前の年代:
西暦100年〜150年

西暦150年 〜 西暦200年

大和では大きな内覧が起こるが、そのほとんどは知られていない。中華では漢が衰退し、三国時代を迎える

151年 : 辛卯

後漢/元嘉に改元。
後漢・魏の政治家、書家となる鍾ヨウが生まれる。

153年 : 癸巳

後漢/永興に改元。

154年 : 甲午

新羅/逸聖王が死去。阿達羅王が即位。

155年 : 乙未

後漢/永寿に改元。
後漢末期の英雄にして魏の建国者、曹操孟徳が生まれる。
幼名は、阿瞞また吉利。廟号は太祖。謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。父は曹嵩。曹嵩は夏侯氏であったが中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継いだ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)。曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが疑わしい。また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は高祖劉邦の武将夏侯嬰とされている。魏将、夏侯惇、夏侯淵とは従兄弟にあたる。
月旦で有名な後漢・三国時代の人物批評家許劭(許子将)は、曹操のことを「治世の能臣、乱世の奸雄」(「子治世之能臣亂世之姦雄」『魏志武帝紀』)、もしくは「治世の奸臣、乱世の英雄」(「君清平之姦賊亂世之英雄」『後漢書許劭伝』)と評した。
演義では、「爪黄飛電」・「絶影」を愛馬とし、対となす宝剣「倚天の剣」・「青?の剣」を作らせる(「絶影」は正史の注である魏書にも記述があり、絶影とは影もとどめぬという意味)。
祖父・曹騰は後漢の順帝の時から桓帝まで四代の皇帝に宦官として仕え、大長秋まで昇っており、それなりの財を築いていた。父・曹嵩はその金で太尉の地位を手に入れた。
若い頃の曹操は、機知と権謀術数には富んでいたが、気ままで勝手し放題、品行方正という言葉からは程遠い存在だった。このような曹操の行状は、当時の品行を重んじるという風潮からは疎まれ、曹操を評価する人は、橋玄と何?の2人を除いて、天下にただ一人もいなかったとまでいわれる。
曹操が生まれた頃の後漢朝は、皇帝に接近する事で権力を握った宦官と、それを憎む清流派と呼ばれる士大夫達の間で激しい権力闘争が繰り広げられていた。この戦いは常に宦官が有利であったが、この後、そのような状況を一変させる出来事が次々と発生する。
後漢末期の英雄、孫堅文台が生まれる。
三国時代に成立した呉の皇帝である孫権の父。廟号は始祖。諡は武烈皇帝。家系は孫氏。
董卓との戦いの際、秦の始皇帝が皇帝の印のみに用いるように定めた「玉璽」を入手した事により、「三国志演義」では英雄譚において、曹操、劉備、そして孫堅の名が連ねられる。

156年 : 丙申

鮮卑の檀石槐が北匈奴を破り、モンゴル高原を統一する。
北匈奴が滅亡する。

158年:戊戌

後漢/延熹に改元。

159年:己亥

後漢の桓帝の命令で外戚の梁冀が誅殺される。これ以後、外戚に代わり宦官が勢力を拡大。

161年:辛丑

ローマ/
3月7日、第15代ローマ帝国皇帝アントニヌス・ピウスが死去。
3月8日、第16代ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスが即位。
8月31日、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの子にして後の第17代ローマ皇帝コンモドゥスが生まれる。
後漢/
後漢末の英雄にして蜀の初代皇帝、劉備玄徳が生まれる。
黄巾の乱以後の混乱の中で関羽・張飛などを従えて頭角をあらわし、諸葛亮の補佐を得て蜀を建国した。
『三国志』中の伝では、諡号の昭烈帝ではなく、先主と呼ばれている。(二代目劉禅は後主)これは『三国志』が正統としているのは魏であるので、正統ではない劉備を皇帝としては認めないゆえである。ただし『三国志』の著者陳寿は蜀の遺臣であったので、呉の歴代皇帝が「呉主権」などと諱をそのまま使っているのに比べて、敬意を表されている。子に後継者の劉禅の他、劉永・劉理がいる。また、劉封を養子にしていた。
劉備は自ら前漢第六代皇帝景帝の子・中山靖王劉勝の末裔と主張していた。劉勝は劉貞を初め、孫も含めて120人以上の子を残しており、劉備の直接の祖とされる劉貞は、紀元前112年年始あたりに?郡?県の侯としての漢朝への上納金がなかったために、叔父の武帝の逆鱗に触れてしまい、侯の地位を取り上げられそのまま?に住居していたという。そのため系図もそこで止まっており、劉備との系図の繋がりを確認することは出来ない。
その一方で当時の後漢では、前漢以来の歴代皇帝の末裔に関しては幅広い税の減免が認められていたため、一般の住民が勝手に劉姓を名乗る事は困難であったとも言われており、単純に劉備の主張を嘘と決め付ける事も出来ない。
また中山王の末裔は中山国を初め、?郡や常山郡などに拡がっていたと思われる。仮に劉備が中山王の末裔だとしても、あまり価値はなく劉備同様に没落して庶民同様に零落した家は珍しくなかったと思われる。
なお、『三国志演義』では献帝の前で、劉貞から劉雄までの間の13代を読み上げられるシーンが書かれているがもちろん創作である。
?(たく)郡?県(現河北省?県)の出身で、祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり最終的には東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備が若い頃に死んだために劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生活していた。
劉備は背が七尺五寸(172.5cm)身体的な特徴として腕が膝に届くまであり、耳が非常に大きく自分の耳を見ることが出来たと言う。
15歳の時に叔父の劉元起の援助で廬植の下で学問を学ぶようになる。この時の同窓に公孫?がおり、大変仲が良く、劉備は公孫?に対して兄事していた。
しかし劉備はあまり真面目な学生ではなく、勉学よりも、乗馬や闘犬を好み、仲間達の中でも見栄えがある服装で身を包んだ。男伊達を気取り豪侠と好んで交わりを結び、劉備の周囲には人が集まるようになった。中山の豪商張世平・蘇双とは馬を商って諸国を回っていたが、劉備を見て只者ではないと思い、大金を与えた。劉備はこの金で人数を集めてその頭目となっていた。

162年:壬寅

マルコマンニ戦争が起こる(〜180年)。

165年:乙巳

高句麗/3月、太祖大王は失意の中119歳でその生涯に幕を閉じたという。
新大王が即位する。

166年:丙午

後漢/党錮の禁が起こり、宦官が儒学派の官僚を弾圧する。
後漢の訓詁学者、馬融が死去。
ベトナム/日南(ベトナム・ユエ)に大秦王安敦(ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使者が到着。
百済/蓋婁王が死去。肖古王が即位する。

167年:丁未

後漢/永康に改元。

168年:戊申

後漢/建寧に改元。

169年:己酉

後漢で第二次党錮の禁が起こる。
後漢末から三国時代の武将、張遼が生まれる。

170年:庚戌

ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスの妻、カラカラ、ゲタの母親となるユリア・ドムナが生まれる。

172年:壬子

大和/気長足姫尊(後の神功皇后)が生まれる。
後漢/熹平に改元。

173年:癸丑

三国史記/新羅本紀によれば、倭の女王卑弥呼が新羅に使者を派遣した、とある。

175年:乙卯

呉の武将、周瑜が生まれる。

177年:丁巳

後漢/
鮮卑、漢軍を破る。
後漢末の文学者・学者・政治家となる王粲が生まれる。
後漢末から三国時代の武将となる潘璋が生まれる。
後漢末の武将、孫堅の甥となる孫瑜が生まれる。
後漢末の武将となる霍峻が生まれる。
五斗米道の2代目教主、張衡が死去。
ローマの属州ガリアのルグドゥヌム(現リヨン)でキリスト教迫害が起きる。

178年:戊午

大和/成務天皇が足仲彦尊を立太子(成務天皇48年年目)。足仲彦尊はこの時31歳。
後漢/光和に改元。

179年:己未

後漢/魏の武将、西晋の建国者となる司馬懿が生まれる。
高句麗/新大王が死去、故国川王が即位。

180年:庚申

大和/
大国主尊(大己貴尊)が、日本建国の祖の一人、素佐之男尊スサノオノミコトの末子相続人の須世理姫スセリヒメの養子となる。
(※ここで私用される命名は、役職のようなもの。)
三輪山の北西麓一帯に纒向遺跡が出現(纒向1類)。創建は、180年〜210年頃と推定されている。
ローマ/
3月14日、ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスがウィンドボナで死去。。五賢帝時代が終わる。
3月17日、長男コンモドゥス、ローマ帝国に即位する。

181年:辛酉

後漢/
後漢最後の皇帝、献帝が生まれる。
諸葛亮孔明、生まれる。後の蜀の丞相。
司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀の建国者である劉備の創業を助け、その子である二代目劉禅を丞相としてよく補佐した。
伏竜、臥竜とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。
妻は黄夫人。子には蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻、同母兄に呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪や同母弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、従父(叔父)に豫章太守の諸葛玄。一族には、魏に仕えた諸葛誕・諸葛緒・諸葛璋・諸葛原(景春)らがいる。彼の孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。子孫たちは諸葛八卦村という村に今も生き続けている。
琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが出生地は不明。身長は、8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)もあった。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉(首都圏長官)の諸葛豊で、父は諸葛珪。泰山郡の丞(郡の副長官)を勤めた人だが、孔明が幼い時に死去している。正母の章氏も同様に幼い時に死去しているが父の諸葛珪が妻の死去後に後妻の宋氏を娶っている。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均がいる。他に妹がいる。『呉志』「諸葛瑾伝」の注釈に「諸葛氏は元は葛氏であったが、陽都に移り住んだ際に現地に既に葛氏がいたために諸葛氏と呼ばれるようになった。」という話を載せている。

まだ幼い頃徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時期に起こった曹操による徐州での大虐殺が原因かとも考えられる。後に呉の重臣となる兄の諸葛瑾と継母の宋氏はこの頃に別れたと思われる。
この時の行き先については『三国志』の内、陳寿の本文では従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷から朱皓(朱儁の子)が豫章太守として送られて来て、その後劉表の元に身を寄せたとなっている。
これに対して裴松之注に「『献帝春秋』曰く」と言い、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので、劉表が代わりに諸葛玄を任命し、朝廷からは病死した周術の代わりに朱皓を送り込まれ、朱皓は劉?の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが途中で民衆の反乱に逢い、首にされて劉?に送られたとなっている。
諸葛玄が敗れた後に劉表を頼るのだから最初から劉表の元にいたと考えるのが自然ではあるが、豫章は現在の江西省南昌であり、劉表の根拠地である荊州襄陽(湖北省襄樊)からはかなり遠く、そこの太守を劉表が任命したとするのは無理がある。何故、敗れた後に袁術を頼らなかったのかと言えば、その時に既に袁術が滅んでいたか、或いは滅びかかっていたからであろう。即ちこの出来事の年代は袁術が皇帝を僭称した197年以降の事と考えられる。

182年:壬戌

後漢末の英雄にして呉の初代皇帝、孫権孫権仲が産まれる。
『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」とある。
帯中日津子天皇が崩御したと記述している。一説では帯中日津子天皇は仲哀天皇の事だとされているが、その場合、生まれた年は「130年」という事になる。

184年:甲子

後漢/中平に改元。(張曼成、神上元年とした。)
黄巾の乱が起こる。
太平道の教祖にして黄巾の乱の指導者、大賢良師張角が死去。
変わって、張曼成が指導者となる。張曼成は、自ら元号を「神上元年」と言った。
黄巾の乱は鎮静したものの、これにより中原(漢の国全体を指す言葉)全域において内乱が発生。三国志時代の始まりとされている。
劉備、関羽・張飛・簡雍らと共に義勇軍を結成し名を上げた。その功により安熹県の尉(警察)に任命されたが、郡の督郵が公務で安熹にやって来た際、劉備が面会を求めたが断られた。これに腹を立てて督郵を襲撃し、柱に縛り付けて杖(じょう)で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した。
大和/
倭国乱れ、互いに攻伐しあい(倭国大乱)、長い間盟主なし、と伝える。(『魏志』倭人伝)
この後、卑弥呼が共立されて、王となる。(『魏志』倭人伝)
ここでいわれる卑弥呼については、諸説あり。「日霊女」という発音だけが、「卑弥呼」となったのであれば、役職としての説も考えられる。
「中平□年」の紀年銘を持つ大刀出土する(奈良県天理市東大寺山古墳)。中平は、184?189。ただし、日本の元号ではなく後漢の元号。
新羅/
阿達羅王が死去。伐休王が即位。

185年:乙丑

後漢/ケンタウルス座付近に超新星(SN 185)出現。『後漢書』に記載あり。

186年:丙寅

ローマ/ 4月4日、後のローマ皇帝カラカラが生まれる。

187年:丁卯

後の魏の初代皇帝となる曹操の長子、曹丕が生まれる。

188年:戊辰

後漢の霊帝が西園八校尉の設置などの軍制改革を行う。

189年:己巳

倭国/70〜80年にかけて、諸国が大にに乱れていたが、卑弥呼が邪馬台国の女王/倭国王に就くことで収まる事になった。以後、卑弥呼は240年代に亡くなった次に男子が倭国王となったが再び内乱が生じ、女子の臺與/壹與(台与参照)が倭国王となって乱は終結した。このように、弥生後半の倭国では、巫女的な女子が王位に就くことがたびたび発声する事になる。
『三国志』魏書東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝には邪馬台国をはじめ、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、黒歯国などの諸国についてかなり詳細な記述がみられる。邪馬臺國王卑弥呼も北朝である魏の国に朝貢し親魏倭王の称号を授かった。
台与以後、しばらく倭国による中国北朝 王朝への朝貢の記録は途絶えていた。国造本紀によれば120以上の国造が日本列島の各地に任命され地域国家が形成されていた。
そのなかで、古墳時代4世紀前半までには連合し成立したとされるヤマト王権の王たちは対外的に「倭王」「倭国王」を称したが、初期のヤマト王権は地域国家の諸豪族の連合政権であり、専制王権や王朝ではなかった。地域国家の王たちが、対外的に倭国王と称したこともあったと思われる。
4世紀後期ごろからは東晋など南朝への朝貢がみられるようになり、この南朝への朝貢は5世紀末頃まで断続的に行われた。これが『宋書』に記された「倭の五王」であり、讃、珍、済、興、武という5人の王が知られる。
後漢書によれば、倭国の記載に「一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。とある。
後漢/(中平6年)霊帝が死去し、少帝が即位。
董卓の独裁が始まる。
霊帝の外戚である大将軍・何進が宦官との権力闘争を繰り広げるが敗れ、何進は宦官によって暗殺される。しかし、何進は生前に、宦官を粛清するために諸侯へ向けて上洛を呼びかける檄文を飛ばしていた。
大義名分を何進の檄文が整えてくれている以上、都に上洛し、宦官を排除して天子を補佐することが、権力を握るための最短ルートとなったのである。宦官の時代は、こうしてここに終焉する。
何進の檄文にいち早く反応した董卓が洛陽に上洛、少帝弁を廃して献帝を立て、朝廷を牛耳った。曹操はその暗殺を図るが失敗、洛陽から脱出し、故郷に逃げ帰った。この後も董卓と諸侯の軋轢は進み、東郡太守橋瑁によって詔勅が偽造され、各地の諸侯に連合を呼びかける檄文が飛ぶに至る。
ローマ/
3月7日、カラカラの弟にして共同皇帝プブリウス・セプティミウス・ゲタが生まれる。

190年:庚午

後漢/初平に改元。(初平元年)
袁紹を盟主として反董卓連合軍が成立すると、曹操もまた父・曹嵩の援助を受け、親友である袁紹(曹操自身は袁紹を親友だとは思っていなかったという)のもとに駆けつけた。しかし、董卓打倒を目指して集結したはずの連合軍は、董卓の軍を目前にしながら毎日宴会行い、誰も積極的に攻めようとはしなかった。やがて諸侯はお互いを牽制し始める。
劉備、公孫?の元へ身を寄せ、公孫?から別部司馬とされ、青州刺史の田楷と共に(とあるが、刺史の田楷と県令程度の劉備が共にというのはおかしい)袁紹軍と戦って戦功を上げたので、公孫?は劉備を仮に平原の県令(県長官)にして、その後(県副長官)とした。この頃に平原の地元の人間より刺客を送られるが、その刺客を刺客と知らず厚くもてなしたので刺客は劉備を殺すのが忍びなくなって、自らの任務を劉備に告げて帰ってしまった。
董卓が洛陽を焼き払い長安に遷都したので、曹操は盟主の袁紹に好機だと迫ったが攻撃命令は下されず、単独で董卓を攻撃した曹操の軍は、壊滅的な打撃を受ける(しかし、この無謀ともいえる突撃が評価されて、曹操の名前は全土に鳴り響いたといわれている)。曹操は連合に見切りを付け、故郷に戻って軍の再編を始めた。諸侯もまた撤退、兵力を保持したまま各地に散らばっていった。
事実上、この時点で後漢王朝の全土への支配力は完全に失われ、群雄割拠の時代となった。
ローマ/
セプティミウス・セウェルス、コンスルに就任。
大和/
7月30日、第13代天皇、成務天皇が死去。

191年:辛未

後漢/(後漢/初平2年)曹操は袁紹によって東郡太守に任命。
陽人の戦いで反董卓連合軍が董卓に勝利、董卓は洛陽から長安に遷都。
大和/天皇空位の年。

仲哀天皇元年/192年:壬申

大和/
仲哀天皇が即位。名は足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)。皇后は神功皇后(じんぐうこうごう)。『日本書紀』、『古事記』に事跡が見えるが、その史実性には疑いがもたれる。
記紀によれば,熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は西海の宝の国(朝鮮半島諸国のこと)を授けるという神託を受ける。しかし仲哀天皇はこれを信じず神の怒りに触れ急死してしまう。その後再び神託が下される。こんどは神功皇后の胎中の子(後の応神天皇)にそれを授けるとの内容であった。神功皇后は神託に従いみごもったまま朝鮮半島を攻め、国王を服従させるにいたったという。これを俗に神功皇后三韓征伐という。
また、京都府舞鶴師にある籠神社(このじんじゃ:豊受大神を祀る神社であり、伊勢神宮と対を成す神社であると言われている)に残されている系譜図によると、3世紀頃、日本は、日女(日霊女:ひみこ)と小夜(とよ)の二人の巫女を立てて治められていたという記録が出てくる。ここに天皇(天王)を含め、三神一体(三輪)で国を治めていたという事になる。
後漢/
5月22日。権勢を振るっていた董卓、呂布に殺される。
董卓が呂布に暗殺されると、各地で黄巾の残党が暴れ始めた。?州の刺史・劉岱が黄巾の残党に殺され、曹操はかわって?州刺史に就任。黄巾討伐の詔勅を受け、青州の黄巾軍の残党30万を討伐。これを降して自身の勢力に組み入れ、『青州兵』と名付けた。これ以降、曹操の実力は大きく上昇した。
劉備は、徐州の陶謙が曹操に攻められて田楷に救援を求めてきたので、田楷と劉備は陶謙の元へと向かい、劉備は田楷の元を離れて陶謙に身を寄せるようになった。
曹操は本拠地が呂布に奪われたために撤退し、陶謙は命拾いをした。その後、陶謙は病が重くなり、徐州を劉備に託そうとしていた。劉備は初めは断ったものの陳登・孔融らの説得を受けて徐州を領した。
後漢末期の官僚であり書家、蔡ソウが死去。
ベトナム/
日南郡の区連が蜂起し、独立して林邑(チャンパ王国)を建国。
ローマ/
第17代ローマ皇帝コンモドゥスが死去。アントニヌス朝は断絶。

仲哀天皇二年/193年:癸酉

大和/仲哀天皇が葛城高顙媛の娘(渡来人の新羅王子天日矛の孫)である気長足姫を立后する。
2月、仲哀天皇と神功皇后が、角鹿(現在の敦賀市)の笥飯宮(けひのみや:現在の気比神宮)へ移る。仲哀天皇が淡路(現、兵庫県淡路島)に屯倉(みやけ:大和政権の直轄地経営の倉庫=いわゆる国庫)を定める。
3月、仲哀天皇が南海道の巡幸のため、紀伊国の德勒津宮(ところつのみや)に移動された。神功皇后は笥飯宮に留まる。
3月、熊襲が再叛。仲哀天皇がこの報を聞き、討伐のために、穴門(穴戸、現在の下関海峡)へ移動された。神功皇后は穴門(長門国:現在の山口県)で合流するよう詔が発せられる。
6月、仲哀天皇が穴門豊浦津(あなとのとゆらのつ:津は港町の意味。現在の山口県下関市長府あたり)に到着する。この時、神功皇后は渟田門(ぬたのみなと:現在の福井市)に移動していた。この時、鯛に酒を注いだという逸話を残す。
7月、穴門豊浦津で仲哀天皇と神功皇后が合流する。この時、神功皇后は如意珠(にょいじゅ)を拾われた。※仏教的観点で記載されているため、本当は何を拾われたのか不明。
9月、穴門で宮室が建立。穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)となる。
三国史記/新羅本紀によれば、倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡ったとある。

後漢/初平4年
春、曹操は袁術の軍を打ち破ったので徐州から帰還したが、前年に陶謙の部将に父・曹嵩を含めた一族を殺されていた。夏、その恨みから復讐戦を行う事を決意し、徐州に再度侵攻する。この時、曹操の軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声さえ無く、死体のため河が堰き止められたというほどの惨状であったといわれる(徐州大虐殺)。この虐殺によって曹操は最大の悪評を得る事に至り、『三国志演義』において曹操が悪役扱いされる事の根源となった。
秋、曹操が蝗の為に兵糧を失い、徐州の侵攻を切り上げて帰還した。ところが、親友の張?が、軍師の陳宮と謀って呂布を迎え入れており、領地である?州の大半は呂布の物となっていた。
張?は、呂布が袁紹を見限って去った後に呂布と会い、深い親交を結んだ為に、袁紹に嫉妬されていた。曹操は袁紹にその事を言われる都度に張?を庇っていたが、張?の方は曹操が袁紹との友誼を優先して自分を殺すのではないかと不安になり、裏切った。張?と曹操とは、反董卓連合の時代からの付き合いで、互いが死んだ時には互いの家族の面倒を見る事を約束するほどの仲だった。 それほどまでに信頼していた人間に裏切られた曹操は、愕然とする。
幸い、荀?と程?が本拠地を守り抜き、蝗の為に呂布も軍を引かせた為、曹操は帰還を果たす事が出来た。しかし、この戦いで青州兵は壊滅的打撃を受け、曹操自身も大火傷を負い、従兄弟の夏侯惇も左目を失っている。 このような時、袁紹が機を見計らったかのように援助を申し入れてくる。程?の反対もあり、曹操はそれを断る。この年の秋、穀物の値段は1石50余万銭にもなり、一帯では人が人を食うほどの大飢饉が訪れたので、曹操は苦しい実情を踏まえながらも、兵の補充や役人の雇用を諦めている。徐州では、父の仇である陶謙が死に、劉備がそれに代わっていた。
この時に曹操に敗北した呂布が徐州へやってきたのでこれを迎え入れた。その後、袁術が攻めてきたのでこれと対峙し、一ヶ月が経過した頃、下?の守将の曹豹が裏切って呂布を城内に迎え入れ、劉備の妻子は囚われてしまった。劉備は徐州へ帰って呂布と和睦し、自らは小沛へと移った。
しかしここで兵を集めたことを呂布が不快に思い、攻めてきたので逃亡し、曹操の元へ身を寄せ、再び小沛に入った。更に呂布が攻めてきたので曹操は援軍に夏侯惇を派遣したが、呂布の部下高順に撃破され、劉備の妻子は再び捕虜となった。曹操は自ら出陣して呂布を攻めてこれを生け捕りにした。曹操は呂布が将軍として有能なので殺すのを少し躊躇ったが、劉備は呂布が丁原と董卓を殺したことを挙げて諌めた。これを聞いた呂布は劉備に「こいつの方が信用ならない!」とののしった。
劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許へ入った。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出すときには常に同じ車を使い、席に座るときには席を同格にすると言う異例のものであった。
この頃、宮中では董承が献帝よりの密詔を受けての曹操討伐計画が練られており、その同士に劉備が引き込まれた。あるときに曹操と歓談していたときに曹操より「天下に英雄といえばあなたと私だけだ。袁紹などでは不足だよ。」と評されている。その後、討伐計画に対して具体的な行動を起こさぬうちに朱霊、路招らと共に袁術討伐に赴くが、袁術が途中で死去して空振りに終わる。
セプティミウス・セウェルスがローマ帝国皇帝となる。
ローマ/
5人の皇帝が即位するという年となる。
1月1日。ペルティナクス、ローマ皇帝に即位
3月28日。ペルティナクス殺害
3月28日。ディディウス・ユリアヌス、親衛隊の帝位の「公開競売」を落札、ローマ皇帝に即位
4月9日。セプティミウス・セウェルス、軍団の支持を得てローマ皇帝に即位
6月1日。ディディウス・ユリアヌス殺害
セプティミウス・セウェルスが、ペスケンニウス・ニゲルを、キジクス、ニケアにて敗る。
セウェルス帝は属州アフリカのレプティス・マグナ出身で、皇帝になると同時にこの都市の大開発を行う。

仲哀天皇三年/194年:甲戌

後漢/元号を興平に改元。
ローマ/
ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスが、ペスケンニウス・ニゲルをイッソスで敗る。
ローマ帝国の皇帝自認者ペスケンニウス・ニゲルが死去。

仲哀天皇四年/195年:乙亥

後漢/興平2年
春、曹操は呂布から定陶で大勝利を得た(定陶の戦い)。呂布は劉備を頼って落ち延び、張?もそれに付き従ったが、曹操は、張?が弟である張超に家族を預けているのを知ると、弟の張超を攻撃。
秋、根拠地の?州を全て奪還した曹操は、?州牧に任命された。
冬、張超を破り、張?の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。前後して、袁紹は公孫?をうちやぶり、河北をほぼ平定している。
劉備は朱霊たちが帰還した後に、下?の守将車冑を殺して、徐州を領有し、下?の守備を関羽に任せて自らは小沛に移った。曹操と敵対することになったので孫乾を派遣して袁紹と同盟し、曹操が送ってきた劉岱、王忠の両将を破った。
しかし曹操自身が攻めてくると敵し得ず、袁紹の元へと逃げ、関羽は劉備の妻子と共に曹操に囚われる。
袁紹の長子袁譚はかつて劉備が茂才(郷挙里選の科目)に推挙したので、その縁で袁紹の元へ身を寄せて大いに歓待された。袁紹が曹操と官渡でにらみ合っている時に、汝南で元黄巾軍の劉辟が曹操に対して反旗を翻したので劉備はこれに合流して曹操の後背地を荒らしまわった。この時に関羽が曹操の元から逃げ出して劉備のところへ帰ってきた。
その後、曹仁により撃破されて袁紹の所へ帰るが、最早袁紹の元から離れたいと考えて荊州の劉表に袁紹との同盟を説いてくると偽ってそのまま劉表の元へと身を寄せた。

仲哀天皇五年/196年:丙子

後漢/元号を建安に改元。
後漢の献帝が洛陽に帰還、さらに曹操の庇護を受け許に遷都する。
新羅/伐休王が死去。奈解王が即位。
ローマ/セウェルス帝が反対派についたビュザンティオンを征服し破壊する。

仲哀天皇六年/197年:丁丑

高句麗/故国川王が死去。山上王が即位。

仲哀天皇七年/198年:戊寅

後漢末期の将、呂布が死去。

仲哀天皇八年/199年:己卯

金官伽耶(伽耶国)/
3月20日。太祖、首露王が死去。居登王が即位。
後漢/袁術が死去。
ローマでカリストゥスのカタコンベ(英語版)が造営される。
助祭カリストゥス(後にローマ教皇)がアッピア街道沿いに作らせたもので歴代教皇の墓がある。
大和/
1月4日、仲哀天皇と神功皇后が筑紫においでになられた。
岡県主の祖先の熊鰐(わに)が、周芳沙麼(現。山口県防府市佐波)の浦にてお迎えをされ、以下の魚や塩の産地を献上する。
(大きな賢木を根こぎにして、大きな船の舳(へ)に立てて、上枝に白銅鏡、中枝に十握剣、下枝に八尺瓊をかけてお迎えしたと記載されている。)
穴門から向津野大済(大分県宇佐郡向野)までを東門、名籠屋大済(なごやのおおわたり:福岡県戸畑の名籠屋崎)を西門とし、没利島(もとりしま:六連島)・阿閉島(あへのしま:藍島)を限って御筥とし、柴島を割いて御なへ(扁瓦:みなへ)とした。また、逆見の海を塩地(塩の産地)とした。
海路の案内をし、山鹿岬から岡浦に入った。岡浦の入り口にかかった時、船が進まなくなり、仲哀天皇が熊鰐に理由を訪ねてみたところ、大倉主と菟夫羅媛(つぶらひめ)の男女二神によるものと推定。仲哀天皇が祀事を行ったところ、船が再び動き出した。
神功皇后は別の船で移動し、洞海(くきのうみ)から入られた。しかしm潮が引いたため、船が進まなくなる。熊鰐が神功皇后をお迎えしようと、洞海に到着すると神功皇后の船が動かなくなっている事を確認し、急いで魚や鳥を献上した。これによって、神功皇后は怒りの心を解かれた。
再び潮が満ち、船が動く事になったため、神功皇后は岡津に泊まられた。
※現在の山口県防府市は埋め立て地であり、当時は防府市佐波〜八王子のあたりが海岸線であった。向島はもちろんの事、田島山や堀越三神社の山などは、小島を形成していた。
筑紫の伊都県主の先祖である五十迹手(いとて)が、仲哀天皇の来訪を聞いて、穴門の引島(ひこしま:彦島)にてお迎えにあがる。
(大きな賢木を根こぎにして、大きな船の舳(へ)に立てて、上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡、下枝に十握剣をかけてお迎えしたと記載されている。)
天皇へ言祝ぎを捧げた後、仲哀天皇は五十迹手を褒め、「伊蘇志」の名を贈った。これにより、五十迹手の国は伊蘇国となり、のちに「伊都」と言われるようになる。

1月21日、灘県(現在の福岡県博多市)に、仲哀天皇と神功皇后が到着され、橿日宮(香椎宮)へ移動する。
9月5日、仲哀天皇が群臣に詔して熊襲を討つことを神託された。この時、神功皇后に神懸かりがおこり、以下の事を告げられた。
「天皇はどうして、熊襲が従わない事を憂うのか。彼の地は荒れて痩せた地である。戦いをして討ても、その果には見合わない。彼の国よりも勝って宝のある国、譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。そこには目に眩い金・銀・彩色などが沢山ある。
彼の国を栲衾新羅国(たくぶすましらぎのくに)という。もし、よく吾を祀れば、犠牲を出す事もなく、彼の国はきっと服従するであろう、また熊襲も従うであろう。
祭りを行うのであれば、天皇の御船と穴門直践立(あなとのあたいほむだち)が献上した水田(名づけて大田)をお供えしなさい」というものだった。
仲哀天皇は、この神託を聞くも、疑いの心があった。そこで高い岳に登って遥か大海を眺められたが、広々としていて国は見える事はなかった。
仲哀天皇は、神に「海を見渡してみましたが、海だけがあって国はありません。どうして大空に国がありましょうか。どこの神が徒に私を欺くのでしょう。またわが皇祖の諸天皇たちは、ことごとく神祇をお祀りしておられます。どうして残っておられる神がありましょうか」と答えた。
ふたたび神功皇后は神懸かり、「水に映る影のように、鮮明に自分が上から見下ろしている国を、どうして国がないといって、吾が言をそしるのか、汝はこのようにいって遂に実行しないのであれば、汝は国を保てないであろう。ただし皇后は今はじめて身ごもっている。その御子が国を得る事になるだろう」という神託を下ろした。
仲哀天皇はそれではも神託の内容を信じる事ができず、熊襲征伐に出るが、征伐は失敗におわる。

仲哀天皇九年/200年:庚辰

後漢/
曹操・袁紹の争いが激化する。
序戦は白馬の戦い、決戦が官渡の戦い、終局が倉亭の戦い(袁紹軍壊滅)となる。
官渡の戦いが起こる。
曹操は、最強の敵である袁紹を破り、その死後、華北(中国北部)を統一した。
劉備は袁紹の元から逃げ出した後、曹操に追い散らされて劉表を頼って、荊州の北部・新野(河南省新野)に居城を貰っていた。劉表から新野城(現河南省新野)を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇、于禁の軍を博望にて撃破した。しかし劉備の元に集まる人が増えたことで劉表は劉備を猜疑するようになり、曹操が烏丸を討伐に行った隙をついて許を襲撃するように劉表に進言したが、これは受け入れられなかった。この時期のエピソードとして裴松之の『九州春秋』からの引用で「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた。」と言う話がある。このことから髀肉之嘆の言う故事成語が生まれた。
北の曹操の強大化に伴い、それまでは平和であった荊州も危険なのではないかと有志の間では話し合われていたが、頭領の劉表は年齢から病気がちになり、その後継も長男・劉?と次男の劉?で激しい争いが行われ、有志たちの失望を買っていた。
孔明は相変わらずの晴耕雨読の生活を過ごしていたが、徐庶は劉備の元に出入りしており、徐庶は孔明の事を劉備に話していた。人材を求める劉備は徐庶に孔明を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「孔明は私が呼んだくらいで来るような人物ではない。」と言い、劉備は3度孔明の家をたずねて、やっと会うことができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之注には「『魏略』曰く」と書いて、孔明の方から劉備を訪ねたという話を載せている。また別に『襄陽記』から劉備に対して人物鑑定家として有名な司馬徽が「伏龍・鳳雛とは孔明と厖統の事だ。」と言ったという話が載せてある。
この時、孔明は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たる事を避けて荊州・益州を領有し、これを持って天下を争うべきだと勧めた。そして、諸葛亮は劉備に仕えた。
後漢末期の訓詁学者、鄭玄が死去。
呉/
後漢末の武将、孫堅の長子、呉の初代皇帝孫権の兄である、孫策伯父が死去。孫権仲謀が君主となる。
ローマ/
後のローマ皇帝タキトゥスが生まれる。
大和/
2月4日、仲哀天皇が病に伏せられる。
2月5日、第14代天皇、仲哀天皇が死去。
『天書紀』によれば、熊襲の矢に当たッた事が原因で、橿日宮(訶志比宮、現香椎宮)にて死去したとされる。
仲哀天皇の喪については、神功皇后と武内宿禰が隠し、天下には知らされなかった。
神功皇后は、武内宿禰以外に、烏賊津連(いかつのむらじ)、大三輪友主君(おおみわのおおともぬしのきみ)、物部胆咋連(もののべのいくいのむらじ)、大伴武以連(おおとものたけもつのむらじ)の4名を招集し、事の次第を伝えて宮中を守らせた。
遺体は武内宿禰により、筑紫から密かに海路を穴門を通って穴戸豊浦宮(現下関市)で殯されたと記される。
2月22日、武内宿禰は穴門から橿日宮に戻り、神功皇后に報告をおこなった。
この後、神功皇后は神羅に侵攻する(神羅の役)事になり、仲哀天皇の葬儀は執り行われなかった。仲哀天皇について日本書紀に記載があるのはここまで。

『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」とあるが、なぜ52歳なのかは不明。
壬戌の年は182年に相当し、その52年前は西暦130年となる。この年は、景行天皇が崩御された年でもある。

古事記および日本書紀巻九「氣長足姬尊 神功皇后」より継続。
皇后は、仲哀天皇が神託に従わず早く崩御した事に心を痛めていた。そして「仲哀天皇に祟られた神を知り、栲衾新羅国を求めよう」と思った。
そこで、群臣(まへつのきみたち)と百僚(つかさつかさ:つまり官僚の事)に勅を発し、罪を祓い、過ちを改め、小山田邑(現、福岡県古賀市小山田?)に斎宮を建てる。
(※小山田邑=福岡でなければ、山口県の屋代島にある小山田か)
3月1日(壬申朔)、神功皇后が小山田邑の斎宮で武内宿禰を審神者として再び神託を行う。7日七夜にわたって行われた神託により、前年に託宣した神が五十鈴宮の撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)、事代主神、住吉三神などであることを確認した。
その後、吉備鴨別を熊襲国討伐に派遣し、熊襲を従わせた。
3月17日(戊子)、神功皇后が、松峽宮(現、福岡県筑前町)に移動。
荷持田村を上がった先にいる「羽白熊鷲」という者について聞く。剛健にして姿赤く翼を持ち、高く(空を)翔ける能力を持つ。また、天皇に従わない盗人の民との事。
3月20日(辛卯)、層増岐野(そそきの:場所は不明)にて羽白熊鷲を討つ。(左右?)側にいた者?もしくは左右を見渡すほどの民?が「熊鷲を取って心が安らかになった」と言われたので、その地を「安(現、夜須)」とした。
3月25日(丙申)、山門郡(やまとごおり:現、福岡県の筑後川下流域あった?)にて、田油津媛という土蜘蛛(反朝廷勢力のひとつ。「蝦夷」「土蜘蛛」と区別されていた)を討ち取る。田油津媛の兄である夏羽は、軍を興して迎え撃とうとするが、妹が討たれた事を聞いて、逃げたとの事。
4月(壬寅朔甲辰)、北方の火前国の松浦郡に到着して、玉嶋里の小河のそばで食事をする。
この時、皇后は針を曲げて鈎を作り、粒(米粒の事?)を取って餌にした。裳(羽織)のいとを抜き取って釣り糸にした。河の中程の石の上に登り、鈎を投げて祈った。
「私は西方に財の国を求めようと思う。もし事を成すことができれば、河の魚よ鈎を飲め」と言った。
それで竿を挙げると、細鱗魚(あゆ?)が獲れた。その時に皇后は「珍しい物を見た」と言った。それで当時の人はそこを梅豆邏の国と名付けた。

【日本書紀から】今(西暦650年頃)、松浦というのは訛ったものである。ここでは、その国の女が四月の上旬になると、鈎を河の中程に投げて細鱗魚(あゆ)を捕ることは、今に至るまで続いている。ただ男だけで釣っても魚を取ることが出来ない。

また、すでに皇后は神託の(霊)験を民に知らしめ、さらに神祗(天津神と国津神)を祭祀にて奉り、自らが征西を考えた。
そこで、神田を定め、朝廷直営の田を造った。この時灘の河水を引き、神田を潤わすために溝を掘った。
迹驚の岡(とどろきのおか:現、福岡県筑紫郡那珂川町にある。後に安徳天皇が滞在した)に及ぶと大磐(巨大な岩)が塞いで溝を通す事ができなかった。
神功皇后は武内宿禰を呼び、剱と鏡を捧げて神祗に祈祷させ、溝を通せるように祈願した。その時、雷電がほとばしり、その岩を打ち砕いた。これによって水が通ったため、当時の人々は、その溝を裂田の溝となづけた。
神功皇后は橿日の浦に戻った。神を解き海に臨み、「私は神祇の教え受け、皇祖の霊に頼んで滄海を船で渡り、自ら西征を考えている。頭を海水で濯ぎ、もし神の許しがあるなら、髮が自然に2つに分れるだろう」と言った。そして神を海に入れてすすいだところ、神が自然に分かれた。
皇后は、髪を結い分けて元に戻し、群臣に「これより軍を興し兵を動かす。これ國の大事なり。無事に成し遂げるも、危険にあい討たれるも此度の戦で決まる。これから征伐する地がある。この大事を群臣の皆に任せる。もし成し遂げなければ、罪は皆ともにに降りかかるだろう。これは、とても痛ましい事だ。私は女人である上に愚かだ。然して今暫くの間、男の顔になって、強く勇敢な計略をたてる。上は神祇の霊を纏い、下は皆の助けを以って、兵を奮い立たせ急峻な浪を渡り、船をまとめ上げて財の地を求めよう。もし成し遂げたならば、皆に論功がある。成功しなければ私一人に罰を与えなさい。すでに覚悟は決めた。さあ共に戦略を練ろう」と言った。
群臣の皆は「皇后、天下と国家(宗廟社稷:そうびょうしゃしょく)平穏のために計を巡らす。その罪は臣下にないと言われる。(我らは)敬意を以って詔を承った」と応えた。
9月(庚午朔己卯)、諸国に令を発し船と兵の招集したが、兵の招集は難航する。皇后は「これも神の御心だろう」と言われ、大三輪の社を建て刀と矛を奉納した。すると自然に兵が集まり軍となった。是を以って、吾瓮海人(あべの島の海の民)の烏摩呂を使いに出し、西の海にの先に國があるのかを調べさせた。烏摩呂は戻ってきて「國は見えなかった」と答えた。また、磯鹿(磯良:いそら)海人の名草に国があるか調べさせた。名草は数日後に戻り「北西に山が見えた。横網のように雲の帯があったので、国があるものと思われる」と答えた。
そこで、出発のための吉日を占うとまだ日が有った。
皇后は、自ら斧と鉞を持ち、三軍に「鐘・太鼓で指示せず軍旗が入り乱れると軍が整わない。財を貪って欲張って私腹を肥やそうとすれば、きっと敵の捕虜となるだろう。敵が少ないものと侮るな、強敵でも屈するな。則ち邪に暴れる者は許すな、自ら服従する者は殺すな。それで戦いに勝ったら褒美が有る。逃げたら罰するぞ」と命じた。
すでに神の教えで「和魂に服すれば、王(きみ)の寿命を全うできる。荒魂なれば率先して軍艦を出撃させる」と言った。(和魂とはにぎみたま、荒魂とはあらみたま、という)神の教えを得て、拝んだ。それで依網の吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)を神主にして祀った。その時に、たまたま皇后の出産の時期にあたった。皇后は、それで石を取って腰に挟んで、「事がすんで帰ったら、この土地で生まれよ」と祈った。その石は、今、伊覩縣の道の辺に在る。それで荒魂で指図して、軍の先鋒となり、和魂で願って、王船のはやる気持ちを落ち着かせた。

10月、神功皇后がお腹に子供を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵し、新羅国に侵攻した。
新羅王/波沙寐錦(はさむきむ)は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、戦わずして降服し、朝貢することを誓う。

10月10日、誉田別尊(後の応神天皇)が生まれる。
日本では弥生時代末期から古墳時代初期にあたる。

次の年代:
西暦200年〜西暦250年