像が入った金貨14,514リブラを得た。また、第二次ポエニ戦争で奴隷になり、ギリシアに滞在していた1,200名のローマ人を身代金を払ってローマへ連れ帰り、その元奴隷たちは凱旋式でフラミニヌスの後ろに従って行進した。

孝元天皇21年/前194年:丁未

ローマ・ギリシア・マケドニア/
指揮官としての任期を終えたフラミニヌスが指揮下のレギオン(ローマ軍)と共にイタリア半島へ帰還した後、ギリシアは再び元の体制となった。この時期にギリシアで有力であったのは、先だってローマとの戦争に敗れたマケドニア、アイトリア同盟、力を増したアカイア同盟、そして弱体化したスパルタであった。ギリシア内での紛争でローマの介入に対抗していたアイトリア同盟は、ナビスに対して失った元々の領土とギリシアにおける地位を取り戻すようにそそのかした。

孝元天皇22年/前193年:戊申

日本/1月、立稚日本根子彥大日々尊、爲皇太子、年十六。
秦/秦末期から前漢初期にかけての政治家/蕭何が死去。
エジプト/
シリアとの間に和平が成立し、プトレマイオスはアンティオコス3世の娘クレオパトラ1世と結婚する。婚資として南シリアの支配権がエジプトに返還されたが名目のみに過ぎず、アンティオコス3世が事実上の南シリアの所有者であり続けた。クレオパトラとの結婚によってエジプトはシリアからの内政干渉を受けるようになり、プトレマイオス5世は東地中海に進出しつつあったローマに支援を求めた。また、エジプトを破ったシリアとマケドニアはローマとの戦争に敗北し、地中海世界東部におけるローマの影響力が増していく。
クレオパトラ1世との間にはプトレマイオス6世フィロメトルら2人の息子と1人の娘が生まれた。彼の死後、クレオパトラ1世が摂政に就任することになり、シリアとの友好関係構築に努めた。
マケドニア/
ナビスは新たに艦船を建造し、軍隊を増強して、ギュティオンを包囲した。アカイア同盟はローマに助力を要望するために、ローマへ使者を派遣した。ローマの元老院は、プラエトルのアティリウスを、フラミニヌスによって立てられた大使およびローマ海軍と共にナビスの海軍を打ち破るために派遣した 。

孝元天皇23年/前192年:己酉

ローマ・シリア/
ローマとセレウコス朝のアンティオコス3世が戦争を起こす(ローマ・シリア戦争)。
最初に行動を起こしたアンティオコスは、海路でギリシアに渡り、アイトリアに隣接するテッサリアの制圧に取りかかった。アンティゴノス朝マケドニアのフィリッポス5世は、ローマに味方することを決めた。マケドニアからローマ軍の先遣隊が南下すると、これを連合軍主力の出現と考えたアンティオコスは攻勢をとりやめた。
ローマ・ギリシア・マケドニア/
第二次ナビス戦争が起こる。
ローマ海軍の艦隊の到着を待たずに、アカイア同盟軍はフィロポイメーンの指揮の下でギュティオンへ向かった。新建造船から構成されたスパルタ海軍は、ティソが率いる同盟海軍との海戦に勝利を収めて、最初の衝突で同盟海軍の旗艦を撃沈させた。また、地上戦においても、スパルタの陸軍は同盟軍をギュティオン市外で破り、フィロポイメーンはテゲアまで敗走した。フィロポイメーンに勝利した余勢を駆ってスパルタ軍はギュティオンを包囲したが、体勢を立て直した同盟軍の夜討ちに遭って敗北し、ナビスの本陣は同盟軍に焼き払われた。
スパルタ市へ向けて進軍する同盟軍に対してナビス軍は伏兵を仕掛けたが、フィロポイメーンの指示により同盟軍は周囲の地形に合わせて隊形を再編し直したことで、逆に同盟軍からの攻撃を受けて、スパルタ軍は散り散りに壊走した。さらに同盟軍は、スパルタ兵が市街地へ逃れるのを見越して伏兵を仕掛け、それに掛かったスパルタ兵の多くが殺害された。スパルタ海軍が健在で要塞化している都市へ残っていた一方で、同盟軍はスパルタが支配するラコニア諸都市を抵抗を受けずに略奪することができた。スパルタ市自体の攻略は、ローマの使者フラミニヌスが到着するまで置いておくことで、同盟軍のストラテゴスのフィロポイメーンを納得させた。その間に、ナビスは戦闘前と同じ条件で退却し、占領地も引き渡すことを決めた。
スパルタ軍がアカイア同盟との戦いに敗れ、軍事力が弱体化したため、ナビスはアイトリア同盟に助力を訴えた。アイトリア同盟は、アレクサメヌスなる人物を指揮官とする1,000の騎兵部隊をスパルタへ派遣したが、ナビスが軍の教練を視察していた際にアレクサメヌスがナビスを批判し、ナビスを槍で自ら刺し殺した 。
アイトリア同盟軍は、スパルタの宮殿を没収して、スパルタ市街は略奪された。しかし、蜂起したスパルタ市民はアイトリア同盟軍と戦って、アイトリア同盟軍をスパルタ市外へ敗走させた。ナビス殺害に端を発してスパルタは混乱状態にあったが、この機会を利用してフィロポイメーンはアカイア同盟軍を率いてスパルタ市内に入り、スパルタをアカイア同盟の一員に組み入れた。スパルタは、法律と領域を維持することを許されたが、亡命者やスパルタ軍の組織の規則は元に戻されなかった。なお、アカイア同盟への加盟を支持するスパルタ住民からフィロポイメーンに対して御礼金を送ることを申し出たが、フィロポイメーンは丁重に断った。

孝元天皇24年/前191年:庚戌

スパルタ/
スパルタはナビス戦争の和平条約で課された人質と放棄させられたスパルタ周辺の土地の返還を求めて、ローマへ使節を派遣し、ナビスの息子アルメネスを除く全ての人質がスパルタへ帰国することを許された。なお、アルメネスはその後もローマに抑留された。
ラコニア沿岸の港湾を放棄させられ、海へのアクセス手段を持たず、政治・経済的な問題に苦しんでいたスパルタはパッサウァスの町を占領したが、パッサウァスは「自由ラコニア連合」の構成員やスパルタの亡命者の多くが本拠とする町であった。アカイア同盟は、スパルタの独立を終わらせるための理由としてこれを利用し、パッサウァス攻撃の責任者の引渡しを要求した。スパルタを牛耳っていた反同盟派は、同盟支持派の住民を殺害し、同盟からの離脱とローマの保護を要求することで答えた。同盟の分裂を望んでいたローマは、その状況を静観した 。
ローマ・シリア/
マニウス・アキリウス・グラブリオが率いるローマ軍、歩兵2万と騎兵2千がアドリア海を渡り、アポロニアに上陸して、山地を越えテッサリアに現れた。アンティオコスは1万の歩兵と500の騎兵しか持たなかったため、本国に援軍を送るよう指示して、テルモピュライに防衛線を敷いた。

孝元天皇25年/前190年:辛亥

バクトリアが西北インドに進出。
マケドニア/
スキピオ・アフリカヌスとスキピオ・アシアティクスがマケドニアを訪問。マケドニアはローマに対する残りの賠償金を免除され、デメトリオスもローマの人質から解放された。
ローマ・シリア/
テルモピュライの戦いが起こり、ペルシア戦争中の同地点での戦いと同様、山側の防御陣を攻撃軍が突破したことで決着した。敗れたアンティオコスは船でギリシアを去った。ローマ軍はアイトリアに進行した。
エウリュメドン川の戦いが起こる。この戦いでは共和政ローマに追われ、セレウコス朝シリアに身を寄せていたカルタゴの将軍ハンニバル・バルカとシリアの将軍アポロニオス率いるセレウコス朝の艦隊と、エウダモス・カリクレイトス・パンフィリダス率いるローマと同盟していたロドス艦隊が戦った。
横隊のシリア艦隊はハンニバルが陸側の左翼を指揮し、アポロニオスが右翼を指揮した。一方縦隊を組んでいたロドス艦隊は前衛をエウダモス、中衛をパンフィリダス、後衛をカリクレイトスが指揮していた。夜明け、戦いはエウダモスとハンニバルとの交戦でもって始まった。前進を急ぎすぎていたエウダモスには4隻が続くのみであったのに対し、ハンニバルは準備万端でそれを迎え撃った。
数の優勢のためにハンニバルが乗組員の技術で優っていたエウダモスを圧迫していたのに対し、アポロニオスは間もなく敗走した。これを受け、残余のロドス艦隊がエウダモスの救援に回るために再集結した。このため、ハンニバルは敵を包囲しつつあったにもかかわらず、撤退を余儀なくされた。エウダモスはパンフィリダスとカリクレイトスに敵の追撃を命じたが、敵地の真っ只中に孤立するのを恐れた彼らは幾らか敵を追った後、エウダモスの許に戻り、ロドス艦隊はロドスに帰還した。その後、カリクレイトスはパトラスとメギステ港へ、エウダモスはサモス島へとローマ艦隊と合流するために送られた。

孝元天皇26年/前189年:壬子

マケドニア/
ナビスの息子アルメネスが、ローマで死亡。
ローマ・シリア/
アイトリアがローマ軍に降伏する。
アンティオコスの撤退に呼応して、イタリア防衛にあたっていたリウィウス率いるローマ艦隊は、カルタゴ、ロドスなど同盟諸国の艦隊も加えて小アジア沿岸に進出した。ロドス人のポリュクセニダスが率いるシリア艦隊はフォカイアで敗れたが、損害は大きくなかった。主力が北に去った後に、偽降を用いてローマの留守艦隊を撃滅した。
この頃マニウスと交代したローマ軍司令官は、執政官ルキウス・コルネリウス・スキピオであった。彼は第二次ポエニ戦争で活躍した兄弟の大スキピオを助言者として伴った。スキピオはマケドニアの助けを得て、マケドニアからトラキアを経由して小アジアに向かって行軍した。しかし、アンティオコスもこのことを予期して、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)に面するケルソネソス半島の防備を固めていた。
ローマは外交によってヘレスポントの南方にあるペルガモン王国を味方につけた。アンティオコスの子セレウコスがペルガモンを攻略しようとしたが、アカイア同盟からの援軍を率いたディオファネスに悩まされ、攻城の軍を引いた。さらに、リウィウスの後任ルキウス・アエミリウス・レギッルスが、ミョネソスの海戦でポリュクセニダスに勝利した。この敗戦を知ったアンティオコスは、ケルソネソスの守りを放棄して内陸に退いた。ローマ軍はケルソネソスに集積された補給品をおさめて難なく海峡を越えた。
アンティオコスはプブリウス・スキピオに和平を求めたが、提示された条件の厳しさを知り、戦争の継続を決心した。かくして、紀元前190年に小アジアの内陸でマグネシアの戦いが起こった。
この戦いに大スキピオは病気で出陣しなかった。大スキピオは息子を人質にとられていたため、病気と偽って戦線を離脱していたためである。代わりに実質指揮を執ったのはグナエウス・ドミティウスと大スキピオの弟、スキピオ・アシアティクスが執っていた。
アンティオコス3世は、両翼に重装騎兵カタフラクトイを配備していた。カタフラクトイは当時トップクラスの攻撃力を誇っており、攻めの時であればほとんど無敵であった。彼の作戦は、カタフラクトイを用いてローマ軍の騎兵隊をいち早く撃破し、カンナエの戦いのようにローマ軍を包囲・殲滅することであった。一方、ローマ軍はセレウコス軍を過小評価しており、ただ正面突破のことしか考えていなかった。
このまま戦いが始まれば、セレウコス軍の勝利は確実であっただろう。しかし、突然周囲に霧が生じ、戦場は全く見えなくなってしまった。視界が狭まったため、セレウコス軍の弓兵部隊はほぼ無力化されてしまった。これを利用し、ローマ軍右翼のエウメネスはクレタ軽装歩兵部隊に敵左翼を奇襲させた。この奇襲によってセレウコス軍の鎌戦車は自軍に突っ込んでしまい、セレウコス軍左翼は大混乱に陥った。
奇襲時に起こった喧噪を、アンティオコス3世は自軍の左翼が敵軍に突っ込み、計画通り蹂躙しているものと思い込み、自らのいる右翼も出撃した。ローマ騎兵が迎え撃ったが、カタフラクトイの圧倒的な攻撃力の前に瞬殺され、一気にローマ軍団に突っ込んだ。ローマ軍団と言えどもカタフラクトイの猛攻の前には歯が立たず、敗走してしまう。アンティオコス3世は彼らを追撃し、野営地まで追い詰めた。
アンティオコスは大軍を擁しながらこの会戦に敗れ、歩兵の主力だったファランクスを全滅させられ、抗戦が不可能になった。
アンティオコスは再び講和を申しいれ、スキピオが提示した条件を呑んだ。

孝元天皇27年/前188年:癸丑

前漢/
恵帝が崩御する。
恵帝はその性格から高祖の不興を買い、さらに呂雉の横暴・残虐な行為を阻止することができなかったことから、惰弱な人物として評価をされることが多い。他方、自身の廃嫡問題が表面化した際には多くの重臣の支持を獲得し、また劉邦が親征すると、その留守を預かり任務を全うしているという一面も有する。呂雉による劉如意暗殺の企てを事前に知ると、自ら寝食を共にして劉如意の身を守ろうとし、また恵帝より上座を得た庶長子の劉肥に対して呂雉が毒杯を与えようとした際には、その毒杯を自身が手に取って救う(呂雉が慌てて毒杯をこぼし未遂となった)など、惰弱と言うより良い意味で温和な一面も史書に残されている。また、『漢書』恵帝紀によれば、始皇帝の時代から続いていた焚書を中断させたのは、秦を打ち倒した高祖ではなく、恵帝である。
呂雉の死後、周勃と陳平により呂氏は粛清され、恵帝の異母弟の代王劉恒文帝が迎えられ、文景の治の繁栄となる。
恵帝死後、張皇后(魯元公主の娘)が嗣子をもうけていなかったため、呂太后の支持を得て即位した。
この際、呂太后の外孫にあたる張皇后が生んだ子であると公表するために、生母たる女官は殺害されたといわれる。
ローマ・シリア/
アパメイアの和約で、シリアはタウロス以西のアジアを放棄し、ローマに賠償金を支払い、象軍を保有せず、保有する軍艦を10隻に制限され、人質を出すことになった。ローマは直接の領土拡大はしなかったが、シリアが放棄した地域を従属させた。以後もシリアは大国として残ったが、戦後すぐにアンティオコス大王が死ぬと、内紛に明け暮れ国力を消耗していった。これと別個にアイトリア同盟もローマと和を結び、ローマに従属することになった。
シリア戦争の後、ハンニバルはローマの追っ手から逃れる為にクレタ島、さらに黒海沿岸のビテュニア王国へと亡命した。
前漢/文帝と竇皇后との間に、劉啓(後の景帝:第6代皇帝)が生まれる。
ギリシア/
アカイア同盟のフィロポイメーンは同盟軍を率いて、スパルタへの帰還を望んでいたスパルタの亡命者を伴ってラコニア北部へ入った。フィロポイメーンは最初にコムパシウムにおいて反同盟の住民80名を皆殺しにし、ナビスがスパルタ市の周囲に構築した城壁を破壊した。フィロポイメーンはスパルタの亡命者の帰国を許した一方で、ナビスの支配体制を支えていたクレタ人傭兵や解放奴隷をスパルタ国外へと追放し、従わなかった者は奴隷として売り払った。また、コムパシウムで同盟の法律を紹介すると共に、スパルタの法律の廃止を宣言した。

孝元天皇28年/前187年:甲寅

エジプト/
上エジプトで反乱が発生。ヒッパルスが反乱鎮圧にかかる。

孝元天皇29年/前186年:乙卯

秦末期から前漢初期にかけての政治家/張良子房が死去。
エジプト/
ヒッパルスが上エジプトの反乱を鎮圧。
プトレマイオス5世は内乱と外国の侵入に直面し、政治的困難の克服を期待してエピファネス(顕現神王)を自称したと推測されている。

孝元天皇30年/前185年:丙辰

孝元天皇31年/前184年:丁巳
前漢/
少帝が成長してこの事実を知ると、呂后を恨むようになった。呂后が少帝の怨恨を知ると、後難を恐れた呂后は少帝を幽閉、重病であるとして廃位した。それから間もなく少帝は殺害された。
兄の前少帝が呂雉に殺害されたことにより、代わって少帝弘が皇帝に即位した。
少帝弘とその兄弟は、実は呂雉が密かに宮内に連れ込んだ者たちで恵帝の実子ではない、ともいわれるが真相は不明である。
呂雉は、各地に諸侯王として配された劉邦の庶子を次々と暗殺し、その後釜に自分の甥たちなど呂氏一族を配して外戚政治を執り、自分に反抗的な少帝を殺害して劉弘(後少帝)を立てるなどの行動をとった事から劉邦恩顧の元勲たちからの反発を買うようになる。
スパルタ/
スパルタはローマの許可を得て、アカイア同盟の行政制度を破棄し、一度は失ったスパルタ式の制度を取り戻した。ただし、この時をもって、長らくギリシアにおいて大きな力を持っていたスパルタの役割は終わり、アカイア同盟がペロポンネソスにおいて力を及ぼすようになった。

孝元天皇32年/前183年:戊午

スパルタ/
アゲシポリス3世がスパルタからローマに赴いた使節の一人となる。
しかし、その途中で随行者もろとも海賊に捕まり殺された。
ローマ/
元老院の使者としてビテュニアを訪れたティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスが、ビテュニア王(プルシアス1世)に対し、ハンニバルの身柄の引渡しを迫った。これを察知したハンニバルは逃亡を図ったが、果たせずに自害した。奴隷に首を絞めさせたとも、毒薬を仰いだとも伝わっている。
ハンニバルのかつての好敵手スキピオ・アフリカヌスもローマ元老院の弾劾を受けて政界を退き、ローマを離れた地で紀元前183年に没している。

孝元天皇34年/前180年:辛酉

前漢/
呂后が死亡する。
脇の病気にかかり、甥の呂産らに元勲たちの動向に気をつけるようにさんざん言い聞かせ、さらに呂氏一族を中央の兵権を握る重職などに就けて万全を期した後、死去したとされてる。
陳平や周勃らの元勲は、斉王の遺児などの皇族や諸国に残る劉氏の王と協力してクーデターを起こし、呂氏一族を皆殺しにした。
少帝弘も、恵帝の実子ではなく呂后がどこからか連れてきた素性の知れぬ者という理由で、恵帝の子とされていた常山王劉朝(軹侯)、淮陽王劉武(壷関侯)らと共に暗殺された。また、呂后の妹の呂嬃は鞭打ちの刑で殺害され、呂嬃の息子の樊伉も殺害された。呂氏の血を引く者のうち、この粛清で殺害されなかったのは、魯元公主が生んだ張敖の子である張皇后と張偃のみであった。
後に、新末後漢初の動乱の際、赤眉の軍勢は前漢諸帝の陵墓を盗掘し、安置されていた呂后の遺体を汚したとされている。光武帝は呂雉から皇后の地位と高皇后の諡号を剥奪し、文帝の生母である薄氏を劉邦の正妻として高皇后の号を贈った。
恵帝の異母弟・代王劉恒を新たに皇帝に擁立した。
文帝が即位する。
グレコ・バクトリア王/メナンドロス1世(ミリンダ王)と、ナーガセーナ長老との問答。(ミリンダ王の問)
インド/マガダ国マウリヤ朝が滅亡。
エジプト/
プトレマイオス5世が、持参金となるはずの領土を狙い戦争の準備をしている最中に死去。
幼い子プトレマイオス6世の摂政として実権を掌握し、兄弟でシリア王となっていたセレウコス4世と和解し平和を保った。
マケドニア/
ローマよりマケドニア王への即位を促された弟デメトリオスと王位継承者である兄ペルセウスとの間で確執が起こる。
ローマの外交を担っていたデメトリオスの活躍にペルセウスは嫉妬し、ペルセウスにけしかけられたピリッポス5世は息子デメトリオスを処刑。
これによりマケドニアとローマの関係は冷却。

孝元天皇35年/前179年:壬戌

マケドニア/
ピリッポス5世が、アンフィポリスにて死去。
デメトリオスの兄ペルセウスが王位に就いた。
ペルセウスは北方の蛮族対策と称して軍備を増強し、父王の親ローマ路線から反ローマ路線へと舵を切った。
ローマとの関係が見直され、マケドニアは反ローマの姿勢を示した。ペルセウスはデルフォイを訪問する際に軍隊を率いて赴き、またローマの元老院から送られてくる外交担当者を蔑ろにした。これらはローマにマケドニアとの関係の再考を促す結果となった。

孝元天皇36年/前178年:癸亥

秦末期から前漢初期にかけての政治家/ 陳平が死去。

孝元天皇38年/前176年:乙丑

前漢時代の儒学者/董仲舒が生まれる。(-前104年)
エジプト/
女王クレオパトラ1世が死去。

孝元天皇40年/前174年:丁卯

匈奴/冒頓単于が死去。子の攣鞮稽粥(れんていけいいく)が老上単于として即位。

孝元天皇43年/前171年頃:庚午

マケドニア/
第三次マケドニア戦争が勃発。
ペルセウスは戦争初期にはある程度の成功を収めるものの、次第に状況はマケドニアに不利となっっていく。

孝元天皇45年/前169年頃:壬申

マケドニア/
マケドニアがペルガモン王国に侵攻する。
ペルガモンはローマに救援を求め、ローマがそれに応じ、ギリシアへと軍勢を送った。

孝元天皇46年/前168年頃:癸酉

ローマ・マケドニア/
ピュドナの戦いが起こる。
緒戦マケドニア軍はローマの陸海軍に対して優勢に戦いを進めた。
ローマはマケドニア軍に太刀打ちできる人物としてルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスを執政官に選び、ギリシアへ派遣した。ギリシアに着いたパウルスは早速ペルセウスとの戦いを開始した。ペルセウスは周囲を城壁や柵で固めつつ、「オリュンポスの山裾が海に没するあたり」に陣取っており、難攻不落であった。何日かの間両軍はにらみ合っていたが、その間パウルスは周囲を調査し、ピュテイオンとペトラを経てペライビアへと抜ける道が無防備であると知った。そこで彼はプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルムに8200人の歩兵と120騎の騎兵を与えて、その道を通って沿岸地域まで周り込み、敵を包囲しようとみせかけた。しかし、この目論見はローマ軍から脱走してきたクレタ人によってペルセウスの知るところとなり、彼は傭兵10000とマケドニア兵2000をミロンに与えて差し向けた。結果、ミロンはナシカに敗れ、これを知ったペルセウスはピュドナへと後退した。その時マケドニア軍が着陣した場所は平坦な地形で、ファランクスを展開するのに適していた。
ナシカの部隊と合流したパウルスはマケドニア軍に対陣した。その夜、月食が起きた。パウルスが月食について知っていたこともあり、ローマ人は月の光を呼び戻す儀式を行ったのに対し、マケドニア軍は月食に恐れおののき、王が滅ぶ徴候だと言う噂が流れた。このため、マケドニア軍の士気は戦いの前には既に落ちていた。
翌日の午後、戦いが始まった。戦いの開始はプルタルコスの伝えるところでは、パウルスは敵の攻撃を誘発するために轡をはめていない馬を放ち、それをローマ兵に追わせた。あるいは、ローマ軍の馬をマケドニア側のトラキア兵が襲い、これに対してローマ側のリグリア兵700人が交戦し始め、これへの加勢から戦いが広まり、両軍の全面衝突と相成ったという。当初、戦いは互角に展開したが、やがてローマの前衛をマケドニアのファランクスが突破した。この戦いでのマケドニア軍ファランクスのサリッサ(マケドニア軍のファランクスが用いた長槍)の林を前にしてパウルスは驚愕と恐怖に捕えられたという。さらに、その後方の部隊も破れたため、ローマ軍はオロクロンという山まで後退した。マケドニア軍はこれを追撃したが、戦列が長く延びたためにファランクスの隊列は乱れ、隙間や割れ目ができた。そこでパウルスは部隊を小分けして敵の戦列の隙間や裂け目への集中攻撃・各個撃破を命じた。白兵戦ともなればサリッサは役に立たないため、マケドニア軍はサリッサを捨てて戦ったが、彼らの短剣と小さな革張りの盾ではローマ軍の剣と大きく重い盾には抗し得ず、敗走した。マケドニア軍の精鋭部隊3000人は踏みとどまって戦ったものの、全滅した。
戦いは規模の大きさにもかかわらず、一時間ほどで終わった。この戦いでマケドニア軍は25000人以上が戦死したのに対し、ローマ軍の戦死者はポセイドニオスによれば100人、ナシカによれば80人のみだった。ポリュビオスは、ペルセウスは戦いの早い段階で怖じ気付き、騎兵のほとんど全部と共に逃げ去った、と述べている。一方、ポセイドニオスは、ペルセウスは勇敢に戦ったが、敵の投げ槍によって負傷したために戦場を離れたと述べている。いずれもプルタルコスによって伝えられている内容である。
逃亡の後、戦いで臆病を示したペルセウスは兵士はおろか臣民からも見捨てられ、財産をクレタ人に巻き上げられ、極め付きにはサモトラケ島に渡った後、ローマ軍に捕えられた。ペルセウスはローマの司令官ルキウス・アエミリウス・パウッルスの前に降伏。その後、彼はローマでのパウルスの凱旋式において戦利品として彼の子供ともども人々の見世物になった後、軟禁され獄死した。
マケドニアは4つの共和国に分割された。
マケドニア王ペルセウスが死去。なお、2005年にイタリアのラクイラ県マリャーノ・デ・マルシ近郊のヴァレリア街道沿いにペルセウスの墓石が発見され、イタリア政府文化庁およびマケドニア共和国政府の調査を受け、注目を浴びた。
アンティゴノス朝マケドニア王国が滅亡する。

孝元天皇47年/前167年頃:甲戌

ユダ・マカバイがエルサレム神殿を回復。ハスモン王家によるユダヤ支配のはじまり。

孝元天皇48年/前166年:乙亥

匈奴/老上単于率いる匈奴軍14万騎は朝那・蕭関に侵入し、北地都尉の孫卬を殺し、人民と畜産を甚だ多く略奪し、遂に彭陽に至る。老上単于は奇兵(奇襲の兵)に命じて回中宮を焼き払わせ、候騎(斥候)には雍州の甘泉にまで現れさせた。ここにおいて文帝は中尉の周舎、郎中令の張武に命じて将軍とし、戦車千乗、騎10万を発して、長安の旁らに置いて匈奴の侵攻に備えさせた。文帝は昌侯の盧卿を拝して上郡将軍とし、寧侯の魏遫を北地将軍、隆慮侯の周竈を隴西将軍、東陽侯の張相如を大将軍、成侯の董赤を前将軍として、戦車と騎兵の大軍を繰り出し、匈奴討伐に向かわせた。老上単于は塞(長城)内に1ヶ月あまり留まった末、ようやく立ち去り、漢軍は塞を出てこれを追撃したがすぐに帰還した。匈奴は日に日に傲慢になり、毎年のように侵入するようになって多くの人民と畜産を殺して奪った。このうち雲中郡と遼東郡が最も甚大な被害を受けており、代郡にいたっては1万人あまりも殺された。漢はこれを患い、匈奴に使者をやって書簡を送ると、老上単于の方も当戸を使者として返礼陳謝させて来た。ここにおいて両国はようやく講和を結んで友好関係を取り戻した。

孝元天皇51年/前163年:戊寅

ローマ護民官、ティベリウス・センプロニウス・グラックス(グラックス兄弟/兄)が生まれる。( - 前132年)

孝元天皇53年/前161年:庚辰

匈奴/老上単于(稽粥)が死去。子の軍臣が即位し、軍臣単于となる。中行説も軍臣に仕える。
軍臣単于の弟である伊稚斜(イヂジャ)は、左谷蠡王に封ぜられた。
漢/文帝は軍臣単于と友好条約を結ぶ。

孝元天皇55年/前159年:壬午

現、太陽星系が双魚宮の時代に移行。(宗教を象徴する時代)

孝元天皇56年/前158年:癸未

匈奴/軍臣単于が漢との友好条約を破り、大挙して上郡・雲中郡に侵入した。これに対し、漢が国境警備を強化したため、匈奴は長城から遠く離れた。

孝元天皇57年/開化天皇元年/前157年:甲申

前漢/文帝が死去。
景帝が即位する。
景帝の政治は基本的に文帝の政策を継承し、消極的な外交政策と倹約に努めるというものであった。また重農政策を打ち出して減税に取り組み、社会の安定を実現し、人口の9割が農業に従事していた。後世には文帝の時代と合わせ「文景の治」と称えられた。
景帝が即位すると、趙王の劉遂は密かに匈奴へ使者を送り、呉・楚の謀反に乗じて匈奴を漢に侵入させようとした。しかし、趙が漢によって倒されたため、匈奴は侵入をあきらめた。この後、孝景帝は匈奴とふたたび友好関係を結び、関所での交易を許し、漢の公主を娶らせた。このとき孝文帝は燕出身の中行説を公主のおもり役として一緒に匈奴へ送ってやった。しかし、中行説は匈奴に連れて来られたことに不満を抱き、以後漢に背いて匈奴の単于に仕えることとなる。
匈奴/父王であった冒頓単于の影響もあり、老上単于は漢から送られてくる絹綿や食料などの物資を愛好した。それまでの匈奴は、服装は毛皮で、食物は肉か乳製品であったため、中行説は「漢の文化に染まるのはよくありません」と諫めつつ、記録方法や課税方法などを匈奴に伝授して匈奴の国家発展に貢献していた。
日本/9月、孝元天皇が崩御。
※牟佐坐神社の由緒書き
祭神 高皇産霊神、孝元天皇
 安康天皇の御代には、牟佐村(現三瀬町)の鎮守であり、祭神は「生雷神」雷公であったとされている。
 日本書記天武紀に、高市県主許梅への神がかりの中で「吾は高市社にいる、名は事代主神なり、また、身狭社にいる、名は生霊神なり。」と言い、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬および種種の兵器を奉れ」等の託宣をしている記事が見える。 生霊神は生国魂神と同じ神である。
 また雄略記には身狭村主を呉国に遣わしむとある。新撰姓氏録には身狭村主、呉の孫権の男、高より出づとあり、身狭村主の一族は呉の国に出自の渡来人であった事を伺わせる。
 江戸初期までは榊原(境原)天神であり、享保年間に菅公を奉祀していたが、明治になり、古道再び明らかにと、天津神である高皇産霊神を奉祭した。
 境内は孝元天皇即位の宮地である。孝元天王軽境原宮跡の石碑がある。懿徳天皇の宮跡の碑はない。
11月、開化天皇が即位。
『古事記』若倭根子日子大毘毘(わかやまとねこひこおおびび)命と記す。 『日本書紀』では、稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひのみこと)という。欠史八代の一人で、実在しないと考えられている。(実在の人物とする説がある)
春日の伊邪河(いざかわ)宮に坐(ま)しまして、天の下治らしめしき。(この後は、四人の比売(ひめ)を娶り、五人の御子をもうけ、そのうちの一人が崇神天皇であり、ほかの御子達も結婚し孫が出来、そのうちの一人が垂仁天皇であり、そのうちの一人が神功皇后であり、それぞれが国や部の祖となった、と記している。)天皇の御年、六十三歳(むそぢまりみとせ)。御陵は伊邪河の坂の上にあり。(『古事記』)春日の伊邪河宮は、奈良市。

開化天皇2年/前156年:乙酉

前漢/景帝と王皇后との間に、劉徹(後の武帝:第7代皇帝)が生まれる。

開化天皇4年/前154年:丁亥

ローマ護民官、ガイウス・センプロニウス・グラックス(グラックス兄弟/弟)が生まれる。( - 前121年)
前漢/呉楚七国の乱がおこる。
呉にも領土削減の命令が届いたことをきっかけとして、反乱に踏み切った。これに楚・趙など六王が同調して反乱に加わった。呉も合わせて七国となったため、この反乱は後に「呉楚七国の乱」と呼ばれた。反乱側は、劉氏の和を乱す君側の奸臣鼂錯を討つとの名目を掲げた。
呉は南の南越の兵も借りて総勢70万ともいわれる兵を集め、また趙は北の匈奴と結び、乱を大規模なものとしていった。斉では膠西・膠東・菑川・済南など分割された国のほとんどが反乱に参加したものの、済北王劉志は城壁の修復をすると偽り反乱には参加せず、さらにかつての斉都臨菑(斉王劉将閭)が反乱に加わらなかった。このため膠西王らはこれを攻めたが、臨菑が要害で落とすことができず足止めされたため、呉・楚軍のみが長安目指して進軍した。また、淮南王劉安も反乱に加わろうとしたが、これに反対する宰相張釈之の策で加わることができなかった。長安を目指す呉軍は14歳から62歳までの男子人民の根こそぎ徴兵を発令しており、兵の質は低かった。とはいえ、その兵力は数において中央政府側を凌駕するほどであり、また呉の動員は領地から上がった莫大な富に支えられていたため、景帝は強い危機感を持たざるを得なかった。
景帝は、かつて呉の宰相を務めたこともあり、直言で知られ、父の文帝も厚く信頼していた袁盎を呼び、呉国内の情報や助言を求めた。袁盎は「反乱軍は呉王の巨利に寄っただけ、また周辺も奸臣で反対しなかっただけで、この乱はすぐに収まります」と前置きした上で、人払いを願う。その後「反乱軍が鼂錯の誅殺を名目にしているのだから、鼂錯を殺すべきです」と進言した。景帝は驚き悩んだが、結局鼂錯を処刑した。袁盎は呉王の甥と共に呉軍に和平の使者として出向いたが、既に天下の半分が加勢した勢いもあって呉王は奢り、鼂錯の排除も名目に過ぎず、反乱軍が矛を収めるはずもなかった。ただ燕など、中立を維持したり中央に就いたりした諸侯も、領土削減政策には不満を持っていたので、反乱の拡大をこれで食い止めたともいえる。袁盎は呉王からの将軍として厚遇するとの話を蹴って囚われ、かつて恩を与えた呉の司馬の手引きで脱出し、景帝に報告した。
景帝は、建国の功臣周勃の息子であり、文帝が「漢朝に有事あれば、軍を任せて解決せよ」と遺言していた周亜夫を太尉に任じ、これに楚漢戦争で活躍した欒布を付け討伐を命じた。反乱軍は大軍であったが統率に欠け、また呉の将軍が奇襲戦を進言しても受け入れず正攻法にこだわったために、途中で梁王劉武(景帝の同母弟)の頑強な抵抗にあって足止めされていた。その間に周亜夫は、まず要衝の洛陽と滎陽へ急行してこれを確保し、次いで梁・趙・斉の中間にある昌邑に入り、劉武や景帝からの梁救援の要請があってもこれを無視し、防御を堅固にして守りを固めた。その一方で、趙・斉を牽制し、反乱軍の主力である呉・楚軍へは、機動に優れた兵を使い川筋の補給路を破壊するなど、徹底して補給線を切断する戦法を取り、呉・楚軍を飢えさせた。呉・楚軍は大軍で強く、まともにぶつかっては勝ち目が薄いが、利に寄っただけに飢えさせれば戦意の衰えは早いと見てのことである。
その通りに呉・楚軍の戦意はみるみる低下し、兵のみならず将にすら脱走者が出始めた。これに危機感を持った呉王は、昌邑の方を攻めることにした。これに対し周亜夫は、備えていた通り守りに徹し、さらに西北から牽制し東南を攻めるという呉王の陽動作戦を見破り、東南に軍を集結させ、漢軍の十八番である平地における戦車でこれを撃退した。呉軍は撤退するが、周亜夫はこの機を逃さず追撃に出る。呉軍は崩壊し、呉王は軍を捨て逃れるより他なかった。
呉王は東甌へ逃れたものの、東甌王により殺害され、その首は中央へと献上された。主力の呉軍の大敗および呉王の死を知った他の王たちは、反乱が失敗に終わったことを知り、そのうちの2人は自殺し、それ以外の王は帰国したものの後に殺された。結局、乱の勃発から鎮圧までは3か月という短い期間に過ぎなかった。趙王劉遂だけはその後も抵抗を続けたが、最後は自殺した。また、臨菑を守備した斉王劉将閭は、当初反乱に荷担していたことが判明し、乱の鎮圧後に自殺した。これを哀れんだ景帝は、劉将閭の子の劉寿を斉王に立てた。
のちに梁王は、呉楚七国の乱での戦功を理由に次代の皇帝になろうとしたものの、袁盎に反対され頓挫した。梁王はそれを恨み、刺客を放って袁盎を暗殺した。

開化天皇5年/前153年:戊子

2月、孝元天皇を劒池嶋上陵にて埋葬。

開化天皇7年/前151年:庚寅

ローマ/
カルタゴは二度の戦争で領土の大半を失ったにもかかわらず、ローマへの高額の賠償金を繰り上げて完済した。しかし、過去連年ライバル・カルタゴに悩まされてきたローマにとっては、かかるカルタゴの驚異的な経済力や復興力は脅威であり、ローマ内ではカトーを始め、ローマへの将来の禍根を断つ為、いつかカルタゴを徹底的に破壊すべき、という意見が増え始めた。
カルタゴ/
ヌミディア王マシニッサは数度にわたりカルタゴ領土に国境侵害を繰り返し、町を襲撃したので、カルタゴはヌミディアの侵略に対抗すべく大規模な軍隊(25,000人)を召集したが完敗してしまう。
ローマ・カルタゴ/
ヌミディアはカルタゴに対して、新たに50年間の賠償義務を課した。この事からローマはカルタゴに対して、ローマの承諾のない軍事行動は講和条約の違反とし、軍隊を召集、カルタゴに開戦を示唆した。カルタゴは低姿勢で折衝を重ね、カルタゴの良家子息300人をローマに人質に差し出す条件で、国土と自治を許可されるとの約束を得たが、人質送還が履行されると、ローマは軍団をウティカに上陸させ、全ての武器と防具とを引渡せと要求を加えた。引渡しを終わると、ローマはさらに要求を加え、海岸の都を廃し、10マイル以上の内陸に遷都するようという海洋国家カルタゴにとっては殆ど破滅的な事項を求めた。カルタゴ市は、当時の都市国家カルタゴにとって数百年来の首都であり、同時に領土を大幅に縮小された同国にとって唯一の都市であり、しかも海洋貿易はカルタゴの繁栄と復興の源泉であった。したがって、それらを放棄してしかも港湾の建設不可能な内陸部に新たに一から都市を創始する、などは、都市国家カルタゴの消滅に等しく、カルタゴ人にとっては承諾の不可能な要求であった。既にカルタゴは完全に武装解除され無抵抗の状態だったが、最後のローマの要求は拒否した。

次の年代:
紀元前150年〜紀元前100年