前の年代:
西暦100年〜150年

西暦150年 〜 西暦200年

大和では大きな内乱が起こるが、そのほとんどは知られていない。中華では漢が衰退し、三国時代を迎える

成務天皇21年/151年 : 辛卯

後漢/元嘉に改元。
後漢・魏の政治家、書家となる鍾ヨウが生まれる。

成務天皇22年/152年 : 壬辰

後漢(元嘉2年)/
桓帝は皇后である女瑩ではなく、他の妃嬪を寵愛するようになった。女瑩は嫉妬し、妊娠した妃嬪をみな死に追いやった。結局、女瑩は桓帝の信頼も寵愛も失った。

成務天皇23年/153年 : 癸巳

後漢/永興に改元。

成務天皇24年/154年 : 甲午

新羅/逸聖王が死去。阿達羅王が即位。

成務天皇25年/155年 : 乙未

後漢/永寿に改元。
後漢末期の英雄にして魏の建国者、曹操孟徳が生まれる。
幼名は、阿瞞また吉利。廟号は太祖。謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。父は曹嵩。曹嵩は夏侯氏であったが中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継いだ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)。曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが疑わしい。また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は高祖劉邦の武将夏侯嬰とされている。魏将、夏侯惇、夏侯淵とは従兄弟にあたる。
月旦で有名な後漢・三国時代の人物批評家許劭(許子将)は、曹操のことを「治世の能臣、乱世の奸雄」(「子治世之能臣亂世之姦雄」『魏志武帝紀』)、もしくは「治世の奸臣、乱世の英雄」(「君清平之姦賊亂世之英雄」『後漢書許劭伝』)と評した。
演義では、「爪黄飛電」・「絶影」を愛馬とし、対となす宝剣「倚天の剣」・「青紅の剣」を作らせる(「絶影」は正史の注である魏書にも記述があり、絶影とは影もとどめぬという意味)。
祖父・曹騰は後漢の順帝の時から桓帝まで四代の皇帝に宦官として仕え、大長秋まで昇っており、それなりの財を築いていた。父・曹嵩はその金で太尉の地位を手に入れた。
若い頃の曹操は、機知と権謀術数には富んでいたが、気ままで勝手し放題、品行方正という言葉からは程遠い存在だった。このような曹操の行状は、当時の品行を重んじるという風潮からは疎まれ、曹操を評価する人は、橋玄と何?の2人を除いて、天下にただ一人もいなかったとまでいわれる。
曹操が生まれた頃の後漢朝は、皇帝に接近する事で権力を握った宦官と、それを憎む清流派と呼ばれる士大夫達の間で激しい権力闘争が繰り広げられていた。この戦いは常に宦官が有利であったが、この後、そのような状況を一変させる出来事が次々と発生する。
後漢末期の英雄、孫堅文台が生まれる。
三国時代に成立した呉の皇帝である孫権の父。廟号は始祖。諡は武烈皇帝。家系は孫氏。
董卓との戦いの際、秦の始皇帝が皇帝の印のみに用いるように定めた「玉璽」を入手した事により、「三国志演義」では英雄譚において、曹操、劉備、そして孫堅の名が連ねられる。

成務天皇26年/156年 : 丙申

鮮卑の檀石槐が北匈奴を破り、モンゴル高原を統一する。
北匈奴が滅亡する。

成務天皇28年/158年:戊戌

後漢/延熹に改元。
この頃、宦官による政権掌握に不満を抱いた外戚・豪族勢力は、宦官を儒教的に穢れた存在として対抗。宦官を濁流、自らを清流と称しての政争が始まる。

成務天皇29年/159年:己亥

河南尹李膺が宦官の犯罪を摘発しようとしたところ、逆に投獄される事件を契機に、宦官勢力は豪族たちを党人、徒党を組んで政治を乱す者と見做し弾圧を行った。李膺は後に許されて司隷校尉となり、宦官を恐れず摘発したことで名声を高める。
後漢の桓帝の命令で外戚の梁冀が誅殺される。
桓帝の皇后である梁女瑩も憂憤のうちに崩じた。「懿献」と諡され、懿陵に葬られた。

成務天皇30年/160年:庚子

※※※

成務天皇31年/161年:辛丑

ローマ/
3月7日、第15代ローマ帝国皇帝アントニヌス・ピウスが死去。
3月8日、第16代ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスが即位。
8月31日、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの子にして後の第17代ローマ皇帝コンモドゥスが生まれる。
パルティア/
パルティアの傘下にあったアルメニアの王ティグラネス7世が死去。
ローマが、新たなアルメニア王としてソハエムスを擁立した。これによりローマとパルティアは緊迫したものとなり、ヴォロガセス4世は軍を率いてアルメニアとシリアを攻撃する。パルティアはローマ軍を破ってシリアを占領するとともに、アルメニア王ソハエムスを追放してアウレリアス・パコルスをアルメニア王とした。
後漢/
後漢末の英雄にして蜀の初代皇帝、劉備玄徳が生まれる。
黄巾の乱以後の混乱の中で関羽・張飛などを従えて頭角をあらわし、諸葛亮の補佐を得て蜀を建国した。
『三国志』中の伝では、諡号の昭烈帝ではなく、先主と呼ばれている。(二代目劉禅は後主)これは『三国志』が正統としているのは魏であるので、正統ではない劉備を皇帝としては認めないゆえである。ただし『三国志』の著者陳寿は蜀の遺臣であったので、呉の歴代皇帝が「呉主権」などと諱をそのまま使っているのに比べて、敬意を表されている。子に後継者の劉禅の他、劉永・劉理がいる。また、劉封を養子にしていた。
劉備は自ら前漢第六代皇帝景帝の子・中山靖王劉勝の末裔と主張していた。劉勝は劉貞を初め、孫も含めて120人以上の子を残しており、劉備の直接の祖とされる劉貞は、紀元前112年年始あたりに涿郡陸成県の侯としての漢朝への上納金がなかったために、叔父の武帝の逆鱗に触れてしまい、侯の地位を取り上げられそのまま涿郡に住居していたという。そのため系図もそこで止まっており、劉備との系図の繋がりを確認することは出来ない。
その一方で当時の後漢では、前漢以来の歴代皇帝の末裔に関しては幅広い税の減免が認められていたため、一般の住民が勝手に劉姓を名乗る事は困難であったとも言われており、単純に劉備の主張を嘘と決め付ける事も出来ない。
また中山王の末裔は中山国を初め、幽州涿郡や常山郡などに拡がっていたと思われる。仮に劉備が中山王の末裔だとしても、あまり価値はなく劉備同様に没落して庶民同様に零落した家は珍しくなかったと思われる。
なお、『三国志演義』では献帝の前で、劉貞から劉雄までの間の13代を読み上げられるシーンが書かれているがもちろん創作である。
涿(たく)郡涿県(現河北省保定市涿州市)の出身で、祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり最終的には東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備が若い頃に死んだために劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生活していた。
劉備は背が七尺五寸(172.5cm)身体的な特徴として腕が膝に届くまであり、耳が非常に大きく自分の耳を見ることが出来たと言う。
15歳の時に叔父の劉元起の援助で廬植の下で学問を学ぶようになる。この時の同窓に公孫瓚がおり、大変仲が良く、劉備は公孫瓚に対して兄事していた。
しかし劉備はあまり真面目な学生ではなく、勉学よりも、乗馬や闘犬を好み、仲間達の中でも見栄えがある服装で身を包んだ。男伊達を気取り豪侠と好んで交わりを結び、劉備の周囲には人が集まるようになった。中山の豪商張世平・蘇双とは馬を商って諸国を回っていたが、劉備を見て只者ではないと思い、大金を与えた。劉備はこの金で人数を集めてその頭目となっていた。

成務天皇32年/162年:壬寅

マルコマンニ戦争が起こる(〜180年)。
ローマ/
パルティアがシリアとアルメニアを占領した事から、ローマ皇帝ルキウス・ウェルスの指揮の下でローマ軍は反撃を開始。

成務天皇33年/163年:癸卯

ローマ/
ローマ軍がアルメニアを占領する。アウレリアス・パコルスは廃位され再びソハエムスがアルメニア王に即位した。
ローマ軍は更にバビロニア方面への侵攻を行う。

成務天皇34年/164年:乙巳

12月、桓帝が、外戚に当たる侍中寇栄の度重なる諌言に激怒して、幽州刺史張敬に勅命を発してこれを処刑させる。

成務天皇35年/165年:乙巳

高句麗/3月、太祖大王は失意の中119歳でその生涯に幕を閉じたという。
新大王が即位する。
パルティア/
ローマ軍によって首都クテシフォンが占領される。
その直後、ローマ軍の内部で天然痘が発生し撤退に追い込まれた。このためヴォロガセス4世は失地を回復する。

成務天皇36年/166年:丙午

後漢/党錮の禁が起こり、宦官が儒学派の官僚を弾圧する。
後漢の訓詁学者、馬融が死去。
ベトナム/日南(ベトナム・ユエ)に大秦王安敦(ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使者が到着。この使節は、このあと、後漢に入朝した。
百済/蓋婁王が死去。肖古王が即位する。
パルティア/
ローマ軍が再び侵攻を開始。メディア近辺まで進軍する。ヴォロガセス4世はメソポタミア西部を割譲して講和した。

成務天皇37年/167年:丁未

後漢/永康に改元。
陳蕃と共に幹部官僚予備軍たる太学(大学)の学生たちの支援を受け両者は宦官への糾弾に対し、宦官たちはこれに大規模な弾圧で対抗する。党錮の禁がおこる。
党錮の禁で逮捕された人数は200人に及び、逮捕者は無罪とされた後も免職され以後の仕官の道が閉ざされた。この処置は清流派の強い不満の原因となり、清流派の代表である李膺・陳蕃の名声はますます高くなった。桓帝崩御後には陳蕃による宦官誅滅作戦が行われたが失敗、再び宦官たちによる弾圧(第二次党錮の禁)が実施され、清流派と宦官の対立がますます深まることになる。
宦官の専横が後の黄巾の乱の要因となり、豪族と宦官の対立が黄巾後の戦乱の時代を生むことになった。桓帝の時代には後漢の滅亡の要因となる清濁の争いの原因が形成された時代である。

成務天皇38年/168年:戊申

後漢/建寧に改元。
霊帝が、桓帝の皇后の竇妙、大将軍竇武、太尉(後に太傅)陳蕃らにより擁立された。
地方に暮らす貴族であったが、実際は貴族とは名ばかりの貧困にあえぐ生活を送っていたという。族父にあたる先帝の桓帝(劉志)には男子がなく、同じ河間王家出身であったことから擁立された。

成務天皇39年/169年:己酉

後漢で第二次党錮の禁が起こる。
後漢末から三国時代の武将、張遼が生まれる。
竇武と陳蕃らによる宦官排斥が計画される。しかし、これは事前に露見して宦官らの逆襲を受け、桓帝時代の外戚やそれに味方した陳蕃、李膺などの士大夫は排除され、曹節や侯覧、王甫といった宦官が権力を掌握した。その後も清流派を自称する士人たちは宦官とそれに連なる人々を濁流と呼び抵抗したが、党錮の禁により弾圧された。

成務天皇40年/170年:庚戌

ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスの妻、カラカラ、ゲタの母親となるユリア・ドムナが生まれる。

成務天皇41年/171年:辛亥

※※※

成務天皇42年/172年:壬子

大和/気長足姫尊(後の神功皇后)が生まれる。
後漢/熹平に改元。
王甫によって、侯覧が罪を得て自害に追い込まれた。
王甫は勃海王の劉悝を自殺に追い込むなど権勢を振るう。

成務天皇43年/173年::癸丑

三国史記/新羅本紀によれば、倭の女王卑弥呼が新羅に使者を派遣した、とある。

成務天皇44年/174年:甲寅

※※※

成務天皇45年/175年:乙卯

後漢(熹平4年)/
霊帝は学問を重んじ、儒学の経典を正す目的で、群臣達の勧めにより、熹平石経を作成した。
呉の武将、周瑜が生まれる。
許昌による反乱鎮圧を急ぐため呉郡からも援軍を出すことになり、呉郡司馬に任命された孫堅は1000人余りの新たに募集し得た精兵を率いて討伐軍に加わった。
11月、臧旻は陳夤・孫堅らと反乱軍を打ち破り、許昌と許昭父子を捕らえ処刑した。ここに許昌の乱は鎮圧された。 鎮圧後、臧旻は孫堅の功績を報告し、孫堅は塩瀆県丞となった。

成務天皇46年/176年:丙辰

後漢(熹平5年)/
この党錮の禁の対象者は党人の一族郎党まで拡大された。
羌や鮮卑といった異民族の侵攻が活発となり、天候の不順が重なり地方での反乱もたびたび勃発した。張奐や段熲、皇甫規といった将軍達はそれらの鎮圧に奔走したが、そうした中でも霊帝本人は宮殿内で商人のまねをしたり、酒と女に溺れて朝政に関心を示さず、政治の実権はやがて張譲や趙忠ら十常侍と呼ばれる宦官らに専断されることとなった。

成務天皇47年/177年:丁巳

後漢(熹平6年)/
霊帝が書画に優れた者を集め、鴻都門学といった学問を興した。熹平石経の作成に尽力した蔡邕は鴻都門学には批判的でこれに諫言したが、霊帝は聞き入れなかった。
鮮卑、漢軍を破る。
後漢末の文学者・学者・政治家となる王粲が生まれる。
後漢末から三国時代の武将となる潘璋が生まれる。
後漢末の武将、孫堅の甥となる孫瑜が生まれる。
後漢末の武将となる霍峻が生まれる。
五斗米道の2代目教主、張衡が死去。
ローマの属州ガリアのルグドゥヌム(現リヨン)でキリスト教迫害が起きる。

成務天皇48年/178年:戊午

大和/成務天皇が足仲彦尊を立太子(成務天皇48年年目)。足仲彦尊はこの時31歳。
後漢/光和に改元。

成務天皇49年/179年:己未

後漢(光和2年)/
王甫が陽球に弾劾されて死罪となった。
後漢/魏の武将、西晋の建国者となる司馬懿が生まれる。
高句麗/新大王が死去、故国川王が即位。

成務天皇50年/180年:庚申

大和/
大国主尊(大己貴尊)が、日本建国の祖の一人、素佐之男尊スサノオノミコトの末子相続人の須世理姫スセリヒメの養子となる。
(※ここで私用される命名は、役職のようなもの。)
三輪山の北西麓一帯に纒向遺跡が出現(纒向1類)。創建は、180年〜210年頃と推定されている。
ローマ/
3月14日、ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスがウィンドボナで死去。。五賢帝時代が終わる。
3月17日、長男コンモドゥス、ローマ帝国に即位する。
パルティア/
コンモドゥスがローマ帝国皇帝になった事を皮切りに、ヴォロガセス4世は進行を開始。アルメニアを占領してソハエムスを追放、自らアルメニア王となった。

成務天皇51年/181年:辛酉

後漢(光和4年)/
宦官の大物である曹節は反撃に転じ、陽球や陳球などを讒言により葬り、天寿をまっとうした。
後漢最後の皇帝、献帝が生まれる。
諸葛亮孔明、生まれる。後の蜀の丞相。
司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀の建国者である劉備の創業を助け、その子である二代目劉禅を丞相としてよく補佐した。
伏竜、臥竜とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。
妻は黄夫人。子には蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻、同母兄に呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪や同母弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、従父(叔父)に豫章太守の諸葛玄。一族には、魏に仕えた諸葛誕・諸葛緒・諸葛璋・諸葛原(景春)らがいる。彼の孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。子孫たちは諸葛八卦村という村に今も生き続けている。
琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが出生地は不明。身長は、8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)もあった。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉(首都圏長官)の諸葛豊で、父は諸葛珪。泰山郡の丞(郡の副長官)を勤めた人だが、孔明が幼い時に死去している。正母の章氏も同様に幼い時に死去しているが父の諸葛珪が妻の死去後に後妻の宋氏を娶っている。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均がいる。他に妹がいる。『呉志』「諸葛瑾伝」の注釈に「諸葛氏は元は葛氏であったが、陽都に移り住んだ際に現地に既に葛氏がいたために諸葛氏と呼ばれるようになった。」という話を載せている。

まだ幼い頃徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時期に起こった曹操による徐州での大虐殺が原因かとも考えられる。後に呉の重臣となる兄の諸葛瑾と継母の宋氏はこの頃に別れたと思われる。
この時の行き先については『三国志』の内、陳寿の本文では従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷から朱皓(朱儁の子)が豫章太守として送られて来て、その後劉表の元に身を寄せたとなっている。
これに対して裴松之注に「『献帝春秋』曰く」と言い、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので、劉表が代わりに諸葛玄を任命し、朝廷からは病死した周術の代わりに朱皓を送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが途中で民衆の反乱に逢い、首にされて劉繇に送られたとなっている。
諸葛玄が敗れた後に劉表を頼るのだから最初から劉表の元にいたと考えるのが自然ではあるが、豫章は現在の江西省南昌であり、劉表の根拠地である荊州襄陽(湖北省襄樊)からはかなり遠く、そこの太守を劉表が任命したとするのは無理がある。何故、敗れた後に袁術を頼らなかったのかと言えば、その時に既に袁術が滅んでいたか、或いは滅びかかっていたからであろう。即ちこの出来事の年代は袁術が皇帝を僭称した197年以降の事と考えられる。

成務天皇52年/182年:壬戌

後漢末の英雄にして呉の初代皇帝、孫権孫権仲が産まれる。
『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」とある。
帯中日津子天皇が崩御したと記述している。一説では帯中日津子天皇は仲哀天皇の事だとされているが、その場合、生まれた年は「130年」という事になる。

成務天皇53年/183年:癸亥

※※※

成務天皇54年/184年:甲子

後漢/中平に改元。(張曼成、神上元年とした。)
黄巾の乱が起こる。
太平道の教祖にして黄巾の乱の指導者、大賢良師張角が死去。
変わって、張曼成が指導者となる。張曼成は、自ら元号を「神上元年」と言った。
何進は大将軍となり、近衛兵を率いて首都の洛陽を守備し、兵器を修繕し軍備を整えたり、密偵の馬元義を捕らえる功績を挙げ、慎侯に封じられた。また皇甫嵩・朱儁・盧植・董卓らの働きにより、黄巾の乱も鎮圧された。しかし、これにより中原(漢の国全体を指す言葉)全域において内乱が発生。三国志時代の始まりとされている。
曹操孟徳は、黄巾の乱が起こると騎都尉として潁川での討伐戦に向かい、皇甫嵩や朱儁とともに黄巾軍に大勝し、その功績によって済南の相に任命された。済南では汚職官吏の罷免、淫祠邪教を禁止することによって平穏な統治を実現し、後に東郡太守に任命された。しかし、赴任を拒否し、病気を理由に故郷に帰った。若くして隠遁生活を送ることになった曹操だが、その間も文武の鍛錬を怠ることはなかったという。
劉備玄徳は、関羽・張飛・簡雍・田豫らと共に義勇軍を結成し、校尉の鄒靖に従って、その名を挙げた。その功により中山国安熹県の尉に任命された。しかし、郡の督郵(監察官の職)が公務で安熹にやって来た際に面会を断られたのに腹を立ててそのまま押し入ると、縛りあげて杖で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した。
孫堅文台は、太平道の張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦、家族を九江の郡治寿春県に残した。黄巾の渠帥波才撃破に一役買っている。朱儁が汝南・潁川と転戦すると、孫堅もそれに従い軍功をあげていった。宛城の攻略においては、孫堅自ら先頭に立って城壁を登り、西南方面の官軍の指揮を執り大勝利を収めている[4]。この功績により、別部司馬となった。
※大賢良師張角は、記録上「死去」となっているが、定かではない。それは、張角が仙道を修めていた事に由来する。当時は、仙道・道教・儒教・仏教それぞれが、中国全土で広がっており、現代人の哲学や信仰の類ではなく、主に呪巫に特化した超自然的な力によった概念であった。
大和/
倭国乱れ、互いに攻伐しあい(倭国大乱)、長い間盟主なし、と伝える。(『魏志』倭人伝)
この後、卑弥呼が共立されて、王となる。(『魏志』倭人伝)
ここでいわれる卑弥呼については、諸説あり。「日霊女」という発音だけが、「卑弥呼」となったのであれば、役職としての説も考えられる。
「中平□年」の紀年銘を持つ大刀出土する(奈良県天理市東大寺山古墳)。中平は、184?189。ただし、日本の元号ではなく後漢の元号。
新羅(辰韓?)/
阿達羅王が死去。伐休王が即位。

成務天皇55年/185年:乙丑

後漢(中平2年)/
ケンタウルス座付近に超新星(SN 185)出現。『後漢書』に記載あり。

成務天皇56年/186年:丙寅

ローマ/
4月4日、後のローマ皇帝カラカラが生まれる。
後漢(中平3年)/
孫堅は、昇進すると同時に涼州で辺章と韓遂が起こした反乱の鎮圧に向かう。当初、反乱鎮圧には中郎将の董卓があたっていたが、情勢は芳しくなかった。そこで董卓に代わり、司空の張温(後漢書董卓伝では、朝廷復以司空張溫為車騎將軍,假節…としている)が指揮を執り、孫堅はその参軍として従軍した。董卓の度々の軍規違反に立腹した孫堅は、董卓を処刑するように張温に進言するが、涼州での行動に際して董卓の力が必要と見ていた張温に退けられている。後日、董卓はこの事をいずこからか漏れ聞いて、張温と孫堅を深く憎むようになった。
後漢の討伐軍の大軍が来ると聞いた辺章・韓遂軍は、恐れをなして散りぢりになり、辺章と韓遂は降伏し、孫堅は議郎となった。
孫堅は荊州南部で起こった区星の反乱鎮圧の命を受け、長沙に太守として赴任して、様々な計略を用いて、この反乱を鎮圧した。区星の反乱を援助していた零陵や桂陽の二郡にも進出して、反乱を鎮圧した。この時、廬江太守陸康の従子は宜春長であり、賊に攻められて孫堅に遣使して救援を求めた。孫堅が兵を整えて救援しようとしたところ、主簿が進みでて諫めた。孫堅は 「太守には文徳が無く、征伐を功としてきた。郡界を越えて攻討し、異国を全うするのだ。これによって罪を獲たとて、どうして海内に媿(は)じようか?」と答え、かくして兵を進めて往って救い、賊はこれを聞くと退走した。この功績により孫堅は烏程侯に封じられた。

???年:

あるとき、大将軍の何進が都尉の毌丘毅を丹陽郡に派遣した。劉備は毌丘毅の従事として従軍して下邳に向かい、敵軍と戦い、軍功を残し下密県の丞に任じられたが、短期間で官職を辞した。後に、高唐県の尉となり昇進して県令となった。

成務天皇57年/187年:丁卯

後漢(中平4年)/
後の魏の初代皇帝となる曹操の長子、曹丕が生まれる。

成務天皇58年/188年:戊辰

後漢(中平5年)/
霊帝が西園八校尉の設置などの軍制改革を行う。また、劉焉の勧めにより州牧制を復活させた。
これは、黄巾の乱平定に功のあった者が選ばれた西園八校尉に任命された。霊帝自身は無上将軍と称し、さらに上軍校尉に寵愛する宦官の蹇碩を据えて、司隷校尉以下を総領する権限を与えた。この総領の対象には、大将軍である何進自身も含まれていた。霊帝の後継を巡り劉弁・劉協が争うことになると、それぞれを支持する皇后何氏と霊帝の母董氏の間で激しい対立があった。蹇碩が董重と組み劉協を支持したが、中軍校尉の袁紹は何進と積極的に結びついて蹇碩らに対抗した。
曹操は、故郷にいるとき、王芬・許攸・周旌らによる霊帝廃位のクーデター計画に誘われるが、伊尹・霍光、呉楚七国の乱を例に挙げて参加を断った。

成務天皇59年/189年:己巳

倭国/
70〜80年にかけて、諸国が大にに乱れていたが、卑弥呼が邪馬台国の女王/倭国王に就くことで収まる事になった。以後、卑弥呼は240年代に亡くなった次に男子が倭国王となったが再び内乱が生じ、女子の臺與/壹與(台与参照)が倭国王となって乱は終結した。このように、弥生後半の倭国では、巫女的な女子が王位に就くことがたびたび発声する事になる。
『三国志』魏書東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝には邪馬台国をはじめ、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、黒歯国などの諸国についてかなり詳細な記述がみられる。邪馬臺國王卑弥呼も北朝である魏の国に朝貢し親魏倭王の称号を授かった。
台与以後、しばらく倭国による中国北朝 王朝への朝貢の記録は途絶えていた。国造本紀によれば120以上の国造が日本列島の各地に任命され地域国家が形成されていた。そのなかで、古墳時代4世紀前半までには連合し成立したとされるヤマト王権の王たちは対外的に「倭王」「倭国王」を称したが、初期のヤマト王権は地域国家の諸豪族の連合政権であり、専制王権や王朝ではなかった。地域国家の王たちが、対外的に倭国王と称したこともあったと思われる。
4世紀後期ごろからは東晋など南朝への朝貢がみられるようになり、この南朝への朝貢は5世紀末頃まで断続的に行われた。これが『宋書』に記された「倭の五王」であり、讃、珍、済、興、武という5人の王が知られる。
後漢書によれば、倭国の記載に「一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。とある。

後漢/
霊帝が死去し、少帝が即位。
4月、霊帝が崩御する。蹇碩は霊帝から劉協を後継とするよう、遺詔を与えられたという。蹇碩は霊帝が崩御した後、董重と組んで何進の誅殺を企てたが、司馬の潘隠が何進と親しく、計画を密告したため失敗した。
5月、劉弁(少帝-後漢13代皇帝)が即位し、劉協は勃海王に封じられた。十常侍の趙忠を初めとする宦官の主流派は蹇碩を見捨て、何進に与した。その結果、ついに蹇碩ならびに董氏一党は排除された。
6月、董太后が河間に戻され死去した。
7月、陳留王に移封される。
当時、朝廷では外戚であった何進の派閥と十常侍ら宦官の勢力が対立。それまで朝野に鬱積していた不満が爆発し、特に宦官が世論の批判を浴びるようになった。そのため何進は、蹇碩に殺されかけた怒りもあったため宦官の排除に乗り出し、袁紹ら幕僚たちを集めて積極的に諮ったが、何太后や継弟が宦官を擁護したため、何氏同士で対立が生じる構図になった。また、外戚である何氏との連携によって事態を乗り越えようと図っていた宦官にとっても想定外の事態であり、中常侍の張譲が何進を説得しようとしている。何進が争いに及び腰になると、袁紹は地方の諸将を都に呼び寄せ、太后らに圧力をかけることを提案した。しかし、これに盧植・陳琳・曹操らが反対した。再三の袁紹による催促の結果、何進はこれを容れ、王匡・橋瑁・鮑信・張楊・張遼・曹操に兵士や兵糧を集めさせると共に、丁原や董卓といった地方の将軍を呼び寄せた。また袁紹が大将軍の命であると偽って、各地に指令を出したこともあった。このように情勢が緊迫していたため、袁紹は何進に対して宮中に軽々しく入るべきではないと忠告していた。 8月、何進は無警戒に宮中に参内したところを、宦官の段珪・畢嵐が率いた兵によって取り囲まれ、張譲に罵倒されながら嘉徳殿の前で殺害された。張譲らは何進を殺害すると詔を偽造し、宦官らに親属していた少府の許相と太尉の樊陵を利用し、都の兵を握ろうとした。このとき命令を疑った尚書に対し、何進の首を見せて示したという。
しかし、何進が普段から部下に対して親しく接していたため、激怒した何進の部下たちの反攻に遭うことになった。また、何進は生前に宦官を粛清するために諸侯へ向けて上洛を呼びかける檄文を飛ばしていた。大義名分を何進の檄文が整えてくれている以上、都に上洛し、宦官を排除して天子を補佐することが、権力を握るための最短ルートとなったのである。
袁術は兵を挙げ、何進の部曲であった呉匡らとともに宮中に突入し、何太后の身柄を確保したが、少帝と陳留王(劉協)の身柄を宦官に奪われた。また、袁紹も叔父の袁隗ならびに盧植とともに、許相らを誘き出して斬り、何苗と協力して趙忠を捕らえ斬った。袁紹と袁術が宮殿を攻めて宦官を皆殺しにしたことで、宦官の時代は、こうしてここに終焉する。
董卓の独裁が始まる。
何進の檄文にいち早く反応した董卓が洛陽に上洛した。
宦官の反撃に遭い何進が殺され、袁紹らが宮中に突入し宦官殺害を実行する中、宦官の一人中常侍の段珪が少帝とその弟の陳留王劉協を連れ去る事件が起きた。段珪らは小平津まで逃げていたが、軍勢を率いた董卓に追撃され自殺、董卓は徒歩でさまよっていた少帝と陳留王を救出して洛陽に帰還した。董卓は二人と会話をしながら帰路についたが、この時劉弁は満足な会話さえ十分にできなかったのに対して、陳留王は乱の経緯など一連の事情を滞りなく話して見せたことから、陳留王の方が賢いと思ったという(『献帝紀』)。
董卓が洛陽に入った時は3000ほどの兵力しかなかったので、殺害された何進や何苗[8]の軍勢を吸収して軍事力で政権を手中におさめた。また、同じく何進に呼び寄せられた執金吾の丁原の軍士を取り込むべく、丁原の暗殺を企てた。丁原の部下には武勇の士として名高い呂布がおり、暗殺は失敗してしまうが、その呂布がまもなく董卓の誘いに乗り、丁原を殺害して董卓に帰順し、董卓は丁原の兵を吸収した。
董卓は曹操を仲間に引き入れようとするが、董卓の暴虐ぶりを見た曹操は妻子も連れずに洛陽から脱出し、故郷に逃げ帰った(その間卞夫人らは袁術に面倒を見られている)。 この時、曹操はその暗殺を図るが失敗した。
その後、曹操は私財を投じて陳留郡己吾において挙兵した。『世語』では陳留郡の孝廉である衛茲の援助を受けたとしている。とはいえ当初の仲間は夏侯惇や夏侯淵、曹洪や曹仁・曹純兄弟といった身内が中心であり、その勢力は小さなものにすぎなかった。
9月、洛陽で軍事力を持つ唯一の存在となった董卓は兵力を背景に袁紹らを封じ込め、天候不順を理由に司空の劉弘を免職させ、後任の司空となった。
10月、少帝の生母である何太后を脅して少帝を廃し弘農王とし、陳留王を皇帝とした(献帝)。その直後、何太后が霊帝の母である董太后を圧迫したことを問題にし、権力を剥奪した。董卓は何太后を永安宮に幽閉し、まもなく殺害した。これにより、事実上、後漢王朝が滅亡する。のちに弘農懐王として諡をされたため、実質的に皇帝とは認められなかったことになる。
董卓は太尉・領前将軍事となり、節を与えられると共に斧と鉞と虎賁兵を与えられ、郿侯に封じられた。 11月、董卓が相国となる。
朝廷で靴を履いたまま昇殿し、さらにゆっくり歩くことと帯剣を許された。さらに生母を池陽君にし家令・丞を設置することを許された。位人臣を極めた董卓は暴虐の限りを尽くし、洛陽の富豪を襲って金品を奪ったり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、董卓の兵が毎夜のごとく女官を凌辱したり悪道非道を重ねた。
董卓は名士を取り立てて政権の求心力としようとし、侍中の伍瓊、吏部尚書の周毖、尚書の鄭泰、長史の何顒らに人事を委ね、荀爽を司空、韓馥を冀州刺史、劉岱を兗州刺史、孔伷を豫州刺史、張咨を南陽太守、張邈を陳留太守に任命した。また、かつて宦官と敵対して殺害された陳蕃らの名誉を回復するなどの措置もとった。さらに、董卓に反発し洛陽より出奔した袁紹を追討せず、勃海太守に任命して懐柔しようと図った(『三国志』魏志「袁紹伝」)。
董卓と諸侯の軋轢は進み、董卓の専横に反発した袁紹・袁術などの有力者は東郡太守橋瑁によって詔勅が偽造され、各地の諸侯に連合を呼びかける檄文が飛ぶに至る。
ローマ/
3月7日、カラカラの弟にして共同皇帝プブリウス・セプティミウス・ゲタが生まれる。

成務天皇60年/190年:庚午

後漢/
初平に改元。(初平元年)
正月、袁紹・曹操ら関東の諸侯が董卓に反旗を翻す。
袁紹を中心として諸侯が董卓を討つべく挙兵した。
袁紹を盟主として反董卓連合軍が成立すると、曹操もまた父・曹嵩の援助を受け、親友である袁紹(曹操自身は袁紹を親友だとは思っていなかったという)のもとに駆けつけた。しかし、董卓打倒を目指して集結したはずの連合軍は、董卓の軍を目前にしながら毎日宴会行い、誰も積極的に攻めようとはしなかった。やがて諸侯はお互いを牽制し始める。
劉備は、公孫瓚の元へ身を寄せ、公孫瓚から別部司馬とされ、青州刺史の田楷と共に(とあるが、刺史の田楷と県令程度の劉備が共にというのはおかしい)袁紹軍と戦って戦功を上げたので、公孫瓚は劉備を仮に平原の県令(県長官)にして、その後(県副長官)とした。この頃に平原の地元の人間より刺客を送られるが、その刺客を刺客と知らず厚くもてなしたので刺客は劉備を殺すのが忍びなくなって、自らの任務を劉備に告げて帰ってしまった。
2月、袁隗ら在京の袁氏一門を誅殺するとともに、弘農王を毒殺した。さらに司徒の楊彪・太尉の黄琬・河南尹の朱儁らの反対を押し切って長安に強制的に遷都した。その際に洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れ、宮殿・民家を焼きはらった。また、袁紹らとの融和策をとっていた督軍校尉の周毖と城門校尉の伍瓊を殺害した。
反董卓連合軍は、自軍に損害が出ることを嫌う諸侯が董卓軍とまともに争わない一方で、曹操や孫堅が指揮を執る軍団は董卓軍とぶつかりあう事となった。董卓は洛陽に駐屯し、反董卓連合軍を迎え撃つ姿勢をとった。河陽津で陽動作戦を用いて泰山の精兵を率いる王匡を大いに破った。また徐栄を派遣して、滎陽汴水で曹操・鮑信らを大いに破り、梁県で孫堅を破った。
董卓が洛陽を焼き払い長安に遷都したので、曹操は盟主の袁紹に好機だと迫ったが攻撃命令は下されず、単独で董卓を攻撃した曹操の軍は、壊滅的な打撃を受ける(しかし、この無謀ともいえる突撃が評価されて、曹操の名前は全土に鳴り響いたといわれている)。曹操は連合に見切りを付け、故郷に戻って軍の再編を始めた。諸侯もまた撤退、兵力を保持したまま各地に散らばっていった。
事実上、この時点で後漢王朝の全土への支配力は完全に失われ、群雄割拠の時代となった。
孫堅もこれに応じて挙兵した。孫堅はまず、長沙から北上して荊州を通過した。この時、董卓への反意を表明していたものの、自らに対して日ごろから侮辱的な扱いをしてきた上司、荊州刺史王叡を殺害した。次に前進して南陽太守の張咨の元を訪れ、これも自分にとって禍になるとみて殺害した。さらに前進して魯陽の袁術に謁見したところ、袁術は上表して孫堅に破虜将軍代行、豫州刺史を領させた。
曹操軍が董卓配下の徐栄軍に敗れ、孫堅軍もやはり徐栄に敗れたが、曹操が兵を補充しに戦線を離れたのに対して、孫堅は袁術の支援もあって即座に再起し董卓軍に挑み続けた。
この間、兼ねてより折り合いの悪い皇甫嵩が軍勢を率いて関西方面にあったため、董卓は城門校尉に任命すると称して長安から皇甫嵩を召還して殺害しようとした。皇甫嵩が自立を勧める部下の反対を押し切り帰朝してきたため、董卓はさっそく皇甫嵩を逮捕投獄し、死刑にしようとしたが、皇甫嵩の子の皇甫堅寿が急遽洛陽に駆けつけ、董卓に必死に嘆願したため、董卓は皇甫嵩の軍権を剥奪するに留めた(『後漢書』「皇甫嵩伝」)。
ローマ/
セプティミウス・セウェルス、コンスルに就任。
パルティア/
オスロエス2世がメディア地方で反乱を起こし、王位を主張した。独自にコインを発行しはじめる。
大和/
7月30日、第13代天皇、成務天皇が死去。

191年:辛未

後漢/
曹操は黒山軍の反乱をきっかけに袁紹によって東郡太守に任命。この時期、曹操を慕って多くの勇将や策士が彼の下に集まった。この頃、曹操は胡毋班の遺族とともに王匡を殺害した。
袁紹は周喁を豫州刺史として派遣したので、孫堅と孫堅の主である袁術は周喁・周昂・周昕と豫州を奪い合うこととなった。これにより袁術と袁紹が対立することとなり、それぞれ群雄と盟約を結び対抗した。袁紹と同盟したのが曹操・劉表・周喁など、袁術と同盟したのが孫堅・公孫瓚・陶謙などである。袁紹は董卓により擁立された献帝に対抗すべく、劉虞の擁立を計画したが、袁術はこれに反対し、劉虞自身も皇帝になるのを拒否している。
陽人の戦いがおこる。
孫堅は敗残兵を集めて、梁県の陽人に駐屯した。董卓は大督護の胡軫・騎督の呂布を派遣して、陽人の孫堅を攻撃させた。しかし呂布と胡軫は仲が悪く、二人配下の兵士は慌てて逃げたが、孫堅は部隊を指揮して追撃し、呂布と胡軫を敗走させた。董卓は孫堅の勢いに恐れをなし、李傕を使者に立てて懐柔しようと計るが、孫堅はこれを断った。孫堅は出撃して大いに董卓を破り、董卓軍の都尉華雄を討ち取った。
4月、董卓は遷都を決断し、洛陽の町を焼き払って、長安へ逃れた。その際呂布は洛陽で孫堅と戦ったが、孫堅に再び敗れた。孫堅は洛陽に入った。董卓は陵墓を荒らして宝物を奪い取っていたが、孫堅は陵墓を修復し、暴かれた箇所を塞いでから、再び魯陽の袁術のもとに帰還した。(この時、孫堅は皇帝だけが持ち得る金印玉璽を回収し、袁術にわたしている可能性がある。袁術が皇帝を自称したのもこれに起因している説がある。)
董卓は長安に着くと太師と称し、董旻・董璜ら一族を皆朝廷の高官に就け、外出するときは天子と同様の青い蓋のついた車を乗り回すようになった。長安でも暴政を布き、銅貨の五銖銭を改鋳したために、貨幣価値が乱れた。長安近くの郿に長安城と同じ高さの城壁をもった城塞を築き(郿城・郿塢と言われる)、30年分の食糧を蓄えていたという。董卓の暴虐ぶりはあいかわらずで、逆らった捕虜は舌を抜かれ、目をえぐられ、熱湯の煮えた大鍋で苦しみながら殺された。捕虜の泣き叫ぶ声は天にこだましたが、董卓はそれをみて笑い、なお平然と酒を飲んでいたという。董卓に信任されていた蔡邕は董卓の暴政を諌めたが、一部を除きほぼ聞き入れられることはなかった。
董卓が太師に就任する儀式の際に、壇上に上る自分に皇甫嵩一人だけが頭を下げなかったことに気づき、董卓は「義真(皇甫嵩の字)、まだかな?」と改めて促し、皇甫嵩も果たして「これは失礼した」と従っていた。皇甫嵩があくまで遜り忍従する態度を貫いたため、董卓は皇甫嵩と和解したという(『山陽公載記』及び『漢紀』)。
また、かつての上司である張温を憎み、袁術に通じていたという理由で殺害した。董卓は大鴻臚の韓融、少府の陰脩、執金吾の胡毋班らを関東への使者として送ったが、袁術と王匡に韓融を除いてことごとく殺害されたという。
劉備は、敵軍に敗れて、昔なじみの中郎将・公孫瓚の元へ身を寄せ、公孫瓚から別部司馬に任じられ、青州刺史の田楷を助けて袁紹軍と戦った。そこで戦功を立てたので、公孫瓚の推薦により平原県の仮の令という地位を得、そののち平原国の相となった。劉備は賊の侵入を防ぎ、民に経済的な恩恵を与え、身分の低い士人を差別しなかったので、大勢の人々に心を寄せられた。
孫堅は豫州刺史であったが、袁紹は周喁を豫州刺史として派遣したので、孫堅と袁術は周喁・周昂・周昕と豫州を奪い合うこととなった。孫堅と袁術は周喁・周昕を敗走させた。これにより袁術と袁紹の対立は決定的となり、反董卓連合軍は事実上瓦解し、諸群雄は袁紹と袁術の争いを中心とした群雄割拠の様相を呈しだした。
長安遷都に反対した朱儁は中牟において挙兵し、献帝の奪還を狙っていた。董卓は袁紹の背後の幽州の劉虞や公孫瓚に官位や爵位を贈って袁紹への牽制とする一方で、娘婿の牛輔に李傕・郭汜・張済らを部下につけて関東に派遣した。牛輔らは中牟で朱儁を破り、兗州陳留郡・豫州潁川郡の諸県を攻略し、略奪・殺戮・誘拐を行った。
かねてより荀攸は議郎の鄭泰・何顒、侍中の种輯共に董卓を暗殺しようと計画したが、失敗した。鄭泰は逃亡し、荀攸と何顒は投獄された(『三国志』魏志「荀攸伝」)。
パルティア/
バビロニアでヴォロガセス5世が王位を宣言した。
その後、ヴォロガセス4世が死去。オスロエス2世の情報はなく、ヴォロガセス5世がアルサケス朝の王となる。
大和/
天皇空位の年。

仲哀天皇元年/192年:壬申

ベトナム/
日南郡の区連が蜂起し、独立して林邑(チャンパ王国)を建国。
ローマ/
第17代ローマ皇帝コンモドゥスが死去。アントニヌス朝は断絶。
大和/
仲哀天皇が即位。名は足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)。皇后は神功皇后(じんぐうこうごう)。『日本書紀』、『古事記』に事跡が見えるが、その史実性には疑いがもたれる。
記紀によれば,熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は西海の宝の国(朝鮮半島諸国のこと)を授けるという神託を受ける。しかし仲哀天皇はこれを信じず神の怒りに触れ急死してしまう。その後再び神託が下される。こんどは神功皇后の胎中の子(後の応神天皇)にそれを授けるとの内容であった。神功皇后は神託に従いみごもったまま朝鮮半島を攻め、国王を服従させるにいたったという。これを俗に神功皇后三韓征伐という。
また、京都府舞鶴師にある籠神社(このじんじゃ:豊受大神を祀る神社であり、伊勢神宮と対を成す神社であると言われている)に残されている系譜図によると、3世紀頃、日本は、日女(日霊女:ひみこ)と小夜(とよ)の二人の巫女を立てて治められていたという記録が出てくる。ここに天皇(天王)を含め、三神一体(三輪)で国を治めていたという事になる。
後漢/
王允、録尚書事となる。
袁術は孫堅を使って襄陽の劉表を攻めさせた。孫堅は、劉表配下の黄祖と一戦して打ち破り、襄陽を包囲した。しかし、襄陽近辺の峴山に孫堅が一人でいる時に、黄祖の部下に射殺された(襄陽の戦い)。桓階が孫堅の遺体を劉表から取り戻した。子の孫策伯父と孫権仲謀は、ともに袁術軍に従って移動した。孫堅軍は瓦解し、兄の子の孫賁はその軍勢を引き継ぎ、孫堅の棺を曲阿に送り届けた。後に寿春に移った袁術の傘下となった。
春、曹操が山軍の本拠地を攻め、眭固や匈奴の於夫羅に大勝した。
董卓が長安において信任したのは蔡邕の他、司徒の王允と、養子の呂布であった。董卓は王允を尊敬して朝政を任せると共に、武勇に優れた呂布に身辺警護させていた。しかし、王允もまた心中では董卓の暴虐を憎み、尚書僕射の士孫瑞と共に謀議をめぐらせていた。あるとき、小さな過失から呂布は董卓に殺されかけたことがあり、それ以来、恨みを持つようになっていた。王允らは呂布の不安に付け込み、暗殺計画の一味に加担させた。
4月、董卓は献帝の快気祝いのために、未央宮に呼び出された。呂布は詔を懐に忍ばせて、同郷の騎都尉である李粛と共に、自らの手兵に衛士の格好をさせて董卓が来るのを待ち受けた。董卓は李粛らに入門を阻止され、怒って呂布を呼び出そうとした。呂布は詔と称して董卓を殺害した。
事件後、長安・郿に居た董旻・董璜をはじめとする董卓の一族は、全員が呂布の部下や袁一族の縁者らの手によって殺害され、90歳になる董卓の母親も殺された(『英雄記』)。また、董卓によって殺された袁氏一族に対しては盛大な葬儀が行われる一方、董氏一族の遺体は集められて火をつけられた。董卓は平素からかなりの肥満体で、折りしも暑い日照りのために死体からは脂が地に流れだしていた。そのことから夜営の兵が戯れに董卓のへそに灯心を挿したが、火はなお数日間燃えていたという(『英雄記』)。長安の士人や庶民は、董卓の死を皆で喜んだ。
董卓の葬儀のため、部下だった兵士が死体の灰をかき集めて棺に納めて郿城に葬ったという(『英雄記』)。董卓の墓はまもなく暴風雨のため、水が流れ込み棺が浮かび上がるほどの被害に遭った。
董卓が呂布に暗殺されると、各地で黄巾の残党が暴れ始めた。このため、兗州の刺史/劉岱が青州から来た黄巾の残党に殺された。
そこで鮑信・万潜らは曹操を迎えて兗州牧を引き受けさせた(朝廷より兗州刺史に任命された金尚は追い返した)。これにより曹操が兗州刺史に就任。曹操は黄巾討伐の詔勅を受け、自ら鎧をまとって黄巾軍を討伐し、黄巾軍の兵30万人、非戦闘員100万人を降伏させ、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた。これ以降、曹操の実力は大きく上昇した。
5月、王允は董卓の与党とみなした人物に対しては粛清する態度で臨み、名声が高かった蔡邕も含めて皆殺害された。董卓の娘婿の牛輔にも追討軍を差し向けた。牛輔は李粛の追討軍を破ったが、逃走を図って部下に殺害された。
6月、李傕・郭汜・樊稠・張済らは王允に降伏を願ったが、王允はこれを拒絶したので、李傕は軍を率いたまま長安へ進撃した。この時、李傕らの軍勢は膨れ上がり10万になっていた。王允は呂布に迎撃させたが敗れ、呂布が逃走すると李傕らはそのまま長安に乱入し、殺人と略奪をほしいままとし、王允を殺害し死体を晒し者とした。
9月、李傕は車騎将軍、郭汜は後将軍、樊稠は右将軍、張済は鎮東将軍となる。
袁術と袁紹が決裂する。公孫瓚は袁術と手を結んでいたため、袁術の要請で劉備を高唐に、単経を平原に、徐州牧の陶謙を発干に駐屯させ、袁紹を圧迫した。この頃、平原の人劉平は劉備の配下になるのを不快に感じて、刺客を派遣した。そうとは知らずに劉備は、刺客を手厚くもてなした。刺客は殺すのが忍びなくなり、自らの任務を劉備に告げて帰ってしまったという話がある。

仲哀天皇二年/193年:癸酉

大和/
仲哀天皇が葛城高顙媛の娘(渡来人の新羅王子天日矛の孫)である気長足姫を立后する。
2月、仲哀天皇と神功皇后が、角鹿(現在の敦賀市)の笥飯宮(けひのみや:現在の気比神宮)へ移る。仲哀天皇が淡路(現、兵庫県淡路島)に屯倉(みやけ:大和政権の直轄地経営の倉庫=いわゆる国庫)を定める。
3月、仲哀天皇が南海道の巡幸のため、紀伊国の德勒津宮(ところつのみや)に移動された。神功皇后は笥飯宮に留まる。
3月、熊襲が再叛。仲哀天皇がこの報を聞き、討伐のために、穴門(穴戸、現在の下関海峡)へ移動された。神功皇后は穴門(長門国:現在の山口県)で合流するよう詔が発せられる。
6月、仲哀天皇が穴門豊浦津(あなとのとゆらのつ:津は港町の意味。現在の山口県下関市長府あたり)に到着する。この時、神功皇后は渟田門(ぬたのみなと:現在の福井市)に移動していた。この時、鯛に酒を注いだという逸話を残す。
7月、穴門豊浦津で仲哀天皇と神功皇后が合流する。この時、神功皇后は如意珠(にょいじゅ)を拾われた。※仏教的観点で記載されているため、本当は何を拾われたのか不明。
9月、穴門で宮室が建立。穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)となる。
三国史記/新羅本紀によれば、倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡ったとある。
後漢/
袁術が曹操の兗州に攻め込む(袁術の侵攻には朝廷により兗州刺史に任命された金尚と馬日磾を伴っていた)。袁術は公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は劉備や徐州牧・陶謙を派遣する。曹操は袁紹と協力してこれらと当たり、その全てを打ち破った(匤亭の戦い)。敗れた袁術は、劉表に背後を絶たれ、本拠地の南陽郡を捨て、寿春に落ち延びていった。
孫策は寿春に袁術の旗下に入った。このとき、自分の旗下には、現地で知り合った呂範と、一族である孫河のみが付き従っていた。孫策は袁術の勧めで丹陽太守の呉景を頼り挙兵するも、初陣で丹陽の一揆の首領の祖郎に攻められ大敗したが、呉景の建言に従って孫河、呂範らと共に合力して祖郎を攻撃し、敗走させた。のち袁術の元に帰った。
この頃、曹操は陶謙に父の曹嵩や弟の曹徳を含めた一族を殺された。
秋、曹操は親族を殺されたその恨みから復讐戦を行うことを決意し、50万の兵力で徐州に侵攻、陶謙から十数城を奪い、彭城での戦いで陶謙軍に大勝し、数万人を殺した。『三国志』武帝紀によれば、通過した地域で多数の者を虐殺したという。このことは後世の『後漢書』によれば、「曹操は数十万人の男女を殺し、曹操の軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声さえ聞こえなくなり、死体のため泗水の流れが堰き止められたと言われるほどの惨状であった」と書かれており、この虐殺に因り曹操は陳宮に背かれている。
一方、徐州の陶謙が曹操に攻められて田楷に救援を求めて来たので、田楷は劉備を補佐として陶謙の元へと向かった。陶謙は劉備を評価して4000人の丹陽兵を与えた。そのため劉備は田楷の元を離れて陶謙に身を寄せるようになった。
ローマ/
5人の皇帝が即位するという年となる。
1月1日。ペルティナクス、ローマ皇帝に即位
3月28日。ペルティナクス殺害
3月28日。ディディウス・ユリアヌス、親衛隊の帝位の「公開競売」を落札、ローマ皇帝に即位
4月9日。セプティミウス・セウェルス、軍団の支持を得てローマ皇帝に即位
6月1日。ディディウス・ユリアヌス殺害
セプティミウス・セウェルスが、ペスケンニウス・ニゲルを、キジクス、ニケアにて敗る。
セウェルス帝は属州アフリカのレプティス・マグナ出身で、皇帝になると同時にこの都市の大開発を行う。

仲哀天皇三年/194年:甲戌

後漢/ 元号を興平に改元。献帝、元服する。
孫策、袁術に対し孫堅の軍の返還を求め、1000人強の兵を得る。数こそ少なかったが、その中には朱治、黄蓋、韓当、程普といった、孫堅軍の中核を成した武将たちが揃っていた。また、馬日磾により上表され、懐義校尉に任命された。袁術は孫策を遣って陸康を攻めさせ、翌年には舒県を撃破し、廬江を得た。しかし袁術は戦功を認めず、側近である劉勲を廬江太守に任命した。袁術軍の一角として異彩を放ち始めた孫策であったが、袁術からはその才覚ゆえに危険視された。九江太守、廬江太守の約束を反故にされながら、孫策は江東で自立する機会をうかがっていた(太守の約束を反故にされたとあるが、孫策は出仕したばかりである)。その間も孫策は人材を得るための時間を割くことは惜しまなかった。なかでも張昭、張紘、秦松、陳端といった知謀の士や、蔣欽、周泰、陳武、凌操といった武勇を誇る猛者を得たことは、ますます孫策の人材層を豊かにした。
再び曹操は徐州の陶謙を攻めるため徐州を留守にした。
この時、張邈は曹操軍の陳宮から「今こそ曹操の領地を奪う好機」と唆され、また曹操と不仲だった弟にも諭されたため、彼らと結託して呂布を迎え入れ、曹操に対し反乱を起こした。 張邈と呂布は、短期間で曹操の本拠地である兗州の大半を占領した。
秋、曹操が蝗の為に兵糧を失い、徐州の侵攻を切り上げて兗州に帰還した。しかし、兗州が張邈と呂布によってそのほとんどを占領されていた。張邈と曹操とは、反董卓連合の時代からの付き合いで、互いが死んだ時には互いの家族の面倒を見る事を約束するほどの仲だった。それほどまでに信頼していた人間に裏切られた曹操は愕然とする。
幸い、荀彧、程昱、夏侯惇、棗祗が3城を守り抜き、蝗の為に呂布も軍を引かせた為、曹操は帰還を果たす事が出来た。しかし、この戦いで青州兵は壊滅的打撃を受け、曹操自身も大火傷を負い、従兄弟の夏侯惇も左目を失っている。
呂布と交戦するが中々決着がつかず、両軍ともに食糧不足に陥り飢饉が発生したため戦闘は中断される。この時期、袁紹から機を見計らったかのように援兵5千の代わりに家族を袁紹の元に避難させよと申し入れがあり、弱気になった曹操はこの話を入れようとしたが、程昱の反対もありこれを断る。
曹操の撤退により、徐州の陶謙は命拾いをした。陶謙は劉備を豫州刺史に推挙し、これが認められた。その後、陶謙は病が重くなり、徐州を劉備に託そうとしていた。劉備は初めは断ったものの、親交があった陳登・孔融らの説得を受けて徐州を領した。この時に鄭玄の推薦で、北海郡の人の孫乾を従事として迎えた(『鄭玄伝』では、陶謙の推挙で豫州刺史に任じられた時とする)。陳紀とも交流があり、その子陳羣も劉備が豫州刺史に任じられた時に登用され、別駕従事となった。
陳到は劉備の豫州刺史時代からの配下とされ、また、同姓のため賓客扱いされた劉琰もこの時期に劉備へ仕官し、以後の流浪を共にした。
袁術と揚州刺史である劉繇は、揚州の支配をめぐって対立していた。補佐役であった朱治の勧めもあり、孫策は袁術に対し、劉繇と対峙している叔父の呉景の援軍に赴くことを申し出る。袁術は寡兵である孫策が江東で独立できるとは思っておらず、これを承諾した。歴陽で呉景の軍と合流した孫策は、ここで周瑜との再会を果たす。周瑜は孫策に兵力・情報を提供し、共に江東制覇に尽力した。孫策軍が歴陽に到達するまでに多くの兵が孫策軍に加わり、最初1000人強しかいなかった孫策軍は5千人以上に膨れ上がっていた。
ローマ/
ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスが、ペスケンニウス・ニゲルをイッソスで敗る。
ローマ帝国の皇帝自認者ペスケンニウス・ニゲルが死去。

仲哀天皇四年/195年:乙亥

後漢/興平2年
2月、李傕が樊稠を殺害し、郭汜とも戦う。以後、関中は戦乱となり、献帝は各地を転々とする。
献帝が長安からほうほうの体で脱出し、曹陽で大敗し明日をも知れぬ状態であったことを聞き、袁術は漢朝の命脈がつきたと予感し、帝位につく意思を側近達に漏らしたが、押し留められた。袁術は董承の下に部下の萇奴を派遣して献帝の身柄を確保しようとしたが、朝臣の間で董承を中心に曹操を頼ろうとする動きがあり、やがて董承も曹操と手を結んだため、献帝の身柄は曹操に奪われた。曹操は献帝を奉じ、天下に号令をかけ、自らは三公の司空となった。一方で、袁術には逆賊として賞金がかけられたという。
袁術と揚州刺史である劉繇は、揚州の支配をめぐって対立していた。補佐役であった朱治の勧めもあり、孫策は袁術に対し、劉繇と対峙している叔父の呉景の援軍に赴くことを申し出る。袁術は寡兵である孫策が江東で独立できるとは思っておらず、これを承諾した。歴陽で呉景の軍と合流した孫策であったが、ここで周瑜との再会を果たす。周瑜は孫策に兵力・情報を提供し、共に江東制覇に尽力した。孫策軍が歴陽に到達する前に多くの兵が孫策軍に加わり、最初1000人強しかいなかった孫策軍は5千人以上に膨れ上がっていた。
春、曹操は定陶を攻撃(定陶の戦い)する。南城を陥落させられなかったが、折り良く着陣してきた呂布の軍勢を撃破する。
孫策の軍勢は舒県を撃破した、廬江を得る。しかし袁術は戦功を認めない、側近である劉勲を廬江太守に任命する。この時、袁術軍の一角として異彩を放ち始めた孫策であったが、袁術からはその才覚ゆえに危険視された。九江太守、廬江太守の約束を反故にされながら、孫策は江東で自立する機会をうかがっていた(太守の約束を反故にされたとあるが、孫策は出仕したばかりである)。その間も孫策は人材を得るための時間を割くことは惜しまなかった。なかでも張紘、張昭、秦松、陳端といった知謀の士や、蔣欽、周泰、陳武、凌操といった武勇を誇る猛者を得たことは、ますます孫策の人材層を豊かにした。
4月、袁術が貴人の伏氏を皇后とする。
夏、曹操は鉅野を攻めて薛蘭や李封を撃破し、救援に現れた呂布を敗走させた。呂布は陳宮ら一万と合流して再度来襲してきたが、この時曹操軍はみな麦刈りに出向いて手薄だったので、曹操は急遽軍勢をかき集めると、伏兵を用いて呂布軍を大破した。呂布は劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従ったが、曹操は、張邈が弟である張超に家族を預けているのを知ると、張超を攻撃する。
曹操に敗北した呂布が徐州へやって来たので、迎え入れた。
呂布は劉備の元を訪れると、妻の寝台に劉備を座らせて自身の妻に挨拶をさせ、酒を酌み交わし弟と呼んだ。劉備は呂布の言葉に一貫性が無いのを見てとり、内心彼を不愉快に思った。
袁術が、勢力を巻き返しつつあった曲阿の劉繇の攻略を孫策に委ね、自身は徐州の劉備を攻撃することを決め、徐州に出征した。劉備はかつての盟主であった袁術が攻めて来たので迎撃するために出撃し、張飛に徐州の留守を任せ、袁術と対峙し1ヶ月が経過した。
この時、袁術は呂布に、20万石の兵糧を提供することを条件に、劉備の背後を衝くように持ちかけた(『英雄記』)。劉備の本拠地の下邳の守将の曹豹・許耽が劉備を裏切り、張飛を追放して呂布を迎え入れたため、本拠地を奪われた劉備は退却した。この時、劉備の妻子は囚われてしまった。
行き場を無くした劉備は徐州へ帰って呂布に降伏する。呂布は劉備を豫州刺史にし自らは徐州刺史を名乗った。劉備は自らは小沛へと移った。苦境に陥った劉備を援助したのは、徐州の大地主であった糜竺であり、劉備は後々まで彼を重用することになる。
袁術は部将の紀霊を派遣し劉備を滅ぼそう考え、歩・騎兵あわせて3万の指揮を任せ、再び劉備を攻撃しようとした。劉備は呂布に救援を求めた。呂布は袁術と泰山諸将(臧覇ら)による包囲を警戒し、呂布軍の諸将の諌めを遮って歩・騎兵1千人余りで劉備・袁術を調停。陣中で戟を射て両軍を撤退させた。
呂布は河東にいた献帝から救援の書状を賜った。呂布には兵糧が無いので救援を送れなかったがかわりに使者を送った。朝廷は呂布を平東将軍・平陶侯に任命した。
6月、袁術は呂布陣営の参謀の陳宮/部将の郝萌等と内通し呂布軍を転覆しようとしたが、呂布がすんでの所で逃れたため失敗する。袁術は呂布が自らに害をなす事を恐れ、自らの息子と呂布の娘との間に婚約関係を結ばせる事を提案した。呂布もそれを承認したという。
孫策は、劉繇の部将の張英が守る当利口と于糜・樊能が守る横江津を制圧し、長江を渡り、劉繇が篭っていた牛渚の要塞も陥落させ、大量の食料や軍需物資を奪った。劉繇は曲阿に逃走した。更に孫策は劉繇を攻め、劉繇の部将の笮融・薛礼と交戦し、薛礼が守る秣陵城(後の呉の都、建業)を制圧する。その間に牛渚を樊能・于糜に奪われたが、すぐに牛渚を奪還した。再び長江を下って笮融を攻めたが、矢が太ももに当たり負傷し、後退した。孫策が死んだと思った笮融は部将の于茲に追撃させたが、孫策は伏兵を用いて于茲に大勝した。その後、孫策は堅固な笮融の軍営を避け、劉繇に服属する諸県を攻略していった。
あるとき、劉繇の部将である太史慈がただ1騎で孫策軍を偵察していると、韓当、宋謙、黄蓋ら13騎を従えた孫策に遭遇した。太史慈は刀を前に構え、孫策に正面から打ちかかった。孫策は太史慈の馬を刺し、太史慈がうなじに巻いていた手戟を掴み取ると、太史慈は孫策の兜を取った。このとき両軍の騎兵が殺到すると2人は軍とも引き下がった。やがて劉繇は拠点であった曲阿を捨てて逃亡する。主のいなくなった曲阿を落とした孫策は、ここを拠点として勢力の拡大を図った。また、劉繇を失った太史慈は反乱軍を糾合し、丹陽太守と自称して孫策に対抗する。地盤を確保した孫策であったが、袁術との関係を維持するため、袁術から借り受けた兵のうち、叔父の呉景、従兄の孫賁の軍を返す。また、周瑜も一旦叔父である丹陽太守周尚のもとに帰った。周瑜は丹陽における孫策の支配をより強固なものにしていった。
秋、根拠地の兗州を全て奪還した曹操は、兗州牧に任命された。
冬、曹操が張超を破り、張邈の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。張邈は部下に殺された。
この頃、長安では呂布らを追った李傕らが朝廷の実権を握っていた。しかし、李傕らは常に内紛を続けていた。

仲哀天皇五年/196年:丙子

後漢/元号を建安に改元。
1月、曹操は、荀彧と程昱の勧めに従い、長安から逃げてきた献帝を迎え入れるために、曹洪に献帝を迎えに行かせたが、董承に妨害された。
2月、曹操は豫州西部の汝南・潁川に割拠していた黄巾賊の黄邵や劉辟・何儀らを破り、建徳将軍に任命された。
6月、曹操は鎮東将軍に昇進し、費亭侯に封じられた。
7月、曹操が洛陽に赴き首都を守護したため、韓暹は逃亡した。献帝は曹操に仮節鉞を与え、録尚書事とし、司隷校尉も担当させた。この時、袁紹は人事や官位の任免に干渉した。
9月、曹操は董昭の策略を用いて、献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れた。献帝は曹操を大将軍とし、武平侯に封じた。
10月、曹操は政敵の楊奉を討伐して、後漢政府から追放したため、楊奉は袁術のもとへ逃走した。曹操は大将軍を袁紹に譲り、自らは司空・車騎将軍に任命された。またこの年、曹操は棗祗・韓浩らの意見を採用して、屯田制を開始している。
劉備は兵を1万余り集めたが、劉備が多数の兵を集めたことを不快に思った呂布は劉備を攻め敗走させた。劉備は曹操の元へ身を寄せた。ここで、曹操は劉備の器量を評価して優遇した。しばらくして曹操が上奏し、劉備を鎮東将軍とし、宜城亭侯に封じ、豫州の牧に任命して、劉備を援助して再び小沛に入らせた。
11月、曹操、司空・行車騎将軍となる。
曲阿を始めとする丹陽郡を手中にした孫策は、呉郡、会稽郡の攻略に取り掛かる。呉郡太守であった許貢には朱治を派遣して勝利し、会稽太守であった王朗には当初苦戦したが孫静の策により勝利した。戦いに敗れた許貢は抵抗勢力であった厳虎のもとへ逃亡し、王朗は孫策に降伏した。また、独立勢力となっていた太史慈を打ち破り、自らの部下として迎えた。
孫策の勢力が強大化するのを怖れた袁術は、一族の袁胤を丹陽太守に任じ、孫策への備えとしようとした。これに対し、孫策は武力をもって袁胤を追放し、ついに袁術に対して独立を宣言する。孫策の独立に応じ、一時袁術の配下にいた周瑜は魯粛を連れて孫策の元へ合流する。また、呉景、孫賁も袁術を見限り、孫策に従う事となった。
これに憤った袁術や陳瑀は丹陽郡の宋部一揆の首領の祖郎らを扇動して孫策を攻めさせたが、孫策は孫輔や程普、呂範らとともに祖郎と戦い、激戦の末に祖郎を生け捕りにした。祖郎は孫策の部下となり、門下賊曹に任命された。
江東の支配を宣言した孫策は、自らの体制を整えるべく人材登用を積極的に行った。その中には呂蒙や、元は王朗配下であった虞翻も含まれていた。また、自ら会稽太守を称するとともに、江東の周辺郡の太守を任命した。
孫策は電撃的に江東一帯を制覇したが、その苛烈な勢いがゆえに怨恨を抱かれ、各地に根強い抵抗勢力を抱えることになった。江東に抵抗勢力を抱える限り中原への進出は実現できないため、孫策は抵抗勢力の粛清に乗り出した。これにより厳虎をはじめとして、抵抗勢力である江東各地の地元豪族王晟・鄒他・銭銅らその一族、地方宗教勢力が粛清された。このとき、かつて呉郡太守であった許貢は「孫策の勢いは項羽に似る」と朝廷に上奏しようとしたが、これを知った孫策は怒り、粛清対象として許貢を殺害した。
新羅/
伐休王が死去。奈解王が即位。
ローマ/
セウェルス帝が反対派についたビュザンティオンを征服し破壊する。

仲哀天皇六年/197年:丁丑

後漢/
袁術が、張炯の進言を採用して皇帝を名乗った。寿春を都、国号を「仲」とした。
この時点において、後漢は「献帝」「袁術」の2つの王朝に分かれることとなる。
袁術の皇帝即位は大半の諸侯からは承認されず、また袁術自身も私欲による奢侈放蕩な生活を求め重税を実施したことにより兵士・領民は大いに飢え困窮し、民衆の反発を惹起した。この暴政に袁術の家臣からも袁術から離反する者が相次いだ。孫策も皇帝即位を諫める書簡を送っているが、諫言が容れられずやはり離反している。
袁術が皇帝を僭称し始めると、孫策は反袁術の姿勢を鮮明にするため、献帝を擁する曹操に近づく。根強い抵抗勢力が多く存在する江東を支配するためにも朝廷の権威が必要であった。しかし両者の関係は微妙なものであり、袁術の死を契機に崩れてしまうことになる。
春、曹操は宛に張繡を攻めて降伏させた。この際に曹操は張繡の叔父である張済の未亡人を妾としたが、そのことに張繡が腹を立てていると知って彼の殺害を考えるも、事前にそれを察知した張繡に先制され、敗れる。この敗戦で流れ矢に当たって右臂に怪我をし、長男の曹昂と弟の子の曹安民と忠臣の典韋を失った。
3月、曹操の推挙により袁紹が大将軍となる。この年、江淮で飢饉が起き、民は互いに食い合った。
袁術は韓胤を使者として送り呂布に婚姻を持ちかけたが、陳珪に諫言された呂布は袁術が最初自分を迎えなかったのを恨んで、袁術の使者を捕えると、書簡と共に曹操に送った。使者を斬られて怒った袁術は楊奉らと同盟し、張勲に数万の大軍の指揮を委ね、連携して呂布を攻撃した。この時『後漢書』呂布伝では呂布は3000余りの兵しか持っていなかったために陳珪を責めたが、彼の戦略を受けた呂布は楊奉・韓暹を物資で釣る戦術に打って出て袁術から離反させ、張勲軍のほとんどを殲滅した。
また『三国志』呉志「孫討逆伝」が引く『江表伝』には呂布が朝廷に対し孫策の抱き込みを提案し、成功したという記録も有る。
その後、淮陽を支配した陳愍王の劉寵(明帝の後裔)に兵糧の援助を申し入れたが、陳国の相の駱俊に断られたため、怒った袁術は劉寵と駱俊を暗殺し、陳国を奪った。だが、曹操が自ら迎撃に来ると袁術は逃走し、橋蕤ら4人の将軍に曹操軍を迎撃させたが、橋蕤らを討ち取られ大敗した。この敗戦で袁術の勢力は大いに衰えた。
楊奉と韓暹は呂布と同盟を結び、袁術を大いに撃破し、徐州・揚州付近を荒らしていたため、劉備は楊奉・韓暹を討ち取る。
この後、呂布は莒城の蕭建を手紙で投降させたが、独立勢力の臧覇によって莒城が落された。それを受けた呂布は高順の諌めも聞かず臧覇を攻撃したが攻め落とせず、引き返した。また高順は常に、呂布が短気で気まぐれなので、周囲の言う事を聞いていつも口にする誤りを改めるようにと諌めていたが、呂布はその意見を採用せず、あまつさえ陳宮らの反乱後高順の兵を奪い取り縁戚の魏続に与えた。そして戦争では高順に魏続の配下の軍を指揮させたが、高順は終生恨みを抱かなかったと言う。
高句麗/
故国川王が死去。山上王が即位。

仲哀天皇七年/198年:戊寅

後漢/
袁術は呂布と再び同盟を結んだ。
春、曹操は張繡を穣に包囲した。劉表が兵を派遣して張繡を助けたので窮地に陥ったが、伏兵を用いて敵軍を挟み撃ちにして散々に撃破した。
呂布が再び袁術と通じて沛城の劉備に攻め入ったため、劉備は曹操に援軍を要請した。曹操は夏侯惇を派遣したが、呂布の部下の高順に撃破された。
張遼、高順らは半年以上も沛城の包囲を続けた。
4月、後漢王朝は裴茂・段煨らを派遣して、李傕を滅ぼした。
9月、呂布軍によって遂に沛城は陥落し、劉備は逃走した。劉備の妻子は再び捕虜となった。
そこで曹操は自ら大軍を率いて出陣し劉備軍と合流すると、共同して徐州に攻め込んだ。
10月、曹操が呂布を攻める。
曹操軍が彭城を落とすと陳宮は献策したが呂布は聞かず、しばしば下邳に到着した曹操と戦うも皆大敗し、下邳に籠城した。
呂布は援軍を袁術に求めたが、以前の背信を思い起こした袁術は積極的に援軍を送ることはなかった。
包囲して後、下邳を攻め落とせず疲弊した軍を憂え撤退を計る曹操に対し、曹操軍の荀攸・郭嘉は水計を考案し実行に移した。
侯成らは陳宮たちを捕えて呂布を裏切り、呂布は後に部下と投降。この時呂布は部下に自分を売って曹操に降るよう命じたが、部下たちは遂行できなかったとも言う。水攻めによって城兵の士気を挫き、落城させ、豫州東部と徐州を制圧した。
投降した呂布は縛られて曹操の前に連行された。『英雄記』によると、曹操は呂布が家臣の妻と不正な関係を持とうとし、そこで家臣に裏切られたと呂布に指摘した。呂布は黙ったままだった。呂布は「縛り方がきつすぎる。少し緩めてくれ」と言うと、曹操は「虎を縛るのにきつくせぬわけにはいかぬ」と答えた。呂布が「これで天下は定まったな。貴殿が歩兵を指揮し、俺が騎兵を指揮をすれば、天下の平定なぞ簡単な事よ」と語ると、曹操は顔に疑惑の色を浮かべた。劉備が進み出て「呂布が過去に丁原・董卓を裏切った事をお忘れか」と曹操を諫めると、曹操もそれに頷いた。呂布は「この大耳野郎(劉備)こそが一番信用できぬ者だ」と主張したが、縛り首にされた。曹操による助命を拒んだ重臣の陳宮・高順らも縛り首にされた。呂布・陳宮・高順らの首は許に送られ、晒し首にされたが、後に埋葬されたという。
劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許昌へ入り、左将軍に任命された。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出す時には常に同じ車を使い、席に座る時には席を同格にすると言う異例のものであった。曹操と歓談していた時に曹操から「今、この天下に英雄と申せる者は、お主とこのわしのみだ。本初ごときでは不足よ」と評されている。

仲哀天皇八年/199年:己卯

後漢/
袁紹は公孫瓚を滅ぼし、河北を平定した。
この頃、宮中では献帝よりの密詔を受けた董承による曹操討伐計画が練られており、劉備はその同志に引き込まれた。その後、討伐計画が実行に移される前に朱霊・路招らと共に袁術討伐に赴き、都から徐州に逃げ出す名分を得たという。
袁術は袁紹と合流しようとしたが、曹操はこれを阻止するため、徐州に劉備と朱霊を派遣した。袁術は劉備に道をふさがれたので、引き返した。
6月、袁術は灊山(せんざん)にいる部下の雷薄・陳蘭を頼ったが受け入れを拒絶され、3日間滞在するうちに兵士の食糧が底をついたため、寿春から80里ほどにある江亭に滞在した。既に食糧は麦のくずが30石ほどしか残されていなかった。袁術は夏の暑さのため、蜂蜜入りの飲物を所望したが、そのための蜂蜜も無い状況であった。袁術は寝台に腰を下ろしてため息をついた後、「この袁術ともあろう者がこのざまか!」と怒鳴り、寝台の下にうつぶせとなって、一斗(当時は約1.98リットル)余りの吐血をして死んだと伝えられる(『呉書』)。
袁術が死去したので、朱霊らは帰還したが、劉備は徐州に居残り、下邳を根拠地とし、徐州刺史の車冑を殺した。下邳の守備を関羽に任せて自らは小沛に移ると、多数の郡県が曹操に背いて劉備に味方した。曹操と敵対することになったので孫乾を派遣して袁紹と同盟し、曹操が派遣した劉岱・王忠の両将を破った。劉備は劉岱らに向かって「お前達100人が来たとしても、私をどうすることもできぬ。曹操殿がご自身で来られるなら、どうなるかわからぬがね」と言った。
袁術が失意のうちに死去すると、旧袁術軍はこぞって劉勲のもとに身を寄せることになった。滅びたとはいえ多勢の袁術残党は劉勲の南北に割拠する気鋭の孫策と曹操には魅力的であり、双方ともこの兵力を自軍に組み込むべく工作を謀った。
孫策は劉勲に対して「上繚には宗教勢力が闊歩しており、それらへの対応に困っています。協力して討ち取りましょう。もし討ち取る事ができれば、宗教勢力の兵力も手にする事ができるでしょう」といった内容のへりくだった手紙を送った。それ以前、劉曄は劉勲のもとへ兵を送り、その客となっていた。劉曄は劉勲に対して孫策の手紙の意図と危険性を説明したが、劉勲は聞き入れず、孫策を信用して上綜へ攻め入った。孫策はこれを機に急行、留守となった劉勲の本拠である皖を落とし、旧袁術軍ならびに楽隊や袁術の妻妾、子女などを一挙に手中に収めることに成功した。後に自らの妾とした橋公の娘大喬や、同じく橋公の娘で周瑜の妻となる小喬、他に孫権の妻となる歩夫人・袁夫人もこの際の捕虜の一員として手に入れている。
進退極まった劉勲は西塞山に陣を敷き、夏口の黄祖に助けを求める。黄祖は息子の黄射を援軍に立てて西塞山に向かわせたが、孫策はその救援が到着する前に早々と西塞山を陥落させた。劉勲は少数の部下と共に曹操のもとへ逃げ落ち、孫策は廬江を手に入れた。
劉備の裏切りに激怒した曹操自身が攻めて来ると敵し得ず、袁紹の元へと逃げ、関羽は劉備の妻子と共に曹操に囚われた。『三国志』蜀書先主伝の注に引く『魏書』によれば、劉備は攻めて来た曹操の指揮の旗を見ると、戦わずして逃走したという。袁紹の長子袁譚をかつて劉備が茂才(郷挙里選の科目の一つ)に推挙していたので、その縁で袁紹の元へ身を寄せて大いに歓待された。
曹操と河北を制圧した袁紹の対決が必至となると、張繡は再び曹操に降伏し、曹操も過去の恨みを呑んで迎え入れた。
関中には馬騰・韓遂が勢力を保っていたため、曹操は鍾繇を司隷校尉に任じ、関中方面の軍事と統治を任せた。鍾繇は馬騰・韓遂を説得して、曹操に従わせ、馬騰・韓遂の子供を人質として献帝に参内させた。
金官伽耶(伽耶国)/
3月20日。太祖、首露王が死去。居登王が即位。
ローマ/
カリストゥスのカタコンベが造営される。
助祭カリストゥス(後にローマ教皇)がアッピア街道沿いに作らせたもので歴代教皇の墓がある。
大和/
1月4日、仲哀天皇と神功皇后が筑紫においでになられた。
岡県主の祖先の熊鰐(わに)が、周芳沙麼(現。山口県防府市佐波)の浦にてお迎えをされ、以下の魚や塩の産地を献上する。
(大きな賢木を根こぎにして、大きな船の舳(へ)に立てて、上枝に白銅鏡、中枝に十握剣、下枝に八尺瓊をかけてお迎えしたと記載されている。)
穴門から向津野大済(大分県宇佐郡向野)までを東門、名籠屋大済(なごやのおおわたり:福岡県戸畑の名籠屋崎)を西門とし、没利島(もとりしま:六連島)・阿閉島(あへのしま:藍島)を限って御筥とし、柴島を割いて御なへ(扁瓦:みなへ)とした。また、逆見の海を塩地(塩の産地)とした。
海路の案内をし、山鹿岬から岡浦に入った。岡浦の入り口にかかった時、船が進まなくなり、仲哀天皇が熊鰐に理由を訪ねてみたところ、大倉主と菟夫羅媛(つぶらひめ)の男女二神によるものと推定。仲哀天皇が祀事を行ったところ、船が再び動き出した。
神功皇后は別の船で移動し、洞海(くきのうみ)から入られた。しかしm潮が引いたため、船が進まなくなる。熊鰐が神功皇后をお迎えしようと、洞海に到着すると神功皇后の船が動かなくなっている事を確認し、急いで魚や鳥を献上した。これによって、神功皇后は怒りの心を解かれた。
再び潮が満ち、船が動く事になったため、神功皇后は岡津に泊まられた。
※現在の山口県防府市は埋め立て地であり、当時は防府市佐波〜八王子のあたりが海岸線であった。向島はもちろんの事、田島山や堀越三神社の山などは、小島を形成していた。
筑紫の伊都県主の先祖である五十迹手(いとて)が、仲哀天皇の来訪を聞いて、穴門の引島(ひこしま:彦島)にてお迎えにあがる。
(大きな賢木を根こぎにして、大きな船の舳(へ)に立てて、上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡、下枝に十握剣をかけてお迎えしたと記載されている。)
天皇へ言祝ぎを捧げた後、仲哀天皇は五十迹手を褒め、「伊蘇志」の名を贈った。これにより、五十迹手の国は伊蘇国となり、のちに「伊都」と言われるようになる。

1月21日、灘県(現在の福岡県博多市)に、仲哀天皇と神功皇后が到着され、橿日宮(香椎宮)へ移動する。
9月5日、仲哀天皇が群臣に詔して熊襲を討つことを神託された。この時、神功皇后に神懸かりがおこり、以下の事を告げられた。
「天皇はどうして、熊襲が従わない事を憂うのか。彼の地は荒れて痩せた地である。戦いをして討ても、その果には見合わない。彼の国よりも勝って宝のある国、譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。そこには目に眩い金・銀・彩色などが沢山ある。
彼の国を栲衾新羅国(たくぶすましらぎのくに)という。もし、よく吾を祀れば、犠牲を出す事もなく、彼の国はきっと服従するであろう、また熊襲も従うであろう。
祭りを行うのであれば、天皇の御船と穴門直践立(あなとのあたいほむだち)が献上した水田(名づけて大田)をお供えしなさい」というものだった。
仲哀天皇は、この神託を聞くも、疑いの心があった。そこで高い岳に登って遥か大海を眺められたが、広々としていて国は見える事はなかった。
仲哀天皇は、神に「海を見渡してみましたが、海だけがあって国はありません。どうして大空に国がありましょうか。どこの神が徒に私を欺くのでしょう。またわが皇祖の諸天皇たちは、ことごとく神祇をお祀りしておられます。どうして残っておられる神がありましょうか」と答えた。
ふたたび神功皇后は神懸かり、「水に映る影のように、鮮明に自分が上から見下ろしている国を、どうして国がないといって、吾が言をそしるのか、汝はこのようにいって遂に実行しないのであれば、汝は国を保てないであろう。ただし皇后は今はじめて身ごもっている。その御子が国を得る事になるだろう」という神託を下ろした。
仲哀天皇はそれではも神託の内容を信じる事ができず、熊襲征伐に出るが、征伐は失敗におわる。

仲哀天皇九年/200年:庚辰

後漢/
曹操・袁紹の争いが激化する。
序戦は白馬の戦い、決戦が官渡の戦い、終局が倉亭の戦い(袁紹軍壊滅)となる。
官渡の戦いが起こる。
曹操は、最強の敵である袁紹を破り、その死後、華北(中国北部)を統一した。
劉備は袁紹の元から逃げ出した後、曹操に追い散らされて劉表を頼って、荊州の北部・新野(河南省新野)に居城を貰っていた。劉表から新野城(現河南省新野)を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇、于禁の軍を博望にて撃破した。しかし劉備の元に集まる人が増えたことで劉表は劉備を猜疑するようになり、曹操が烏丸を討伐に行った隙をついて許を襲撃するように劉表に進言したが、これは受け入れられなかった。この時期のエピソードとして裴松之の『九州春秋』からの引用で「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた。」と言う話がある。このことから髀肉之嘆の言う故事成語が生まれた。
北の曹操の強大化に伴い、それまでは平和であった荊州も危険なのではないかと有志の間では話し合われていたが、頭領の劉表は年齢から病気がちになり、その後継も長男・劉?と次男の劉?で激しい争いが行われ、有志たちの失望を買っていた。
孔明は相変わらずの晴耕雨読の生活を過ごしていたが、徐庶は劉備の元に出入りしており、徐庶は孔明の事を劉備に話していた。人材を求める劉備は徐庶に孔明を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「孔明は私が呼んだくらいで来るような人物ではない。」と言い、劉備は3度孔明の家をたずねて、やっと会うことができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之注には「『魏略』曰く」と書いて、孔明の方から劉備を訪ねたという話を載せている。また別に『襄陽記』から劉備に対して人物鑑定家として有名な司馬徽が「伏龍・鳳雛とは孔明と厖統の事だ。」と言ったという話が載せてある。
この時、孔明は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たる事を避けて荊州・益州を領有し、これを持って天下を争うべきだと勧めた。そして、諸葛亮は劉備に仕えた。
後漢末期の訓詁学者、鄭玄が死去。
呉/
後漢末の武将、孫堅の長子、呉の初代皇帝孫権の兄である、孫策伯父が死去。孫権仲謀が君主となる。
ローマ/
後のローマ皇帝タキトゥスが生まれる。
大和/
2月4日、仲哀天皇が病に伏せられる。
2月5日、第14代天皇、仲哀天皇が死去。
『天書紀』によれば、熊襲の矢に当たッた事が原因で、橿日宮(訶志比宮、現香椎宮)にて死去したとされる。
仲哀天皇の喪については、神功皇后と武内宿禰が隠し、天下には知らされなかった。
神功皇后は、武内宿禰以外に、烏賊津連(いかつのむらじ)、大三輪友主君(おおみわのおおともぬしのきみ)、物部胆咋連(もののべのいくいのむらじ)、大伴武以連(おおとものたけもつのむらじ)の4名を招集し、事の次第を伝えて宮中を守らせた。
遺体は武内宿禰により、筑紫から密かに海路を穴門を通って穴戸豊浦宮(現下関市)で殯されたと記される。
2月22日、武内宿禰は穴門から橿日宮に戻り、神功皇后に報告をおこなった。
この後、神功皇后は神羅に侵攻する(神羅の役)事になり、仲哀天皇の葬儀は執り行われなかった。仲哀天皇について日本書紀に記載があるのはここまで。

『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」とあるが、なぜ52歳なのかは不明。
壬戌の年は182年に相当し、その52年前は西暦130年となる。この年は、景行天皇が崩御された年でもある。

古事記および日本書紀巻九「氣長足姬尊 神功皇后」より継続。
皇后は、仲哀天皇が神託に従わず早く崩御した事に心を痛めていた。そして「仲哀天皇に祟られた神を知り、栲衾新羅国を求めよう」と思った。
そこで、群臣(まへつのきみたち)と百僚(つかさつかさ:つまり官僚の事)に勅を発し、罪を祓い、過ちを改め、小山田邑(現、福岡県古賀市小山田?)に斎宮を建てる。
(※小山田邑=福岡でなければ、山口県の屋代島にある小山田か)
3月1日(壬申朔)、神功皇后が小山田邑の斎宮で武内宿禰を審神者として再び神託を行う。7日七夜にわたって行われた神託により、前年に託宣した神が五十鈴宮の撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)、事代主神、住吉三神などであることを確認した。
その後、吉備鴨別を熊襲国討伐に派遣し、熊襲を従わせた。
3月17日(戊子)、神功皇后が、松峽宮(現、福岡県筑前町)に移動。
荷持田村を上がった先にいる「羽白熊鷲」という者について聞く。剛健にして姿赤く翼を持ち、高く(空を)翔ける能力を持つ。また、天皇に従わない盗人の民との事。
3月20日(辛卯)、層増岐野(そそきの:場所は不明)にて羽白熊鷲を討つ。(左右?)側にいた者?もしくは左右を見渡すほどの民?が「熊鷲を取って心が安らかになった」と言われたので、その地を「安(現、夜須)」とした。
3月25日(丙申)、山門郡(やまとごおり:現、福岡県の筑後川下流域あった?)にて、田油津媛という土蜘蛛(反朝廷勢力のひとつ。「蝦夷」「土蜘蛛」と区別されていた)を討ち取る。田油津媛の兄である夏羽は、軍を興して迎え撃とうとするが、妹が討たれた事を聞いて、逃げたとの事。
4月(壬寅朔甲辰)、北方の火前国の松浦郡に到着して、玉嶋里の小河のそばで食事をする。
この時、皇后は針を曲げて鈎を作り、粒(米粒の事?)を取って餌にした。裳(羽織)のいとを抜き取って釣り糸にした。河の中程の石の上に登り、鈎を投げて祈った。
「私は西方に財の国を求めようと思う。もし事を成すことができれば、河の魚よ鈎を飲め」と言った。
それで竿を挙げると、細鱗魚(あゆ?)が獲れた。その時に皇后は「珍しい物を見た」と言った。それで当時の人はそこを梅豆邏の国と名付けた。

【日本書紀から】今(西暦650年頃)、松浦というのは訛ったものである。ここでは、その国の女が四月の上旬になると、鈎を河の中程に投げて細鱗魚(あゆ)を捕ることは、今に至るまで続いている。ただ男だけで釣っても魚を取ることが出来ない。

また、すでに皇后は神託の(霊)験を民に知らしめ、さらに神祗(天津神と国津神)を祭祀にて奉り、自らが征西を考えた。
そこで、神田を定め、朝廷直営の田を造った。この時灘の河水を引き、神田を潤わすために溝を掘った。
迹驚の岡(とどろきのおか:現、福岡県筑紫郡那珂川町にある。後に安徳天皇が滞在した)に及ぶと大磐(巨大な岩)が塞いで溝を通す事ができなかった。
神功皇后は武内宿禰を呼び、剱と鏡を捧げて神祗に祈祷させ、溝を通せるように祈願した。その時、雷電がほとばしり、その岩を打ち砕いた。これによって水が通ったため、当時の人々は、その溝を裂田の溝となづけた。
神功皇后は橿日の浦に戻った。神を解き海に臨み、「私は神祇の教え受け、皇祖の霊に頼んで滄海を船で渡り、自ら西征を考えている。頭を海水で濯ぎ、もし神の許しがあるなら、髮が自然に2つに分れるだろう」と言った。そして神を海に入れてすすいだところ、神が自然に分かれた。
皇后は、髪を結い分けて元に戻し、群臣に「これより軍を興し兵を動かす。これ國の大事なり。無事に成し遂げるも、危険にあい討たれるも此度の戦で決まる。これから征伐する地がある。この大事を群臣の皆に任せる。もし成し遂げなければ、罪は皆ともにに降りかかるだろう。これは、とても痛ましい事だ。私は女人である上に愚かだ。然して今暫くの間、男の顔になって、強く勇敢な計略をたてる。上は神祇の霊を纏い、下は皆の助けを以って、兵を奮い立たせ急峻な浪を渡り、船をまとめ上げて財の地を求めよう。もし成し遂げたならば、皆に論功がある。成功しなければ私一人に罰を与えなさい。すでに覚悟は決めた。さあ共に戦略を練ろう」と言った。
群臣の皆は「皇后、天下と国家(宗廟社稷:そうびょうしゃしょく)平穏のために計を巡らす。その罪は臣下にないと言われる。(我らは)敬意を以って詔を承った」と応えた。
9月(庚午朔己卯)、諸国に令を発し船と兵の招集したが、兵の招集は難航する。皇后は「これも神の御心だろう」と言われ、大三輪の社を建て刀と矛を奉納した。すると自然に兵が集まり軍となった。是を以って、吾瓮海人(あべの島の海の民)の烏摩呂を使いに出し、西の海にの先に國があるのかを調べさせた。烏摩呂は戻ってきて「國は見えなかった」と答えた。また、磯鹿(磯良:いそら)海人の名草に国があるか調べさせた。名草は数日後に戻り「北西に山が見えた。横網のように雲の帯があったので、国があるものと思われる」と答えた。
そこで、出発のための吉日を占うとまだ日が有った。
皇后は、自ら斧と鉞を持ち、三軍に「鐘・太鼓で指示せず軍旗が入り乱れると軍が整わない。財を貪って欲張って私腹を肥やそうとすれば、きっと敵の捕虜となるだろう。敵が少ないものと侮るな、強敵でも屈するな。則ち邪に暴れる者は許すな、自ら服従する者は殺すな。それで戦いに勝ったら褒美が有る。逃げたら罰するぞ」と命じた。
すでに神の教えで「和魂に服すれば、王(きみ)の寿命を全うできる。荒魂なれば率先して軍艦を出撃させる」と言った。(和魂とはにぎみたま、荒魂とはあらみたま、という)神の教えを得て、拝んだ。それで依網の吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)を神主にして祀った。その時に、たまたま皇后の出産の時期にあたった。皇后は、それで石を取って腰に挟んで、「事がすんで帰ったら、この土地で生まれよ」と祈った。その石は、今、伊覩縣の道の辺に在る。それで荒魂で指図して、軍の先鋒となり、和魂で願って、王船のはやる気持ちを落ち着かせた。

10月(己亥朔辛丑)、和珥津(わにのつ)から出港する。風が吹きおこり、陽に波がたち、海中より大きな魚が船を浮ばせて船は進んだ。大風が順風となり帆船は波に乗り、梶や櫂を使わずして新羅に到着する。この時、船を乗せた潮流は遠く新羅の国の内部にまで押し寄せた。これは、天神地祇(天津大神と国津大神)がことごとく助けてくださったこと知ることができる。これに新羅の王は恐れに恐れ、成す術もなく、諸人を集め次の事を告げる。
「新羅を建国して以来、海の水が国に乗りあがってきたなど聞いたことがない。もしかして、天運が尽き、国が海になってしまうのだろうか。」言い終わらないに、船群は海に満ち、旗が日に輝き、鼓笛の音が響き渡り、山川を悉く震わせた。
新羅王/波沙寐錦(はさむきむ)は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、戦わずして降服し、朝貢することを誓う。
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※日本書紀に記載される「新羅」は新羅の事ではない。三韓のひとつ「弁韓」での出来事である事が推測される。新羅とされているのは、あくまでも日本書紀が6世紀に編纂されたため。
※当時の朝鮮半島の海岸線が現在と同じであるかは不明。
※当時の朝鮮半島の事情では、河川や海岸での水軍の配備は珍しいものではない。それは漢(中国)での発展の影響が大きい事や海賊が多かった事からも伺える。倭軍の船が河川を逆行してきただけであれば、確実に戦(いくさ)となり、多くの犠牲が出た事が記載される。国王が「建国以来起こったことがない」という事を事実として告げた事が記載にあるのであれば、地震などの災害による洪水被害が発生し、その時、倭の軍勢が潮浪に乗って現れた事になる。
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新羅王は尋常ではない兵が己の国を滅ぼそうとしている事を悟ってしまった。これに気を失い、しばらくして目が覚めると「吾は、東に日本(ひのもと)という神の国があると聞いたことがある。そこには天皇という聖王がいると聞く。なればそれはその国の神兵であろう。挙兵して防ぐことなど出来はしまい。」と告げた。旗を持って降伏し、白紐で自分の首を縛り、地図・戸籍を封して、王船の前に投降した。そして頭を地につけて、「今より後は、天地と同じように長く、飼部として、お仕え申し上げます。船の舵を乾かすことなく、春と秋には、馬梳と馬鞭(うまのむち)を献上いたします。また、海路が遠いことを厭うことなく、毎年、男女の調(みつき)を献上いたします。」と申し上げ、重ねて誓って「東から出る日が西から出るようにならない限り、阿利那禮河(ありなれがわ)が逆流し、河原の石が天に昇って星にならない限り、春秋の朝貢を欠かし、梳と鞭の貢物を怠ったときには、天神地祇よ、罰を与え給え!」と申し上げた。この時「新羅王を誅ちましょう」という声もあったが、皇后は「初め神の教えを承り、今まさに金銀の国が授かろうとしている。また、三軍に対して、自ら降伏してきた者を殺してはいけないと命令を下した。今、既に宝の国を手に入れ、また人も自ら降伏してきた。殺すのはよろしくない。」と言い、その縄を解いて飼部とされた。そして遂に国中に入り、貴重な宝蔵を封(ほう)じ、地図や書籍といった書簡を収めた。その後、皇后は杖矛を持って、新羅王の門にて突立て、後世の印とした。その矛は、今も新羅王の門に立っている。
新羅王の波沙寐錦(はさむきむ)は、すぐに微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、金・銀・彩の美しい宝物、それに、綾・羅・縑絹を持って、たくさんの船に載せて、官軍に従わせた。これが、新羅王が常に日本国に多くの調貢をする由縁である。
高麗・百済の二国の王は、新羅が図籍を差し出して、日本国に降伏したことを聞き、秘かに日本軍の軍勢を偵察させた。勝ち目はないことを知り、自ら日本軍陣営の外にやって来て、頭を地につけ、「今より後は、永く西蕃として、朝貢を絶やしません。」と申し上げた。これらを以って、内官家屯倉(うちつみやけ)と定めた。これが、いわゆる三韓である。その後、皇后は新羅から帰国した。
10月10日、誉田別尊(後の応神天皇)が生まれる。
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【古事記】
伝わるところ、仲哀天皇が筑紫の橿日宮に居られた。神が沙麼縣主(さばのあがたぬし)の祖の内避高国避高松屋種(うつひこくにひこまつやたね)に依りついて、天皇に「御孫尊が、もし宝の国を手に入れようと望まれるのであれば、望みどおりに与えよう。」と言われ、続けて「琴を持ってきて、皇后に渡しなさい。」とも言われた。神のお言葉どおりに皇后が琴を奏でられると、皇后が神憑りされて、「今、天皇が望む国は、鹿の角のような中身の無い国である。今、天皇が乗っておられる船と穴戸直(あなとのあたひ)の踐立(ほむたち)が献上した大田(おほた)という水田を幣として、私をよく祀るならば、美女の眉びきのような、金銀がたくさんあり、眼にもまばゆい国を天皇に与えよう。」とおっしゃられた。天皇は神に「神とはいえども、どうして戯言をおっしゃるのでしょう。いったい何処に国があるというのですか?朕の乗る船を神に献上したらなば、いったい私はどの船に乗ればよいのですか?それに、まだ何という神かも知りませんので、まずはお名前をお聞かせ願いたい。」と言われた。神は、その名を、「表筒雄・中筒雄・底筒雄」と三神の名をおっしゃられ、更に重ねて、「私の名は、向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(むかひつをもおそほふいつのみたまはやさあがりのみこと)である。」とおっしゃられた。天皇は皇后に、「何と聞きずらい事をいう女だ。なぜに、速狹騰(はやさあがり)などというのだ。」すると、神は天皇に「汝王がそんなふうに信じないのならば、決してその国を手に入れることはあるまい。ただし、今、皇后が懐妊した。思うに、その子がその国を得ることもあるやもしれんの。」と言われた。この夜に、天皇は急に発病して崩御された。その後、皇后は、神の教えどおりにお祭りし、皇后は男装して新羅を征伐された。その時、神が宿って導いてくれたので、御船を乗せた波は、遠く新羅の国の中にまで届いた。
そこに新羅王の宇流助富利智干(うるそほりちか)が出迎えに来て、跪(ひざまづ)き、王の船に頭をつけて、「わたくしめは、今より後は、日本国におられます神の御子に、内官家(うちつみやけ)として、絶えることなく朝貢いたします。」と申し上げた。
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12月14日、筑紫宮にて神功皇后より誉田別尊(後の応神天皇)が生まれる。後の応神天皇。生まれた場所を宇美(うみ)と名づける。
日本では弥生時代末期から古墳時代初期にあたる。

次の年代:
西暦200年〜西暦250年