前の年代:
西暦50年〜100年

西暦100年 〜 西暦150年

大和(日本)垂仁天皇から景行天皇の御代へ。伊勢斎宮群行が始まる。小碓命(日本武尊)の蝦夷討伐が始まる。
この頃、ヨーロッパ全域にローマ帝国の勢力圏があり、ブリタニア(ブリタンニア*現在のイギリス領)との関連性も記述に出てくるようになる

景行天皇31年/101年 : 辛丑

カンボジアで扶南が建国される。
ローマに派遣された中国の軍事大使、甘英が死去。
新約聖書に登場するイエスの使徒の一人ヨハネが死去。
ローマ教皇クレメンス1世が死去。

景行天皇32年/102年 : 壬寅

後漢の武将(班固の弟)班超が死去。

???年頃

歴史上にサクソン民族が登場する。ザクセンともいう。
この頃に登場するサクソン民族は、現在のノルウェー半島とドイツをつなぐデンマークのホルシュタイン地方南西部にあった小部族を母体とし、やがて個々の部族が協力しあい、部族国家として北ドイツ地域まで拡大していった民族と言われている。ケルト特有の民間信仰や文化を持ちつつも、その中に北オリエント文明の民間信仰も取り入れた事からか、南ザクセン人の多くは、自分たちの祖先はスキタイ民族(現在のブルガリアやルーマニアにあった民族)であると考える部族もあった。
サクソン人という呼び名は、片刃の直刀の武器「サクス」に由来していると言われている。スクラマサクスもまた、古ドイツ語にあるスクラマ=「深い切り傷を負わせる」、サクス=「ナイフなどの刀剣」の意味。
おおよそサクソン人と呼ばれた民族のほとんどは、サクスを携帯していた事がうかがえる。

景行天皇35年/105年 : 乙巳

後漢/元興に改元。後漢の蔡倫が製紙法を改良する。
高句麗/宮(太祖大王)が、遼東郡に侵攻して6県を掠奪したものの、遼東太守耿菱の反撃にあって大敗。

景行天皇36年/106年/アスス暦823年:丙午

第2次ダキア戦争でトラヤヌス率いるローマ軍がデケバルス率いるダキア軍を撃破。これによりダキア全域をローマの属州とした。
ローマ帝国、ナバタイ及びアラビアを属州化。

景行天皇37年/107年 : 丁未

倭国王帥升ら、後漢の安帝に生口160人を献上する。(後漢・永初1、丁未;『後漢書』安帝紀、同東夷伝)
もしくは、倭国王の帥升が安帝に拝謁を願うとある。
この頃、倭は朝鮮の弁韓・辰韓の鉄を盛んに輸入する。(『魏志』韓伝)

景行天皇38年/108年 : 丙辰

メートルイティル・メティリウス・ブラッドが領事に。
タキトゥスが『履歴』を書く。69年から96年までを記述。

景行天皇40年/110年 : 丙辰

日本書紀によれば、関東の蝦夷の反乱があり、景行天皇が日本武尊に東征を命じる。
ただし、他の古文献によれば、「景行天皇即位28の年(98年)」に、日本武尊が東征に出立したとある。
以降は、日本書紀を始め、他の古文献とも内容は同じ。
後漢/馬融が大将軍の登隲に徴され、校書郎となる(登+おおさとへん)

日本書紀:
6月、東の夷が反乱を起こして辺境を騒がせる。(日本書紀)

日本書紀:
7月、日本書紀と古事記で異なる内容を示している。
天皇は卿(臣下)に詔し、東国の平定に誰を遣わしたら良いかを問う。臣下は皆、誰を遣わせればいいか判断できなかった。
これに日本武尊は、自分が先に西征を行ったので。この役は大碓皇子にと進上する。しかし大碓皇子はこれに驚き、草むらに逃げ隠れてしまった。
景行天皇は使者を送っては、大碓皇子を呼び戻し、行きたくなければ、無理に行かせはしないが、相対していない的に対して、なにを怯えるのかと問い、美濃国に封じた。大碓皇子は後に身毛津君・守君の祖となった。(※田は都(みやこ)であり、津は港都を意味している。つまり美濃国には海に面している地域があった)
この状況から、日本武尊が東征に名乗りをあげる。(この時、日本武尊は「西征から幾年も立っていないが行きましょう」という返答が日本書紀には記載されている。つまり数年の刻は経過している。)
これに対して、景行天皇はこのように聞いたという説明から東国の蝦夷について説明を行い、一方で日本武尊を神と讃え、斧鉞を授ける。
日本武尊は礼拝と奏上をし、重ねて礼拝をし、景行天皇は吉備武彦と大伴武日連を日本武尊に付けた。七掬脛を膳夫とした。
古事記:
天皇はまた重ねて倭建命に「東方十二道の荒ぶる神たちと、まつろわぬ者たちを言向けてこい」と命じ、吉備臣らの祖、御スキ友耳建日子を添えて遣わした。その際、比比羅木の八尋矛を授けた。


10月、日本武尊、大和(奈良)→伊勢国→尾張国へ進む。
日本書紀、古事記、倭姫命世記で異なる内容を示している。
日本書紀:
日本武尊が東征のため出立。途中、道を外れて伊勢神宮に詣でられた。
倭姫命にあい、天皇の命で東征にいく事を告げる。倭姫命は草薙剣(神宝/天叢雲劔)を日本武尊に授け、「慎み(謹み)、怠ってはいけない」という事を告げる。
古事記:
命を受けて旅たつ際、伊勢神宮にお参りをして倭姫命にあう。日本武尊は、倭姫命に「天皇は私に死なせたいと思っているのだろうか。西征から帰国してまだそれほどの時しか立っていないのに、今度は大した軍も与えてもらえず、東征にいけと言われる。これを考えると死ねと言われているようなものだ」と言って泣き憂えた。
叔母の倭姫命は、日本武尊に草薙剣(天叢雲劔)と嚢を授け、急事(困った事)があれば嚢を開けなさいと告げる。
倭姫命世記:
日本武尊が東征のため出立。途中、道を外れて伊勢神宮に詣でられた。倭姫命にあい「天皇の命により、東征にいき、謀反者を誅にいくため、暇をいただく」という事を告げる。
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当時は、現在の愛知県の大部分が海中に没していた。
三重県は、現在の三重県桑名市を走る養老鉄道養老線から東側に海岸線が広がっていた事が、尾津神社と船津神社の御由緒にも記載されている。
また、岐阜県瑞穂市から愛知県一宮市尾張國一宮真清田(ますみだ)神社-熱田神宮付近がおおよその海岸線と推測される。
すぐ北に三野(美濃)國があるため、おそらくは現在の熱田神宮付近あたりが、尾張國と三野國の境界である事がうかがえる。
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日本武尊が、東征の際に、尾津浪の松の下に剣を置き忘れる。(三重県桑名市尾津神社の御由緒)
この時に忘れたのは、元々所有していた剣の事で、倭比売命から授かった草薙剣ではない。
また、尾津から船で出航し、東へ海路を進み、船津に到着する。(愛知県東海市名和町船津神社の御由緒)
ここに船をつけ「なわ」で船を松の木につながれたことによって、名和船津の地名が出来たの事。


●古事記のみ記載:
古事記:
故れ尾張國に至りて、尾張國造の祖、美夜受比賣の家に入りましき。
すなわち婚さんと思おし雖ども、また還上の時に婚さんとお思して、期定(約束)を而して、東の國に于幸して、山河の荒ぶる神また伏わぬ人等を悉言にこと向けや和平したまいき。

古事記のみ記載:
日本武尊は、建稲種命の宮(現在の天神社)から移動し、ここから舟で火高山の宮簀媛(美夜受比賣)の元へ向かったとされる。後に成海神社がこの地に創建されたが、後世において現在の場所に遷宮する。
火高山(現在は、火上山:氷上姉子神社)は、天神社の地から南方にあり、ここに成海潟が広がっていたとの事。火高山には美夜受比賣の宮があったとされている。
日本武尊、尾張の国に到達する。その時、尾張國造の祖となる美夜受姫命(ミヤズヒメノミコト)の家に滞在する。
日本武尊は、美夜受姫命と婚姻を結びたいと考えたが、帰りの時にしようと思いとどまり、婚約だけをして東の国へ向かった。
道中、山河の神々や祀る事ができない者たちを退治して進んだ。(山河とあるため、陸路を進んだ)
日本武尊は、船津から尾張國造の元へ向かう。尾張國造であった建稲種命の宮(家)は、現在の天神社(あまつかみしゃ)にあったとされている。(成海神社の社伝)
建稲種命はここで日本武尊に娘の美夜受比賣を紹介したらしい。
氷上姉子神社(愛知県名古屋市)
美夜受比売を祀る。東征からの帰還の際には、日本武尊は鳴海潟から火高まで船で渡ったという。
日長神社 愛知県知多市
景行天皇の皇子日本武尊が御東征の折この地に来られ、里人に此の所の名、及び日の暮れる方向をたずねられたので、里人が畏こんで〝日は未だ高し〟とお答すると、尊はこれを聞かれ、それでは此の所を「日高」と呼ぶがよいと仰せられたのが地名になり、後に「日永」となり、江戸時代中期以後は日長となった。山頂にある手水池は、命が里人に掘らせられた池と伝えられているが、如何なる日照りが続いても、水の涸れたことのない不思議な池である。
七所社 愛知県名古屋市中村区岩塚町
境内に縦横26尺の塚あり。そこに縦4尺ばかりの岩立てり。不生石と称し故に村名を岩塚という」と記されている。この岩は日本武尊腰掛岩と伝えられ、塚(古墳と考えられる)と共に現存している。
熱田神社 愛知県大府市
景行天皇の40年(110)に、日本武尊は東夷征伐に大高の氷上(ひかみ)の里(お妃宮簀姫(きさきみやすひめ)の居住地)を東下されて、大府の地をお通りになった際、この地で御休息されたと伝えられる
知立神社 愛知県知立市西町
第12代景行天皇の御代、皇子日本武尊が大命を奉じて東国ご平定のさい、当地に於て皇祖の神々様を祭って国運の発展を祈願し給い、依って以て数々の危難を脱して平定の大功を完うし給えるにより、其の報斎のため、建国の祖神、彦火火出見尊、草葦不合尊、玉依比売命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の四柱の皇大神を奉斎あらせられた
八劔神社 愛知県安城市榎前町北榎7
 日本武尊御東征の折に榎の大木あり、その下にて休憩されその所に小祠を建て祀ると謂ふ。
菅生神社 愛知県岡崎市康生町630-1
 日本武尊東夷征伐にて、当地通過の砌り、高石にて矢を作り一矢を小川に吹流し、其の矢を、御霊代として伊勢大神を鎮祭し、吹矢大明神と称した
矢作神社 愛知県岡崎市矢作町字宝珠庵1
 第十二代景行天皇の御代に日本武尊が東夷御征伐の時軍神として素盞鳴命をお祀りし広前で矢を矧ぎ給いしため社号を矢作神社と称えた。社前の矢竹はそのいわれの跡といわれている。
神明社 愛知県岡崎市本宿町字森の腰23
 人皇12代景行天皇の御宇庚戌40年東夷多く叛きて騒動しければ、第2皇子日本武尊左右には吉備武彦命、大伴武日蓮を相副られ三河国に御下向当地を通御在らせられ給ひ、遥かに山上を見給ふに紅白の雲棚引き恰も錦の御旗の如くなりしかば、尊御感の余り峰に登らせられ天照皇大神を遥拝して戦捷を祈らせ給ふ。
熱田神社 静岡県湖西市吉美1600
 当神社の御祭神日本武尊は御道駐屯の事蹟として、当社付近に神井戸及び御手洗等の遺蹟を存せり。当社鎮座地、大字『吉美』、往時『吉備』と称せしは、尊の随者吉備武彦命の吉備を取りて、『吉備の郷』と称せしと伝ふ。

景行天皇41年/111年 : 辛亥

日本書紀では、この時に日本武尊が崩御(30歳)したと記載している。(既而崩于能褒野、時年卅。)
日本各地での社伝と比較した場合に数年のずれが生じている。
武蔵国の大國魂神社が創建。
新羅/祇摩王が即位。

???年

日本武尊、尾張国→駿河国(相武国)→相模→上総→陸奥へ進む。常陸の境に至り、ここから帰路へ。吾妻→甲斐へ進む。
●日本書紀と古事記で記載が異なる。
日本書紀:
この年、日本武尊が初めて駿河に到った。
その土地の賊が偽って従た。その賊が欺いて言うには「この野に、大鹿がたくさんいる。息は朝霧のようで、足は茂げった林のよう。出向いて、退治してください。」と言う。
日本武尊はその言葉を信じ、野の中に入り獣の跡を探した。賊は王を殺そうと思って(王とは日本武尊のことをいう)、その野に火をつけた。
王はだまされたと知ってすぐに火打ちを出して、火を打ち出し、向火をつけて免れることが出来た。
ある伝えでは、王の腰に差した剣藂雲が自ら抜けて、王の周りの草を薙ぎ払った。これによって免れることが出来た。
それでその剣を名付けて、草薙という。王が申されるには「ほどほどにだまされた。」と申された。
そしてことごとくその賊を焼いて滅ぼした。そのところを名付けて焼津という。
古事記:
相武国に到達した時、相武国造は日本武尊に偽りを伝えた。
「この野の中に大きな沼があります。そこに住む神は非常に荒れ狂う(道速振る)神で困っております」と言う。
そこでその神を見ようと野に入ったとき、その国造は野の周りに火を着けた。日本武尊は騙されたと知って、倭比賣命にもらった嚢の口を明けてみると、燧石が入っていた。
そこで刀で身の周りの草を切り払い、それに燧石で火を着けて、迎え火で火を避けた。
帰って来ると、その国造たちをみんな斬り殺し、火を着けて焼いた。それでその地を今でも燒遣という。
倭姫命世記:
この年、日本武尊が初めて駿河に到り、野中に入りて、野火の愁に遭う。
王の腰に差した剣藂雲が自ら抜けて、王の周りの草を薙ぎ払った。これによって免れることが出来た。
それでその剣を名付けて、草薙という。

日本書紀・倭姫命世記では、駿河と記載している。
古事記によれば、相武国(さがむ)の国と記載。現在の神奈川県あたりが有力説。相武国は後に相模国と武蔵国に別れたとされているが、日本書紀では「相模」という記載をしている。
古事記は「こじき」という名称ではなく、元来は「ふくきことしるすふみ」という名称であるため、相武国は駿河・相模・武蔵の3つがひとつの国であった可能性も伺える。

八劔神社 愛知県安城市榎前町
日本武尊御東征の折に榎の大木あり、その下にて休憩されその所に小祠を建て祀ると謂ふ。
菅生神社 愛知県岡崎市康生町
日本武尊東夷征伐にて、当地通過の砌り、高石にて矢を作り一矢を小川に吹流し、其の矢を、御霊代として伊勢大神を鎮祭し、吹矢大明神と称した
矢作神社 愛知県岡崎市矢作町
第十二代景行天皇の御代に日本武尊が東夷御征伐の時軍神として素盞鳴命をお祀りし広前で矢を矧ぎ給いしため社号を矢作神社と称えた。社前の矢竹はそのいわれの跡といわれている。
神明社 愛知県岡崎市本宿町
人皇12代景行天皇の御宇庚戌40年東夷多く叛きて騒動しければ、第2皇子日本武尊左右には吉備武彦命、大伴武日蓮を相副られ三河国に御下向当地を通御在らせられ給ひ、遥かに山上を見給ふに紅白の雲棚引き恰も錦の御旗の如くなりしかば、尊御感の余り峰に登らせられ天照皇大神を遥拝して戦捷を祈らせ給ふ。
熱田神社 静岡県湖西市
当神社の御祭神日本武尊は御道駐屯の事蹟として、当社付近に神井戸及び御手洗等の遺蹟を存せり。当社鎮座地、大字『吉美』、往時『吉備』と称せしは、尊の随者吉備武彦命の吉備を取りて、『吉備の郷』と称せしと伝ふ。
焼津神社 静岡県焼津市焼津
日本武尊の東征のとき、この地の国造が謀って日本武尊のいる野原に火を放ち、日本武尊は天叢雲剣で周囲の草を薙ぎ向火を放って難を逃れたという地であると伝える。
草薙神社 静岡県清水市草薙
景行天皇第二子皇子日本武尊は東国の蝦夷が、叛いたので、之を平定する為、吾嬬国に赴く途中、このあたりで逆賊起こり、原野に火を放って尊を焼き殺そうとしたので尊は出発の折、伊勢神宮に参拝し、倭姫命より戴いた佩用の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱へ、祓ひて剣を振り、あたりの草をことごとく薙ぎ払った処で手打石により日をつけた。その火は逆に逆賊の方へ烟りなびいて、尊は無事にこの難を切り抜けられました。その後、佩用されていた天叢雲の剣を草薙の剣と名称を変更になり、尚、尊を焼き殺そうとした処を草薙と言はれる様になりと、語り伝へられている。

日本平(伝承の出自は不明)
日本武尊が東征の折、草薙の原で、当時支配していた豪族による野火の難にあった際、「三種の神器」のひとつである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を抜き、豪族を倒した後で、この山の頂上に登り四方を眺めたことからこの名で呼ばれるようになったと言われている。

矢倉神社 静岡県静岡市清水区宮下町10-13
景行天皇第二皇子日本武尊が東国の蝦夷が叛いたので、御東征の際、当地方一帯に軍営を布かれ給ひ、此の地に兵站部や武庫を置かれた遺跡と伝へられています。
久佐奈岐神社 静岡県静岡市清水区山切101
日本武尊東征のおりに、当地に本宮を設けたといい、その後、供の吉備武彦命が、当地を統治し、社殿を築いて、日本武尊を祀ったのが、当社の起源。
鞍佐里神社 静岡県静岡市清水区由比西倉澤313
日本武尊東征の折、此の地にて賊徒の難に逢ひし時、御乗馬の鞍、自らずれ落ちしにより、馬より下りしため賊徒の難をのがれし御旧跡なり。倉なりと名づく後に倉沢に転ず
富士山本宮浅間大社 静岡県富士宮市宮町1-1
第十二代景行天皇の御代日本武尊が東夷御征伐の時駿河国に於て賊徒の野火に遇われたが富士浅間大神を祈念して其の災をのがれた給い、その賊を征服するや山宮の地(大宮の北方約6キロ)に於て厚く大神を祭られた。
山宮浅間神社 静岡県富士宮市山宮3191
東征の途中、賊徒に追い込まれた尊が、富士の神を祈念し窮地を脱したことにより神霊を祀った場所とされる。
来宮神社 静岡県熱海市西山町43-1
日本武尊は人皇第十二代、景行天皇の御代、御東征に出陣せられ、箱根路から、此の地に軍を進められた時、住民を労り、産業を奨励した功績と、武勲を称えたゝめまつられたと伝えられる。

●日本書紀と古事記で記載が異なる。
日本書紀:
日本武尊は、相模に行き、上総へと向かおうとした。日本武尊は海を眺め「これは小さい海だから走って渡れる」と言った。
そして海の中までやってくると暴風がたちまち吹いて、日本武尊の王船は漂って渡ることが出来なかった。
この時、日本武尊付き従ってきた女性がいた。弟橘媛といった。弟橘媛は穂積氏の忍山宿禰の娘である。
弟橘媛は、日本武尊に「今、風が吹いて、波が荒く王船が沈もうとしています。これは必ず海神の仕業です。
願わくば、賤しき私の身を王の命に代えて海に入りましょう。」と申した。
言い終わると、波を押し分けて入っていった。暴風がやんだ。船は岸につくことが出来た。それで時の人は、その海を名付けて馳水という。
古事記:
さらに進んで、走水の海を渡ろうとした時、その渡りの神が波を激しく立て、船は一カ所の留まり漂って、進めなくなった。
同行していた后、弟橘比賣命は「私が皇子の代わりに海に入りましょう。あなたは首尾良く征伐を成し遂げて、天皇に復命してください」と言った。
海に降りる時、波の上に菅畳、皮畳、あしぎぬの畳を沢山積み重ねて敷き、その上に降りた。
すると荒れていた波はおのずと静まって、船は進むことができた。后は歌って、
相武の小野に、燃える火の、火中に立って、(私のことを)尋ねてくださった君よ
七日後に、その后の櫛が海辺に流れ着いた。それを拾って、陵墓を作って中に納めた。

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日本書紀にある「馳水」という海は、おそらく現在の東京湾の事。古事記では「走水海」としている。
現在の神奈川県横須賀市にある走水神社、東京都品川区東品川にある寄木神社にも、この伝承が残されている。
当時の地形は、北側の入江が深く、現在の埼玉県三郷市鷹野にある寄巻水神社〜春日部市あたりまで入江海岸線があったと推定される。
鎌倉時代においても当時、利根川の河口が現在の南千住付近にあったため、やはり利根川の河口があった事も伺える。
概ね琵琶湖と同サイズの入江であったため、入江の奥まで視界が開けている筈もなく、横須賀から見た時点では対岸の房総半島は「島」として認識された事がうかがえる。
(※実際のところ、現在の琵琶湖南部にかかる琵琶湖大橋から北側の景色は、どれだけ晴天であっても見える視界範囲は、近江舞子〜近江八幡、沖島ぐらいまで。)
船が一箇所に留まったとあるのは、暴風雨以外にも潮の流れが関与していたものと思われる。おそらくは川崎市あたりの緯度までは北上した可能性がある。
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諏訪神社 神奈川県大和市下鶴間2540
第十二代景行天皇の皇子日本武尊が九州の熊襲を征伐のあと、東夷征定を命ぜられたとき、景行天皇は「この楯を護りとして東国を鎮護せよ」といわれ渡された。これを鎮楯または石楯という。東国に向う日本武尊は、途中伊勢神宮を参拝し、ここで草薙剣を賜った。そして途みち賊を征定し足柄峠をこえ相模に入られ、秦野、伊勢原あたりから厚木小野に至った。ここで賊にあざむかれ野火の災禍にあうが、この剣で抜い難をのがれた(一説には静岡県焼津あたりともいわれる)。さらに相模川を北にのぼり、佐野川村から大島、座間を経て下鶴間村に至り、横須賀(走水)から安房に入られた。妃弟橘姫入水の悲話はこのときの物語である。この征路の途中で御楯を安置し鎮護を祈願されたところが石楯尾神社であるといわれている。
石楯尾神社 神奈川県相模原市緑区佐野川3448
第十二代景行天皇の庚戊40年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである。
走水神社 神奈川県横須賀市走水2-12-5
景行天皇即位四十年、武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着されました。
足柄神社 神奈川県南足柄市苅野274
日本武尊御東征の砌、足柄村にしばし御滞在なされ仮宮安在所を設け慰労後、尚明神嶽から足柄山を越えなむとするも樹木草生い繁り遂に進路に御迷いの所、白鹿眼前に現れ、其の後に従い足柄峠に難なく進むことが出来、此処に於て白鹿消え給うと、これ神霊の御導きならむと待僕を同所に3年間滞在させ、神霊を齋祀されたと云はれている。
御嶽神社 神奈川県秦野市名古木459
倭建之命東征の時大樹の下に腰を据え、大山丹沢富士を一望されたことにより御嶽社を建立されたと伝えられる。
石座神社 神奈川県秦野市鶴巻2345
倭建命が腰掛けたとされる自然石が御神体
牛倉神社 山梨県北都留郡上野原町上野原1602
日本武尊東征の際随従して一属共に此大宮を出て転ず。後に倉庫の趾に神社を奉建す。故に大宮と称し或はウシ倉の社と称す。
皇武神社 神奈川県相模原市中央区淵野辺本町4丁目20-23
第十二代景行天皇の第三皇子日本武尊、勅命により御東征の砌りこの地を御通りになり、その折相模にて聚雨に逢われ、沼辺の小野姓と称する人家に立ち寄った時、この甕で造った酒を奉持したと申し伝えている。
深見神社 神奈川県大和市深見3367
皇子日本武尊御東征の時、足柄峠を越え古相模湾の岸を経てここに軍を駐められ、この入江から舟師を出されたと云う。今郷内にある薙原、石楯尾及御難塚の地名は尊の御遭難の地と伝称されている。
五社神社 神奈川県綾瀬市早川1603
人皇第十二代景行天皇の皇子日本武尊、御東征の折に当地(当時は亀井山と伝う)に五朶の榊を樹て、地神五代を創祀して五頭の宮と崇められたのが始めであるといわれている。
腰掛神社 神奈川県茅ケ崎市芹沢2169
景行天皇の朝皇子・日本武尊御東征の際、此の地を過ぎ給ふ時、石に腰を掛け暫時此處に御休息せられ、西の方大山を望み指示して大いに喜び給ふ。後、村民永く其の霊跡を存せんとして社を建て尊を祀りしと言伝ふ。今猶社前に一大石(凡 長さ2尺9寸 幅2尺5寸)あり 腰掛玉石と称す。
吾妻社(不動堂) 神奈川県三浦郡葉山町長柄130?9
倭建命がこの地を通過したとされる。
走水神社 神奈川県横須賀市走水2-12-5
景行天皇即位四十年、武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着されました。ここに御所(御座所)を建てました。走水の地において、軍船等の準備をし上総国に出発する時に村人等が武尊と橘媛命を非常に慕いますので、武尊は自分の冠を村人等に与えました。村人等はこの冠を石櫃納め土中に埋めその上に社をたてました。(走水神社の創建です。)史跡・伝承 一、御所ガ崎「武尊と橘媛命が御滞在したときの御座所のあった所」 一、旗立山「武尊が征軍の旗を立てた所」(御所ガ崎の後背) 一、御座島「武尊と橘媛命の訣別のお盃があった所」(神社前の岩礁) 一、皇島「武尊が軍船に乗船された所」(御所ガ崎の北岩礁) 一、むぐりの鼻「橘媛命の侍女等が媛に殉じた所」(御所ガ崎の最先端岩礁) 一、伊勢山崎「武尊が伊勢神宮で授けた御神符を祀った所」

 (ここから東京湾)

吾妻神社 千葉県木更津市吾妻2-7-55
社伝によると、日本武尊が東征の折り、妃の弟橘媛が海神の怒りをしずめるため、走り水(浦賀水道)の海に身を投じた。その衣が袖ケ浦付近に流れついた。これを納めて建立されたといわれる。また境内の鏡ケ池は弟橘媛の鏡を沈めたところと伝えている。
八劔八幡神社 千葉県木更津市富士見1-6-15
人皇第十二代景行天皇の40年、日本武尊御東征の時、相模国より此の地に渡り給わんとす。海上にわかに波荒れ御船将に危からんとす。妃橘媛命申し給わく『これ尊の相模の地より此の海を望み給ひて、これ小海なり、立跳りにも渡りつべし、とあさみ給ひしに依りて渡津海の神の怒り給ふなり』とて身を躍らして海に投じ給い、尊の御命に代り給う。暴風雨忽に治り、御船此の地に着き給う。尊、姫の死を悼みて当社に滞留して去り給わず、依りて此の地を君不去と呼ぶに至れり。 刀八神社 千葉県木更津市太田523
景行天皇の四十年庚戌、日本武尊東征の時、相模国より本地に渡り給わんとす、海上にわかに波荒れ、御船将に危からんとす。妃橘姫命申し給わく「これ尊の相模の地より此の海を望み給ひて、これ小海なり、立跳りにも渡りつべし、とあさみ給ひしに依りて渡津海の神の怒り給ふなり」とて身を躍らして海に投じ給い、尊の御命に代り給う。暴風忽に治り、御船此の地に着き給う。尊、姫の死を悔み悼みて太田山山頂に登り海を眺めて暫し去り給はず。依りて太田山山頂を「恋いの森」と呼ぶに至れり。里人此の祠に日本武尊を併せ祀る。

 (記紀には掲載されていない記録:阿久留王との戦)

遠見岬神社 千葉県勝浦市浜勝浦11
神武天皇の側近として活躍した天富命は、阿波の開拓を終えた後、東国により良い土地を求め阿波忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸した。そして祖神である天太玉命を祀る社を建て、安房の開拓を進めたがその後当地で没したという。
御太刀神社 千葉県君津市皿引221
大和国家草創の頃、鹿野山に阿久留王、別名六手王という土着の豪族が在って小糸川流域を支配していた。第十二代景行天皇の御代、日本武尊は東国開拓の先駆として、吉備武彦、大伴武日連、七掬脛、等を伴なって相模から海路房総に上陸し遂に阿久留王と鬼泪山で対戦することゝなった。阿久留の軍勢は勇敢で尊は苦戦したが、山頂に諸神が現れ激戦の未漸く勝利を収めるが、この時阿久留王は多くの手下を失い、自らも深手を負って故郷の六手へ敗走することゝなる。皿引の地はこの時阿久留王が血塩を引きながら通過したという事から、始め「血引村」と言っていたものを「血」を改め「皿」に変えたものと伝える。
君津市六手では今でも、阿久留王は「鬼」ではなく、住民のことを思う大変優れた文武両道の豪族であったといい伝えられている。
鑓水川・・・袖ケ浦市吉野田 日本武尊軍が血に染まった鑓を洗い流した川
鬼塚・・・ 吉野田 阿久留王軍の兵士を葬った場所。
鬼泪山・・・ 富津市 阿久留王が涙を流し命乞いをした場所
染川・・・ 「血草川」あるいは「血染川」といい、阿久留王の流した血で真っ赤にそまったことから付けられた。
血臭浦・・・千種新田の海辺 戦いの後にこの海辺から血のにおいが立ち上ったからだという云い伝えによる。
皿引・・・ 君津市周南地区 もとは「血引」といい、傷ついた阿久留王が、血を流しながら通り、まるで血を引きずっているように見えたことから名づけられた。
阿久留王塚・・・ 阿久留王の胴体が葬られたといわれる。
お八つが塚・・・ 阿久留王の頭部が葬られたといわれる。
八雲神社 千葉県富津市岩坂74
当八雲神社は、景行天皇の御代40年、皇子日本武尊が東夷御征討の御時、相模の走り水より、御船にお乗りになり上総にご渡海せられ、上総国に御上陸の上、鹿野山の東夷の首長阿久留を討たれましたがこれにさきだち岩坂山に於いて神籬岩境の神祭りを執り行われ、素盞嗚尊の神霊をお祭りされた事を以って当社の始まりと伝えている。
八坂神社 千葉県市原市椎津230
人皇十二代景行天王40年、日本武尊東征の時に東夷鎮撫の祈願をしたと伝えられる。
人皇第十二代景行天皇40年11月、天皇の皇子日本武尊が御東征の時、走水の海で暴風雨に遭い、お妃の弟橘姫の犠牲によって無事上総の地に着かれ、ここ宮山台においてお妃を偲び、風の神志那斗弁命(シナトベノミコト)を祀ったのが始まりという。
島穴神社 千葉県市原市島野1129,1130
景行天皇の40年(西暦114)、日本武尊命が東征のみぎり、相模国走水より上総国へ航行中、にわかに暴風に見遭われ、あやうく船が覆りそうになった時、同乗されていた妃君の弟橘姫命が大和国の風鎮めの神・龍田大社を遥かに拝み、安全に上総国まで航行させてくれるならば、必ずその地に風鎮めの神を祭り報恩感謝の誠を尽くしますと祈りながら海中に身を投ぜられました。するとたちまち暴風は止み、無事上総国へ着くことができたので日本武尊命は、弟橘姫命のご遺志の通りこの地に志那都比古尊を祭る当社をご創祀されたのであります
大宮神社 千葉県市原市五井1597
日本武尊御東征の時創祀
南宮神社 千葉県長生郡一宮町宮原1130
日本武尊、上総国長柄郡金田郷大宮台に到着、御自身の大使命達成の前途は、更に長くけわしいので、この際前途の安全を祈ろうと決心し、ここにお宮を建て、海神の御娘、豊玉姫命をお祀りした。
八劔神社 千葉県千葉市中央区南生実町885
人皇第十二代景行天皇の皇子日本武尊、御東征の際、相模国三浦より御渡海、此の地に御幸在して国乱を平定し給う。当時東国は国号定まらざりしを二ヶ国に分割して、從是南を上総地、北を下総地として永く国境とせよと宣へり。土民御徳恩に浴し深く敬ひて此の神を国家守護神と仰ぎ、東国鎮護征夷神八劔神社と崇敬し当日神両社を合わせ祀りて今に易らず崇敬す。
蘇我比咩神社 千葉県千葉市中央区蘇我町1-188
第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が、東国地方を統一すべく勅命を受け、弟橘姫を始め多数の家来を引きつれ軍船に乗りて、千葉沖に差しかかったとき、風雨が強くなり船は進まず沈没の危険にあった。このとき弟橘姫は「竜神の怒りに触れた」とこれを静め和らげんと同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じた。そして日本武尊命は、無事航海をつづけた。身を投じた五人の姫の中に蘇我大臣の娘たる比・がおり、この方がこの下の海岸に打ち上げられた。里人等の手厚い看護で蘇生することが出来た。そして無事に都に帰ることが出来た。又里人達は、日本武尊命が日嗣の皇子でありながら東征の途中にて崩ぜられ皇位を継承するに及ばなかった事を聞き及んでその霊をなぐさめんと社を建て神として祭った。
意富比神社 千葉県船橋市宮本5-2-1
当船橋大神宮は、景行天皇の御代40年に、皇子日本武尊が御東征の途次、船橋湊郷に到着なされ、東国平定の目的成就を御祈願なされたのを以てその御創建とします。当時隅々住民が旱天に苦しんで居り、尊は併せて祈雨の由を念じられますと、一天俄にかき曇り雷雨起り、土地が潤ったと言われて居ります。
入日神社 千葉県船橋市海神3-7-8
当町鎮守「式内元宮入日神社」は、皇統第十二代景行天皇の皇子日本武尊が東夷御征討の砌り伊勢湾方面より海路を利用し、先づ上総国に上陸、次いで軍団は上総国を出帆せられ下総国に入るに及んでこの地に上陸された。上陸地点は現在地に当たると伝えられている。その後村人によって日本武尊の上陸を記念し且つその御偉徳を忍び、併せて郷土守護・五穀豊饒・豊漁の神として社を建立し崇拝して来たのが即ち入日神社である。

●日本書紀と古事記で記載が異なる。
日本書紀:
日本武尊は上総から移り、陸奥国に入る。
時に大きな鏡を王船に掛けて、海路から葦浦に回った。さらに横の玉浦を渡って蝦夷の国の境に至った。
蝦夷の賊首の嶋津神と国津神たちが竹水門に集まって防ごうとする。
しかし遠くに王船を見て、その勢いに怖気づき勝てないと思い、ことごとく弓矢を捨て、遠くを見て
拝んでから「仰ぎて君の御顔を見ると、人として優れておられる。もしや神か。御名を教えて下さい。」と言う。
これに、日本武尊は「私は現人神の御子である。」と返答した。
ここに蝦夷たちがことごとく畏まって、すぐに着物をかかげ、波を分けて王船を手伝って岸につけた。
そして自ら縛って従った。それで罪を許された。よってその首帥を捕虜として従わせた。
蝦夷を平定し、日高見国から戻って、西南の常陸を通って甲斐国に着いて酒折宮におられた。
時に火を灯して食事をした。
この夜、御歌で周りに付き従う者に聞いて申されるには、新治筑波を過ぎて幾夜か寝つるほとんどの付き従う者は答えることが出来なかった。
時に火を灯す者がいた。王の御歌の後に続けて、歌詠みして申すには
日日並べて夜には九夜日には十日を火を灯す者の賢さを褒められて、厚く褒美を与えた。
そしてこのお宮にいるときに靫部を、大伴連の祖先武日に賜えた。
ここに日本武尊が申されるには
「蝦夷の悪い首長どもを、ことごとく罪し服した。ただ信濃国、越国だけがいまだに朝廷に従わない。」
と申された。そして甲斐より北の武蔵、上野を巡って、西の碓日坂に到った。
時に日本武尊はいつも弟橘媛を偲ばれる気持ちがあった。
それで碓日嶺に登って、東南の方を見て、三度嘆いて申されるには「我が妻よ」と叫ばれた。
よって山の東の国々を名付けて吾嬬国という。
ここに手分けをして吉備武彦を越国に遣わせて、その国の様子、また人民が従うか否かを調べさせた。

古事記:
さらに道の奥に入り、荒ぶる蝦夷たちを退治し、山河の荒ぶる神たちを平らげて、都に還る時、足柄の坂本で食事をした。
その時坂の神が白い鹿に姿を変えて、側にやって来た。
そこで飯の残りの蒜の切れ端で打ったところ、目に当たって死んだ。
その後坂の上に登り、嘆いて「吾妻はや」と言った。
そこでその国を「あづま」と言うのである。
その国を越えて甲斐に出た。
そこで酒折宮にしばらく滞在し、歌って「新治、筑波を過ぎて、幾夜寝たことだろう」。
するとたき火の番をしていた老人が歌を継いで、「全部合わせると夜は九夜、昼は十日になります」と歌った。
それが当意即妙だったので老人を賞め、東国の国造に任命した。

三歎:歎は嘆く。三は3回ではなく、数回という意味あいで用いられる。何度か嘆いたという意味。
古事記では、アズマを「阿豆麻」として記述している。
この記述は、万葉集にも「於能豆麻(おのづま)」と記述がある。
書紀では「吾嬬者耶」と書いて「嬬は『つま』と読む」と注がある。
万葉集の歌の意味から、於能豆麻→己が妻という口語訳になる。

稲村神社 茨城県常陸太田市天神林町3228
景行天皇40年日本武尊東征の際この地に天神七代の霊を祭る
津神社 茨城県多賀郡十王町伊師805-1
日本武尊御東征の時、石浦に上陸、土賊征討の際赤見台に祠を建て戦勝を祈誓したと云う。
佐波波地祇神社 茨城県北茨城市大津町1532
日本武尊命御東征の砌、大津の沖皇浦に於て逆浪に漂い給うこと数旬、一夜白衣の神人、雲龍に乗って枕頭に立ち給ひ「我佐波波神なり、今皇子の御船を守護せんが為来れり、直に順風にさせん」と、夢さめれば果たして其の言の如くなる。早速使を奉幣、報賽の誠をささげられたといふ。
温泉神社 福島県いわき市常磐湯本町三凾322
日本武尊当地進駐の折、大和国現在奈良県三輪大社の主神、大物主大神「大巳貴命」が合祀されて、以来二神が郷民によって祀れた。
益多嶺神社 福島県相馬郡小高町大井字宮前144
第十二代景行天皇の御代、日本武尊東夷平定の際、出雲太社より御分霊を勧請された神社で、昔から甲子大国社と尊称される。
多珂神社 福島県原町市高字城ノ内112
景行天皇の40年7月日本書紀皇子日本武尊東夷征伐の勅命を奉じ、陸奥に下り各地に転戦し給い軍を太田川のほとりに進められ戦勝祈願のために大明神川原(大明神橋の名も今に残る)の近く玉形山に神殿を創建し給ふ。
鹿島御子神社 福島県相馬郡鹿島町鹿島字町199
第12代景行天皇の御宇(西暦917)日本武尊命御東征の時此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり。
佐倍乃神社 宮城県名取市愛島笠島字西台2
祭神は猿田彦大神と天鈿女命で、景行天皇40年の日本武尊御東征の時から、毎年4月20日を祭日としている。
配志和神社 岩手県一関市山目字舘56番地
十二代景行天皇のとき皇子日本武尊詔を奉じて軍を率い遠く道の奥に入り蝦夷の地にいたる。進んで営を此の地、中津郷の山要峰に移し(神社地内)その嶺頂に登り賊を平治せんことを祈り自ら矛を収め三神を鎮斎し東奥鎮護の神として祠を建て、火石輪と称した。今の配志和神社である。
三峯神社 岩手県胆沢郡衣川村大字下衣川字松下64番地
日本武尊東夷を征討し給ふ時武州三峯山に登り給ひ古昔伊弉諾尊伊弉冉尊、天の浮橋の上に立せ給ひ天の逆鉾を以て豊葦原の国を平け賜ひし神威の徳功を仰いで諾冉二尊を奉祀し夷賊鎮撫の大業を成就し給ふ
駒形神社 岩手県胆沢郡金ケ崎町大字西根字雛子沢8番地2
第十二代景行天皇40年、日本武尊東夷征討の折、当地駒ヶ嶽山頂に国土安寧と民心安定を祈念し、奥州鎮護の神として勧請し給う
吾勝神社 岩手県一関市萩荘字芦ノ口286番地
日本武尊東夷征伐の折、吾勝大神を祀る。
駒形根神社 宮城県栗原郡花山村字本沢北ノ前5-2
日本武尊御東征の折、大日・尊(おおひるめのみこと)外五柱の主神に祈願創建
駒形根神社 宮城県栗原郡栗駒町沼倉字一の宮7
『日本武尊御東征の折、大日・尊(おおひるめのみこと)外五柱の主神に祈願創建

 (帰路へ)

大高山神社 宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬字神山1
日本武尊が夷賊征伐の際、この地に仮に宮を建てて住んだので、その跡地に白鳥大明神として日本武尊を奉祭した。
須川南宮諏訪神社 福島県福島市伏拝字清水内34
御鎮座伝記に「日本武尊、御東征の砌り、此地を御通過せらるるや、山川の勝景を瞻望し、将来人民の棲息に適し、拓殖の業、大いに興すべき地相を以て、常に尊敬する、武御名方神(諏訪大明神)を鎮祭す。」と。
都々古別神社 福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場39
人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊が東奥鎮撫の折、関東奥羽の味耜高彦根命を地主神として、都々古山(現在西白河郡表郷村。一名を建鉾山と称す。)に鉾を建て御親祭せられたのが創始であり、古代祭祀場たる磐境である事が立証されている。
加波山神社 茨城県新治郡八郷町大塚3398
人皇第十二第景行天皇の朝、日本武尊当山に登り御神託により詞を建て三神を祭
羽梨山神社 茨城県西茨城郡岩間町大字岩間上郷3161
昔日本武尊東征途に磐麻に到りて陣を布く。適々兵卒渇し且つ飢ゆ、時に一片の山果を持てる老翁及び老媼あらわれ、その山果によってこの難を救はる。尊は何人なるやを尋ねしに「磐筒男・磐筒女」なりと、尊凱旋の後この地に到り朝日丘にこの神を祀り、羽々矢二筋及び果実を供し、前年の恩に報賽す
磯部稲村神社 茨城県西茨城郡岩瀬町磯部779
創建は人皇第十二代景行天皇40年10月、日本武尊伊勢神宮荒祭宮礒宮を移祀す、

栃木県/高椅神社の伝承
日本武尊が御東征の折、現在の白旗丘(当社北方約1粁)に御旗を立てられ、国常立尊、天鏡尊、天萬尊の三柱の神を勧請して戦勝を祈願されたのが起源であると伝えられる。
千葉県/柴崎神社の伝承
日本武尊が征途の安全を祈り、武運長久を祈願。
吾嬬神社 東京都墨田区立花1-1-15
抑当社御神木楠は昔時日本武尊、東夷征伐の御時相模の國に御進向上総の國に到り給はんと御舟に召されたるに海中にて暴風しきりに起り来て御舟危ふかりしに御后橘媛命海神の心を知りて御身を海底に沈め給ひしかば忽海上おだやかになりぬれ共御舟を着くべき方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思議にも西の方に一つの嶋忽然と現到る御舟をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひてあゝ吾妻戀しと宣ひしに俄かに東風吹き来たりて橘媛命の御召物海上に浮び磯辺にたゞ奇らせ給ひしかば尊大きに喜ばせ給ひ。橘媛命の御召物を則此浮洲に納め築山をきづき瑞離を結び御廟となし此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ。海上海中の守護神たり尊神こゝに食し給ひし楠の御箸を以て末代天下平安ならんには此箸2本ともに栄ふべしと宣ひて御手自ら御廟の東の方にさゝせ給ひしに此御箸忽ち根枝を生じし処葉茂り相生の男木女木となれり。
根津神社 東京都文京区根津1-28-9
日本武尊が東国平定の折に、武運を祈って千駄木の地に創祀したと伝えられる古社
天祖神社 東京都文京区本駒込3-40-1
駒込 日本武尊、高きより味方の勢を御覧じて、扨も駒込みたりと宣しより名付し也。根津の縁起の中に見えたり。
江戸時代以降/
亀戸浅間神社 東京都江東区亀戸9-15-7
往古日本武尊東夷御征討の折暴風に遭はれその時皇妃弟橘比売命は海に身を投じまして尊の御難を救い給ふ。尊は深く此のことを哀悼せられ此の地に御陵を作る。弟橘比売命の御笄と御櫛の内、御笄が此の辺り高貝洲(笄洲・現9丁目)に漂着いたしたとあり此れを御聞きなされた十二代景行天皇大層愁いて、ここに祠を立てて祀る。
鷲神社 東京都台東区千束3-18-7 (元は長国寺領内鷲宮の事。)
日本武尊が東夷征討の時、戦勝を祈願し、お帰りの時、社前の松に熊手をかけて戦勝を祝い、奉賽(お礼参り)されたという伝承。その日がたまたま11月酉の日であったので、その日を神祭の日(神様をお祭りしておなぐさめする日)と定めたのが鷲神社例祭であり、一般にいわれる酉の祭。(鷲神社 東京都台東区千束): 長国寺は寛永七年(1630年)に開山されており、江戸時代以前、台東区の大部分は入江であったため、現地に神社はない。
鳥越神社 東京都台東区鳥越2-4-1
鳥越神社は景行天皇(人皇十二代)の皇子。日本武尊が東夷を御征伐の御時に、この所へ暫く御駐在遊ばされた。土地の人々はそのご徳を慕い尊び奉り、白鳥神社(明神さま)をその地へお祀り申し上げた。(鳥越神社 東京都台東区鳥越):鳥越神社は、白雉2年(651年)に創建されている。元は白鳥神社(白鳥宮)という名称であったと伝わっている。鷲宮はおそらく白鳥宮の分社と推定される。白鳥神社が創建された当時は鳥越山があり、東側に広く海があったが、1051年の頃、海の海抜は現在の状態まで近くなってきており、遠く対岸(現在の千葉県もしくは茨城県)が見える大きな川と広い浅瀬が続いていた事が推定される。北側(浅草寺の西側か?)にあった姫ヶ池は、江戸時代以降埋め立てられ、現在においてその跡は見受けられない。
五條天神社 東京都台東区上野公園4-17
第十二代景行天皇の御代、日本武尊が東夷征伐の為、上野忍が岡をお通りになられた時、薬祖神二柱の大神に御加護を頂いた事を感謝なされて、此の地に両神をおまつりされましたのが当社の御創祀であります (五條天神社 東京都台東区上野公園)
尾崎神社 埼玉県川越市笠幡1280
日本武尊御東征の折、奥州地へ追討に向われし時、秩父山脈の枝郷つゞきと称すべき終先の高台地で立ち寄りし地に尾崎の宮と称しお祀りしたと伝へられております。
堀兼神社 埼玉県狭山市掘兼2221
堀兼神社由緒 社伝によれば、日本武尊が東国平定の際、当地に来て、水がなく住民が苦しんでいるのを見て、水を得ようとして富嶽を遥かに拝し、井を掘らせ、水を得ることができたので浅間神社を祭った、と創祀の起源を伝えている。
野々宮神社 埼玉県狭山市北入曽276
日本武尊が東北の蝦夷征伐の帰途、当地に立ち寄り、水を得るため堀難の井を掘らせたという。日本武尊の死後、彼の叔母・倭姫命の一族が、この地に来て土地を拓き、社殿を建立して日本武尊並びに倭姫命を祀ったのが始まりと伝えられる。
広瀬神社 埼玉県狭山市上広瀬1612
遠く景行天皇の御代、日本武尊命東夷を征討の折り、当地が大和国川合の地に酷似せりと称し親ら幣帛を奉り、広瀬の神を斎き祀り武運長久国家安泰を祈誓せられしより創始せりと言う。
我野神社 埼玉県飯能市吾野226-1
人皇第12代景行天皇の御宇40年庚戌の年、日本武尊東夷征伐の為当地をご通行の折、祖神天之御中主神を勧請して此地に祀られたのが、我野神社の始めと伝えられている。
出雲祝神社 埼玉県入間市宮寺1
人皇第十二代・景行天皇の御代、日本武尊が東夷征伐に当たられた時、当地においでになり、天稲日命、天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波比神社と崇敬せられた社で、今からおよそ2000年も前に建てられた神社です。
神明宮 東京都杉並区阿佐谷北1-25-5
日本武尊が東征の帰途阿佐谷の地で休息し、のちに尊の武功を慕った村人が旧社地(お伊勢の森と称した現阿佐谷北51-35)に一社を建て、伊勢神宮を勧請したのが当宮の始まりといわれております。
御霊神社 東京都新宿区中井2-29-16
景行天皇の40年日本武尊は諸族を討夷し皇威を東国に伸展された時、常陸鹿島神宮の神孫達もこれに従い、遠境までも国土を鎮撫された。この拡大された地域の一部が当地で神孫の一族が統治支配した。
氷川神社 東京都渋谷区東2-5-6
景行天皇の御代の皇子日本武尊東征のとき、当地に素盞鳴尊を勧請
氷川神社 東京都港区白金2-1-7
景行天皇の御代(1880年前)関東の経国を命ぜられた日本武尊は日夜その使命の達成に苦心しておられたが、素盞鳴尊を崇敬される尊は、日々この丘に上がって武蔵野国一宮(埼玉県氷川神社)を遙拝され、その御加護を熱心にお祈りになられた。お陰によってめでたく東国を平定されたことが求涼雑記に見える。
大鳥神社 東京都目黒区下目黒3-1-2
日本武尊は、東夷征討の折、当社(大鳥神社)に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の傷目の直らん事をお願いなされたところ、首尾よく東夷を平定し、部下の傷目も直って、再び剣を持って働く事が出来るようになったので、当社を盲神(めくらがみ)と称え、手近に持って居られた十握剣(とつかのつるぎ)を当社に献って神恩に感謝されました。この剣を天武雲剣と申します。(現在当社の社宝となっております。)
雉子神社 東京都品川区東五反田1-2-33
御祭神日本武尊は景行天皇四十年、神禮ありと社傳にあります。
寄木神社 東京都品川区東品川1-35-8
日本武尊東夷御征伐の砌、相模國の海中にて南風烈しく吹き、御船覆らんとする時、弟橘姫命は御船救わんとし、海中の怒りを鎮めようとして御入水せられ、其の砌、当浦へ船木流れ寄り、其の所に神霊を勧請したと謂う。
潮田神社 神奈川県横浜市鶴見区潮田町3-131-1
人皇十二代景行天皇40年の御代、日本武尊が東征の途中、相模から海上を上総へ向かわれた時、征途の安全、御守護を祈願して、海岸老松のうっそうとした潮田の地に小祠を奉斎したことに由来すると伝えられています。
杉山神社 神奈川県横浜市港北区新羽町2576
景行天皇の御代40年、東方十二国御平定の折、日本武尊、此の地方を御通過され、尊崩御の後、村民其の御徳を慕い奉りて祠を造り奉斎したと云う。
皇武神社 神奈川県相模原市淵野辺本町4-20-11
第十二代景行天皇の第三皇子日本武尊、勅命により御東征の砌りこの地を御通りになり、その折相模にて聚雨に逢われ、沼辺の小野姓と称する人家に立ち寄った時、この甕で造った酒を奉持したと申し伝えている。
石楯尾神社 神奈川県津久井郡藤野町佐野川3448
第十二代景行天皇の庚戊40年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである。

 (甲斐国)

牛倉神社 山梨県北都留郡上野原町上野原1602
日本武尊東征の際随従して一属共に此大宮を出て転ず。後に倉庫の趾に神社を奉建す。故に大宮と称し或はウシ倉の社と称す。
諏訪八幡神社 山梨県南都留郡西桂町小沼
人皇第十二代景行天皇41年(西暦111)日本武尊東夷御平定御帰路の途上富士山を遥拝された時 諏訪大神を東国開拓国家鎮護の祖神 地方の守護神として創祀せられ科野(信濃)国諏訪朝臣禰範公を大祝部として奉仕せしめた ()
北口本宮冨士浅間神社 山梨県富士吉田市上吉田
景行天皇四〇年日本武尊が東征のおり、当地御通過、親しく大塚丘に立って富士山の神霊を遥拝され大鳥居を建て、御山は北方より拝せよと祠を建ててまつったのが、始まりといわれている。()
稲村神社 山梨県大月市笹子町黒野田740
御神体は球状の天然石及び船形の石であるが、それはかって、日本武尊御東征の帰路この地に御休憩され、里人尊の御功績を称え慕い、海路の御困苦を偲び奉るとして、この御神体を求め祀ると伝えらる。嘉暦・天文・慶安・享保・寛政の棟札あり、明治6年村社となる。
美和神社 山梨県東八代郡御坂町二之宮1450
本神社は景行天皇の御宇日本武尊により甲斐国造塩海足尼が大和の大三輪神社から勧請した古社である。
酒折宮 山梨県甲府市酒折3-1-13
人皇第二十代景行天皇御代40年、皇子日本武尊、東夷の賊徒を平定し、御帰還の途次常陸国より武蔵国を経て相模国足柄御坂を越えて甲斐の国に入り此の地酒折の宮に御駐輦せられ給いし事は古事記・日本書紀に記述されている。尊、御着宮(おつき)の夜、宴を開き群臣共の旅愁を慰む。宴中ばにして、尊過ぎ来し事ども思召されて「新治筑波を過ぎて幾夜かねつる」と詠じ、旅の程を問い給いしにお答へ申す者がなかった。その時傍で庭燎を焚く老翁、庭前に進み「かゞなべて夜には九夜日には十日を」と続け奉りしにより、尊、厚くその聡を賞した。この歌をもって我国連歌の濫觴なりと云う。石碑は古天神前にある。尊はしばらく御滞在になり国内を巡視なされ、やがて信濃国に向はせ給う時、塩海足尼(しおのみのすくね)を召して「汝は此の国を開き益を起し、民人を育せ、吾行末こゝに御霊を留め鎮まり坐すべし」と宣り給いて「火打嚢(ひうちぶくろ)」を授け給えり。ここにいう「火打嚢」は。尊が御東征に向かわれるとき、伊勢の皇大神宮に御参拝の折、同宮の祭主であり、叔母君の倭比売命から「草薙剣」と共に賜られしもので途中駿河国で、国造(くにのみやつこ)に欺かれて野原に火を放たれ火攻めに遭われたが、剣で草を薙ぎ撥い、嚢の口を解き開き、向え火打って難を免れたものという。塩海足尼謹みて御命を奉戴し、後に社殿を建て「火打嚢」を御神体として鎮祭すこれ本宮の起源なり。古来、古天神と敬称し、御旧蹟は本社より4、5丁を距れたる山腹にあり.
熊野神社 山梨県甲府市朝気1-11-1
景行天皇の御宇皇子日本武尊御東征の砌、酒折宮に御仮泊、翌朝この地に煙の立ち上がるを御覧あって、御来駕、邑人は歓び迎えて朝餉を献る故にこの地を「朝気」と名付く。爾
諏訪神社 山梨県北巨摩郡長坂町塚川2439
当神社は日本武尊御東征の折、信濃の国から建御名方神を勧請し武運を祈念されたと伝えられ、古くは松宮諏訪明神と称した。
建岡神社 山梨県北巨摩郡長坂町大八田6822
当神社は日本武尊が天津神を祀り建岡と称したといわれ、後に黒源太清光公が諏訪明神を配祀した。
伊勢大神社 山梨県北巨摩郡高根町村山東割960
日本武尊御東征の時当國を通路あり小丘に後休憩里人に天照大神の霊代を賜りて立ち去りたり。里人此の処に宮を造り安置す。境内に樹齢壱7・8百年を経た御神木あり、町の天然記念物に指定さる。現在の神楽殿は昭和58年に改築されたものである。
建部神社 山梨県北巨摩郡高根町箕輪1364
日本武尊 誉田別名 建御名方命 往古は日本武尊が東国遠征の折、当社東南方にある御手洗池にて身を清めこの地に神々を祀ったのが始まりと伝えられる。この池で旱魃の時は住民が雨乞の行事を行った。
船形神社 山梨県北巨摩郡高根町長沢2606
昔、日本武尊御東征のみぎり酒折の宮より科野国、国坂の神に事向け給う時この地に奉幣した。今尚社辺に口を漱いだ泉があり。
神部神社 山梨県北巨摩郡須玉町小尾3805
日本武尊が東征の折り、東小尾で湯治し当社前を通り猛獣、毒蛇、叛賊を退治して東征に向かった。
大嶽山那賀都神社 山梨県東山梨郡三富村上釜口617
畏くも人皇十二代景行天皇御代、皇子日本武尊東夷御征定の砌、甲武信の国境を越えさせ給ふ時、靄霧四呎を弁せず岩室に山営を張り三神に祈念を凝らし給ひし時、神宣ありて皇子の向ふべき路を示し給ふ、依って武尊神恩奉謝の印として岩室に佩剣を留め給ひ以て三神を斎き給ふ、爾来大嶽山奥の古院として代々剣を立てて三神を奉斎せり。

景行天皇42年/112年 : 壬子

古代ローマの文人、政治家「小プリニウス」の異名をもつガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスが死去。

???年

日本武尊、甲斐から信濃へ進む。

●日本書紀と古事記で記載が異なる。
日本書紀:
そして日本武尊が信濃に入られた。
この国は山が高く、谷が深い。青い岳が幾重も重なっている。人、杖を使っても登り難い。
岩は険しく、架け橋を廻って、高い岳が数千、馬は進まなかった。
しかるに日本武尊は煙を分け、霧を凌いで、遥かな大山を渡ってゆかれた。
既に峰に到ったところで、お疲れになられた。山の中で食事をされた。
山の神が王を苦しめようとして、白い鹿となって王の前に立たれた。
王は怪しまれて、一つのニンニクを白い鹿に投げつけた。目に当てて殺した。
ここに、王はたちまち道に迷って、出ていくところが分からなくなった。
時に白い犬がやってきて、王を導く様子であった。犬について行くと、美濃に出ることが出来た。
吉備武彦が越国から出てきて合流した。それまで信濃坂を越える者は、多くが神の気にやられて病んでしまっていた。
ただ白い鹿を殺したまわれた以降、この山を越える者はニンニクをかんで人と牛馬に塗った。
日本武尊だけは自然と神の気に当たらなかった。

古事記:
その国から科野の国に越え、科野の坂の神を退治した。
---
甲斐国から、上野原、信濃へ向かった。
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●日本書紀と古事記で記載が異なる。

日本書紀:
日本武尊は尾張に戻ってきて、尾張氏の娘宮簀媛と結婚され、しばらく留まって月日が過ぎた。
ここに近江の五十葺山に荒ぶる神がいると聞いて、剣を解いて宮簀媛の家に置いて、素手で出て行かれた。

古事記:
尾張へと帰り着いた。
そこで以前約束を交わしていた美夜受比賣の家に入った。
美夜受比賣は、大御饌を奉るため、大きな盃を献げて奉った。
ところが、その時美夜受比賣の着物の裾に、月経の血が着いていた。
倭建命はそれを見て、歌って
「天香具山の、鋭い鎌に触れようとする細い切り株のように、細くたおやかなあなたの腕を、枕にしようと思ったが、共に寝ようと思ったが、あなたの着ている着物の裾に、月が立ったよ」。
そこで美夜受比賣が答えて
「高光る日の御子、私の大君、次々に新しい年が来て過ぎて行くと、そのたびにもっとたくさんの新しい月が来ては過ぎて行くのです。そうです、そうです。あなたを待ちかねて(じっとしていられず)、私の着ている着物の裾にも、月が立ったのですよ」。
そこで婚姻した。
彼はその身に着けていた草那藝の剣を美夜受比賣のところに置いて、伊服岐山の神を退治しに出かけた。

景行天皇43年/113年 : 癸丑

日本武尊、滋賀県一宮建部大社伝では三二歳に亡くなったとされている。熊襲討伐から換算しても景行天皇即位43年に一致。
トラヤヌスのフォルムにトラヤヌスの記念柱が建設される。

???年

日本書紀:
胆吹山までくると、山の神が大蛇になって道をふさいでいた。
ここに日本武尊は神が蛇なっているのに気付かず申されるには「この大蛇は、きっと荒ぶる神の使いだろう。その神を殺すことが出来れば、この使いをなぜ求める必要があるだろうか。」と申された。
そして蛇をまたいで、さらに進んでいった。時の山の神は雲をおこして雹を降らせた。
峰に霧が出て、谷は暗くなり、進む道がわからなくなった。さまよい、踏むところもわからない。
それでも霧を凌いで無理に進んだ。なんとか抜け出すことができた。なお惑うような気持ちは、酔っているようであった。
それで山の下の泉のほとりで、その水を飲んで目が醒めた。それでその泉を名付けて居醒泉という。
古事記:
倭建命は「この山の神は、素手で退治してやろう」と言い、山に登って行くと、白い猪がいた。大きさは牛ほどもある。
そこで言挙げして「この白い猪の姿をしているのは、きっと山の神の使いだろう。今殺さなくても、帰り道で殺してやろう」と言ってさらに登って行った。
ところが急に激しい氷雨が降ってきて、倭建命は惑わされ、進めなくなってしまった。
<実はこの白猪の姿をしたものは、山の神の使者でなく、その神自身だった。それを言挙げしたため、惑わされることになったのだ。>
仕方なく引き返したが、玉倉部の清水があって、そこで一休みしたところ、やや元気を取り戻した。それでその和泉を居寤の清泉と言う。
日本書紀: 日本武尊はここではじめて、体調が悪くなった。そうしてようやく立ち上がり、尾張に帰られた。
ここに宮簀媛の家には戻らず、伊勢に移って尾津にやってきた。
昔日本武尊が東国に出発した年、尾津浜で休んで食事をした。この時に、一つの剣をほどいて松の下に置かれた。それをつい忘れて出発された。
今ここに至るに、この剣がなおあった。それで歌って言うには「尾張に直に向へる一つ松あはれ一つ松ひとにありせば衣著せましを太刀佩けましを」能褒野にまでやっきて、体調はますますひどくなった。
そして捕虜にした蝦夷たちを神宮に献上した。
また吉備武彦を遣わせて、天皇に奏上して申されるには 「私はご命令を帝より受け賜って、遠く東の夷を討ちました。そして神の恩をいただき、天皇の威勢を借りて、背く者が罪に従い、荒ぶる神は自ら従ってきました。これをもって、鎧を脱ぎ、矛をおさめて、戦が済んだので戻ってきました。いずれの日にか、いずれの時にか帝に復命しようとしてまいりました。しかし、寿命がたちまちやってきてしまい、余命いくばくもありません。それで一人曠野で伏せています。誰にも語る事はありません。なぜ身が滅びることに惜しいでしょうか。ただ愁うのは天皇に仕える事ができないことのみです。」
と申された。
能褒野で崩御された。時に年三十歳。

天皇がこれを聞いて、寝ても席についても落ち着かなかった。食事をしても味が分からなかった。
昼も夜も嗚咽して、泣き叫び、胸をうって悲しんだ。大いに嘆いて申されるには「我が子小碓王は昔熊襲が背いた日は、まだ総角もまだだったのに、長く戦いに煩い、近くにいては私の不足を補ってくれていた。東の夷が騒ぎだしても、討ちに行く者がいなかった。かわいいが、それを忍んで、賊の国に行かせた。一日として思い出さなかったことはない。朝晩にうろうろして、帰る日を今か今かと待っていた。何の禍だ、何の罪だ、思いかけずに我が子が死んでしまうとは。今後、誰と共に皇位を治めようか。」と申された。
そして卿たちに詔し百寮たちに命じて伊勢国の能褒野陵に葬られた。

時に日本武尊は白鳥となられて、陵から出ていき倭国に向かって飛んでいった。
臣たちがその棺を開いてみると、服だけが残り屍がなかった。
そこで使いを遣わせて白鳥を追い求めさせた。そして倭の琴弾原に降りた。その所に陵を造った。
白鳥がまた飛んでいき河内に到り旧市邑に留まった。またその所にも陵を造った。それで時の人は、この三つの陵を名付けて白鳥陵といった。
そうしてついに高く飛んで天に昇った。この三つの陵には、ただ服と冠を納めた。
よってその名を残すために武部を定めた。この歳、天皇が即位して四十三年である。
古事記:
そこから出発して、當藝野のあたりに到った時、
「私の心は、これまでは大空を翔り行くように思っていた。だが今、私の足は前へ進まない。當藝斯(たぎし)のような形になってしまった」と言った。
それでそこを當藝と言う。
そこからやや進んだが、たいへん疲れを覚えたので、杖を突いて少しずつ歩いた。それでそこを杖衝坂と言う。
尾津の前の一つ松のところに到った。以前ここで食事したことがあり、そこに刀を忘れたことがある。それが失くならずに、まだ残っていた。
そこで歌って、「尾張に、直に向き合っている尾津の前の一つ松よ。あせを。一つ松が人ならば、刀を佩かせてやるのに、着物を着せてやるのに。一つ松、あせを」
そこからさらに進んで三重村に到った時、また「私の足は三重に曲がって、ひどく疲れた」と言った。それでそこを三重と言う。

そこからさらに進んで、能煩野にたどりついた。そこで故国を偲んで歌った。
「大和は、国のまほろば。たたなづく、青垣山籠もれる、大和し麗し」。
また歌って「命の、全(また)けん人は、たたみこも(重畳する)、平群の山の、熊白檮の葉を、うず(髻)に挿せ、その子」。この歌は国偲び歌である。
また歌って、「はしけやし、我が家の方より、雲居立ち来も」、この歌は片歌である。
この時、病が急に重くなり、歌って「乙女の、床の辺に、我が置きし、剣刀。その刀はや」。歌い終わると同時に崩じた。
そこで京に駅馬を送った。

倭にいた(倭建命の)后たちや子供たちがやって来て、御陵を作り、その周囲の田に腹這いになって泣き、歌った。
「御陵を取り巻く田の稲幹に、稲幹に、這い回る、野老の蔓よ」
このとき、(倭建命は)八尋もある白い千鳥になって飛び立ち、浜に向かって飛んで行った。
その后たちや御子たちは、地面の笹の切り株に足が傷ついても、その痛みも忘れて、泣く泣く(鳥の)後を追った。
このときの歌は「浅小竹の原に、腰まで草に埋もれ、空は飛べないから、足で行くことだ」。
また海に入って、水に浸かりながら行くときの歌は、「海を行けば、腰まで水に浸かり、大河原に植わっている草のように、海はいざよう」。
また飛んでしばらくそこの磯にいた時に歌った歌は、「浜の千鳥、浜を行かず、磯伝いに行くよ」。
この四首の歌は、その葬礼の時に歌ったものである。だから今も天皇の大葬の礼で歌われている。
その国から飛び翔って、河内国の志幾に留まった。そこに御陵を作って鎮まらせようとした。
その名を白鳥の御陵という。しかしそこから更に飛び立ち、天空高く飛び去って行った。

この倭建命が国を平定に行った時は、いつも久米の直の遠祖、七拳脛が膳夫としてそばに仕えていた。

この倭建命が伊玖米天皇(垂仁)の娘、布多遲能伊理毘賣命を妻として生んだ子は、帶中津日子命である。
<一柱>またあの海に入って死んだ弟橘比賣命を妻として生んだ子は、若建王である。
<一柱>また近淡海の安國造の祖、意富多牟和氣の娘、布多遲比賣を娶って生んだ子は、稻依別王である。
<一柱>また吉備臣建日子の妹、大吉備建比賣を娶って生んだ子は建貝兒王である。
<一柱>また山代の玖玖麻毛理比賣を娶って生んだ子は、足鏡別王である。
<一柱>またある妻の生んだ子は息長田別王である。
倭建命の子は全部で六人いた。
帶中津日子命は、後に天下を治めた。
次に稻依別王は、<犬上君、建部君らの祖である。>
次に建貝兒王は、<讚岐綾君、伊勢之別、登袁之別、麻佐首、宮首之別らの祖である。>
足鏡別王は、<鎌倉之別、小津(君)、石代之別、漁田之別の祖である。>
次に息長田別王の子は杙俣長日子王である。この王の子は飯野眞黒比賣命、次に息長眞若中比賣、次に弟比賣。<三柱だった。>

古事記の中では、日本武尊を偲ぶ四首の歌を、古事記成立期に執り行われていた「大葬の礼」でも歌われているとある。

日本武尊が、東征の帰路にて、尾張国に戻る。日高山で草薙剣を置いていく。(熱田神宮創建の由来となる)
尾津浪に戻ってくる。この時、松の下に置き忘れていた剣がそのまま残されていた。(三重県桑名市尾津神社の御由緒:この縁由より日本武尊とその御子である足鏡別王(始祖)を祀ったと伝えられている。)
能褒野(のぼの:現、三重県亀山市田村町)に到着すると、吉備津武彦を遣わして俘囚の蝦夷を伊勢神宮に献上する。その後能褒野にて日本武尊が死去。
白鳥となって倭国の琴弾原、河内の旧市邑へ飛んでいく。

『古事記』内の先項に「この倭建命が伊玖米天皇(垂仁)の娘、布多遲能伊理毘賣命を妻として生んだ子は、帶中津日子命である。」と記載があり、113年に日本武尊が死去する以前に生まれている筈である。

垂仁天皇44年/114年 : 甲寅

後漢/元初に改元。
ローマ皇帝トラヤヌスのパルティアに遠征( - 117年)。属州アルメニアを獲得。
アルメニアの王パルサマシリスが死去(別説あり)。

垂仁天皇45年/115年 : 乙卯

ローマ皇帝トラヤヌスが属州メソポタミアを獲得。

景行天皇46年/116年/アスス暦833年 : 丙辰

後のローマ教皇シクストゥス1世が生まれる(別説あり)。
3月3日、後のローマ教皇アレクサンデル1世が生まれる(別説あり)。
ローマ皇帝トラヤヌスが属州アッシリアを獲得。

景行天皇47年/117年 : 丁巳

倭国(現在の日本)にて、諸国での争いが発生する。当時、比較的交流の盛んであった中国の書籍には、様々な国名が登場する。
倭国、邪馬台国、奴国、句奈国、伊都国、筑紫国など、100余りあったと記録されている。
ローマ帝国のトラヤヌスがパルティアに遠征し、ローマが最大版図となる。
8月9日、属州キリキアのセレヌスにてローマ皇帝トラヤヌスが死去。
8月10日、ローマ帝国皇帝ハドリアヌスが即位。
先帝の獲得した東方属州(アルメニア・メソポタミア・アッシリア)を放棄。

景行天皇48年/118年 : 戊午

高句麗/6月。宮(太祖大王)は、穢貊とともに後漢の玄菟郡を襲う。
ローマ/ ティヴォリのヴィッラ・アドリアーナの建設がはじまる。

景行天皇50年/120年 : 庚申

後漢/永寧に改元。

景行天皇51年/121年 : 辛酉

大和/稚足彦尊と武内宿禰が宴会に参加しなかった。景行天皇がその理由を聞き、稚足彦尊(後の成務天皇)を皇太子に立太子する。
4月26日、ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスが生まれる。(『自省録』著者)
ローマ帝国のハドリアヌス帝が朝日を見るためにエトナ山を登頂した。
後漢/
後漢の宦官(紙の製法を発明した人物)、蔡倫が死去。

景行天皇52年/122年 : 壬戌

大碓尊の奥津城がある猿投神社(愛知県豊田市猿投町鷲取)の社伝によれば、大碓命は美濃に封じられてのち当地方の開拓に尽くしたが、この年において猿投山に登る途中、蛇毒にあたり死去したと伝う。42歳にして死去。
高句麗/宮(太祖大王)が、馬韓や穢貊とともに玄菟・遼東に攻め入ったが、扶余王が漢軍を助けたために敗退を余儀なくされる。
後漢/延光に改元。
ハドリアヌスの長城が着工される。

景行天皇53年/123年 : 癸亥

大和/景行天皇が日本武尊追慕のため伊勢から東国へ巡幸。
10月、景行天皇は上総国・淡水門に到着する。
12月、景行天皇が東国から帰り、伊勢の綺宮に滞在。

景行天皇54年/124年 : 甲子

大和/9月、景行天皇、伊勢から纒向宮に帰京。
再建されたパンテオンが完成する。

景行天皇55年/125年 : 乙丑

景行天皇の叔父にあたる豊城命の子の彦狭島王を東山道十五国の都督とした。
大和/2月、彦狹嶋王は、任地に向かう途上の春日の穴咋村で死去。遺体は盗まれて上野国に葬られる。
ローマ/テレスフォルスがローマ教皇になる

景行天皇56年/126年/アスス暦843年 : 丙寅

大直根子命(オオタタネコノミコト)により、ヲシテ文字で記載された「ホツマツタヱ」の編纂が完了し、宮中に献上される。
後漢/永建に改元。
大和/8月、御諸別王(彦狹嶋王の子)が東国の都督となり、蝦夷を征伐する。
ローマ/8月1日、後のローマ皇帝ペルティナクスが生まれる。

景行天皇57年/127年 : 丁卯

大和/景行天皇が坂手池を作る。田部屯倉を起こす。
世界規模で大洪水が発生。
後漢/後漢末期の学者、鄭玄が生まれる。
日本/ずっと雨が降り続くという最大規模の災害が発生。過去数千年の中で最大規模の降雨量。

景行天皇58年/128年 : 戊辰

大和/景行天皇、近江国の志賀高穴穂宮に行幸。
百済/己婁王が死去。蓋婁王が即位。

景行天皇60年/130年 : 庚午

大和/第12代景行天皇が志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)にて崩御(11月7日)。
歴史は不明だが、成務天皇が131年に即位している事から算出。
インド/クシャーナ王朝でカニシカ王(ガニシュカ大帝)が即位。(別説あり)
カニシカ王の統治期間には諸説あるが、近年発見された「ラバータク碑文」によりその系譜は確定された。カニシカ王即位とほぼ同時期に作成されたのが「カニシカ王の舎利容器(ペシャーワル博物館蔵)」。 ローマ/12月15日、後にマルクス・アウレリウス・アントニヌスと共に統治した共同皇帝ルキウス・ウェルスが生まれる。

131年 : 辛未

大和/成務天皇が即位。(1月5日)
都を志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)現在の滋賀県大津市穴太に遷都する。125年9月、行政区画として国・郡(こおり)・県(あがた)・邑(むら)を定め、国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)・稲置(いなぎ)などを任命するなど国家の体制を整備した。在位60年、190年6月に崩御。崩年は107歳。
ローマ皇帝ハドリアヌスがサルウィウス・ユリアヌスに命じ法典『永久告示録』を編纂させる。

132年 : 壬申

高句麗/宮(太祖大王)が、後漢の幽州刺史の馮煥、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡諷らが侵攻してきたので、王弟の遂成(すいせい、スソン。後の次大王)を派遣して迎撃させ、却って玄菟・遼東を攻めて捕虜二千を得るなどして領土を拡張。
後漢/陽嘉に改元。張衡が地震計を発明
後漢末期の官僚、書家である蔡そんが生まれる。
ユダヤ/バル・コクバの乱が発生

133年 : 癸酉

ローマ/1月30日、後のローマ皇帝ディディウス・ユリアヌスが生まれる。

134年 : 甲戌

新羅/祇摩王が死去。逸聖王が即位。

135年 : 乙亥

ローマ/ローマ帝国がユダヤ人の蜂起を鎮圧。
エルサレムは「アエリア・カピトリナ」と名前を変えられ、ユダヤ人の立ち入りが禁止される(ディアスポラ)。
ウェヌスとローマ神殿が完成する。

136年 : 丙子

ローマ/ローマ教皇テレスフォルスが死去。(別説あり)
後漢/永和に改元。

137年 : 丁丑

後漢/後漢末期の政治家、王允が生まれる。

138年 : 戊寅

ローマ/
7月10日、ローマ皇帝ハドリアヌスが死去。
7月11日、第15代ローマ帝国皇帝アントニヌス・ピウスが即位。

139年 : 己卯

ローマ/ハドリアヌスの霊廟「サンタンジェロ城」が完成。

140年 : 庚辰

インド/クシャーナ王朝でカニシカ王(ガニシュカ大帝)が即位。(別説あり)
後漢/後漢の天文学者、劉洪が生まれる。
ローマ/ローマ帝国の政治家ペスケンニウス・ニゲルが生まれる。
アルサケス朝パルティアの王ミトラダテス4世が死去。

141年 : 辛巳

作家、ビュブロスのフィロンが死去。

142年 : 壬午

後漢/漢安に改元。
アントニヌスの長城が着工される。

144年 : 甲申

後漢/建康に改元。

145年 : 乙酉

後漢/永憙に改元。

146年 : 丙戌

大和/後漢書によれば、桓帝と霊帝の間、倭国大乱とある。時期にして146年-189年の期間。
帯中日子皇子が生まれる。後の仲哀天皇。
『日本書紀』によると景行天皇皇子である日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)である。
『古事記』内の先項にも「この倭建命が伊玖米天皇(垂仁)の娘、布多遲能伊理毘賣命を妻として生んだ子は、帶中津日子命である。」と記載。
日本武尊が死去して32年の歳月がすぎているため、歴史的には矛盾が生じている事になる。
※※※※
ただし、日本武尊と布多遲能伊理毘賣命の間に生まれた御子がもし、ヤマトタケルの御名を継いでいた場合は、全体像が符号する。
この可能性があるのは『日本書紀』『古事記』がともに、語り部から聞いた話を編纂している点に起因する。
ヤマトタケルから生まれた御子は帯中日子皇子にあたり、日本武尊の孫ともなる。この点は現在調査中。
※※※※
ローマ/4月11日、後のローマ皇帝セプティミウス・セウェルスが生まれる。
高句麗/
8月。宮(太祖大王)は、遼東郡西安平県を攻め、帯方県の令を殺し楽浪太守の妻子を奪い取る。
12月。王弟である遂成に異心のあることを見抜いた高福章らは王に遂成を誅殺することをすすめたが、王はこれを聞かず、遂成に王位を譲り、引退してしまった。
遂成は次大王となって直ちに高福章を処刑し、側近であった奸臣を取り立てて高位につけた。
さらに太祖大王の嫡子の莫勤(ぼきん、モゴン)を殺させ、これを聞いた莫勤の弟の莫徳(ぼとく、モドク)は自ら縊死した。
次大王が即位する。
後漢/本初に改元。

147年 : 丁亥

大和/倭国大乱が発生。
弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。中国の複数の史書に記述が見られる。倭国の地域は特定されていないが、列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。
女王国ではもともと男子を王としていたが70~80年を経て倭国が相争う状況となった。争乱は長く続いたが、邪馬台国の一人の女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という。以上の内容が、中国の歴史書『三国志』(魏志倭人伝)や中国の正史『後漢書』「東夷伝」に記述されている。
倭国大乱については、189年ごろまでの約40年間という期間まであった事が見受けられる。成務天皇の国家の体制を整備した上での事?
大和/足仲彦尊(後の仲哀天皇)が生まれる。
足仲彦尊の父は日本武尊、母は両道入姫命であると『日本書紀』では伝えている。(?)
日本武尊の歿年は113年とされているため、34年のずれを発端に諸説がある。
『古事記』によれば、日本武尊と布多遲能伊理毘賣命の間に生まれたのは、帶中津日子命という記載がある。
『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」とある。
帯中日津子天皇が崩御したと記述している。
後漢/建和に改元。

148年 : 戊子

パルティア出身の仏教僧安世高が後漢の洛陽に来訪。

150年:庚寅

後漢/和平に改元。

次の年代:
西暦150年〜西暦200年