前の年代:
紀元前600年〜紀元前500年

紀元前500年 〜 紀元前400年

中国/戦国時代、田斉の政治家/鄒忌が、威王・宣王に宰相として仕える。
中国/戦国時代、孫武の孫で兵法家、孫賓兵法の著者/孫賓が現れる。

懿徳天皇11年/前500年

こぐま座β星/恒星コーラブ(北の星という意味):天帝の星が、北極星の位置から外れる。
中国春秋時代の斉の政治家/晏嬰が死去。
当時のギリシアでは、エーゲ海中央部のキクラデス諸島で、ナクソス島を中心としたエーゲ海の制海権をめぐっての抗争が続いていた。
当時、ミレトスでは、アリスタゴラスが副総督の役を務めていた。 彼はモルパゴラスの息子として生まれ、ペルシア人がミレトスの僭主としようとしていたヒスティアイオスの女婿(そして甥)であった。 ヒスティアイオスがスサでペルシア皇帝ダレイオス1世に留めおかれていた間、アリスタゴラスはミレトスを実質上支配していた。 エーゲ海中央部のナクソス島では内紛が発生し、被害にあった市民やこの内紛で追放された市民が、エーゲ海東海岸にあるミレトスに避難した。 彼らはアリスタゴラスに自らの故国の支配を取り戻してくれるよう、アリスタゴラスに部隊の提供を求めた。 これに対して、ミレトスの僭主アリスタゴラスは、エーゲ海中央部で最も強い勢力を持つナクソス島の内乱に際し、武力介入してキクラデス諸島に影響力を拡大することを目論んだ。 アリスタゴラスは兵を与える代わりに自らをナクソスの支配者にするよう、ナクソス人と取引をした。 彼は、自らは十分な兵士を持っていないが、ダレイオスの兄弟でリビアのサトラップでもあり、アジアの大陸海軍を指揮していたアルタプレネスが兵士の供給に手を貸すだろうと主張した。 ナクソス人はアリスタゴラスにアルタプレネスと取引するのを了承し、彼に資金を与えた。 アリスタゴラスはサルディスに行き、アルタプレネスに対して、アルタプレネスが実質的にはナクソスを支配できることをほのめかしつつ、ナクソスを攻撃し亡命者を帰らしてくれるよう言った。 彼はナクソスが「イオニア海岸に近く、財宝と奴隷に満ちた素晴らしく肥沃な島である」ということを強く主張した。 アリスタゴラスは遠征の資金を供給し、またアルタプレネスに贈与金を渡す事を約束した。 彼はナクソスを占領することは他のキクラデス諸島のポリスを支配下に置くことにもなろうし、エウボイア攻撃の基地にもなるだろうとも言い、アルタプレネスを誘惑した。
サルディスのペルシア総督アルタプレネスはこれに同調し、軍事力を提供した。

神武天皇61年/前600年

ペルシア国王。アケメネス朝の創始者/キュロス2世が生まれる。(-前529年)
都市国家スパルタにおいて、先代の王アナクシダモスの子アルキダモスが、エウリュポン朝の王位を継いだ。

懿徳天皇12年/前499年

イオニアの反乱を堺に、アケメネス朝ペルシア/エジプト27王朝とギリシアの間でペルシア戦争( - 紀元前448年)が勃発。
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ペルシア軍が、ギリシアのナクソスに対して侵攻を開始する。
ダレイオス1世の従兄弟メガバテス率いるペルシアの三段櫂船200隻がナクソスに派遣された。
アリスタゴラスとナクソス人亡命者は艦隊で出港した。
当初、この艦隊はヘレスポントスに向かう航路をとってナクソスの目を欺こうとしたが、アリスタゴラスとメガバテス提督とが口論になり、そのためメガバテスはナクソスに艦隊が着ていることをナクソスに知らせた。
これによって計画が露見したため、ナクソスは包囲攻撃に対する準備の時間を得た。
ナクソスは強固な市壁と山に囲まれた難攻不落の都市で、ギリシア本土から商人船を利用した補給を確保して籠城したため、包囲戦は4か月に渡り、ペルシア軍は軍資金欠乏によって撤退を余儀なくされた。
ミレトスは艦隊の派遣にも多額の戦費を負担したが、ナクソス遠征が失敗に終わり、資金の回収は困難になった。

ナクソスの失敗は、アリスタゴラスの政治的立場を危うくした。
アリスタゴラスはペルシア人の激怒から免れようとする一心で、彼はミレトス人と他のイオニア人と共に反乱を計画し始めた。
一方ヒスティアイオスは未だサルディスに留めおかれていた。
彼はそこで奴隷の剃られた頭にメッセージを入れ墨していた。髪が生えそろうと、彼は奴隷をアリスタゴラスの元へと行かせた。 メッセージはアリスタゴラスに反乱を起こすようにというものであった。
ヒスティアイオスは再びミレトスを目にするのに必死であり、ダレイオスにナクソスの反乱に対処するために自らを行かせて欲しいことを希望した。
すでに反乱を決意したアリスタゴラスは反乱に同意した支持者と共に会議を開いた。
彼は、イオニアにある主要な都市国家の僭主を捕えて追放し、民主制を敷くことで市民の歓心を買った。
アリスタゴラスは歴史家ヘカタイオスを除く大部分の市民によって支持された。
彼はペルシアの艦隊指揮官を捕らえるため男たちをミュウスに送った。それから、彼は同盟国を求めてラケダイモンに旅立った。
一方、スパルタ王クレオメネス1世に援軍を求める事にした。
アリスタゴラスは、スパルタ王クレオメネス1世にペルシアのくびきを打ち払うのを助けてくれるよう嘆願した。
彼はスパルタ軍の強さを賞賛し、ペルシアが先手を打って侵略してくるだろうと論じた。彼はペルシア兵が「ズボンをはき帽子をかぶって」戦うような兵士であるから、これを破るのは容易であろうと主張した。
また彼はペルシアの富の豊かなことを挙げて王を誘惑した。クレオメネスはアリスタゴラスに2日返事を待つように言った。

アリスタゴラスはペルシアの富について語って、ペルシアに勝てばそれらはスパルタのものだと言ってクレオメネスを説得したが、 次に彼らが会った時、クレオメネスはアリスタゴラスにスサに着くにはどれくらい長くかかるかを尋ねた。
それが3ヶ月かかることを知るや否や、彼はそんなにスパルタを空けたままには出来ないと言い、スパルタの援助は与えられないと拒否した。
ヘロドトスによれば、クレオメネスの娘ゴルゴがクレオメネスに「アリスタゴラスは彼を堕落させようしている」と言って、この男を信じないように警告したと記録している。
この交渉は決裂したため、アリスタゴラスは 今度はアテナイに援軍を要請した。

当時のアテナイは、スパルタ、アイギナ、ボイオティア、テーバイと敵対する四面楚歌の状況にあった。
このため、アテナイの政治的指導者であったクレイステネスはペルシアと同盟を結ぼうとしたが、独立を唱えるアテナイ民会はペルシアへの服従を拒否した。
一方で、アリスタゴラスは「自らの立場から、どのようなことでも応ずる」と約束し、説得力のある演説をした。
さらに、アルタプレネスによって、アテナイが僭主制を打倒した際に追放したヒッピアスの僭主復帰が発令されたことから、アテナイ民会はアリスタゴラスの要求に応じて、ミレトスの支援を決定した。

懿徳天皇13年/前498年

アテナイ人はイオニアに艦隊を送った。そしてアリスタゴラスはダレイオスを刺激するという唯一の意図で彼らに先行した。
アテナイ人は三段櫂船20隻とエレトリアの国の5隻の三段櫂船を率いミレトスに到着した。
そしてアリスタゴラスはダレイオスを刺激するという唯一の意図で彼らに先行した。
アテナイ人はエレトリアの三段櫂船20隻と他の国の5隻の三段櫂船を率いミレトスに到着した。彼のすべての同盟軍が到着すると、アリスタゴラスは遠征隊の責任を兄弟のカロピノスに負わせ、分遣隊全体はイオニアでのペルシアの首都、サルディスへと向かった。
拠点としてエフェソスを使い、陸軍はサルディスへと向かった。
アルタプレネスはサルディスの下町を放棄し、市中心部のアクロポリスまで防衛線を後退させて援軍を待つ作戦をとった事から、反乱軍は殆ど抵抗を受けることなくサルディス市街を占拠した。
さらに、サトラップ・アルタプレネスと彼の軍をアクロポリスに追い込むことに成功した。イオニア人は街に火をつけ、市街は大部分が戦火によって焼け落ちた。故意ではなかったがリュディアのキュベベ女神(キュベレ)の神殿をも燃やしてしまった。
そのことは後にペルシア人がギリシアの神殿を焼き払うことへの弁解として使われることとなった。
ペルシアの増援が到着し始めると、戦局が変わり、イオニア人はトモロスに後退した。
増援隊はイオニア人を追撃した。サルディスを攻めきれなかった反乱軍は、騎馬部隊を警戒してエフェソス近郊まで撤退したが、サルディス侵攻の知らせを受けたペルシア騎兵隊に追撃され、大敗した。
この敗北によって苦杯をなめたアテナイ/エレトリアの支援部隊は母国に帰還し、以後いかなる援助も行わなかった。
アテナイ人はイオニアの反乱内で戦い続けることを拒否し、アテナイに戻った。
しかしこの戦いの参加のため、ペルシア王ダレイオスはアテネに復讐を誓い、召使に毎日夕食時に3回「主人よ、アテナイ人をお忘れなきよう」と繰り返し言うよう命じた。
しかし、イオニア反乱軍はなおも抵抗を続け、ビュザンティオンを占拠し、カリア(イオニア南部)、キプロスを同盟に加えるなど、小アジア全域に反乱を焚き付けた。

キプロスはイオニアの反乱に乗じてペルシアからの独立を計ったが、唯一アマトゥスのみは、反乱に加わることを拒否した。
このため反乱軍はアマトゥスを包囲したが、この包囲戦の最中にペルシア艦隊が来援したため、キプロス軍はイオニアの援軍とともにキプロス北部のサラミス近郊に布陣し、ペルシア軍を迎え撃った。
サラミス王オネシロス率いるキプロス反乱軍は、海戦ではフェニキア艦隊を撃破し、陸戦ではペルシアの指揮官アルテュビオスを討ち取るなど、戦いを優位に進めたが、一部の部隊がペルシア軍に寝返ったために形勢が逆転し、キプロス、イオニアの反乱軍は敗走した。
この後、キプロスの諸都市は包囲され、陥落した。
マガダ国シシュナーガ朝の王ウダーイン(ウダヤバッダカ)が死去。

懿徳天皇14年/前497年

キプロスが再びアケネメス朝ペルシアの属州国になる。
ヘレスポントス周辺の街は次々にダレイオスの女婿、ダウリセスによって落とされていった。
マガダ国シシュナーガ朝の王としてナンディヴァルダナが即位。

懿徳天皇15年/前496年

悲劇作家/アテナイのソポクレスが生まれる。(-前406年)
中国春秋時代の呉の王。春秋五覇の1人/闔閭が死去。
カリアにおいて、ペルシアから討伐部隊が派遣され、マイアンドロス川に合流するマルシュアス川でイオニア反乱軍との戦闘が行われた。
長時間にわたる激戦の末、反乱軍はラブラウンダに敗走し、ゼウス・ストラテイオス神域に逃げ込んだ。
しかし、ここでイオニアからの援軍を得た反乱軍は勢いを盛り返し、ペダソスの街道に進軍。夜間、ペルシア軍を急襲してこれを殲滅した。

懿徳天皇16年/前495年

アリスタゴラスは自らが起こした大反乱が失敗に終わりそうなのを見て、ダレイオスの怒りから逃れる方法を探し始めた。
支援者と会合を開き相談した結果、ミュルキノスがアリスタゴラスが隠れるのに良い場所であろうと決めた。彼は「名士」ピタゴラスにミレトスを任せ、トラキアに出港した。
そこで彼は、かつてアテナイが植民市を築こうとしていた場所、ストリモン川付近に植民市を築こうとした。彼は領土を得たが隣の町を包囲中、トラキア人に殺された。
結論として、アリスタゴラスの冒険的企てはほとんど失敗に終わった。彼はナクソスを支配しようとしてし損なったし、スパルタへの説得は失敗したし、ペルシアに対する反乱を成功に導くこともできなかった。
しかしこれらの失敗は後の歴史に大きな影響を与えることとなった。
ダレイオスのアテナイ人に対する怒りと報復の願望は、後のペルシア戦争の原因となることになった。
政治家/アテナイのペリクレスが生まれる。(-前429年)

懿徳天皇17年/前494年

スパルタ/アーギス朝の王クレオメネスが、デルフォイにてアルゴスを占領できるとの神託を受けた後、アルゴスに侵攻し、アルゴス軍をセペイアの戦いにて破った。
この戦いでアルゴスは成年男子のほとんどを失い、その数はヘロドトスによれば6000、パウサニアスによれば5000にものぼった。この戦いでの不手際で反対者によって彼は訴えられたが、無罪を勝ち取った。
イオニアの反乱を鎮圧した後ペルシアはギリシアに侵攻し、その時多くの都市国家は早々に服従した。
アケネメス朝ペルシアのダレイオス1世は、ミレトス討伐のため、本格的に陸海軍を派遣した。
反乱軍はイオニアで会議を開き、艦隊のみを編成してミレトス沖のラデ島の海域で決戦を行うことを決めた(ラデ沖の戦い)。
ペルシア海軍は、フェニキア船団を中核として、キプロス島、エジプトなどから集めた船で艦隊を編成してラデ島沖に侵入、ポカイア部隊の司令官ディオニュシオス率いるイオニア反乱軍と対峙した。
デュオニュシオスは、三段櫂船による船間突破戦法の訓練を行ったが、ミレトス人は訓練が厳しすぎると言って放棄した。
サモス島の援軍はこれを見て、同盟を破棄することを決意した。彼らは戦闘が始まると早々に戦線を離脱した。レスボス島の部隊もこれに倣った。
ヒオス島の船団のみがペルシア艦隊と果敢に戦ったが敗退、島嶼諸国の優秀な海軍を失ったミレトスの中核部隊は、ペルシア艦隊によって粉砕された。
ラデ沖の戦いによって反乱軍は崩壊した。戦闘を離脱したサモス島を除いて、敗北したイオニアと島嶼の諸都市は、徹底的に略奪された。

懿徳天皇18年/前493年

ペルシア軍は、島嶼部に対して曳き網式と呼ばれる掃討作戦を行った。
アナトリア半島エーゲ海沿岸部の諸都市は攻略され、各都市の神域はサルディスのキュベレイ神殿を焼打ちした報復として全て破壊された。
美貌の少年は去勢され、美女は王宮に送られた。ミレトスの陥落はギリシアにとっても衝撃的な事件だった。
ヘロドトスは、主要な聖域は焼き打ちに遭い、男は全て殺され、女子供は奴隷としてスーサに送られ、ミレトスからミレトス人は消えた、と記している。
反乱の後、アルタプレネスはイオニア諸都市の代表者をサルディスに集め、紛争は司法手段によって解決するという相互協定を強制的に締結させた。
徴税の体制も見直されたが、これは以前のものと大差なかったとされる。
その一方、反乱は鎮圧されたとはいえ、ペルシアは僭主を擁立して露骨に内政に干渉するという手段を撤回せざるを得なかった。
経済の発展によって台頭した新しい社会階層を、僭主制によって抑圧することの危険性をペルシアが理解したためであると考えられる。
反乱の後、イオニアでは、ペルシアの支配下にありながら民主制が敷かれた。
アテナイでは、イオニア反乱軍がエフェソスで大敗を喫した後、一時的にペルシアとの宥和派が発言力を持つようになった。
しかし、反乱に加担したエーゲ海島嶼のポリスが苛烈な弾圧を受けたことと、ギリシア本土が直接ペルシアの脅威に曝されるようになったことから、アテナイ民会はペルシアとの宥和政策を放棄した。
これにはペルシアの討伐を逃れて来たイオニアの亡命者たちの訴えも影響していると考えられる。
彼らは、ギリシア諸国にペルシアへの過剰な恐怖心を植え付けることになった。
ペルシアは、イオニアの抵抗勢力を一掃したことによって、ギリシア本土侵攻の障害が取り除かれた。

懿徳天皇19年/前492年

アケネメス朝ペルシアは、イオニアの反乱に加担したアテナイとエレトリアへの報復を口実に、マルドニオスの率いる遠征軍を派遣した。
アテナイの向かい側の島国アイギナがペルシアに服属した時、アテナイはそれはアテナイの不倶戴天の敵であったアイギナがペルシアと組んでアテナイを攻めようとしたためであるとし、スパルタにこの行為への制裁を要請した。
スパルタ/アーギス朝の王クレオメネスはそれに応じ、首謀者を逮捕しようとアイギナ島に渡ったが、アイギナ側はスパルタ王が二人とも揃って来ない限りは首謀者を突き出さないと言い、もう一人のスパルタ王デマラトスはそれに協力しなかった。
そのためにクレオメネスの目論みは不成功に終った。これはエウリュポン朝の王デマラトスの入れ知恵であった。
それらの妨害行為への報復としてクレオメネスは、デマラトスに婚約者を奪われて彼を恨んでいたエウリュポン朝の王族レオテュキデスを誘ってデマラトスを廃位する陰謀を練った。
その口実はデマラトスは本当はアリストンの子ではなく、彼の母の前夫アゲトスの子であるというものであった。クレオメネスはデルフォイの巫女を買収して自分に都合が良いことを言わせ、その神託に従ってデマラトスは廃位された。

懿徳天皇20年/前491年

都市国家スパルタにおいて、エウリュポン朝の先王デマラトスが廃位となったため、レオテュキデスがエウリュポン朝の王位を継いだ。
デマラトス廃位の後、クレオメネスはレオテュキデスと共に再度アイギナ島に赴き、そこの指導的市民を捕らえ、人質としてアテナイに預けた。
王位を追われたデマラトスは、ある官職についてギュムノパイディアイの祭に赴いた。その時、自身の出自に疑問を抱いた彼は母を呼んで自分の本当の父は誰かと問い、母はアリストンに化けた英雄アストラバコスがそれであると答えたという。
その後、デマラトスはスパルタから亡命し、アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス1世の許に身を寄せた。ダレイオスは彼にペルガモンとその他にいくつかの都市を与えた。 クセノポンの記述によれば彼の子孫は4世紀の初めまでそこを支配した。

懿徳天皇21年/前490年

スパルタの二人の王クレオメネスとレオテュキデスによる先王デマラトスへの陰謀が露見し、クレオメネスはテッサリアへ逃亡した。
そして、彼はアルカディア人を糾合してスパルタに対して戦争を起こそうとしたが、それを恐れたスパルタ人は彼に帰国を許し、彼は王位に返り咲いた。
しかし、彼は発狂し、近親者たちは木製の足枷を付けて彼を監禁した。その最中クレオメネスは看守に短剣を渡せと言い、短剣を受け取ると自らの体を切りつけて自殺した。
クレオメネスの発狂と悲惨な死についてアルゴス人はセペイアの戦いの後クレオメネスが神域の樹木を焼いた神罰であると、ヘロドトスはデマラトスを陥れた罰であると主張している。
マラトンの戦いで、ミルティアデス率いるギリシア軍がアケメネス朝ペルシア/エジプト27王朝軍を破る。

懿徳天皇22年/前489年

都市国家スパルタにおいて、先王クレオメネスが亡くなったため、同じく先王アナクサンドリデスの息子である、レオニダスが候補に上がった。
レオニダスは三男であり、本来王位にはつきにくい身であったが、二人の兄であるクレオメネス1世とドリエウスの両方が相次いで早逝したため、彼はクレオメネスの一人娘ゴルゴーと結婚して、王位を継いだ。
ペルシア戦争を控えてデルポイに神託を聞いたところ「王が死ぬか、国が滅びるか」ということだった。
そこでレオニダスは覚悟を決め、他の都市から来た兵士を帰し、わずかな軍でペルシアの大軍に立ち向かっていったのだとヘロドトスは記している。

懿徳天皇23年/前488年

クレオメネスの死後、アイギナはアイギナの不倶戴天の敵アテナイに人質を送った件でエウリュポン朝の王レオテュキデスを糾弾し、彼の引渡しを主張したが、テアシデスという人の説得によりその主張を取り下げ、その代わりにスパルタとアイギナはアテナイに監禁されている者のアイギナへの帰国を約束した。しかし、アテナイは引渡しを拒んだ。

懿徳天皇25年/前486年

アケメネス朝ペルシア/エジプト27王朝のダレイオス1世が死に、クセルクセス1世が即位。

懿徳天皇26年/前485年

中国春秋時代の呉の政治家、軍人/伍子胥が死去。
中国春秋時代の越の政治家、軍人/ 范蠡もまた、同時期に亡くなったとされている。
歴史家/ハリカルナッソスのヘロドトスが生まれる。(-前425年)

懿徳天皇30年/前481年

斉の陳桓(田成子)がその君簡公壬を殺す。斉の実権が事実上田氏に移る。この年で、魯の年代記『春秋』の筆がおかれる。

懿徳天皇31年/前480年

悲劇作家/アテナイのエウリピデスが生まれる。(-前406年)
シチリア島のエトナ山が噴火。
ペルシア軍がアテナイに向かう報せがスパルタに届く。
この時、スパルタではカルネイア祭、オリンピアではオリュンピア祭を開催する年であったことも重なり、十分な軍を送ることができず、レオニダスは親衛隊300人のみを率いて出陣。
テルモピュライの戦いに赴く時、レオニダスは、死を覚悟した彼は出陣の直前に妻に「よき夫と結婚し、よき子供を生め」と言い残したという。
8月、テルモピレー(テルモピュライ)の戦いでペルシア軍がアテナイに侵攻。
この時、スパルタ/エウリュポン朝で失脚したデマラトスはクセルクセス1世に同行した。ギリシア進撃に先立ち、クセルクセスがデマラトスにスパルタ軍の強さは如何ほどかと問うた時、デマラトスはスパルタ人はどんな相手でも戦い抜くと言ってスパルタ人を見くびらぬよう警告した。
その時クセルクセスはこれを聞き流した。
レオニダスはテルモピュライでスパルタの重装歩兵300名を含むギリシア連合軍7000を率いて戦った。
テルモピュライは隘路であったため、少数の軍でも大軍を食い止めることができた。
スパルタのファランクスは無敵であり、クセルクセス1世は狭い地形のせいで騎兵を展開することもできず、自軍よりはるかに少数のギリシア連合軍に手こずった。
テルモピュライの戦いで散々手こずらされてようやくスパルタ軍に勝利した後になって、クセルクセス王はデマラトスの警告を認めた。
その時デマラトスは、クセルクセスにスパルタ人を倒す策を求められ、スパルタの目と鼻の先にあるキュテラ島へ艦隊を分遣して占領し、スパルタ市を脅かすよう献策した。
しかし、その策はクセルクセスの弟で艦隊指揮官だったアカイメネスの反対に遭い、採用されなかった。
周知のようにこの遠征は失敗に終わり、ペルシア軍はギリシアから撃退された。
真正面からギリシア連合軍を突破することは不可能だと悟った頃、内通者がペルシア側にギリシア軍の後ろに回りこむ裏道を教えたため、クセルクセス1世はギリシア連合軍を背後から攻撃しようと迂回部隊を裏道へ進ませた。
これを知ったギリシア連合軍は撤退を決定したが、スパルタ軍はその場に残った。
この時、殿として最後まで残ったとも、スパルタの掟「決して撤退せぬ」を遵守したとも言われている。
スパルタ軍の他に、テバイ軍、テスピアイ軍も残った。
朝になると、迂回部隊はギリシア軍の背後に到達した。
クセルクセスはスパルタ軍に投降を呼び掛けたが、レオニダスの答えは「モーロン・ラベ(来たりて取れ)」であった。
レオニダスはスパルタ軍、テスピアイ軍、テバイ軍を率いて戦った。
今回は隘路ではなく、テルモピュライの広場まで打って出た。
広場であってもスパルタ軍は強大なペルシア軍を押し返した。
攻防戦の最中にレオニダスが倒れ、ギリシア軍とペルシア軍は彼の死体を巡って激しい戦いを繰り広げた。
ギリシア軍は王の遺体を回収し、敵軍を撃退すること4回に及んだ。スパルタ軍は優勢であった。
しかし、背後から迂回部隊が進軍してくると、ギリシア軍は再び隘路まで後退し、その先にあった小丘に陣を敷いた。
彼らは四方から攻め寄せるペルシア軍に最後まで抵抗し、槍が折れると剣で、剣が折れると素手や歯で戦った。
ペルシア兵はスパルタ兵を恐れて肉弾戦を拒み始めたので、最後は遠距離からの矢の雨によってスパルタ軍は倒された。
テーバイ兵を除いて全滅した。ヘロドトスによれば、この日だけでペルシア軍の戦死者は2万人にのぼったとされる。
戦いの後、クセルクセスは部下にレオニダスの死体から首を刎ねるよう命じ、晒し首にした。
※※※
レオニダスの英雄的な死は、彼の名声をギリシア中に轟かせた。
彼らの奮戦によってアテナイは時間を稼ぎ、サラミスの海戦でペルシア海軍に勝利することが出来たため、レオニダスは古代ギリシアを代表する英雄として讃えられ、今でもテルモピュライにはレオニダス像が聳え立っている。
レオニダスと300のスパルタ兵に対する石碑も置かれ、ヘロドトスによれば
「旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモンの人々に。我等かのことばに従いてここに伏すと」
(ラケダイモンはスパルタのこと)と唱われたとされている。
また、死後においてもレオニダスは決定的な役割を果たした。
※※※
映画「300」は、この時の戦いを映画化したもの。
スパルタ王レオニダスの元に大帝国ペルシアの使者が訪れ、スパルタに服従を要求する。
レオニダスはこれを拒否し、その使者を殺害する。そしてわずか300名の軍勢で100万のペルシア軍を迎え撃つ。
サラミスの海戦で、テミストクレス率いるギリシア軍がペルシア軍を破る。
映画「300〜帝国の進撃〜」が、この時のあらましを映画化している。
※※※
9月、クセルクセス王が率いる開けネメス朝ペルシアが、アッティカ地方に遠征。
ペルシア遠征軍にテルモピュライを突破され、アルテミシオンから撤退したギリシア艦隊は、アテナイの要請により、ファレロン湾内のサラミス島に艦船を集結させた。
事前にトロイゼーンに集結していた他のギリシア艦隊が合流し、総指揮官エウリュビアデスのもと、主戦場をどこに置くかで合議を計った。
テルモピュライ、アルテミシオンの防衛線が突破されたことによって事実上アッティカは放棄されており、また、アテナイのアクロポリス陥落の一報が入って全軍が恐慌状態に陥ったこともあって、ひとまずイストモスを決戦の場とすることで会議は閉会した。
しかし、アテナイのテミストクレスは指揮官エウリュビアデスを訪ね、サラミスでの艦隊の集結を解けば各都市の艦隊は自らの故郷に帰還し、再びギリシアが連合することはないと述べて会議を再度開催するよう説き伏せた。
翌朝、再び戦略会議が開催され、テミストクレスはサラミスでの海戦を強く主張した。エウリュビアデスはアテナイ艦隊の離脱を恐れ、サラミスでの海戦を決定したが、コリントスのアデイマントスらはこれに強く反対し、会議は紛糾した。
論戦の最中、テミストクレスは密かにペルシアのクセルクセス1世のもとに使者を送り、ギリシア艦隊がイストモスに待避する準備をしていることを伝えた。
テミストクレスはペルシアに内通することで戦争に負けた場合の活路を確保し、また、ペルシア艦隊をけしかけることによってサラミスでの決戦に到るよう仕向けたのである。
ペルシア側はテミストクレスの言葉を信じ、夜半、兵士をプシュッタレイア島に上陸させ、サラミス島のキュノスラ半島からギリシア本土までの海峡を船団で封鎖した。
さらに、ディオドロスによるとエジプト艦隊200隻がサラミス島の外側を迂回してメガラに抜ける水道を封鎖した。
ギリシア隊はペルシア艦隊の動きに全く気付かなかったが、アイギナから支援に駆け付けたアテナイのアリステイデスが会議に出席し、ギリシア艦隊が完全に包囲されているため、戦闘の準備を行うよう勧告した。
大半の人々はアリステイデスの言葉を信じなかったが、テノスの三段櫂船1艘がペルシアから離反してギリシア側に事実を伝えたため、ギリシア側は戦闘の準備にとりかかった。
9月20日、明朝、テミストクレスによる訓示の後、ギリシアの全艦艇は停泊地より一斉に出撃した。
ペルシア艦隊はギリシア艦艇の出撃を知ると、キュノスラ半島を越え、サラミス水道に侵入した。
ギリシア軍はペルシア艦隊を認めると、逆櫓を漕いでペルシア艦隊とは逆の方向、つまりサラミス島の陸側に向かうような動きを見せた。
これについてプルタルコスは、テミストクレスがこの水道に一定の時刻になると吹く風(シロッコ)を利用するため、ペルシア艦隊を前にすると逆櫓を漕いで後退し、時間を稼いだとしている。
ヘロドトスによると、ギリシア側は、西翼にアテナイ艦隊、東翼にスパルタ艦隊を配置し、対するペルシア側の布陣は西翼にフェニキア艦隊、東翼にイオニア連合艦隊が展開するものであった。
戦闘の始まりについてヘロドトスは複数の説を伝えている。
アテナイによれば、アテナイ船1隻が戦列を抜けてペルシア艦隊に突っ込み、他の艦船もこれを救援すべく突入したことで戦闘が開かれたとしている。また、アイギナによると、神霊をむかえてアイギナより来航したアイギナ三段櫂船がペルシア艦艇と最初の戦闘を行ったとしている。
また、ギリシア軍の眼前に1人の女性が現れ、全軍を鼓舞激励したとも伝えている。
実際の戦闘がサラミス水道のどこで行われたのか、また、全勢力が激突したのか、あるいは包囲線をギリシア艦隊が突破したと見るのかは、古来より諸説あり、ヘロドトスも具体的な記述を残していないため不明である。
しかし、ヘロドトスはペルシア艦隊の敗因として戦列の乱れを挙げている。
プルタルコスが、テミストクレスが風待ちを行ったという記述を残していることを考えると、艦船への直接打撃を行うため喫水が深く重い造りのギリシア艦船に比べ、兵を敵船に揚げるために重心の高い造りとなっているペルシア艦船は、シロッコによる高波で、また、日没前にはマイストロと呼ばれる西風による高波で思うように動きが取れなかったと推察される。
戦闘海域も大艦隊を誘導するには狭すぎ、戦列が乱れたところにギリシア艦隊の船間突破戦法を受けたと考えられる。
この戦闘で名声を得たのはアイギナ艦隊とアテナイ艦隊であった。アテナイの将軍アリステイデスは、サラミス海岸に配置されていた重装歩兵を率いてプシュッタレイア島に上陸し、ペルシア歩兵を全滅させた。
敗戦を悟ったクセルクセス1世は、日没とともに艦隊をファレロン湾まで後退させ、戦闘は終結した。
ギリシア艦隊はこの戦闘が終わったとは思わなかったが、クセルクセス1世は完全に戦意を喪失し、戦闘継続の構えを見せつつも、マルドニオスに30万のペルシア陸軍の全指揮権を委ねて、自身はペルシア艦隊とともに帰国してしまった。
ギリシア艦隊はペルシア艦隊の後退を知るとアンドロス島まで追撃したが、ここで軍議を行い、今後の対応について協議を行った。
テミストクレスは直ちにクセルクセスを追ってヘレスポントスに急行すべきことを主張したが、エウリュビアデスはクセルクセスの帰路を阻害すれば、かえってペルシア側が死にもの狂いで反撃にでる可能性を示唆し、これを諌めた。
テミストクレスは追撃にはやるアテナイ艦隊を制止し、クセルクセス1世に対しては、伝令に走らせた部下に、自らがペルシア艦隊の追撃を阻止したと告げさせた。
サラミスの海戦でのギリシア海軍の勝利により、ペルシア遠征軍の進撃は停止し、ペルシア戦争は膠着状態に陥った。ペルシア軍が北方へ後退した。
マルドニオスはその年は一旦テッサリア地方へと後退し、兵糧の収穫を終える。
※ ※ ※
ヘロドトスによると、当時のアテナイにおいて指導的な立場にあり、この戦闘の勝利に大きく貢献したテミストクレスは、評定が開かれたアンドロス島を包囲して占領し、ここを根城にしてペルシア側に靡いた他の島嶼部のポリスからも金品を巻き上げたとしている。
さらにプルタルコスによると、ギリシア艦隊は越冬のためにパガサイに停泊していたが、テミストクレスはこれを焼き払い、アテナイ艦隊のみを残そうと計ったとしている。
※ ※ ※
スパルタ王朝は、レオニダスの息子であるプレイスタルコスが王位を継いだ。
治世の初期、プレイスタルコスは成年に達していなかったため、叔父のクレオンブロトスが代行した。

懿徳天皇32年/前479年

儒学者孔子が没する。
ペルシア軍は、ギリシアを進軍し、アテナイがペルシア軍によって再び占拠されることになる。
しかし、クセルクセスの戦意が削がれ、地の利も持たないペルシア遠征軍は、次第に苦しい立場におかれることになった。
その意味で、サラミスの海戦はペルシア戦争の決定的な転機であった。
この戦闘の牽引役となったアテナイにとっても、この勝利は強力な海上国家に成長する重要な出来事であった。
アテナイはギリシア各地に救援を要請し、ペルシアとの陸上決戦を呼び掛けた。
無論、スパルタもアテナイからの救援要請を受けていたが、当時スパルタの指揮権を握っていた王族パウサニアスはアテナイに向けて援軍を送るか迷っていた。
スパルタ国内の膨大な奴隷たちがペルシア戦争に乗じて不穏な気配を漂わせていたため、遠征中の奴隷反乱を恐れたのである。
パウサニアスは神託を伺い、神々にその決定を委ねることにした。その時の神託は「レオニダスの仇を討て」というものであった。
これを聞いたパウサニアスは援軍を送ることを決意し、指揮下のスパルタ軍と共にアテナイの援護へと向かった。
ペルシア将軍マルドニオスは、マケドニアのアレクサンドロス1世を通じて、避難しているアテナイ人に対して和平交渉を申し入れたが、拒否された。
ギリシア連合軍は当初アッティカ地方のトリヤ平原で決戦を行う予定だったが、ペルシア軍はアテナイを破壊するとテーバイのあるボイオティア地方に後退したため、ギリシア連合軍はこれを追う形となった。
パウサニアス指揮下のスパルタ軍はコリントス付近でペロポネソス半島の諸ポリスの軍を待ち、次いでエレウシスでアテナイ軍と合流した。
ギリシア連合軍はここから北上し、ペルシア軍の騎兵を警戒してキタイロン山麓に布陣し、ペルシア軍に対峙した。
ギリシア連合軍は、重装歩兵38,700と、軽装歩兵71,300の計11万の軍勢であり、対するペルシア軍は、35万の軍勢であった。
ギリシア連合軍がキタイロン山麓から動こうとしなかったため、マルドニオスは騎兵の展開できる平原まで彼らをおびき出そうと、挑発の意味も兼ねて騎兵部隊を送り込んだ。
マルドニオスの命を受けたマシスティオス(Masistios)率いる騎兵部隊はペルシアの先遣隊としてギリシア軍に突撃し、損害を与えた。
この攻撃に曝されたメガラ軍は救援を要請し、弓兵を伴ったアテナイの精鋭部隊が急行して、先ず司令官マシスティオスを討ち取った。
ペルシア騎兵は彼の死体を回収すべく、ギリシア軍に向かって突撃を繰り返したが、ギリシアの増援によってこれを果たせず、マルドニオスの陣に撤退した。
これによって戦意高揚したギリシア軍はプラタイアに降った。
両軍はそのまま10日間対峙したままだったが、11日目にマルドニオスが騎兵部隊に突撃を指示し、ギリシアの給水地であるガルガピアの泉を蹂躙し、水と補給路を脅かされたギリシア軍は、夜半のうちに後退を余儀なくされた。
しかし、スパルタ軍は「夜の内に撤退することは逃亡と同じで不名誉なことだ」として後退を拒否し、結局スパルタが後退し始めたのは日が昇ってからであった。左翼にスパルタ軍の孤立を危惧したアテナイ軍とメガラ軍がまだプラタイアに布陣していたものの、中央の他ポリス軍は後退が完了してしまっており、戦場は右翼のスパルタとテゲア、左翼のアテナイとメガラだけとなっていた。
スパルタ軍の撤退を見たマルドニオスは敵が恐れて逃げ出したと錯覚し、全軍に追撃命令を下した。こうしてプラタイアの戦いの幕が切って落とされた。
マルドニオスの主力部隊であるペルシア軍(ペルシア人、メディア人、そしてインドやバクトリアなどからなる外国人)が一斉にスパルタ軍に襲いかかった。
しかし、マルドニオスの追撃命令は急であったため、戦列は乱れており、攻撃も散発的であった。
ギリシア傭兵軍を除くペルシア全軍がスパルタ軍に矢玉を集中砲火させていることを確認したパウサニアスは、すぐさま左翼のアテナイに応援の要請を出し、自身はこの戦いにおける吉凶を占った。
一度目の占いでは凶と出たため、スパルタ軍に応戦するのを禁じ、再び吉凶を占った。
スパルタ軍はこの間防戦一方であったが、敵の乱れた戦列のおかげで死傷者は数名程度に留まった。
一方、アテナイはスパルタの要請を聞き、ペルシア軍に包囲されつつあったスパルタ軍へと急行しようとした。
しかし、敵右翼に配置されていたギリシア傭兵軍がアテナイ軍へと突撃し、アテナイ軍はギリシア傭兵軍と交戦せざるを得なくなり、スパルタへ応援に向かうことは不可能となった。
パウサニアスは二度目の占いで遂に吉を得ることができた。
この瞬間にスパルタ全軍に攻撃命令を下し、それを聞いたスパルタ軍は瞬時に隊列を整えて雄叫びを上げた。
今まで無抵抗だったスパルタ軍が一斉に隊列を組んで咆哮したことでペルシア軍は混乱し、浮き足だった。
スパルタ軍は一転して猛攻撃し始め、装備と練度で劣るペルシア軍はまるで歯が立たず、スパルタ軍に蹂躙された。
それでも遥かに数で勝るペルシア軍はその重圧でスパルタ軍を潰そうと休みなく押し寄せ、スパルタの長い槍を掴んではへし折って無力化しようとした。
槍が折れたら短剣を引き抜いてペルシア軍に立ち向かった。
戦闘は熾烈を極め、長きにわたったが、スパルタ軍は数の差をものともせずにペルシア軍を押し返した。
マルドニオスは1,000名の親衛隊と共に戦場で指揮をとっていたが、スパルタ軽装歩兵の放った飛礫によって命を落とした。
指揮官を失ったペルシア軍はますます劣勢となり、遂には敗走した。
後退した諸ポリス連合軍は戦争に参加すらせず、アテナイは依然としてギリシア傭兵部隊に足止めされていた。
結果として、30万と伝えられるペルシア全軍を、それに比べれば遥かに少数のスパルタ軍だけで打ち破るという凄まじい会戦となった。
また、ペルシア将軍を討ち取ることによって、神託で告げられたレオニダスの復讐は果たされた。
敗走したペルシア軍は後方に築いていた野営地に逃げ込み、そこで籠城戦をすることになった。
この野営地には城壁が設けられており、攻囲戦を得意としないスパルタ軍は苦戦していた。
そこに、ギリシア傭兵部隊を下してアテナイ軍が合流し、不屈の精神で城壁を乗り越えて突入した。
これを糸口にしてスパルタ軍も雪崩れ込み、ペルシアの野営地を攻略することに成功した。生き残った僅かなペルシア兵はテーバイへと逃げ込んだ。
プラタイアの戦いはスパルタ・アテナイ軍の圧勝であった。
この戦いでペルシア軍は20万名以上が戦死した。一方、スパルタ軍の戦死者は91名、アテナイ軍は52名だけであったという。
プルタルコスはギリシア側も1000名ほどの戦死者が出たとしているが、それにしても大勝利であることに変わりはない。
スパルタ軍はテルモピュライの戦いで討ち死にしたレオニダスの復讐を果たすことができたのであった。

一方、デロス島を訪れたレオテュキデス(アギス朝の王クレオメネス1世と組んでエウリュポン朝の先王デマラトスを追放し、スパルタ王位についた)率いるスパルタ海軍の許に、サモス島から使者が送られ、ペルシアに対する反乱の意図が伝えられた。
この報を受けて、スパルタとアテナイの水軍はサモス島に上陸したが、ペルシア側は海戦を警戒してサモス島の防衛を放棄し、クセルクセス1世の命によってイオニアを防衛しているミュカレの駐屯軍に合流した。
ギリシア軍はミュカレに上陸し、対戦の準備を進めるペルシア軍と対峙した。
この時、レオテュキデスはまだ勝敗が決していないギリシア本土でのプラタイアの戦いがギリシア方の勝利に終わったというデマを流し、軍の士気を上げた(後になってプラタイアの戦いはギリシア方の勝利に終わったことが知らされたため、レオテュキデスのデマは本当になった)。
ペルシア軍は戦いに備えて反乱を警戒し、サモス人の武装を解き、イオニア人をミュカレ山頂に向かう街道警備に配置して本陣から遠ざけた。
アテナイ軍は、海岸沿いの平地を進んでペルシア本陣に進撃したが、スパルタ軍は丘陵部から迂回して本陣に接近したので、戦闘が開始された時にはスパルタ軍は参戦していなかった。
アテナイ軍、コリントス軍、シキュオン軍、トロイゼン軍はスパルタに手柄を譲るまいと奮戦し、防壁を突破してペルシア人以外の異国人で構成された兵を潰走させた。
ペルシア人からなる陸上部隊は最後まで戦い続けたが、スパルタとサモスの参戦もあって殲滅された。
敗走したペルシア軍はイオニアの警備部隊を頼ったが、彼らはペルシア軍をギリシア軍の陣に誘導し、自らもギリシア側に加担してこれを殺戮した。

同日のプラタイアの戦い・ミュカレの戦いによってギリシア本土のペルシア勢力は一掃され、この戦いによってイオニアにおけるペルシアの影響力が失われた。
戦闘の後、イオニアは本格的に再建され、再びギリシア世界に組み込まれた。
ギリシア軍は、カリア、ヘレスポントス(現ダーダネルス海峡)、キプロスにまで侵攻したが、戦争はしばらくの間続き、ペルシア軍はトラキアからフリュギアに留まり続けた。
この敗戦によってペルシアによるギリシア本土の侵略は失敗に終わり、反乱の失敗によってペルシアに従属していたイオニア諸都市の独立に、重大な影響を与えた。
※ ※ ※
テミストクレスは、アテナイ艦隊の建造の提唱者であり、また、この戦闘の後は外港となるペイライエウス(現ピレウス)を整備し、これとアテナイ市街を城壁で結ぶなどの功績を残したが、その独善的な態度が僭主への欲望と見なされ、警戒したアテナイ市民によって陶片追放、さらに国家反逆罪で告発されることになったため、敵国であるペルシアに逃亡した。
テミストクレスの追放によって、高潔な人物として知られるアリステイデスがアテナイの指導者となり、ペルシア来寇の備えとしてポリスの連合体であるデロス同盟を成立させることとなった。
彼は艦艇を提供できないポリスに対して、その代わりとなる上納金の査定を行ったが、やがてその上納金はアテナイの独占するところとなり、その台頭の資金源となる。
※ ※ ※
この戦いでギリシアは侵略の憂き目から解放され、ペルシア帝国はギリシア征服を断念せざるを得なくなった。
ギリシア遠征で大打撃を受けたクセルクセスは帰国し、事実上クセルクセスのギリシア遠征は失敗に終わった。その後、ペルシアは大規模なギリシア遠征を行うことも無かったが、ペルシア戦争自体は息子のアルタクセルクセス1世がカリアスの和約を結ぶまで継続している。

懿徳天皇33年/前478年

デロス同盟が結成される。( - 紀元前404年)スパルタ、主導権を放棄(内向化) アケネメス朝ペルシアにおいて、クセルクセス1世が、万国の門(クセルクセス門とも)などの大規模な建築事業を数多く行ったが、これにより国の財政がさらに圧迫され、次第に国力が衰えた。

懿徳天皇34年/前477年

9月、懿徳天皇が崩御。
マハーヴィーラがマガダ国のパータリプトラ(現パトナ市)近郊のパーヴァー村(現在のパーワープリー)で生涯を閉じた。
断食を続行したままの死であったといわれる。ジャイナ教では彼は第24祖(24番目のジナ)として扱われる。
彼がその生涯を終えたことは、ジャイナ教においては、死とは見なされていない。それは涅槃(ニルヴァーナ)に到達したのであって、魂は天空の最頂に達し、そこに永久にとどまったとされている。
ジャイナ教では、これをモークシュ(Moksh、解脱)と称して祝日としている。
マハーヴィーラ入滅の年はいまだ論争の的であるが、ブッダの涅槃に先だつ数年前のできごととされる。
伝承によれば、マハーヴィーラが死去した際、俗人の大規模な共同体のほか、1万4000人の僧侶(サードゥ, sādhu)と3万6000人の尼僧(サードゥヴィー, sādhvī)がいたといわれる。
(パーリ語文献にもとづく「南伝」の仏滅年代によるヤコービおよびシュブリヒの説による)

空位--年/前476年

日本/10月、大日本彥耜友天皇(懿徳天皇)が、畝傍山の南部に位置する纎沙谿(まさごの谷)の上陵(うえのみささぎ)に埋葬される。
スパルタ/エウリュポン朝の王レオテュキデスはペルシアに協力したアレウアス家に対するテッサリア遠征を指揮し、ほとんど勝てる状況だったにもかかわらず、彼らに買収されて退いた。
この事件の発覚によって彼は王位を追われ、テゲアに亡命し、彼の家は取り壊された。退位後、彼の子ゼウクシデモスは父に先立って死んでいたので、孫のアルキダモス2世に王位を継がせ、ゼウクシデモスの腹違いの姉妹ランピトをアルキダモスに娶らせた。
スパルタ/エウリュポン朝の王レオテュキデスの子、アルキダモス2世が王位を継いだ。
周において、敬王が崩御する。
敬王の子であった姫仁が、元王(げんおう)として即位。

孝昭天皇元年/前475年:丙寅

孝昭(こうしょう)天皇が即位。
欠史八代の一人で、実在しないと考えられている。(実在の人物とする説もある)
『古事記』では、御眞津日子詞惠志泥(みまつひこかえしね)命と記される。 『日本書紀』では、観松彦香殖稲尊(みまつひこかゑしねのみこと)。
葛城の掖上(わきがみ)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしましき。(この後は、毘売(ひめ)を娶り、二人の御子をもうける。その内の一人が天皇の位についた、と記す)天皇の御歳、九十三歳(ここのそぢまりみとせ)。御陵は掖上(わきがみ)の博多山のうえなり。(『古事記』)。
『古事記』は九十三歳で没すとある。孝昭天皇83年(紀元前393年)8月5日に114歳で歿した。

孝安天皇3年/前473年

越が呉王夫差を自殺させ呉を滅ぼす。 その後北方の琅琊に遷都、斉、晋などの諸侯と徐州(現在の山東省滕州市の南東)にて会盟した。元王は勾践を覇者として承認している。
中国春秋時代の呉の王。春秋五覇の一人/夫差が死去。

孝安天皇7年/前469年

哲学者/アテナイのソクラテスが生まれる。(-前399年)
スパルタ/エウリュポン朝の先王レオテュキデスが、亡命先のテゲアにて亡くなる。
周において、元王が崩御する。
敬王の子であった姫介が、貞定王(ていていおう)として即位。
子は姫去疾(哀王)、姫叔襲(思王)、姫嵬(考王)、姫掲(温叔、桓公)がいた。

孝安天皇11年/前465年

アケネメス朝ペルシアにおいて、クセルクセス1世が、側近アルタバノスに暗殺される。

孝安天皇15年/前461年

第一次ペロポネソス戦争が起こる。

孝安天皇16年/前460年

歴史家/トゥキディデスが生まれる。(-前395年)
政治家/クリティアスが生まれる。(-前403年)

孝安天皇18年/前458年

スパルタ/アーギス朝の王プレイスタルコスが死去。

孝安天皇19年/前457年

マガダ国シシュナーガ朝の王ナンディヴァルダナが死去。

孝安天皇20年/前456年

マガダ国シシュナーガ朝の王としてマハーナンディンが即位。
ただし、マハーヴァンサには記載がないため、歴史的事実であるかどうかは不明。
マハーナンディンは、マハーパドマの父であると言われている。

孝安天皇23年/前453年

晋が趙、韓、魏に分裂。

孝安天皇26年/前450年

政治家/アテナイのアルキビアデスが生まれる。(-前404年)

孝安天皇30年/前446年

共和政ローマの軍人、政治家/マルクス・フリウス・カミルスが生まれる。(-前365年)
喜劇作家/アテナイのアリストパネスが生まれる。(-前385年)

孝安天皇35年/前441年

周において、貞定王が崩御する。
敬王の子である兄弟のうち、長兄の姫去疾が、哀王(あいおう)として即位。
哀王即位3ヶ月後に、弟の姫叔襲が哀王を殺害し、思王(しおう)として即位。
思王即位5ヶ月後に、弟の姫嵬が思王を殺害。

孝安天皇36年/前440年

当時のインドでは、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する思想を展開していた。
周において、姫嵬が考王(こうおう)として即位。

孝安天皇37年/前439年

周の考王は、弟の姫掲を河南の王城に封じた。
河南において、姫掲が君主桓公として即位する。(後に西周となる)

孝安天皇41年/前435年

コリントス人により建設されたギリシア北西部の植民市ケルキュラ(当時は既に離反)を母市とする植民市エピダムノスは打ち続く内紛と周辺民族との抗争のために疲弊し、内部の仲裁と兵隊の援助を母市ケルキュラに求めたがケルキュラ人は何の援助も与えなかった。
困窮したエピダムノスはコリントスに救援を要請し、これに応じたコリントスが守備兵と施政官を派遣し植民者の公募を始めると、激昂したケルキュラ人はエピダムノスへ侵攻、エピダムノスを攻囲ののち陥落させ、各地のコリントス植民市に対して略奪を繰り返した。
この頃、アテナイはデロス同盟の覇者としてエーゲ海に覇権を確立し、隷属市や軍事力を積極的に拡大していた。
これに対し、自治独立を重んじるペロポネソス同盟は、アテナイの好戦的な拡張政策が全ギリシア世界に及ぶ事態を懸念していた。
これらを背景として、勃興する覇権主義勢力と旧来の自治独立のイデオロギー対立がポリス間の権益や帰結闘争と結びついた結果、「デロス同盟対ペロポネソス同盟」という代理戦争的構図が作られていく。

孝安天皇42年/前434年

エピダムノスとケルキュラの紛争が起こる。
報復の機会を窺うコリントスの軍備増強を恐れたケルキュラはアテナイに援助を求める。

孝安天皇43年/前433年

ケルキュラは、これを遠からず起こるだろう対ペロポネソス同盟戦の戦力増強の好機と見たアテナイが応じて援軍を送り戦闘となった(シュボタの海戦)。

孝安天皇44年/前432年

ペロポネソス同盟会議において、同盟諸市へのアテナイの侵略に対し和約違反を非難、開戦を決議。

孝安天皇45年/前431年

ペロポネソス同盟軍による第一次アッティカ侵攻(ポティダイアの戦い)。アテナイ軍によるメガラ侵攻。自治権を要求するアテナイ傘下の都市アイギナに対しアテナイが軍を送り占領、全市民を追放。
ギリシア北部にあるコリントス人の植民市ポテイダイアがアテナイの武装解除要求を拒否してデロス同盟からの脱退とペロポネソス同盟による保護と加盟を求めた事に関して、アテナイが軍を派遣して包囲、一部のコリントス人が個人的に救援した(ポティダイアの戦い)。
これらの事件により、アテナイはコリントスと対立する事になる。
「デロス同盟対ペロポネソス同盟」という図式は大きくなり、ペロポネソス同盟会議は、アテナイ軍のペロポネソス同盟市に対する略奪や侵略を和約の破棄と見なし、アテナイとの開戦を決議した。
5月、第二次ペロポネソス戦争が起こる。( - 紀元前404年)
スパルタ王アルキダモス2世率いるペロポネソス同盟軍によるアッティカ侵攻が開始された。
対するアテナイはペリクレスの提案によって、城塞外に居住する市民全てをアテナイとペイラエウス港及び両者を繋ぐ二重城壁の内側へ退避させる篭城策を取り、海上よりペロポネソス同盟の本国などを攻撃する作戦を取った。
ところが、エジプト・リビア・ペルシャ領・エーゲ海東部で流行していた疫病がアテナイでも発生、市内の治安が乱れ盗賊が横行。

孝安天皇46年/前430年

第二次アッティカ侵攻が起こる。

孝安天皇47年/前429年

疫病や市内の治安が乱れ盗賊が横行した影響により、アテナイは市民の約6分の1が病死した。
しかし、海上におけるアテナイ軍の優位は変わらなかった。
リオンの海戦、ナウパクトスの海戦。ともにアテナイが倍以上のペロポネソス艦隊を破る。

孝安天皇48年/前428年

ペロポネソス同盟軍による第三次アッティカ侵攻(ミュティレネの反乱)。レスボス島の諸市がアテナイから離反。短期間で鎮圧するが、その後も度々離反。

孝安天皇49年/前427年

哲学者プラトンが生まれる。(-前347年) ミュティレネの反乱鎮圧。

孝安天皇50年/前426年

スパルタ/エウリュポン朝の王アルキダモス2世が死去。
スパルタ/エウリュポン朝の王アルキダモス2世の子、アギス2世が王位を継いだ。
スパルタ/エウリュポン朝の王アギス2世はアッティカへ侵攻するつもりでコリントス地峡あたりまでペロポネソス軍とその同盟軍を率いたが、彼らが発ってすぐに起こった地震によりさらなる進軍は妨げられた。
アテナイ軍による第一次シケリア遠征。タナグラの戦いが起こる。
周において、考王が崩御する。

孝安天皇51年/前425年

スパルタ/エウリュポン朝の王アギス2世がアッティカまで軍を率いたが、ピュロスの戦いでの敗北を受けて15日後に去った。
ペロポネソス同盟軍とアテナイ軍によるピュロスの戦いおよびスファクテリアの戦い。アテナイ軍の勝利。
スファクテリアの戦いが起こる。これにより、従来決して降伏しないとされていたスパルタ市民兵120人を含む292人を捕虜とする勝利を収めるなど多くの戦果を得ていた。
ペロポネソス同盟軍側は停戦を申し入れたが、ペリクレス死後、好戦的な民衆を抑制出来る指導者を欠いたアテナイはこの申し出を拒否、戦争続行の構えをとった。
しかし、戦局は次第にペロポネソス同盟側へ傾き始め、ペロポネソス同盟軍がボイオティアやトラキアにおいて勝利を収めた。
周において、考王の子である姫午が威烈王(いれつおう)として即位する。
後に弟の姫班が、鞏の君主、鞏叔として即位する。

孝安天皇52年/前424年

ペルシア王/ダレイオス2世が即位。 アテナイ軍がキュテラ島を占領。ブラシダスによるトラキア遠征。アテナイ軍がメガラへ侵攻(メガラの戦い)。
アテナイ軍とボイオティア軍によるペロポネソス戦争最大の会戦デリオンの戦い。ボイオティア軍の勝利。

孝安天皇53年/前423年

1年間を期限とした和平条約の締結。

孝安天皇54年/前422年

アンフィポリスの戦い。ペロポネソス同盟軍の勝利。両軍の指揮官クレオン、ブラシダスともに戦死。
スファクテリアの勝者で、アテナイの好戦的指導者クレオン、同じく主戦派のスパルタの将軍ブラシダスが、トラキアのアンフィポリスの戦いで共に戦死した。

孝安天皇55年/前421年

アテナイとペロポネソス同盟による50年間を期限とした同盟条約の締結(ニーキアスの和平)。
和平を望むアテナイの将軍ニーキアス、同じく和平を望むスパルタ王プレイストアナクス主導の下で、アテナイ、ペロポネソス同盟間で和平が成立した。
しかし、両国共に決定された領土の返還事項を守らず、他国の互いの陣営への敵対行為を助けるという冷戦のような状態になったため、ニーキアスの和平が戦争を完全に終わらせるには至らなかった。

孝安天皇56年/前420年

アルゴス、アテナイ、エリス、マンティネイアによる反スパルタ四ヶ国同盟の締結。

孝安天皇57年/前419年

アルキビアデスの扇動でアルゴスがスパルタの同盟国エピダウロスを攻撃した。
スパルタの全軍を率いてスパルタ/エウリュポン朝の王アギス2世はすぐさま出発して国境の都市レウクトラ(ボイオティアのレウクトラではなく、スパルタの北西の土地)に侵攻したが、国境越えの時の犠牲式で不吉と出たためスパルタ軍は帰国し、同盟軍には将来の再出兵に備えるよう知らせた。

孝安天皇58年/前418年

スパルタ/エウリュポン朝の王アギス2世は、前年からアルゴスの攻撃を受けていたエピダウロスのためにヘロット、スパルタの同盟諸国も含めた全戦力でアルゴスに進撃した。
彼らは進撃してきたアルゴス軍を三方から囲むという圧倒的な優位な状況に立った。
しかし、両軍が矛を交える前にアルゴスの将軍トラシュロスとスパルタの外国代表人アルキフロンの二人がアギスのもとへ行って講和を申し込み、アギスは上層部の一人と相談しただけで4ヶ月の休戦条約を締結し、引き上げた。
その気になればアルゴスを倒せる機会をみすみす逃し、さらにこの後にアルゴスがアルカディアのオルコメノスを攻撃して接収したこともあって彼は大きな非難を浴び、彼の家を壊し、10000ドラクマの罰金を課すことが提案された。
これに対してアギスはこの償いはこの後の戦場の働きによって償うと約束したため、人々は10人のスパルタ人を彼の幕僚とし、彼らの承認なしに彼は軍を本国から出兵することができないようにした。
その時テゲアがアルゴスの反スパルタ同盟に参加しそうだという知らせが来たため、アギス率いるスパルタ軍はテゲアに向かった。
テゲアに着くと、スパルタ軍はコリントス、ボイオティア、フォキス、ロクリスといった同盟国にマンティネアに来るよう連絡し、アルゴスの反スパルタ同盟に加わっていたマンティネアに向かった。
スパルタ軍とアルゴス軍によるマンティネイアの戦いが起こる。スパルタ軍の勝利に終わる。
この戦いはトュキュディデスによれば「長い歴史のなかでも、ギリシアで最も大規模な、そして最も強勢な国々による戦い」であった。
そして、この勝利を受けて冬にスパルタとアルゴスとの間で休戦条約が結ばれ、ほどなくアルゴスはアテナイ、エーリス、マンティネアとの同盟を破棄してスパルタと同盟を組んだ。
なお、この戦いの前日には手薄になっていたアルゴスをエピダウロス軍が衝いてアルゴスの守備隊を多数殺傷したが、後になってエーリス、アテナイなどアルゴスの同盟諸国から包囲された。

孝安天皇59年/前417年

スパルタ軍によるアルゴス侵攻。
アルゴスの共和派が親スパルタの寡頭派を襲って彼らから政権を奪取した。共和派はスパルタ軍の襲来に備えて長城を構築し、アテナイと手を組もうとした。
スパルタは同盟軍と共にアギスのもとアルゴスに向かった。彼らはアルゴスを落とすことはできなかったが、長城を破壊し、ヒュシアイを奪って捕えた自由民を皆殺しにして帰った。

孝安天皇60年/前416年

アテナイ軍によるメロス攻略(メロス包囲戦)。

孝安天皇61年/前415年

アテナイ軍による第二次シケリア遠征。
アテナイは主戦論を唱えるアルキビアデスの主導でシケリア遠征を決定し、これによって戦争が再開されることとなった。
しかし、シケリア遠征は彼我の距離を無視した無謀とも言える遠征であった。
同年にシケリアの戦局がアテナイ側不利に傾き始めたのを機にペロポネソス同盟はアテナイへの穀物の供給地として重要なデケレイアを占領した。
大兵力を投入したアテナイ軍の二次に及ぶシケリア遠征軍が壊滅、失敗に終わったことにより、デロス同盟の被支配市から離反が相次ぎ、情勢はペロポネソス同盟優位に傾いていった。
アテナイは予想外の耐久力を発揮し、依然エーゲ海でペロポネソス同盟と渡り合った。アテナイはいくつかの海戦で勝利を収めるものの、大勢は決しており逆転するには至らなかった。

孝安天皇62年/前414年

シュラクサイの要請を受けたスパルタが、シケリアにペロポネソス同盟軍を派遣。

孝安天皇63年/前413年

アテネ、シチリアで敗北。
第四次アッティカ侵攻。シケリアに派遣したアテナイ軍が降伏。ペルシアとペロポネソス同盟の同盟締結。
マガダ国で、シシュナーガ朝がマハーパドマ(もしくはウグラセーナ)によって滅ぼされる。
マハーパドマは、当時のシシュナーガ朝の王マハーナンディン王とシュードラの女性の間に生まれた子である。
マハーパドマとは王になってからの名であり、おそらくはウグラセーナもしくはパドマのいずれかの名前ではないかと思われる。
その後、マハーパドマがナンダ王を名乗り、ナンダ朝が起こる。
ナンダ朝(ナンダちょう)は、古代インド(紀元前4世紀頃)のマガダ国に勃興した王朝。
伝承の一説には、マハーパドマは、王となった後にシシュナーガ朝の残クシャトリアを殲滅したと言われている。
シュードラ出身のマハーパドマの王朝としては当時、また後世においても忌避されたが、強大な軍事力を持ってガンジス川流域に帝国を築き上げた。
旧来の身分秩序を崩し、後のマウリヤ朝によるインド亜大陸統一の土台を作ったと評される。

孝安天皇64年/前412年

アテナイ市民は最後の準備資金を使って艦隊を編成。クラゾメナイがアテナイに反乱を起こす。

孝安天皇65年/前411年

ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるシュメの海戦、キュノスセマの戦い。前者は引き分け、後者はアテナイ軍の勝利。

孝安天皇66年/前410年

アビュドスの戦い。ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるキュジコスの海戦。アテナイ軍の勝利。ペロポネソス同盟艦隊が壊滅状態に陥る。

孝安天皇69年/前407年

政治家/ヘルモクラテスが死去。 ペルシアの資金援助によりペロポネソス同盟艦隊が再建される。

孝安天皇70年/前406年

ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるノティオンの海戦。ペロポネソス同盟軍の勝利。
ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるアルギヌサイの海戦。アテナイ軍の勝利。

孝安天皇71年/前405年

ペルシア王/ダレイオス2世が死去。
ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるアイゴスポタモイの海戦。ペロポネソス同盟軍の勝利。アテナイ艦隊が壊滅する。アテナイ市の包囲。
ケルソネソス半島(今日のトルコ領ゲリボル半島)を流れるアイゴスポタモイ川の河口付近でアイゴスポタモイの海戦が勃発した。
この海戦では、食料調達のために上陸し、休息を取っていたアテナイ軍をリュサンドロス率いるペロポネソス同盟軍が急襲し勝利を収めた。
この勝利により黒海方面の制海権を完全にペロポネソス同盟が掌握、同時にアテナイ市への食料供給路を断った。
斉の君主である宣公が死去。
宣公の子である姜貸が、康公(こうこう)として即位した。
しかし、康公自身は酒色に耽り、政治を顧みず、田和を宰相とし行政をすべて任せていた。

孝安天皇72年/前404年

ペロポネソス同盟によって、アテナイ市が包囲され、アテナイの降伏を以って戦争は終結した。
戦争の結果、デロス同盟は解放され、アテナイでは共和制が崩壊してスパルタ人指導の下に寡頭派政権(三十人政権)が発足し、恐怖政治によって粛正を行なった。 だが、9ヶ月でトラシュブロス率いる共和制派勢力が三十人政権を打倒し政権を奪取する。
共和制政権のもとでは、ペロポネソス戦争敗戦の原因となったアルキビアデスや、三十人政権の指導者のクリティアスらが弟子であったことから、ソクラテスがアリストパネスらによって糾弾され、公開裁判にかけられて刑死した。 アテナイはデロス同盟の支配者たる地位は失ったものの、有力ポリスとして存在し続けた。
ペルシア帝国のギリシャ地方支配に対抗したスパルタに対して、ペルシャ帝国は敵対するアテナイやテーバイ、後にはコリントスなどのスパルタと敵対するポリスに資金支援を行い、諸ポリスが合従連衡を繰り返してスパルタに対抗した(例えばコリントス戦争、大王の和約)。 三晋(韓・魏・趙)が斉を進攻する。
康公を捕虜として周の威烈王に謁見し、諸侯に加えられるよう求めた。

孝安天皇73年/前403年

趙、韓、魏が周の威烈王より諸侯として認定される。
これより中国は戦国時代に入る。司馬光の『資治通鑑』はこの年より記述が始まる。

孝安天皇74年/前402年

周において、威烈王が崩御する。
威烈王の子である姫驕が安王(あんおう)として即位する

孝安天皇75年/前401年

アケメネス朝ペルシアではアルタクセルクセス2世と小キュロスの間で後継者争いのクナクサの戦いが起こった。
この戦いに参加したクセノポンは『アナバシス』を記した。

次の年代:
紀元前400年〜紀元前300年