前の年代:
西暦150年〜200年

西暦200年 〜 西暦250年

大和国で神功皇后が治世を行う。中華では三国時代に突入。

200年頃

この頃、海面はまだ現在よりも数m高い位置にあった。
現在の日本の地形に4m〜6mほど海面を上昇させると、埋立地などを除き、おおむね当時の日本の地形を再現する事ができる。
当時の大阪は、淡路/難波宮(現在の大阪城)/天王寺を縦につないだ陸地になっており、そこを境界として東に淀川を口とする入江(河内湖)、西に大阪湾が広がっていた。

神功皇后摂政元年/201年:辛巳 : 癸巳

後漢/
倉亭の戦いが起こる。倉亭を守備していた袁紹配下の軍が、曹操軍に破られた。敗戦後、冀州の各地で反乱が勃発したが、袁紹は軍勢を立て直すと全て鎮圧した。また、曹操も袁紹の存命中は河北に侵攻しなかった。
汝南から劉備が身を寄せて来ると、劉表はこれを受け入れた。劉表は劉備を新野に駐屯させ、曹操への備えとした。
大和/ 仲哀天皇の皇子が生まれたばかりの誉田別尊だけだったため、神功皇后が摂政となり、大和を治国。記録では任期69年(270年)とされている。
この時、仲哀天皇は崩御しているものの、神功皇后が摂政として仲哀天皇を立てていた可能性がある。
海外では、これより1600年頃まで「日本を治める天皇とは神功皇后の事だ」と伝えられる。
※天照大神巫女(ひみこ)、豊受大神巫女(とよ)、神功皇后の計3名の女性による大和の治国。

神功皇后摂政2年/202年:壬午

後漢/
5月。後漢末の武将、三国志に登場する群雄の一人、袁紹が死去。
袁紹は発病し、苦悶の内に血を吐いて死去したとある(『三国志』魏志「袁紹伝」)。ふだん民衆に仁政を行ったため、この死を聞いた河北の百姓たちは嘆き悲しんだという(『献帝春秋』)。袁紹は生前に明確な後継者を選んでいなかった。このことが彼の死後に災いして、袁氏勢力は長男の袁譚派(郭図・辛評ら)と末子の袁尚派(審配・逢紀ら)に分裂する。

神功皇后摂政3年/203年:癸未

後漢/
曹操が荊州へ侵攻し西平に駐屯した。すると、まもなく河北では袁譚と袁尚が争うようになった。曹操は袁譚と同盟を結び、袁尚を攻撃するために撤退した。この戦いの前後に、劉表は劉備を博望に派遣し、夏侯惇・于禁らの率いる軍を退けている。
ローマ/
3月20日。後のローマ帝国セウェルス朝皇帝ヘリオガバルスが生まれる。
セプティミウス・セウェルス帝がガラマンテス族を破り属州アフリカの「リメス・トリポリタヌス」を拡大する。
フォロ・ロマーノのセプティミウス・セウェルスの凱旋門が建設される。

神功皇后摂政4年/204年:甲申

後漢(建安9年)/
中国東北部の遼東太守である公孫度の後を継いだ嫡子・公孫康が、楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を割いて帯方郡を分置した。これにより南方の土着勢力韓・濊族を討ち「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」[3]という朝鮮半島南半の統治体制を築く。郡治とは、その周囲の数十県(城)の軍事・政治・経済を束ねる一大機構であり、個々の県治よりもひときわ大きな城塞都市であった。公孫康はほどなく魏の曹操に恭順し、その推薦によって後漢の献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、帯方郡も後漢の郡として追認された。
曹操、袁氏の本拠である鄴を攻め落とし、ここに本拠地を移す。
遼東/
遼東の公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置。『三国志』魏書 東夷伝韓条よれば、韓(三韓)や倭まで勢力を広げたとされている。日本での歴史においては、公孫康に関する記事は今のところ、発見されていない。

神功皇后摂政5年/205年:乙酉

後漢(建安10年)/
曹操が袁譚を討ち取る。

神功皇后摂政6年/206年:丙戌

後漢(建安11年)/
曹操が河北の制圧を完了する。

神功皇后摂政7年/207年:丁亥

後漢(建安12年)/
烏桓の大人(単于)楼班と袁煕・袁尚兄弟らが曹操に追われ遼東郡に逃れてきた。公孫康は、袁尚らがいることを理由に曹操が攻めてくる事を恐れ、楼班をはじめ袁煕・袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出した。
袁氏に味方する烏丸(うがん)族を討ち、袁氏一族を滅ぼした。
曹操は、公孫康を襄平侯・左将軍に任命した。
曹操の実力は圧倒的な物となり、残るは荊州の劉表、呉の孫権、蜀の劉璋、漢中の五斗米道、関中の馬超を筆頭とした群小豪族、寄る辺の無い劉備だけとなった。曹操は三公制を廃止し、自ら丞相となり天下統一への道を固めた。曹操は15万の軍を南下させ、病死した劉表の後を継いだ劉宗を降し、長江を下って呉へ攻め込もうとした。呉の大将は周瑜。呉と劉備の連合軍は5、6万と推定される。
曹操が遼東に遠征すると、劉備はその留守を狙うよう進言したが、劉表は進言を退け動かなかった。
劉備が諸葛亮の元に訪れる・
孔明は相変わらずの晴耕雨読の生活を過ごしていたが、徐庶は劉備の元に出入りしており、徐庶は孔明の事を劉備に話していた。人材を求める劉備は徐庶に孔明を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「孔明は私が呼んだくらいで来るような人物ではない。」と言い、劉備は3度孔明の家をたずねて、やっと会うことができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之注には「『魏略』曰く」と書いて、孔明の方から劉備を訪ねたという話を載せている。また別に『襄陽記』から劉備に対して人物鑑定家として有名な司馬徽が「伏龍・鳳雛とは孔明と厖統の事だ。」と言ったという話が載せてある。
この時、孔明は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たる事を避けて荊州・益州を領有し、これを持って天下を争うべきだと勧めた。そして、諸葛亮は劉備に仕えた。
なお、後の公孫康の没年は不明とされている。曹丕(文帝)の時代までには死去していたらしく、曹丕から大司馬を追贈されている。
夏侯淵の五男、夏侯栄が生まれる。
後の蜀漢第2代皇帝、劉禅が生まれる。
袁紹の次男、幽州の刺史、袁煕が死去。
袁紹の三男、袁尚が死去。
曹操に仕えた軍師、郭嘉が死去。
張繍が死去。董卓→劉表→曹操と複数の将に仕えた。

神功皇后摂政8年/208年:戊子

後漢/
後漢から三国時代へ移行する。
袁氏勢力を完全に滅ぼした曹操は、江南征服に向けて鄴に玄武池という大きな池を作り、ここで兵士に水軍訓練を施した。江南には河川が多く、華北の兵にとって不慣れな水の上の戦いになることが想定されたからである。そして三公制度を廃して漢初の丞相・御史大夫制度に戻し、自ら丞相となった。
7月、まもなくして曹操が南下を開始、中国統一にいよいよ乗り出してきた。
8月、劉表が死去。劉表死後の陣営では長子の劉琦は江夏太守となり、弟の劉鐴が継ぐ。
劉鐴は州を挙げて曹操に降伏した。劉表の兵は曹操に吸収された後、文聘が率いることとなった。長男の劉琦は劉備に荊州牧として擁立されたが、翌年死去した。
劉表のもとで新野に駐屯していた劉備は降伏のことを聞かされていなかったので、手勢を連れて逃れる。逃げ出した。
劉鐴は自らの命を救う策を孔明に聞こうとしていたが、孔明の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉鐴は一計を案じて高楼の上に孔明を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、孔明に助言を求めた。
観念した孔明は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉鐴に対して外に出て身の安全を図る事を薦めた。劉鐴はこれに従い、その頃ちょうど孫権により江夏(現在の湖北省武昌)太守の黄祖が殺されており、空いていたこの地に赴任する事にした。劉表が持った兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となっている。これはやはり孔明の深慮遠謀であったと見て良いだろう。
劉備が曹操より逃亡を図ったこの時、劉鐴配下や周辺の住民十数万が付いてきた。そのためその歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。
ある人が住民を捨てて早く行軍し江陵を確保するべきだと劉備に進言したが、「大事を成すには人をもって大本としなければならない。私についてきた人たちを捨てるのは忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。
その後曹操の軽騎兵隊に追いつかれて大打撃を受け、劉備の軍勢すら散り散りで妻子と離ればなれになり、娘は曹操に捕らえられるという悲惨な状況だった。ただし、趙雲が乱戦のなか劉備の子・阿斗(後の劉禅)と甘夫人を救っている。殿軍を務めた張飛の少数部隊が時間稼ぎをし、関羽の軍と合流することで態勢を立て直し、更に劉表の長子・劉埼の軍と合流した(長坂の戦い)。
一方、江陵に入城した曹操は荊州の人士に対して論功行賞を行って荊州を治めた。
この時、益州の劉璋は陰溥を使者として派遣して曹操に敬意を表した。曹操は劉璋に振威将軍の将軍位を与えた。この際、兄・劉瑁は平寇将軍の官位を貰っている。その後、劉瑁は精神を病み間もなく亡くなった。
曹操は、さらに東の孫権に対して降伏勧告の書状を送った。孫権陣営は張昭を始めとした降伏派と魯粛・周瑜らの開戦派に分かれていた。
劉備陣営のある夏口では、孫権から魯粛が情勢観察のために派遣されてきていた。
孔明は魯粛と共に孫権の元へ行き、孫権に対して曹操への交戦を説き、同盟の締結を説いた。
『三国志演義』では孔明が降伏に傾きかけていた孫権の気持ちを変えた事になっており、実際に孔明の弁舌は影響を与えたであろうが、孫権が最も信頼する周瑜も早くから交戦を唱えており、決定付けたのはやはり周瑜の弁舌であろう。
赤壁の戦いが起こる。
曹操軍と孫権・劉備連合軍は赤壁にて対峙するが、黄蓋による偽りの降伏と火攻めにより、曹操軍は大損害を受ける。さらに南の気候に不慣れな曹操軍の間では疫病が蔓延しており、不利を悟った曹操は北へ撤退する。
これが赤壁の戦いである。『三国志演義』ではこの戦いに於いて色々と活躍する孔明であるが(詳しくは後述)、『三国志』には孔明の活躍はほとんど書かれておらず、実際に活躍したのは周瑜たち孫権軍の将兵である。
これにより中国全土統一の事業は頓挫し、その後に劉備が蜀の劉璋を降した事により、魏・呉・蜀の三国が割拠することとなった。
曹操は江陵と荊州の守備を部将達に任せると許昌へ撤退した。
孫権はこの機を逃さず、周瑜ら孫権軍と劉備軍はそのまま江陵方面に進軍し、荊州の制圧を開始した。
曹仁の守りは堅かったが、周瑜は甘寧を夷陵に進撃させ、曹仁と徐晃の部隊を分断した。曹仁が夷陵に軍を送り包囲すると、呂蒙の計略を採用し、凌統だけを守備に残して軍のほとんどを甘寧の救援に引き連れ、曹仁の包囲を打ち破り甘寧を救援した。
そのまま長江の北岸に陣を据えて江陵攻撃を続行したが、この時、正面決戦の末に、周瑜は右のわき腹に流れ矢を受けて傷を負った。周瑜は重傷のまま戦に臨み、将兵が周瑜に激励されたのであった。曹仁側には大量の犠牲者が続出し、曹仁を敗退させた。周瑜は偏将軍に任命され、南郡太守の職務にあたった。その功により、孫権は周瑜を都亭侯に任じた。さらに奉邑として下雋・漢昌・劉陽・州陵を与えられ、江陵に軍を駐屯させた。
この時、周瑜の功曹を担っていた厖統士元は、龐統は南郡の功曹になった。
この時、柴桑に駐屯していた孫権は余勢を駆って自ら軍を指揮して江水を下り合肥城へと侵攻を開始した。
曹操は張喜と蔣済に1000人の軍を指揮させ即座に救援として派遣し、汝南を通過する際に汝南の兵を指揮させる事とした。張喜と蔣済の軍はそもそも寡兵であった上疫病により頭数が減っていたが、蔣済は一計を案じ、歩騎4万の軍を率いて向かっているから受け入れの準備をするようにという偽の書簡を揚州刺史に届けた。孫権はこの書簡を届けていた使者を捕らえ、4万の軍勢が救援として接近していると考え軍と共に撤退した。
一方、周瑜は荊州の長江南岸の地を劉備に分け与え、劉備は荊州の南岸に軍を駐屯させ、近隣の公安に軍府を置いていた。しかし、劉備はこれでも士民を養うのに足りないと考え、呉の京城に赴いていたとき、直接孫権のところに荊州の数郡を借りることを頼み込みに行った。この時、周瑜は孫権に上疏し、劉備を篭絡して劉備と関羽・張飛を分断し、両将を自ら率いると献策したが、孫権は今は曹操に対抗するため、一人でも多くの英雄が必要な時期と考え、また劉備を制約させることはできないだろうと判断し、周瑜の提案は却下された。また魯粛は曹操という大敵に対抗するためには劉備に力を与えておくべきと考え、孫権に進言した。
周瑜は、曹操が赤壁での疲弊から軍事行動を起こせないと判断した。その間に劉璋の支配が動揺していた益州を占領し、益州は孫瑜に任せた上で、関中の馬超と同盟を結び、自らは襄陽から曹操を攻めるという計画を立て、孫権の元に出向き、その同意を取り付けた。しかし、その遠征の途上に巴丘にて急逝した。周瑜の遺骸は龐統が江東に送った。
周瑜の死は孫権を大いに嘆かせた。孫権は建業に戻ってくる周瑜の柩を蕪湖まで出迎え、葬儀の費用の一切を負担した。また、後に命令を出し、仮に周瑜と程普が勝手に部曲を保有していたとしても、一切問題にしてはならないと言ったという。のち彼の子女らも呉の皇族と通婚関係を結んでいる。
周瑜の後は魯粛が継ぎ、魯粛の提案を受けた孫権は劉備に荊州を貸し与えた。
劉備が荊州を領有すると、孔明は軍師中郎将に任命され、四郡の内の三郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。また龐統は劉備下に転じた。劉備に耒陽県令の職を任ぜられたが、龐統は仕事を滞らせたために罷免される事となった。れを聞いた孫権軍の魯粛が、劉備への手紙の中で「龐統は大役を与えてこその人物」と薦め、諸葛亮もまた彼を劉備にとりなした。劉備は目通りさせ、彼と充分に語り合ったのち、彼を大いに有能だと評価し、治中従事に任命し、諸葛亮と同じ役職である軍師中郎将に任命された。劉備は龐統と面会し、相互に語り合った。
戦後、劉備は、孫権・曹操の隙を付いて荊州南部の四郡を占領する。
最初は劉表の長子劉埼を傀儡として上表して荊州刺史に建て、荊州の南の四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を併合した。その後程なくして劉鐗が死去したために自ら荊州牧となった。
劉備は荊州の江南諸郡を制圧し、大きく勢力を伸ばした。この後、劉備は以前からの諸葛亮の進言の通り、益州の劉璋を攻め落とす機会を狙っていた。
赤壁ではともに戦った孫権もまた益州を狙っていたが、周瑜の死によって単独の益州侵攻を諦め、劉備の勢力拡大を憂慮した自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせ、共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきた。劉備陣営ではこの提案に乗るべきだという意見もあったが、殷観が、孫権軍の先駆けとなって益州を攻撃するよりも、孫権への態度を曖昧にした上で、独力で益州を攻め取るべきだと意見した為、劉備は殷観の提案に従い、孫権の益州攻撃に賛成しつつも「今は荊州を得たばかりであり、準備ができていない」と返答すると果たして孫権は益州攻撃を断念した。
大和/
三国史記/新羅本紀によれば、倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだとある。
ローマ/
後のローマ皇帝アレクサンデル・セウェルスが生まれる。
遼東/おそらくこの頃に、公孫康が死去。子の公孫淵はまだ幼少であったため、叔父の公孫恭が遼東太守となった。

神功皇后摂政9年/209年:己丑

後漢/
曹操は水軍を立て直し合肥に軍を進めて、北進してきた孫権軍と対峙し、同時に軍屯田を開いて持久戦の構えを整える。史料には同年合肥での本格的な軍の衝突の記録はなく、この時期曹操は合肥の兵力や武将の編成や整備などを行ったものと推測される。

神功皇后摂政10年/210年:庚寅

後漢/
曹操は「求賢令」を出す。内容は「(管仲を登用せずに)もし清廉な士だけを用いていたら桓公は覇者になれただろうか。唯だ才能ある人物を挙げよ」という曹操の唯才主義を表明した文書として有名である。
大和/
石川県白山市部入道遺跡の液状化痕跡から当時、震度6強級の地震があった事が推定される。
呉/
武将、周瑜公謹が病死。

神功皇后摂政11年/211年:辛卯

後漢/
曹操は潼関の戦いに大勝利し、その威信を完全に回復した。これにより西方の憂いが消えた曹操が次に漢中を狙う。
一方、益州牧の劉璋のもとで別駕従事として仕える張松は、劉璋に対して曹操や張魯の勢力に対抗するために劉備を引き入れることを進言した。劉璋陣営では当初は曹操との提携を模索していたが、荊州を支配し増長した曹操に使者が冷遇を受け、その後曹操の勢力が荊州から後退するに伴い、曹操との提携話は立ち消えとなっていた。このとき曹操に冷遇された使者が張松であった。張松は密かに惰弱な性格である劉璋を見限り、劉備を新たな君主に迎えようとする狙いを持っていた。
益州にもようやく張魯や曹操らの脅威が迫りつつあった。元々、戦が不得手であった劉璋は、このこともあって張松らの進言を聞き入れて、あっさりと劉備を益州に入れることを許してしまう。この時、王累・黄権・劉巴らが反対したが、劉璋は聞き入れなかった。
劉璋は黄権や劉巴らが反対する中でこれを聞き入れて法正と孟達を使者として派遣する。しかし、この二名も張松の仲間であり、劉璋を廃立しようとしていた。
劉備の下に、荊州の次に取る予定であった益州の劉璋から五斗米道の張魯から国を守ってほしいとの要請が来た。
しかしその使者となっていた法正は、同僚の張松と益州の支配者を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。
劉備陣営の次の方策として、西の益州を獲ることが考えられていたが、おりしも益州を治める劉璋は張松の説得を受け法正を使者として曹操との関係を絶って劉備と誼を結び、張魯との戦いへの援軍を要請してきた。劉備と対面した法正は張松とともに惰弱な劉璋を見限っており、この機に乗じて益州に入り劉璋からこれを奪うことを進言した。
劉備は難色を示したものの龐統はこれを諫めて、益州を獲ることを劉備に決心させた。龐統は劉備に「無理な手段で益州を奪っても、正しい方法で統治し、道義を持って彼らに報いて、事が定まった後に大国を与えれば、信義に背くことはないだろう」と語った。入蜀に際しては龐統が劉備に同行し、他の主な幹部、関羽・張飛・趙雲と孔明は魏・呉対策のために荊州に残した。
劉備は要請があったことを名目に黄忠、軍師として龐統を伴い二万の兵力を率いて蜀に入り、涪に至ったところで劉璋は自ら劉備を出迎えた。
劉璋が劉備たちの本心を知らずに歓迎の宴を開くなど無防備だったので、龐統はこの機会に劉璋を捕らえて、無用に戦うこと無く益州を取るよう劉備に進言した。しかし劉備は「他国に入ったばかりで、恩愛や信義はまだ現れていない。それはいかん」(これは重大な事であるから、あわててはいけない。)と答え、これを聞き入れなかった。その後、劉備軍は漢中の張魯と対峙する振りをして駐屯し、成都にいる劉璋をどう攻めるかを検討していたが、龐統は劉備に対して、昼夜兼行で成都を強襲する上計・関所を守る劉璋の将を欺いて兵を奪い成都を目指す中計・一旦白帝城まで退く下計の三計を提示した。劉備は中計を採用した。
劉璋は劉備に兵や戦車や武器や鎧などを貸し、劉備軍は総勢3万人となった。そして劉璋の要請に応じて張魯討伐に赴き、葭萌関に駐屯する。しかし劉備は目立った軍事行動は起こさず、人心収攬などに務め、蜀征服の足掛かりを築くことに努めた。
ローマ/
2月4日。ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスが死去。
2月4日。ローマ皇帝カラカラが即位。
2月4日。プブリウス・セプティミウス・ゲタが、カラカラの共同皇帝として即位
12月19日。カラカラが、共同皇帝プブリウス・セプティミウス・ゲタを殺害。

神功皇后摂政12年/212年:壬辰

後漢(建安17年)/
曹操と孫権が揚州をめぐって戦闘状態となり(濡須口の戦い)、孫権は劉備に援軍を求めた。また荊州では楽進と関羽が青泥で対陣していた。そこで劉備は張魯は城に篭っており心配は要らないとして、劉璋から兵と軍需物資を借り、東へ行こうとしたが、劉璋からの援助は要求した半分にも満たないわずかなものであったため、劉備と劉璋は不仲になった。
この時、劉備の帰国の意図を疑った張松は劉備と法正に手紙を送ろうとしたが、張松の兄で広漢太守の張粛に手紙を発見され、張松らの企みは劉璋の知るところとなり、張松は誅殺された。そこで、劉備は龐統の策略を用いて、白水関を守る劉璋の武将である楊懐と高沛を斬り殺して、白水関を占領した。劉備は葭萌城を霍峻に守らせ、劉璋から借りた将兵とその妻子を人質にして、黄忠や卓膺や魏延らとともに、劉璋の本拠地の成都へと向けて侵攻を始めた。
呉/
曹操が来侵しようとしていると聞き、呂蒙は濡須口に濡須塢を作った。
関中から帰った曹操は「賛拝不名・入朝不趨・剣履上殿」の特典を得る。さらに曹操に九錫を与え、位を魏公に進める提案がなされたが、荀彧はこれに反対した。その後、荀彧は尚書令を解任され、孫権との戦いに随行し、途中で病死したとされる。しかし実際には荀彧には空の弁当箱を送り、自死を強いられたとも言われる。
荀彧が死んだ後、曹操は冀州の十郡を領地として魏公の位に登り、九錫を与えられた。九錫は王莽に与えられた特典であり、簒奪の前段階であることは誰の目にも明らかであった。さらに漢中から帰った建安二十一年(216年)に魏公から魏王へと進む。
ローマ/
ローマ皇帝カラカラが「アントニヌス勅令」発布。
ローマ帝国の全自由民にローマ市民権を与える。

神功皇后摂政13年/213年:壬辰

後漢(建安18年)/
魏国が成立。曹操、魏公となる。
曹操の魏公・魏王就任に対する反発から朝廷内で曹操に対する不満は高まっていた。
正月、曹操は40万の大軍を率いて濡須口に進め、孫権の長江西岸の陣を攻撃して打ち破り部将の公孫陽を捕らえるなどしたが決定打には欠いた。孫権も自ら防衛の指揮を執ったが、孫瑜はこれを諫めている。董襲の乗艦が夜間の突風で横転、転覆し、董襲は死亡した。この時董襲は部下に下船するように説得されたが、将軍としての責務を説き最後まで艦の復帰を図った。
曹操は夜中出撃し中洲に上陸したが、孫権は水軍の指揮を執り中洲にいる曹操を包囲、3000人を捕虜にし、溺れ死んだ敵兵も数千に上った。孫権は積極的に戦いを挑もうとしたが、曹操が出撃してこないのを見て大船に乗って来て軍を観、曹操は弓弩を乱発させた。箭はその船に著しく、船が偏えが重くなって顛覆しそうになると孫権は船を迴らせ、逆舷にも敵の矢を浴び、艦の均衡を保った。孫権が帰還して楽隊に盛大に音楽を鳴らさせた。曹操は孫権の布陣に少しの乱れも無いことに感嘆し、「息子を持つなら孫権のような息子がいい」と周囲に語ったという。
呂蒙は奇策を度々行い、献策で予め構築しておいた濡須塢が功を奏して曹操は川を下って軍を進める事ができず、曹操は一月余り対峙したあと撤退した。
戦い後、曹操は蔣済の意見に従わなかったため、長江・淮水のあたりに住む10余万の人々はみな慌てて孫権側へ逃げ込んだ。
劉備が蜀へ侵攻する。
劉備の進撃を防ぐために劉璋は張任・冷苞・劉璝・鄧賢・呉懿(呉壹)らを派遣した。しかし劉備本軍は冷苞・劉璝・張任・鄧賢らを破り、涪城を占拠し、綿竹の総指揮官である李厳や費観や呉懿ら劉璋軍の武将が劉備に投降するなど、劉備軍が優勢なまま戦況は進んだ。なかでも黄忠は常に先駆けて敵の陣地を攻め落とすなど、その勇猛さは三軍の筆頭だったという。しかし劉璋軍の張任と劉循は雒城に立て籠もって徹底抗戦した。

神功皇后摂政14年/214年:甲午

後漢/
献帝の皇后伏皇后が殺されるという事件が起きる。伏皇后は献帝が曹操を恨んでいるという手紙をかつて父の伏完に送ったことがあり、露見して殺されるということになった。これに数百人が連座した。
劉備軍は、成都攻略の前に劉循・張任が守る雒城を包囲した。しかしこの包囲戦の最中、龐統は流矢(雨のように降りそそぐ矢、あるいは流れ矢)に当たって死去した。劉璋軍の郡県の長が劉備に降伏する中、広漢県を守る黄権は堅く門を閉ざして防備を怠らず、終戦まで広漢県を守り通した。また、葭萌城を守る霍峻は劉璋の部将の扶禁・向存ら一万余人の軍勢に包囲されたが、1年に渡り守り通す。そして霍峻は数百の軍勢の中から精鋭を選抜し、城外へ出撃して扶禁・向存を破り、向存を斬った。
一方、劉備が葭萌を出て劉璋攻撃を決定すると荊州にいた諸葛亮を劉備は召しだし、留守を関羽に任せ、劉備と呼応する形で張飛や趙雲らを率いて長江を遡り、巴東郡を降して巴郡に入った。劉璋の武将である巴郡太守趙筰がこれを拒んだが、張飛はこれを破り趙筰の部将厳顔は張飛と戦って生け捕られた。厳顔が毅然とした態度を示したため張飛はその人物を評価して、厳顔を賓客として厚遇した。張飛らは手分けして郡県を平定することとなり、趙雲は自ら江州で分かれて江陽・犍為を平定した。張飛は巴西を攻撃し、巴西の功曹である龔諶が張飛に降伏し張飛を迎えいれた。諸葛亮は徳陽を平定し、劉璋は司馬の張裔に諸葛亮を拒ませたが柏下において敗れ、張裔は撤退した。緒郡県を制圧した張飛らは成都に向かった。諸葛亮、張飛、劉封らの軍勢は劉璋軍との全ての戦いで勝利したとある。
夏ごろ劉備は雒城を攻略した後、諸葛亮・張飛らと合流して成都を包囲した。この時、蜀郡太守の許靖が劉璋を見捨て、城を脱出して降伏しようとしたが、発覚し捕らえられた。事態が逼迫していたため、劉璋は許靖を処罰しなかった。
劉璋は成都城中に3万の兵と1年分の兵糧があり備えが充分であることから抗戦しようと画策した。しかし劉備が李恢を当時張魯のもとに寄寓していた馬超のもとに派遣して帰順を説いたため、馬超は張魯のもとから出奔して劉備に帰順した(当時、馬超は張魯と不仲になっており、その配下の楊白らとも対立していた)。猛将として有名だった馬超が劉備に帰順したことを知った劉璋は震撼した。官民の多くは劉備と戦う覚悟であり、鄭度のように焦土作戦を進言するものもいた。法正は鄭度の作戦を劉璋は採用できないだろうと劉備を安心させ、自身は手紙を送り劉璋に降伏を勧告した。
夏5月、劉備が簡雍を降伏勧告の使者として送り込むと、劉璋は「もはや領民を苦しめたくない」と述べ、降伏・開城した。
劉備は劉璋の身柄と財産を保障し振威将軍の印綬を与えた上で公安に送り、自ら益州牧となり、軍師中郎将の諸葛亮を軍師将軍に、益州郡太守・董和を掌軍中郎将に任命し、ともに左将軍府の政務を代行させた。また、偏将軍・馬超を平西将軍に、軍議校尉・法正を蜀郡太守・揚武将軍に、裨将軍・黄忠を討虜将軍に、従事中郎・麋竺を安漢将軍に、簡雍を昭徳将軍に、孫乾を秉忠将軍に、伊籍を従事中郎に任命し、功に報いた。劉璋の旧臣たちも招聘し、広漢県令・黄権を偏将軍に、蜀郡太守・許靖を左将軍長史に、龐羲を司馬に、李厳を犍為太守に、費観を巴郡太守に、劉巴を西曹掾に、彭羕を益州治中従事に任命し、陣容を充実させた。諸葛亮を筆頭に、法正、張飛と関羽らは功績に応じて金銀銭絹を益州平定の褒賞として賜った。
一方で、曹操もまた漢中を占拠していた五斗米道の張魯を討つために鍾繇を派遣する。すると、この動きに反応した馬超・韓遂ら関中の諸将が反乱を起こす。曹操は自ら軍を率いてこれを撃破。夏侯淵を長安において鄴へ帰還する。その後も馬超・韓遂らは反乱を続けるが、建安十九年(214年)までに関中・涼州の制圧は完了する。
呉・魏/
孫権は電撃的に皖城を落した。
7月、曹操は参軍傅幹の諫言を受け入れず、荀攸を軍師に任命し、孫権の侵攻に報復として、再び自ら10余万の軍勢の指揮を執り、長江濡須を侵攻した。しかし、荀攸・邴原などが出征の途上で病死し、華歆を後任の軍師とした。
曹操は1月余り対峙したあと、孫権は甘寧に3000人を預けて前部督とし、夜陰に乗じての奇襲を指示。甘寧は100人の決死隊を選び夜襲を決行し、これにより曹操軍は混乱を来した。その後も攻防が続いたが曹操軍は濡須塢を攻め落れず撤退した。
後漢が魏、呉、蜀の三分に定まる。
劉備軍は益州を平定し、孔明は軍師将軍・左将軍府事となった。ここでかつて孔明が計画した天下三分が定まった。
蜀を獲って安定した地盤を得た劉備であったが、それは孫権勢力からの嫉視を買うことになる。元々赤壁の際に主要な活躍をしたのは孫権軍であって、その戦果たる荊州は孫権軍が獲るべきと考えられていた。
しかし劉備にある程度の勢力すなわち荊州を与えて曹操に当たらせるという構想の元に荊州は劉備のものとなっていたのである。劉備が蜀を手に入れたことで孫権は荊州を返すようにといってきたが、劉備は「涼州を手に入れたら返します」と答えた。涼州は蜀の遥か北であり、劉備がこれを獲ることはその時点で不可能に近く、返すつもりが無いと言ったも同然であった。
これに怒った孫権は呂蒙を派遣して荊州を襲わせ、両者は戦闘状態に入る。
しかしその頃、張魯が曹操に降伏して益州と雍州を繋ぐ要害の地である漢中地方は曹操の手に入った。
このことに危機感を抱いた劉備たちは荊州の南三郡を割譲することで孫権と和解し、漢中の攻略を目標とすることになった。
孫権軍は、呂蒙の進言により曹操配下の廬江太守・朱光を破って廬江郡都の皖城の奪取が成り、同年に劉備との荊州統治の係争も一応の解決を見、孫権は再び北方に軍を向ける余裕ができた。孫権は自ら10万を号する大軍を指揮して陸口からそのまま出撃し、合肥城への攻撃を開始した。
百済/
肖古王が死去。仇首王が即位。
ローマ/
5月10日。後のローマ皇帝クラウディウス・ゴティクスが生まれる。
後のローマ皇帝アウレリアヌスが生まれる。

神功皇后摂政15年/215年:乙未

後漢/
曹操は合肥城に3人の将軍の張遼、楽進、李典と護軍の薛悌を置いていた。兵力は7000人弱しかおらず、3将軍の仲は悪かった。楽進と張遼は仮節された上位の将軍であったが、かつて潁川を彼等が守備していた時はいがみ合って協調しないことが多かったため、趙儼の仲裁によって統制されていた。張遼と李典が不和である理由には明確な記述はないが、張遼が呂布の部将であった時、李典は一族の長であった伯父を呂布の配下に殺されている。孫権軍が迫り、薛悌が曹操から預かっていた命令書を3将軍と共に開封すると、「もし孫権が来たならば張遼と李典は出撃せよ。楽進は護軍の薛悌を守り、戦ってはならない」と書いてあった。みな曹操の意図を理解できなかったが、張遼は「公(曹操)は遠征で外におり、救援が到着する頃には敵は我が軍を破っているに違いない。だからこそやつらの包囲網が完成せぬうちに迎撃し、その盛んな勢力をくじいて人心を落ち着かせ、その後で守備せよと指示されている。成功失敗の契機はこの一戦にかかっているのだ。諸君は何をためらうのだ」と主張した。李典はこれに賛成し、「国家の大事にあって顧みるのは計略のみ。個人的な恨みで道義を忘れはしない」と断言し、張遼と共に出撃する事となった。張遼は夜中に敢えて自らに従うという兵を選別し800人を集め、牛肉を将兵に振る舞い、明け方に出撃すると伝えた。
明け方、張遼は鎧を着込み戟を持ち、自ら先鋒となって孫権の本陣めがけて突撃し、数十人の兵と2人の将校を斬り、孫権の眼前に迫った。徐盛が負傷し、牙旗を奪われて逃走したが、賀斉が牙旗を奪い返し、潘璋が逃亡兵を斬って士気の崩壊を防いだため、前線に戻った。孫権は長戟を振るって身を守りつつ、高い丘の上に逃走した。孫権は張遼の率いる軍が寡兵である事を見てとり、張遼の軍を幾重にも包囲した。
張遼は左右を指差し、左右から包囲を突破すると見せかけ、敵軍の意表を突き包囲の中央を急襲。張遼以外は数十人の兵しか脱出する事が出来ず、残りの兵は包囲の中に取り残された。残された兵たちが「将軍、我らをお見棄てでございますか」などと叫んでいるのを聞くと、張遼は再び包囲に突撃し、残された兵を救出した。孫権軍は張遼の凄まじい攻撃に意気消沈し、脱出していく張遼に敢えて攻撃しようとはしなかった。結局張遼は明け方から日中まで戦い続け、孫権軍は戦意を喪失したと判断し、城まで後退し守備を固めた。
その後孫権は合肥城を攻囲したが陥落させる事ができず、陣中に疫病が発生したこともあって10日目で退却を開始した。孫権は自ら最後衛に位置し、武将らとともに撤退の指揮を執っていた。この時川の北岸側には近衛兵1000人弱と、呂蒙・蔣欽・凌統・甘寧が残っているのみであり、一緒に食事をする。張遼はその様子を窺い知ると、楽進ら7000人と襲撃をかけ、孫権軍を幾重にも包囲した。孫権は馬上から弓矢で急襲に応じた。凌統が配下300人と共に包囲を破り、将らが死に物狂いで防戦している間孫権は橋にまで来る事ができたが、橋はすでに張遼らの手によって1丈(3m)余り撤去されていた。孫権の側仕えの谷利が孫権の馬に後ろから鞭を当てて馬に勢いをつけさせ、孫権の乗る馬は橋を飛び越した。賀斉は3000人を率れて孫権を迎える。孫権は船に戻って諸将と会して食事を続けたが、賀斉は孫権の安危を心配して、席を下りて涕泣した。孫権は賀斉を慰め、二度とこのような危険な事はしないと誓った。
凌統は孫権が橋を渡った後再び戻って奮戦したが、配下は皆死に、自らも全身に傷を負いながら数十人を斬った。孫権が無事撤退した頃を見計らって自らも撤退したが、橋は壊れていたので革の鎧を着たまま河に飛び込んだ。船に乗っていた孫権は凌統が無事帰還すると狂喜した。配下を失い、涙する淩統に対し、孫権は自らの袖で涙を拭い「公績、死んだ者はもう戻っては来ぬ。だが私にはまだあなたがいる、それで充分ではないか」と慰めた。
張遼は孫権の容貌を知らなかった。孫権が最後衛の1000人の中でとても目立ったので、戦いの後に張遼は「勇武と騎射を備えた紫髯の将軍は何者だ」と孫権軍の降兵に問うと、「その方が孫権様であります」との答えが返ってきて初めて自らが目撃した将軍が孫権その人であった事を知り、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられたであろうに」と言って、捕まえ損ねた事を惜しんだ。
7月、孫権は益州を得た劉備に対し、荊州の割譲を求めた。劉備は涼州を得た後に荊州を再分割しようと返答したが孫権は呂蒙に命じて長沙、零陵、桂陽三郡を奪い、一触即発の事態となる。魯粛と関羽の話し合い(単刀附会)の結果、荊州を分割し劉備が南郡・武陵郡・零陵郡を、孫権が江夏郡・長沙郡・桂陽郡を領有することで和解した。
この間、曹操は漢中の張魯を攻撃(陽平関の戦い)し、張魯や漢中周辺の諸豪族を降伏させ、漢中に夏侯淵を置き、劉備の益州支配を牽制した。
陽平関の戦いが起こる。
峻険な山々に囲まれ天然の要害となっていた漢中は劉邦ゆかりの漢の国名に由来する地であり、戦略的にも関中と蜀をつなぐ重要な地であった。難攻不落の要衝である陽平関を突破できず、曹操軍は足止めを余儀なくされた。一方、これを迎え撃つ張魯は、出兵すれば多大な犠牲が出ることを恐れ戦には消極的であったが、軍権を任されていた弟にあたる張衛の強硬的な判断によって出兵が断行された。はじめ、張衛軍は曹操軍を劣勢に追い込み、曹操は形勢不利と見て撤退を開始した。曹操は劉曄の提案に従い再び陽平関を攻め、曹操が撤退したと思い油断していた張衛軍を夜襲と弓矢の大規模な攻撃で大いに破った。張衛は逃走し、曹操は陽平関を占領した。
董昭らの上奏文では、曹操軍の夜襲は偶然だとしている。曹操は本気で撤退を決めており、夏侯惇・許褚に山上に陣取る先鋒の高祚軍を引き揚げさせた。曹操軍が撤退することを知った張衛は警戒を解いたが、夜中に数千頭の鹿が陣に飛び込んできて張衛軍は仰天した。さらに撤退中の高祚軍は夜中のために道に迷い、知らず知らずのうちに張衛の陣に迷い込んでいた。少数の高祚軍は味方を呼ぶために軍鼓を打ち鳴らしたが、張衛軍はそれを曹操軍の夜襲と勘違いして大混乱に陥った。後続軍の監督をしていた劉曄はここで攻めれば張衛を打ち破れると判断し、早馬で曹操に再攻撃を進言した。ここで曹操は再攻撃を決意し、大量の弩をもって敵陣を攻撃して張衛を撃破したとされている。
陽平関が落とされたと知るや張魯は巴中へ敗走を決めたが、このとき彼は兵糧や宝物を倉に貯めたまま手をかけず、無傷で残したとされる。その後曹操は降伏した張魯の行いを賞賛し、鎮南将軍に任じ遇した。
ローマ/
カラカラの軍がエジプトのアレクサンドリアの民を虐殺。

神功皇后摂政16年/216年:丙申

後漢/
曹操、魏王に封じられ、後漢の配下の王国という形で魏を建国。献帝には権力は無く、実際には後漢をほぼ乗っ取った形であったが曹操は最後まで帝位にはつかず後漢の丞相の肩書きで通した。
簒奪の意を問われた曹操は「自分は(周の)文王たればよい(文王は殷(商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたが死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の武王によって「文王」を追号された)」としてその意を示唆したともいう。
魏/
10月、曹操は自ら指揮を執って孫権征討に赴いた。
11月、譙に到着した。曹操は軍を率いて対峙する一方で、山越族に反乱を起こさせるなどの政治工作も行った。
呉/
長沙郡の呉碭と袁龍も関羽に呼応して好機を通じ再び反乱を起こし、魯粛と呂岱に命じて平定させた[注釈 22]。曹操は自ら10万大軍を率い侵攻してきた、曹操の濡須攻撃に先立ち、山越が曹操に呼応して挙兵したが、賀斉と陸遜に命じて平定させた。不服従民の首領を討ち取り精兵数万人を得、これらを孫権軍に加える。

神功皇后摂政17年/217年:丁酉

後漢(魏)・呉/
正月、曹操軍は居巣に到着したが、疫病が流行し士卒が相次いで死去した。司馬朗は自ら巡視して、兵士達に薬を与えていたが、自分は飲まなかったために病死した。曹操軍は郝渓に駐屯すると、濡須水域を攻め、同時に横江陸岸に進軍を試みた。孫権は呂蒙と蔣欽を諸軍節度に任命し、2人と共に全軍の指揮を執っていた。孫権は濡須の防衛の為に、濡須塢の前方に城を築き始めた。2月、曹操は攻撃を開始し、張遼や臧覇諸将などを先鋒として築城部隊を強攻した。これにより建設中の孫権軍の城は撃破され孫権軍は後退した。しかしその後大雨により水位が上がり、水上から孫権軍が再度進撃してきたため張遼は撤退を考えた。これにたいし臧覇は曹操が自分たちを見捨てる事はないから独断で後退するのではなく命令を待つべきだと反対した。果たして次の日に後退命令があった。
山越出身の丹陽の費桟と鄱陽の尤突が曹操の求めに応じそれぞれ反乱を起こし、陵陽・始安・涇もそれに呼応した。孫権は賀斉・陸遜らに命じてに反乱を平定させた。降伏者の中から8000人の精鋭を募り、また、会稽・鄱陽・丹陽で山越者の中から募兵を行い、精兵を数万人得た。賀斉と陸遜はこれらの兵力を従え横江の近くに戻り曹操軍を迎撃した。徐盛らは水上から曹操軍を攻撃しようとしたが強風によって流され、自分の蒙衝は曹操軍の陣の岸の下に漂着した。この時徐盛以外の武将は船内に残ったが、徐盛のみが兵を率い上陸して突撃した。徐盛の突撃は曹操の大軍を討ち取ると、敵軍が大混乱に潰走した。その後、徐盛は天候が回復した後に堂々と帰還することができた。
呂蒙は濡須の城塞に強力な弩1万を配備させ曹操軍を迎え撃った。曹操軍の孫観はこの弩によって射殺された。曹操軍の先鋒は陣を築いたが、呂蒙はこれを機として急襲し曹操軍を撃破した。
3月、曹操軍はさらに再度周泰の部隊によって攻撃された。曹操軍の被害は大きく、一方全く戦果は得られなかったため曹操は撤退を決意した。曹操は夏侯惇を揚州方面26軍の総司令官に任命し曹仁・張遼らをつけて居巣に残し自らは撤退した。疫病により帰還の途上で王粲や建安七子の応瑒・陳琳・劉楨らが疫病により相次いで死亡した。曹操の大軍を撃退した功績により、孫権は呂蒙を左護軍・虎威将軍に、蔣欽を右護軍に、周泰を濡須督・平虜将軍に任命した。
この戦の後、孫権は謀略によっては使者の徐詳を派遣して漢に対し仮初めの臣従を申し出た。曹操はこれを受け入れた。
ローマ/
4月8日。親衛隊長官マクリヌスによって皇帝カラカラが殺害される。母ユリア・ドムナも自死
4月11日。マクリヌスがローマ皇帝位に就任

神功皇后摂政18年/218年:戊戌

後漢(魏)/
太医令吉本が耿紀らと共に反乱を起こして許都を攻めるが敗れてみな処刑された。
劉備、自ら軍を率いて漢中の夏侯淵・張郃を攻め、翌年に黄忠の活躍により夏侯淵を切って漢中を占領する。その後、曹操の軍が奪還すべく攻めてきたが、篭城によりこれを撃退した。
漢中を手に入れた劉備は曹操が216年に魏王になっていたことを受けて、州から北上して漢中へと侵攻。曹操も出陣して長安に兵を進めるが、陽平関にて夏侯淵は劉備軍に敗れて敗死。曹操は劉備を攻めるも守りが堅く、曹操が病気を発したので撤退した。荊州に駐屯していた関羽はこちらも北進の軍を起こして曹仁が守る樊城を攻めたが、孫権は曹操の元へ使者を送り、劉備との同盟を破棄して関羽を攻撃することを約束した。
呉/
孫権は曹操に帝位に就く事を勧めた。この手紙を見た曹操は「この小僧め。跪いてみせながらわしを囲炉裏の炭の上に据えようというのか」と言った。
ローマ/
6月8日。アンティオキアの戦いでマクリヌス帝が敗北。ローマ皇帝マクリヌス殺害される。
セウェルス家の巻き返しでエメサの神官ヘリオガバルスがローマ皇帝になる。
ヘリオガバルスはシリア・エメサの太陽神をローマのエラガバリウム神殿の主神として招来し黒石バエティルスを配置。

神功皇后摂政19年/219年:己亥

後漢(魏)/
魏諷が仲間を集めて鄴を占拠せんとしたが失敗して処刑された。
劉備は漢中王を自称する。漢の高祖が漢中王を称した故事に倣ったものである。
曹操が使者を派遣して孫権に同盟を申し出た。孫権はこれを受け入れ、曹操と同盟を結び共同で劉備を攻めた。
一方、東では荊州を奪還するべく呂蒙たちが策を練っており、関羽が曹操軍の曹仁を攻めている間に劉備軍の不意をつき荊州の諸郡を攻撃して陥落した。これを聞いた関羽は撤退しようとするが途中で呉軍に捕らえられて処刑され、その首は孫権から曹操へと送られた。
これにより荊州は完全に孫権勢力のものとなる。
呉/
孫権は息子と関羽の娘との婚姻を申し入れたが、関羽はこれを断り使者を辱めていた。また城を攻め落れず、長沙郡と零陵郡の境にある湘関の米を強奪したこともあった。孫権は怒り、漢王朝に関羽を自ら討ちたいと申し出た。献帝の許しを得て、荊州に進軍している。呂蒙を先鋒として内応していた士仁、糜芳を降伏させた。関羽は益州に逃れようとしたが、孫権は元の荊州を全数が奪還わせ、関羽は当陽まで引き返したのち、西の麦城に篭った。孫権は降伏を誘う使者が派遣すると、関羽は偽って降るふりをして逃走しようとした。孫権は潘璋・朱然を派遣して関羽の退路を遮断し、退路を失った関羽を捕らえこれを斬った。その首は、使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼をもって当陽に関羽の死体を葬った。孫権が、献帝の承認により荊州南部の領有を確実にした。

神功皇后摂政20年/220年:庚子

後漢/
関羽が呂蒙によって殺され、荊州が孫権に奪われた時、劉璋はそのまま帰順して家臣となり、孫権に益州牧に任じられたが、間もなく病死した。
元号を延康に改元。
曹操孟徳、死去。遺言では戦時であるから喪に服すのは短くして、墓に金銀を入れてはいけないと言った。
死後、息子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝と追号された。
魏/
元号を黄初に制定。
曹操の嫡子・曹丕が後漢の献帝から帝位の禅譲を受けた。曹丕は新たに魏王朝を立てる。九品官人法を制定。
三国時代の蜀の書官、法正が死去。
遼東/
太守の公孫恭が文帝(曹操の子・曹丕)により、車騎将軍・襄平侯に封じられた。
蜀/
これに対抗して太傅許靖・安漢将軍糜竺・太常頼恭・少府王謀・光禄勲黄柱らは劉備に帝位への即位を促す勧進文を送り、劉備は受け入れた。蜀の地に作られた漢王朝であるため、前漢(西漢)、後漢(東漢)と区別し、蜀漢(季漢)ともいう。丞相録尚書事の諸葛亮、司徒の許靖、車騎将軍・司隷校尉の張飛、驃騎将軍・涼州刺史の馬超、偏将軍・關中都督の呉懿、鎮北将軍の魏延、輔漢将軍の李厳、侍中の馬良、尚書の楊儀、大鴻臚の何宗らが表に名を連ねた。即位に反対した費詩は左遷された。
劉備が派遣した使者の韓冉は病気と称して上庸より先へは行かず、劉備の弔問の書は上庸から曹丕の元まで届いたという。その返答を得た劉備は自ら帝を称した。こうして、劉備は皇帝に即位した。
劉備は呉を討伐しようとしたとき、人をやって李意其を迎えた。李意其が来ると礼を尽くして敬い、出兵の吉凶を尋ねた。李意其はこれに答えず、紙と筆を求めて、兵・馬・武器の絵を数十枚描きあげると、すぐさま一枚一枚これを破り捨て、また大きな身体の人物の絵を描き、地面を掘ってそれを地に埋めて立ち去った。劉備はたいへん不快がったという。また秦宓は天の与える時期からいって必ず勝利は得られないと説いた廉で、獄に幽閉されたが、後に釈放された。
6月、劉備が蜀王朝を建てる。
劉備が皇帝に即位。
張飛が部下の張達と范彊によって殺害された。張達と范彊は、その首を持って長江を下って孫権の下へ逃亡した。その報告の使者が訪れると発言する前に劉備は「ああ、飛が死んだ」と、死を嘆いた。
ゴート/
ゴート族、東西に分裂。

神功皇后摂政21年/221年:辛丑

魏/
曹操の子で魏の初代皇帝の曹丕は孫権を呉王にとりたてようとした。
蜀/
元号を章武に制定。
孔明は丞相・録尚書事となった。

『三国志』「諸葛亮伝」では入蜀から一気に221年の劉備の皇帝即位に話が飛び、この間は孔明は劉備不在の際には成都を守り、兵士の食料を供給していたとだけ書かれている。
おそらくは後方支援の他にも支配体制の確立を行っていたのだろうが、このようなことは史書には残りにくい。また、この時期には従軍の際の劉備の傍らには法正があり、それぞれ役割を分担していたと考えられる。
ただ『蜀記』という書物からの引用に「孔明が入蜀後に新しい法律の制定に力を注いだ。その内容は大変厳しく、峻烈であった。これに対して法正が、『高祖(劉邦)の法三章の故事に倣い、もっと法律をやさしくすべきではないか』と問いかけてきた。
孔明は『蜀の旧主の劉璋は暗弱であり、きちんとした政治がほとんど行われていなかった。だから今は厳しい法で民が生業に安心して従事できるようにすべきである。』と答え、法正はこれに感服した」という。
この話はどうやら後世作られたものらしいが、これからは孔明は法家的な考え方をする人物であるように取れる。
劉備は関羽の弔い合戦と称して後に進軍を計画する。この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されると言う事件が起こり、孔明は張飛が就いていた司隷校尉(首都圏の長官)を兼務する。
劉備は、孫権に対する報復として趙雲の諫言[33]を押し切って親征(夷陵の戦い)を行った。初めのうちは呉軍を軽快に撃ち破りながら進軍、呉は荊州の拠点であった江陵を背後に残すまでに追い詰められた。また、武陵の部従事である樊伷が異民族の者たちに誘いをかけ、武陵郡を挙げて劉備に帰属しようと企てた。
夷陵の戦いが起こる。
4月、劉備は蜀漢初代皇帝に即位し呉への東征を決定した。
6月、劉備と合流予定であった張飛が部下の張達と范彊によって殺害された。張達と范彊はその首を持って長江を下り、呉へ逃亡した。
7月、劉備は荊州を取り戻すために自ら呉征伐の陣頭指揮を執り、親征軍を発した。正史では「先主は孫権が関羽を襲撃したのを怒り、東征に向かわんとし」(先主伝)「先主が帝位についたのち、東方の孫権を征討して関羽の仇を討とうとしたとき」(法正伝)「『…関羽の劉備に対する関係は、道義では君臣ですが、恩愛では父子です。関羽が殺されても彼のために軍をおこして敵に報復できないならば、最後まで恩愛を貫くというたてまえからいって不完全となりましょう』」(劉曄伝、曹丕の、劉備が関羽のために呉報復の出陣を決意するかどうかという問いに対する回答)とあり、同時代人や陳寿からは関羽の仇討と捉えられていたことが分かる。趙雲を江州に留め置いて魏への牽制としてから、劉備は軍勢を東に進めた。陣立ては、劉備が全軍を統率し、その下で馮習が総指揮を執り、張南が先鋒となり、輔匡、趙融、廖化らが個々の軍団の指揮を執り、呉班、陳式が水軍の指揮を執り、黄権が長江北岸の別働隊の指揮を執るといった陣立てで出陣した。また、この頃に関羽の敗北で呉にやむなく降伏していた武陵の従事であった樊伷と零陵北部都尉・裨将軍の習珍も劉備の東征に呼応して兵を挙げた。
対する孫権は、諸葛瑾に命じて劉備との和議を持ちかけさせたが、劉備の怒りは大きく拒絶された。そこで関羽討伐で功のあった陸遜を大都督に任じ、全軍の総指揮と防衛を命じた。劉備は呉班・馮習らを先鋒として陸遜、李異・劉阿らが防御していた巫城と秭帰城を続けて急襲し彼らを破り、短期間の内に秭帰県まで制圧した。呉の諸将は、名士出身だが対魏の大戦での実戦経験が少ない陸遜に対して懐疑的な態度を示し、素直に従わない面も見られた(もっとも陸遜は前の荊州南部奪取において、呂蒙に代わって蜀の軍民や豪族・異民族の平定といった実務を担当している)。劉備は自身も本隊を指揮して秭帰に駐屯し、呉班と陳式らに水軍の指揮を任せ、夷陵へ先行させた。この水軍は囮であり、劉備は陸上から進軍したが、この計略は陸遜に看破された。
この戦いの後、孔明は「ああ、法正が生きていれば主君を諫めたであろうに。」と嘆いた。(法正は220年に死去している。)
大和/
「事代主」と母親「多紀理姫」(三穂津姫)を擁して、「天児屋根」アメノコヤネ・「武甕槌」タケミカズチ・「経津主」フツヌシの日向の総軍を挙げて出雲に乗り込んだ。何しろ末子相続の時代だから事代主が正当な相続人である。その為、心情的に同情はしても他の出雲の族長たちも実力で武御名方尊を擁護しきれなかったものと思う。
松江大橋川を鋏んでの攻防戦は簡単に終ってしまったようだ。むしろ、武御名方尊は観念して、ある程度の手兵を残して、北陸海岸沿いに逃げ、最後は信州諏訪に落ち延びたのである。武御名方尊は二度と諏訪を出て出雲に戻らないと約束した為、全国の神様が出雲に集う10月「神無月」カンナズキでも信州諏訪地方丈は今でも「神在月」カミアリズキと云う。
以上が世に云う「出雲国譲り」の顛末であるとも言われる。
魏志倭人伝では、邪馬台国は卑弥呼の死後大いに乱れ、その後女王をたてると国は治まったとある。また邪馬台国は近隣の狗奴国と争っていたという記述もある。
狗奴国との戦いについて記し、卑弥呼、以て死す。大きな塚を作る。塚の直径は歩いて百歩以上で、殉死する者百人以上。男王が立ったが国中再び乱れ戦となった。使者は千人以上に及んだ。そこで卑弥呼の宗女(一族)で、十三歳の壱與(台与?)を王として再び国中が平定したと記されている。

神功皇后摂政22年/222年:壬寅

呉/
三国時代が始まる。
孫権仲謀が自立して呉王朝を建てる。
元号を黄武に制定。
蜀/
気候が温暖となると劉備は更に兵を進める。黄権はこれ以上侵攻すると撤退が困難であることを指摘し、自身が兵の指揮を執るから劉備は後方に下がるよう進言したが、劉備は長江北岸の戦線を黄権に任せると、水軍を引き上げさせ、長江を渡渉し、先鋒の張南らは夷道にまで進んで孫桓を包囲した。孫桓は陸遜に救援要請を出したが、陸遜は「蜀軍を破る計略があるから耐えるべし」として救援を出さなかった。呉の将達は皆この陸遜の行いを見、「陸伯言は愚か者だ。呉は滅ぶ」と口々に語りあった。この時点で陸遜の本隊は三峡内の全拠点を失い、後方には江陵があるだけという危機的な状況であった。劉備は次いで自身も猇亭にまで進軍し、馬良を武陵に派遣して異民族を手懐けさせ、これに武陵蛮の沙摩柯らが呼応した。
この時、劉備は補給線と退路を確保するため、後方に50近くの陣営を築き連ねていた。曹丕はこれを聞いて「劉備は戦の仕方を知らない。必ず敗北する」と側近に語ったという。
6月、陸遜は蜀軍の陣地の一つを攻撃したものの攻略できなかった。これに対し呉の諸将は、無駄に兵を損なっただけだと陸遜への批判を強めた。しかし、その時に陸遜は蜀軍の陣が火計に弱いと見破った。陸遜は全軍に指示を出し、夜半に水上を急行して総攻撃を開始。朱然・潘璋・韓当らは一斉に敵陣に火計を仕掛け40以上の陣営を陥落させた。馮習は潘璋に打ち取られ、張南も戦死した。
劉備は後方の陣営が落とされると馬鞍山まで撤退し陣を敷いたが、呉軍はこれを四方から攻撃し蜀軍は潰走した。その後、孫桓らは蜀軍を並行追撃し、次々に退路を遮断した。馮習・張南の他にも、王甫・傅彤・程畿・馬良ら有能な武官、文官が戦死し、退路を失った黄権も魏に投降した。この敗戦のさなか、向寵の守る陣は全く破られることがなかったという。孫桓らの追撃を受けた劉備は趙雲に救援され、虎口を脱することができた。
楊戯の『季漢輔臣賛』では、指揮官に任命されていた馮習が「敵を軽んじたため、国家に損失を与え」「災難は一人から生まれ、広大な影響を与えた」と評されている。劉備は援軍の趙雲らに助けられ辛うじて白帝城に逃げ込み、白帝城を永安と改名、ここに留まる。蜀軍の被害は著しく、数万人の戦力を失った。これにより蜀漢は荊州を完全に失った。このときになって初めて呉の諸将は陸遜を信頼し、また、窮地を脱した孫桓も陸遜の智謀の深さをさとって畏敬の念を表した。
また劉備に呼応して荊州南部で反乱を起こした樊伷や習珍、武陵蛮たちは、交州刺史の歩騭とかつては劉備の臣で関羽の敗北時に呉へ降った潘濬によって次々と鎮圧された。樊伷は敗れて斬首され、習珍は籠城の末、自殺して荊州南部の反乱も鎮圧された。
この時魏は呉への援軍を名目に軍の南下を開始させていた。このような状況の中で呉内部には白帝城に逗留中の蜀の皇帝劉備を攻撃すべしという意見と、魏の派兵は呉を攻めるためのものであり、二正面作戦は危険であるため大至急蜀と和睦すべきとする慎重論が対立していた。陸遜は魏軍の南下が援軍などではなく呉を攻撃するための軍であることを見抜き、蜀攻撃の軍の撤退を上申した。孫権はこの意見を採用した。
徐盛・潘璋・宋謙らは上表して、白帝城に逃げ込んだ劉備の攻撃を求めたが、孫権に諮問された陸遜・朱然・駱統らは、魏の脅威を理由にこれに反対した。孫権は、白帝城に迫っていた劉阿らを後退させ、巫県を守らせた。魏は呉への援軍と称して大軍を南下させていたが、呉はこれを自領への脅威とみなし、益州への追撃を行わず魏軍に備えた。魏は桓階を派遣して呉に人質を要求し、拒まれると三方面から呉に攻め込んだ(濡須口の戦い)。
孫権は鄭泉を蜀に派遣し、劉備も宗瑋を送って和睦が成立した。劉備は呉の危機について陸遜に手紙を送り、蜀から援軍を江陵に送ることを提案したが、陸遜は呉蜀の国交が回復したばかりであることと、蜀軍は敗北で疲れきっており、国力の回復に努めるべきではないか、と意見し、これを断ったという。しかし、呉と蜀の同盟関係は回復方向へ向かい、劉備の死後に魏に対する同盟関係は再開された。
9月、孫権が孫登を人質に差し出さないのを理由に曹丕は呉討伐を開始した。曹丕は自ら指揮を執り許昌から出撃、他の諸将の軍も一斉に南下を開始した。
11月、曹丕は宛城に入りこれを本営とし、曹休・張遼・臧覇の軍を洞口に、曹仁の軍を濡須口に、曹真・夏侯尚・張郃・徐晃らの軍を江陵にそれぞれ派遣した。これに対して呉は呂範等の軍を洞口に派遣し、濡須口では守将の朱桓が防衛の指揮を執った。江陵では朱然が城に篭り防衛指揮を執り、孫盛の軍が朱然の救援に派遣された。
曹休と対峙していた呂範の水軍は突風とそれを機と読んだ曹休の攻撃により壊滅的な損害を受けた。その後、臧覇が快速船500艘と1万人の兵を率い、呉軍を襲撃し大勝したが、呉の全琮・徐盛は臧覇を反撃して破り、尹魯を討ち取り、曹休と張遼を打ち破った。
曹真・夏侯尚らは数万以上の軍勢を率いて江陵を攻撃、辛毗はその軍師として従軍した。張郃は孫盛の救援軍を打ち破り、孫盛の陣地があった長江の中洲を占拠し、夏侯尚は中洲に陣地を設け、浮橋を作った。孫盛に代わり、諸葛瑾と潘璋が朱然の救援に派遣された。諸葛瑾は中洲を占拠したが、夏侯尚は火攻めで諸葛瑾を撃破し、朱然は孤立無援となった。
曹真・夏侯尚・辛毗・張郃・徐晃・満寵・文聘らが朱然が守る江陵を包囲した。土山を築いて矢を射掛けたり地下道を掘ったりして攻撃したが、朱然は兵を励まし、隙を窺い城外に出て魏軍の陣地2つを打ち破った。諸葛瑾は敗兵をかき集めて再度魏軍を攻撃した。潘璋が長江の上流に赴き、葦を刈って大きな筏を作り、気候が温暖となって川の流量が増えてきた時期に火を放って流し魏軍の浮橋を焼き払おうとする。
軍師として曹丕の側についていた董昭は、潘璋・諸葛瑾が二方面から攻撃をかけているのに対して夏侯尚の浮橋は一本しかないこと、時期的に長江の水かさが急激に上昇する可能性があることを指摘し、夏侯尚軍を撤退させることを提案した。潘璋は火攻の計画を実行に移す前に曹丕は勅命を下して夏侯尚を撤退させた。曹真・夏侯尚などは中洲から撤退、諸葛瑾は浮橋に攻撃をかけて魏軍を撤退に追い込んだ。朱然の江陵城籠城は半年余り及び内応騒ぎや疫病騒ぎが起きたものの朱然は内通者を処刑するなど問題に対処し、結局江陵城は落城しなかった。
呉(建安27年・黄武元年)/
荊州奪還のために東進してきた劉備が自ら指揮を執る蜀漢軍を夷陵の戦いで打ち破り、武陵の蛮族も劉備に呼応して反乱したが、歩騭に命じて平定させた。ところでこの時魏は呉への援軍を名目に軍の南下を開始させていた。徐盛・潘璋・宋謙らは白帝城に逃げ延びた劉備を討つための追撃の許可して欲しいと願い出た。陸遜・朱然・駱統らは魏の曹丕の動向が不審だとして慎重論を唱えた。孫権は同じ考え方であり、その意見を同意した。それからほどなく、魏がはたして軍を進めてきた。孫権は劉備から和解の手紙を受け取り、その中で劉備が前のことに関して深く反省し謝罪したため、孫権はこれに同意し、使者の鄭泉に劉備への返事を頼んだ。劉備はこれに宗瑋・費禕らを何度も派遣して答礼させた。捨てられた曹丕は、大いに怒って親征しようとした。また、趙咨の意見を採用し、黄武という独自の元号を使い始め、魏との表向きの同盟を破棄した。
ローマ/
3月11日。ローマ帝国セウェルス朝皇帝ヘリオガバルスが殺害される。
アレクサンデル・セウェルスが皇帝となる。

神功皇后摂政23年/223年:癸卯

蜀/
劉備玄徳、夷陵の戦いで失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城でに死去する。
その後を劉禅が継ぎ、国事は諸葛亮に全てゆだねられることになった。この隙に南中で高定・雍闓・朱褒が反乱を起こし、蜀と呉は互いに使者を送って友好関係を回復させた上で、相方からの同盟復要請を受け入れ、魏に対する北伐を行うこととなる。

死去にあたり劉備は孔明に対して
「君才十倍曹丕、必能安国、終定大事。若嗣子可輔、輔之。如其不才、君可自取」
(君の才曹丕に十倍し、必ず能く国を安んじ、終に大事を定めん。若し嗣子輔くべくんば、之を輔けよ。如し其れ不才ならば、君自ら取るべし:君の才能は曹丕の10倍である。
きっと国を安定させて、最終的に大事(=中国統一)を果たすだろう。もし後継ぎ(=劉禅)が補佐するに足りる人物であれば、補佐してくれ。
もし、後継ぎに才能がなければ、君が自ら皇帝となりなさい)と言った。
これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「臣敢竭股肱之力、効忠貞之節、継之以死」(臣敢へて股肱の力を竭(つく)し、忠貞の節を効(いた)し、之を継ぐに死を以てす:私は思い切って手足となって働きます。)と答えた。
李厳のように諸葛亮に帝位に就くよう暗に勧める者もいたが、諸葛亮はあくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。
劉禅が皇帝となると、諸葛亮は、武郷侯・開府治事・益州牧になり、蜀の政治のすべてを任されることになる。関羽の死によりこじれた呉との関係を?芝(?は登におおざと)を派遣して修復し、魏に対する北伐を企図する。
その前段階として、南(雲南)で漢人官僚の搾取に対して雍?が反乱を起こすが、225年に南征し南方を安定させる。
この地方から得た財物で軍資を捻出し、国を富ませたという。
またこの時にいわゆる七縱七禽の故事があったとも言われるが、陳寿の本文には登場しない。
元号を建興に改元。
魏・呉/
曹仁と朱桓の対峙は長期間に及び、223年に入り、曹仁は兵を分散させさらに下流の濡須口と洞口の中間地点にあたる羡渓を攻撃すると喧伝した。これは朱桓の兵力を分散させ実際には全兵力で濡須口を攻撃しようという作戦であった。朱桓はこの計略に嵌り自らは濡須口に残り兵を分けて一隊を羡渓に派遣した。
曹仁は船で中洲に兵を上陸させ朱桓攻撃を開始した。この時、朱桓が手元に置いていた兵力は五千程で数万規模の大軍の曹仁軍に対して圧倒的に不利な状況であったが、朱桓は「戦というものは、兵力ではなく指揮官の質によって勝敗が決まるものだ。俺と曹丕では俺の方が遥かに優れているし、まして曹丕の部将の曹仁など問題にならない。それに曹仁の軍は遠征で疲弊しているし、地の利を得ているのはこちらの方だ」などと言って兵を叱咤激励すると、旗指物や陣太鼓の鳴り物を潜めさせ城の防御が実際よりもさらに弱くなっていると見せかけ曹仁の軍を誘い込んだ。
3月、曹仁は自らは後方で総指揮を執り、子の曹泰に濡須城を攻撃させ、将軍の常雕に諸葛虔・王双らの軍の指揮を任せ複数路から船に乗り朱桓軍の家族らがいる中洲を攻撃させた。朱桓は駱統・厳圭らの諸軍に命じて常雕軍の軍船を拿捕させ、さらにそれとは別に常雕に直接攻撃をかけさせた。朱桓自身は軍を率いて曹泰と対峙し、火攻めを以ってこれを退却させた。常雕は戦死し、王双は呉軍の捕虜となり、曹仁は撤退した(間もなく曹仁は病死)。曹仁軍の戦死者は千人を超えた。
疫病が流行したこともあり魏軍は総退却した。また劉備は戦前に使者を呉に派遣し、呉との同盟関係を回復させ、呉と蜀が手を結び魏に対抗するという三国時代の基本的な構図があらためて成立することとなった。
4月、呉の群臣が帝位に即く事を勧めたが、孫権はこれを拒絶した。
6月、三方面の戦いで魏軍に勝利するなど反攻に転じたが、魏を賀斉に討伐させた。賀斉は胡綜・糜芳・鮮于丹を率いて魏領を落とし、叛乱を起こした晋宗を生け捕り、蘄春郡を占領した。劉備が崩御すると、益州豪族の雍闓などは牂牁一帯・南中豪族などと共に蜀漢に対して反乱を起こし、孫権に服属していた交州の士燮を通じ呉への帰服を申し出てた。諸葛亮は鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整えさせ、蜀漢と再び同盟した。

神功皇后摂政24年/224年:甲辰

ローマ/
後のローマ皇帝マルクス・アウレリウス・カルスが生まれる。
ホルミズド平原の戦いでペルシアのアルデシール1世がパルティアのアルタバノスに勝利。
呉(黄武3年)/
曹丕は広陵を攻めてきたが、徐盛が長江沿岸に蜿蜒と百里偽城を築いていたため、10余万の魏軍はこれに驚いた。大波により船団が呉領に流されたため、大きな被害を受けると退却した。

神功皇后摂政25年/225年:乙巳

ローマ/
1月20日。後のローマ皇帝ゴルディアヌス3世が生まれる。
蜀/
雲南を南征し、治安を安定させる。
呉(黄武4年)/
魏が広陵を再び攻めてきたが、10余万の魏軍に孫韶が500人で夜襲をしかけ、魏軍を撃退した。同年12月、鄱陽で山越の彭綺が反乱を起こし、将軍を名乗り周辺の諸県を攻め落とすと一味に加わる者が数万人に上った。

神功皇后摂政26年/226年:丙午

魏/
魏の初代皇帝、曹丕が死去。
曹丕の子である曹叡が即位する。即位後、ただちに母の甄氏に皇后の位を追贈し、文昭皇后と諡した。
呉(黄武5年)/
孫権は呂岱を派遣して士徽の反乱を平定し、交州の支配を強化した。同年、孫権・孫奐・鮮于丹は江夏を攻め、諸葛瑾は襄陽を攻めた。諸葛瑾は司馬懿らに敗れ、孫権は江夏郡の石陽城を落とすことができずに撤退した。一方で孫奐は鮮于丹に魏軍の淮水退路を断たせ、自らも呉碩・張梁の兵を指揮して先鋒となり、江夏郡の高城を攻め落として敵将三名を捕らえた。
孫権・孫奐・鮮于丹が江夏を攻撃した。魏の群臣は兵を出して救援しようと意見したが、曹叡は「水戦に習熟した孫権が敢えて陸戦を行っているのは、奇襲を狙ったからである。しかし文聘が江夏を固守しているため、戦線は既に膠着状態に陥っており、長く留まりはしないだろう」と推測した。明帝に派遣された治書侍御史荀禹が前線を慰労し、山に登って火を挙げると、孫権は撤退した。しかし孫権は孫奐率いる別働隊によって魏軍の退路を封鎖したため、江夏郡の高城が奪われた。
ペルシア/
ペルシアのアルデシール1世が「エーラーンの諸王の王(シャーハーン・シャー)」の称号を名乗る(サーサーン朝ペルシアの成立)。
ササン朝ペルシアがパルティアを滅ぼす。

神功皇后摂政27年/227年:丁未

魏、蜀/
麹英が西平で反乱を起こすと、曹叡は、郝昭と魏平らを派遣し鎮圧した。
北伐の準備を整えた孔明は、いよいよ北伐を決行する。北伐にあたり上奏した『出師表』は名文として有名であり、「これを読んで泣かないものは人間にあらず。」とまで言われた。「表」とは公表される上奏文のことである。
一回目の北伐で孔明はかつて蜀から魏へと下った将軍・孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。孟達は魏に下った後は異常なまでに曹丕に寵愛されていたが、226年の曹丕の死後はそれまでの寵愛振りから嫉妬を受けて、極めて危うい状況にあった。
12月。その情報を偵知していた孔明は孟達に対して調略の手を伸ばし、孟達もこれを受けようとしていた。
しかし魏の名将・司馬懿はこの情報を察知するや否や孟達を攻め滅ぼし、孔明に介入する間を与えずに孟達を討った。
魏の武将、孟達が死去。
魏/
元号を黄龍に改元。
呉(黄武6年)/
周魴を鄱陽太守に任して、胡綜と協力しその討伐にあたった。周魴は彭綺の身柄を拘束し、武昌に送った。
高句麗/
山上王が死去。東川王が即位。
遼東/
遼東太守の公孫恭が病に罹り陰萎を病む。

神功皇后摂政28年/228年:戊申

呉(黄武7年)/
周魴に命じて魏への偽りの降伏を申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出した。曹叡は司馬懿らに命じて江陵を包囲させ、賈逵・満寵らに命じて東関に出撃させた。陸遜は朱桓・全琮を率いて曹休と戦い大勝し、魏軍を大破した(石亭の戦い)。その後の宴会では陸遜と共に踊った話が披露され、その時着ていた白いモモンガの毛皮で作った衣服を脱いで下賜した。一方で司馬懿・張郃は江陵を攻め落れず撤退した。同年、曹叡は東関に賈逵・満寵らを命じて再び攻めてきたが、攻め落れず退却した。
蜀/
孔明、漢中より北へ進軍を開始。
この時に将軍・魏延は分隊を率いて、一気に長安を突いて、その後に孔明の本隊と合流する作戦を提案したが、孔明はこれを受け入れなかった。
魏延はこの後、北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも孔明により退けられている。
孔明は名の知れた宿将である趙雲をおとりに使い、魏の大将軍・曹真の裏をかくことに成功し、そのことで魏の西方の領地である南安・天水・安定の三郡(いずれも現在の甘粛省に属する)が蜀に味方することを表明した。
魏はこれに対して司馬懿と並ぶ宿将の張郃を派遣した。孔明はまたも趙雲をおとりに使い、最も重要な地点である街亭に自分が最も可愛がっていた馬謖を使うが、これが大失敗であった。
馬謖は孔明の指示を無視して山上に布陣したため、張?により山の下を包囲され、飲料水を確保できず、破れかぶれの反撃に出たところで張?軍により完膚なきまでに撃破された。
以前、劉備が白帝で病床にあった時に「馬謖は言う事が実際に行う分より大きいからあまり重用してはいけない。」と言っていたのだが、孔明は馬謖を信任してしまった。
街亭で敗北した蜀軍は全軍を引き上げさせ、孔明は馬謖を敗戦の罪により誅殺し、自らも三階級降格として丞相から右将軍になった。これが「泣いて馬謖を斬る」の故事である。
ちなみに『三国志』「蜀志」の「向朗伝」に「馬謖が逃亡して、再び捕まった」との記述がある。孔明が右将軍となったと言っても蜀を運営していけるのは孔明以外におらず、実質上は丞相であった。
同年の冬、再び孔明は北伐を決行する。この時に上奏したとされるのが『後出師表』であるが、これは偽作説が絶えない。
しかし二度目の北伐では曹真に作戦を先読みされて上手く行かず、食糧不足により撤退した。
2月、曹叡は論功行賞のため長安へ行幸した。
遼東/
公孫康の子である公孫淵が成人する。公孫恭は、普段から公孫淵の兄である公孫晃を可愛がり、公孫淵を遠ざけようとしていた事が原因で、公孫淵に脅迫され太守の座を譲ることを余儀なくされた。遼東太守の座を奪った公孫淵は、程なくして、魏の明帝から揚烈将軍の官位を与えられた。
その後、公孫淵は魏の他に呉とも通じるなど、巧みな外交を見せている。
一方、兄の公孫晃は、役職を拝命しながらも、公孫淵の外交を危惧し、都(許昌、後に洛陽)に赴き、弟の討滅を何度も上表したがいずれも却下された。
孫権の謀略によって偽りの内通をした呉の周魴の誘いに乗った曹叡は曹休に10万の兵を与えて呉を攻撃させ、全ての関西の守備軍(雍・涼など)を派遣して江陵に攻撃させ、賈逵らに命じて東関に出撃させる。皖や江陵や濡須東関のルートから一斉に侵攻する大規模なものであったが、司馬懿・張郃らは江陵城を落とすことができず、曹休の大敗によって犠牲者も数万人以上となり、呉への三方面侵攻は全て敗北した。
その直後、諸葛亮は曹休の大敗や関西の手薄に乗じて二度目の北伐を行い、率いる数万人が陳倉城を攻囲した。曹真が侵攻路を想定して陳倉城の強化を行わせており、守備を任されていた郝昭は曹真の命を厳格に守ったため、一千人程度のわずかな軍隊で諸葛亮の軍勢を寄せ付けず、頑健に防衛した。二十日余りの包囲した後、諸葛亮は陳倉を落とせないまま兵糧が底をついてしまい、魏の援軍も迫ったので撤退した。
王双が諸葛亮軍を追撃したが、反撃に遭って戦死した。
賈逵らに命じて再度呉領の濡須へ侵攻するも敗北した。孫権・諸葛亮によって、以後数度にわたる侵攻が開始されると、皇族の曹真や司馬懿・張郃など祖父の曹操以来の宿老達を用いて、これらを防がせた。また第一次北伐時には親征して長安方面の動揺を鎮めた。

神功皇后摂政29年/229年:己酉

蜀/
孔明、第三次の北伐を決行する。
諸葛亮は第3次の北伐を行い、武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。雍州刺史の郭淮が救援に向かうが、諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に武都・陰平の2郡を占拠・平定した。
この功績により、再び丞相の地位に復帰する。
中国三国時代の蜀(蜀漢)の軍人、趙雲子龍が死去。
呉(黄龍元年)/
夏口、武昌でともに黄龍、鳳凰が見られたと報告があり。群臣一同が孫権に帝位に即く事を進言。
孫権は皇帝に即位し、元号を黄龍と改めた。
これに対して、蜀は呉との同盟関係を維持することに決め、帝位を認め、呉への二帝並尊を申し出てた。陳震を派遣し、武昌において孫権と会盟した。この結果、幽州・豫州・青州・徐州が呉に属し、兗州・冀州・并州・涼州が蜀に属しまた司州は函谷関で分割して、蜀が西側、呉が東側を支配し天下を分配することを誓約し合った。その後、建業に遷都した。

神功皇后摂政30年/230年:庚戌

魏/
孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。曹休の後任として都督揚州諸軍事となった満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済はこれを「味方の士気を削ぐ」と反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法の道理を引きながら築城の長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡(明帝)の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。
一方、大司馬となった曹真は曹叡に対し、蜀を征伐することの必要性を説き、これを認められた。
曹叡は、長安を出発し子午谷より蜀に攻め入った。この作戦は、荊州方面の司馬懿に漢水を遡って漢中の南鄭を攻撃させるなど、蜀への二方面侵攻だった。しかし秋の長雨が30日続き、桟道が一部崩壊するなどしたため失敗した。曹叡は曹真に命令し撤退させた。同年、孫権の謀略で偽りの投降をした呉の孫布を迎えに行くために魏軍が出兵するも、孫権に大敗した。
後漢・魏の政治家であり書家、鍾ヨウが死去。
呉(黄龍2年)/
衛温・諸葛直に兵1万を与え、夷洲と亶洲の探索を行わせた。
新羅/
奈解王が死去。助賁王が即位。
ペルシア/
ゾロアスター教がサーサーン朝ペルシアの国教となる。

神功皇后摂政31年/231年:辛亥

魏/
魏の皇族、曹殷が生まれる。
魏の武将、張郃が死去。
三国時代魏の武将、曹真が死去。
呉(黄龍3年)/
呉の皇族、孫亮が生まれる。
諸葛直と衛温は帰国したが、亶洲へは遠すぎたため到達できず、兵の八割から九割を疫病で失っていた。成果は夷洲の現地民を数千人連れ帰っただけであった。
孫布に命じて魏への偽りの降伏を申し出て、魏の対呉司令官の王淩は孫布を迎えに行くために出兵し、潜伏していた孫権軍に大敗した。
蜀/
孔明、第四次の北伐を行う。曹叡は杜畿らを派遣し司馬懿に加勢させた。諸葛亮らは三千人の魏軍を斬るが兵糧不足で撤退し、追撃を行った張郃が射殺された。 食糧不足の原因については、食糧輸送の一切を監督していた李厳(この時は李平)が孔明に手柄を独占されたくないと考えて、偽って食料を送らなかったのであり、孔明が帰還した所で李厳は「食料は足りているのになぜ退却したのですか?」などと聞き返してきた。 これに呆れた孔明は李厳を庶民に落とした。
蜀の武将、李恢が死去。

神功皇后摂政32年/232年:壬子

呉/
元号を嘉禾に改元。
魏/
この年以降、曹叡は田豫や王雄に命じ遼東に対して何度か軍事行動を行なった。蔣済は信義を失うべきではないと批判した。曹叡は諫言を受け入れず、結局、曹叡の侵攻は失敗して帰還した。
新羅、大和/
三国史記/新羅本紀によれば、倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。新羅は軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだとある。

神功皇后摂政33年/233年:癸丑

新羅、大和/
三国史記/于老列伝によれば、倭軍が新羅の東方から攻め入った。新羅の伊飡の昔于老が沙道(地名)で倭軍と戦った。昔于老は火計をもって倭軍の船を焼いたので倭兵は溺れて全滅したとある。
魏(青龍元年)/
元号を青龍に改元。
呉/
孫権が合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったので上陸しようとしなかった。満寵は孫権は魏が弱気になっているのではないかと決めつけ、必ず襲撃してくるに違いないと判断し、伏兵として歩騎兵を6千用意したところ孫権が上陸して攻めかかってきた。伏兵らは数100人の首を取った。
公孫淵が呉に戦馬を供給していた。
3月、孫権が公孫淵と共に魏を攻める予定だった。顧雍・陸遜・張昭ら重臣の諫止を聞かず、公孫淵の内通を信じて張弥・許晏・賀達らに九錫の礼物と策命書と兵1万を持たせ派遣した。しかし、魏を恐れる公孫淵は孫権が派遣した使者を斬り、恩賞を奪った上で魏に寝返ってしまった。激怒した孫権は自ら公孫淵征伐を行おうとしたが、陸遜・陸瑁・趙姫・薛綜らの諫止により思いとどまった。その後、公孫淵が再び魏から離反・独立した。
遼東/
公孫淵による呉との外交が評価され、この年、呉から九錫を受け燕王に封じられた。
呉は幾度か遼東に周賀を送り込もうと謀るも、曹叡の命で遼東に侵攻していた魏の田豫に敗れる。
しかし、後に心変わりして呉の使者として来訪した張弥・許晏・賀達らを殺害し、その首を魏に差し出した。公孫淵はこれを利用し、孫権に使節を送り呉に恭順を示すふりをしながらも、呉の使者を襲撃し、その首を魏に送ることで、曹叡より楽浪公と専断権を勝ち得た。

神功皇后摂政34年/234年:甲寅

魏(青龍2年)・蜀/
五丈原の戦いが起こる。(魏と蜀の戦い)
第五次、最後の北伐に出る。この戦いで孔明は屯田を行い、持久戦の構えを持って五丈原で司馬懿と長い時間に渡って対陣する。しかし食糧不足が解決されても今度は孔明の健康問題が生じてきた。
孫権が10万の軍勢を率いて合肥新城に攻め寄せると、満寵は諸軍を率いて救援しようとした。田豫は「城を攻めさせて相手の疲労を待つべきです。こちらの思惑に気づけば敵は退くでしょう」と曹叡に言上し、曹叡はこれに従った。果たして呉軍は退却した。
頼りにしていた呉が荊州と合肥の戦いで魏に大敗し、司馬懿は専守防衛に徹した。
孔明は陣中で病に侵されていたが、ついにそのまま陣中で没した。
蜀軍は退却するが、その途中で魏延と楊儀とで争いが起こり、孔明の与えておいた策で楊儀が勝ち魏延を殺した。蜀軍が引き上げた後の陣地跡を見た司馬懿は陣地の素晴らしさを見て、「天下奇才也」(天下の奇才なり)と驚嘆した。
孔明は、漢中の定軍山に魏が見える様に葬られたという。遺言により質素な墓とされた。
孔明が死んだ事を聞いた李厳は「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった。」と嘆いた。
呉(嘉禾3年)/
孫権は蜀の諸葛亮の北伐に呼応し、10万の軍勢で自ら親征して巣湖の入り口から合肥新城へと進撃。同時に陸遜・諸葛瑾らには1万人余りの軍勢で沔水(漢水)から襄陽へと向かわせ、孫韶・張承には淮水から広陵・淮陰へと向かわせ、魏領内への多方面同時侵攻に打って出た。
一方、公孫淵の裏切りに激怒した孫権は公孫淵討伐軍を派遣しようとするが、臣下の薛綜から、公孫淵の支配地を得ても利益が無い事、海洋遠征は危険である事および脚気で兵を失う不利益を上訴され、断念した。(『三国志』薛綜伝)
6月、合肥新城は呉の孫権軍に包囲され、滿寵はいったん合肥新城を放棄して北方の寿春にまで孫権軍を引き込み、そこで改めて敵を迎え撃ちたいと曹叡に打診して許可を求めた。曹叡は「魏呉蜀の三国にとって合肥・襄陽・祁山の3城は兵法で言う所の『兵家必争の地』たる最重要防衛拠点で、魏ではこれまでここを死守することによって呉蜀からの侵攻を撃退することができた。たとえ孫権が合肥新城を攻撃しても決して攻め落とすことはできない、だから諸将に於いてはこれらの城を堅く守り抜くこと。もし私自らが親征して赴けば、敵は恐れを抱いて逃げ出すであろう」と言い滿寵の訴えを却下した。満寵は合肥新城へ救援に赴くと、数十人の義勇兵を募り松と麻の油を用いて風上より火をかけ呉軍の攻城兵器を焼き払い、孫権の甥の孫泰を射殺した。
7月、曹叡は御龍舟に乗って東征を開始。孫権軍は幾度も合肥新城を攻撃するも、魏の張穎らが力戦し合肥新城を死守したため、突破口を見出せないでいた。孫権は曹叡の親征を知ると、曹叡の軍が未だ数百里に至る前に撤退。陸遜・諸葛瑾・孫韶らもまた同様に軍を引き上げ、遠征は呉軍の全面敗北という結果に終わった。蜀の諸葛亮も戦果のないまま陣没し、遺された将兵は撤退した(五丈原の戦い)。
三方面攻略を期した孫権は諸葛亮と連絡して共に魏領を攻めるが、敵味側戦線は膠着状態に陥ることになった。魏の援軍が迫ったので、曹叡の親征軍が来ると聞くと撤退した。また、陸遜と諸葛瑾は襄陽を攻めたが、江夏郡の安陸・石陽を平定した。この年から3年間、諸葛恪・陳表・顧承らを派遣して山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士として6万人を徴兵した。
後漢/
後漢の最後の皇帝、献帝が死去。
蜀/
蜀の丞相、諸葛亮孔明が死去。
百済/
仇首王が死去。古尓王が即位。

神功皇后摂政35年/235年:乙卯

ローマ/
3月18日- ローマ皇帝アレクサンデル・セウェルスが死去。セウェルス朝が断絶。
3月20日。ローマ帝国マクシミヌス・トラクスが即位。
軍人皇帝時代の始まり。
またこの時代をローマ帝国内外の社会的・経済的変動を含めて「3世紀の危機」とも呼ぶ。
魏(青龍3年)/
曹叡の親族である曹芳が斉王に封ぜられた。 呉(嘉禾4年)/ 魏は孫権に、馬と真珠・翡翠などを交換したいと申し入れてくる。孫権は「真珠や翡翠は確かに貴重な珍品であるが、私には必要のないものだ。その代わりに馬が手に入るなら拒否する必要もない」と、交易を受け入れた。

神功皇后摂政36年/236年:丙辰

インド(月氏)/
サータヴァーハナ朝が滅亡。
魏/
後の西晋の初代皇帝、司馬炎が生まれる。
呉(嘉禾5年)/
通貨として、五銖銭500枚の価値を持つ貨幣を発行。

神功皇后摂政37年/237年:丁巳

魏(景初元年)/
元号を青龍に改元。
燕(遼東)/
孫権は高句麗と通じ、遼東へ親征を行おうとした。魏は毌丘倹を派遣しこれと対陣、毌丘倹が鮮卑の軍を動かして遼東に駐屯させたことで、家臣の反対もあって孫権は親征を断念する。これを受けて魏は公孫淵に対し上洛を命じたが、公孫淵はこれを拒否、挙兵して遼隧で毌丘倹を撃退する。
毌丘倹は明帝の名で公孫淵に出頭命令を出した。しかし公孫淵は従わずに迎撃の構えを見せ、毌丘倹と一戦に及びこれを撃退した。
公孫淵が燕国(遼東)を起こす。元号を紹漢とする。
独立を宣言。周辺部族を掌握して玉璽を与え、魏との国境をめぐり抗戦を継続する。

神功皇后摂政38年/238年:戊午

燕・魏(景初2年)/
曹叡は司馬懿に4万余の兵を与え、公孫淵征伐を命じた。公孫淵も卑衍・楊祚らに数万の軍を与えて遼隧に派遣した。司馬懿が遼東に到着すると、卑衍が司馬懿を攻撃したが、司馬懿は胡遵らを派遣して卑衍を破った。
公孫淵は遼隧に数十里(『三国志』には二十里、『晋書』には六・七十里ほどと記されている)の塹壕を掘り、司馬懿の軍を迎え撃ったと言われる。遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固と見た司馬懿は、東南に退却したとみせかけて、国都の襄平に侵攻する。公孫淵は遼隧の軍を撤退させ、都の守備に当たらせたが、防戦一方となり敗退を繰り返して、司馬懿に襄平を包囲された。
長雨の時期にさしかかり兵糧が底を突いたため、公孫淵は人質を出して和睦しようと画策する。
司馬懿自ら指揮を執る魏軍が向かってくると、公孫淵は呉に援軍を求めた。呉は過去の恨みから、嫌味を書いた書簡を送り返したが、それでも魏への牽制には役立つとみて、援軍を差し向けた。また、公孫淵は鮮卑の族長を単于に任じ、味方に取り込もうともした。しかし呉の援軍が間に合わず、止むを得ず単独で戦うも魏軍に大敗、籠城するも食料が尽き遂に降伏した。
この時、公孫淵は、相国に任じた王建(中国語版)と御史大夫に任じた柳甫を使者に立て、和議の旨を伝えさせた。しかし、司馬懿は二人をその場で斬ると「お前たちは楚と鄭の故事を知らないのか。私も魏帝から列侯に封ぜられた身、王建ごときに『囲みを解け』、『軍を退け』と指図される筋合いはない。王建は耄碌して主命を伝え損なったのだろう。次は若く頭のよい者を遣すように」と警告した。このため公孫淵は次に衛演を遣わして、人質を送り恭順する旨を伝えさせた。しかし司馬懿は「戦には5つの要点がある。戦意がある時に戦い、戦えなければ守り、守れなければ逃げる。あとは降るか死ぬかだ。お前は降伏しようともしなかったな。ならば残るは死あるのみだ。人質など無用である」とこれを追い払った。
8月23日、公孫淵と子の公孫脩をはじめとする廷臣はみな斬首された。
さらに司馬懿はこの地に魏へ反抗する勢力が再び生まれぬよう、遼東の成年男子7000人も虐殺された。その首は高く積まれ京観(高楼)と呼ばれたという。また公孫淵の首は都の洛陽に送られた。このことで、洛陽に留まっていた兄公孫晃の一族も死を賜ることになり、遼東公孫氏は滅亡することになった。
正史と『晋書』宣帝本紀によれば、公孫淵が討たれた際、公孫恭は城内に幽閉されていたため、これを知った司馬懿に「公孫恭が太守であった時代は公孫氏が魏に忠実であった」として釈放された。
また賈範・綸直は司馬懿により厚く葬礼され、両名の遺族もまた厚遇されたという。
帯方郡が魏の配下となった事により、諸国と魏の外交が進むことになる。『魏志倭人伝』においては、明帝への卑弥呼の遣使の記載がある。
三国時代、遼東公孫氏の当主(燕王)、公孫淵が死去。
この頃、首都洛陽にあった曹叡は病によって重篤に陥り、登女という巫女の言う神を信じて神水を求めたりするなど失態が目立った。神水を飲んでもよくならなかったので、登女も処刑された。死期を悟った曹叡は曹宇を大将軍とし、夏侯献・曹爽・曹肇・秦朗と共に曹芳を補佐させようとした。しかし夏侯献と曹肇は共に、劉放・孫資が政治の中枢にあることを不満であるかのような発言をしたことがあった。また曹宇は謙虚な性格であったため、これを固辞した。
これを受けて曹叡は側近の劉放と孫資を寝室内に招き入れて相談し、孫資・劉放らは曹宇・夏侯献・曹肇らの登用を快く思わずに曹叡に讒言し、曹宇に代えて曹爽を登用すべきだと勧め、さらにその補佐として司馬懿を当たらせるよう進言した。曹叡は劉放と孫資の言に従い、曹爽と司馬懿を用いようとしたが、途中で考えを変え、勅令によって前の命を停止させた。すると、劉放と孫資が再び入宮してに曹叡に謁見し、再び讒言で改めて説得した。
曹叡がまた二人の意見に従うと、劉放が「手詔(直筆の詔書)を為すべきです」と言った。曹叡は「私は病が篤いのでできない」と言うと、劉放はすぐ寝床に登り、曹叡の手を取って無理に詔書を書かせた。完成するとそれを持って退出し、大言で「詔によって燕王・曹宇らの官を免じる。宮中に留まってはならない」と宣言した。曹宇らは解任され、最終的に司馬懿・曹爽らを後見人に改めて立て、曹宇・夏侯献・曹肇・秦朗らは皆、涙を流して宮中から出て行った。
後の西晋の武帝司馬炎の皇后、楊艶が生まれる。
呉/
通過として、五銖銭1,000枚の価値を持つ貨幣を発行した。
元号を赤烏に改元。
酷吏とされる呂壱を重用していたが、悪事が露見して処刑した。
※呉の「赤烏元年(238)」の紀年銘を持つ画面帯神獣鏡出土する(山梨県西八木郡鳥居原きつね塚古墳)。
蜀/
元号を延熙に改元。
蜀(蜀漢)の政治家、李福が死去。
ローマ/
内戦が起こる(六皇帝の年)。
3月22日。ゴルディアヌス1世即位、息子のゴルディアヌス2世を共同皇帝に指名。
4月12日。ゴルディアヌス2世が戦死、ゴルディアヌス1世が自死。
4月22日。マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムスとデキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌスが共同で皇帝となる。ゴルディアヌス3世が副帝に即位。
4月?日。マクシミヌス・トラクスが親衛隊により殺害される。
7月29日。プピエヌス・マクシムス、バルビヌスが親衛隊により殺害される。ゴルディアヌス3世が単独皇帝となる。
大和/
呉の「赤烏元年(238)」の紀年銘を持つ画面帯神獣鏡出土する(山梨県西八木郡鳥居原きつね塚古墳)

神功皇后摂政39年/239年:己未

魏(景初3年)/
1月。危篤となった曹叡は曹芳を皇太子に立て、曹芳が幼少(8歳)のため補佐役を選定した。曹叡は、曹宇を大将軍に任じ後事を託そうと考えていたが、劉放と孫資らの反対を受け、曹爽と司馬懿を後見人とした。
曹叡が崩御し、高平陵に葬られた。
曹芳が皇帝に即位する。
政務に関しては曹爽と司馬懿が取り仕切り、剣履上殿(剣を帯び、靴を履いたままの昇殿が許される)・入朝不趨(朝廷内で小走りに走らなくとも咎められない)・謁賛不名(皇帝に目通りする際に実名を呼ばれない)という特権を与えられた。司馬懿は対蜀漢の前線を任されていたため、曹爽が内政を執り行い、司馬懿が軍事を管轄した。この時点では、表面上は曹爽が年輩の司馬懿を敬っていたため、両者の間に大きな軋轢は見られなかった。
呉(赤烏2年)/
238年に公孫淵が孫権に謝罪とともに援軍を求める使いを出した経緯から、孫権は援軍として羊衜・鄭冑・孫怡を派遣した。曹叡が死去後の事であった事から、魏は遼東に対する備えが薄くなっていた。その隙をついて羊衜らが遼東の牧羊城(旅順口)で魏の張持や高慮らを破って、その男女を捕虜として帰国した。
大和/
6月。倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の明帝への奉献を願う。帯方郡の太守である劉夏は使者を魏の洛陽へ送る。
12月。明帝は詔して、卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬・銅鏡100枚を授ける(魏の景初3年『魏志』倭人伝)。
※「景初三年」の紀年銘を持つ神獣鏡が、大阪府和泉市の黄金塚古墳と島根県大原郡の神原古墳から出土している。
これ以降、大和と中華(中国)との交易が盛んであった事が記録に現れる。
「景初三年」の紀年銘を持つ神獣鏡が、大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳と島根県大原郡の神原古墳から出土している。

神功皇后摂政40年/240年:庚申

大和/
「□始元年」の紀年銘を持つ三角縁神獣鏡が出土する。(群馬県高崎市の芝崎古墳と兵庫県豊岡市森尾古墳)
三国志/魏書によれば、正始元年、帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させたとある。
魏(正始元年)/
田豫が使持節・護匈奴中郎将となり、振威将軍を加えられ、并州刺史を兼任した。周辺の異民族はその威名を聞き、貢物を献上した。国境地帯は平穏で、民衆から慕われたという。
ローマ/
キリスト教家ラクタンティウスが生まれる。

神功皇后摂政41年/241年:辛酉

魏(正始2年)/
呉の朱然らが樊城を包囲すると、司馬懿は自ら進み出て軽騎兵を指揮して救援におもむき、朱然を退けた(芍陂の役)。 呉(赤烏4年)/
4月、全琮・諸葛恪・朱然・諸葛瑾・歩騭などに命じて四路から魏を攻める。
5月、孫権の長子であり皇太子であった孫登が33歳で病死してしまう。病床にあった孫登は遺書の中で、三弟の孫和を次の太子に推し、孫権もそれに従った。
6月、全ての戦線において、呉の軍勢が撤退した。しかし、六安・芍陂・樊城・柤中の破壊や労働力の掠奪やルート確保に成功するなど作戦目標に合致した戦果を挙げ、諸将に褒賞があった(芍陂の役)。
三国時代の呉の政治家・武将、諸葛亮の兄である諸葛瑾が死去。
ペルシア/
サーサーン朝ペルシア、シャープール1世が第2代皇帝に即位。
サーサーン朝ペルシア、メソポタミアを占領。このころ、クシャーナ朝を破り、インドへ侵入。クテシフォンからニコシアに遷都。
ローマ/
4世紀頃にローマ帝国によって編纂されたとされている『皇帝列伝』によれば、ローマ行軍歌のなかにフランク人(フランク族)という記録が出てくる。
当時のローマ人は、ライン川中流域に居住するゲルマン人民族を一括して「フランク人」と呼んだ。
フランクの語源は、「勇敢な人々」「大胆な人々」あるいは「荒々しい」「猛々しい」「おそろしい」人々という意味だが、当時のフランク族は投擲武器として「フランキスカ」という戦斧を用いていた。
その特徴から「フランキスカを用いる民族」として「フランク人」とした説もある。(民族による領土争いの絶えなかった時代では、戦う事が初見である事が多く、民族をくくる)

神功皇后摂政42年/242年:辛酉

呉(赤烏5年)/
正月、孫権が孫和を太子に立てた。
8月、孫覇(4男にして孫和からすると異母弟となる)を魯王に立て、初めはこの両者をほぼ同様に遇したが、家臣団の不満により孫権は別々の宮を設置し、それぞれに幕僚をつけた。孫覇は太子と太子の支持者に恨みを抱いた。
孫権が聶友と校尉の陸凱に3万の兵を与えて珠崖・儋耳の地を討たせ、このとき珠崖郡が再び設置された。後に朱然に命じて魏の柤中へ侵攻した。呉軍を各地に分散させていたところを魏の蒲忠と胡質に襲撃されたが、朱然の果敢な戦略や800人の軍勢 前方の蒲忠が退却してしまったため、後方にいた胡質も退却した。一方、諸葛恪は軽兵のみで魏領を奇襲し、舒城を攻め落とし、長江北岸の住民を移住させた。
越(西蔵:チベット)/
このころ、マニがペルシアでマニ教の宣教を開始。
インド/
クシャーナ朝が衰退。

神功皇后摂政43年/243年:癸亥

大和/
倭王が魏に使者を送り、生口・倭錦などを献じる(魏の正始4年、『魏志』少帝紀、同倭人伝)。
三国志/魏書によれば、正始四年12月、倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けたとある。
魏(正始4年)/
正月、曹芳が元服。曹操の廟庭に功臣20人を祭った。この年に倭国女王が朝貢している。
呉(赤烏6年)/
正月、諸葛恪は魏を攻めたが、六安で魏軍を大いに破り、謝順軍を破り謝順を斬り、魏軍の人々を捕虜にした。
11月、19年間丞相の任にあった顧雍が死去する。
12月、司馬懿は呉を攻めるが、気象学者の助言で諸葛恪を柴桑に移らせ、孫権は自ら軍を率いてこれを迎撃した。結局、司馬懿は十余日で舒城を陥落させることができずに退却した。

神功皇后摂政44年/244年:甲子

大和/
※「□烏七年」の紀年銘を持つ画文帯神獣鏡が、兵庫県宝塚市の安倉古墳から出土している(呉の赤烏七年)。
一般学説的にはこの頃、マヤ文明が興る。(マヤの地の歴史とは異なる。)
ローマ/ガイウス・アウレリウス・ウァレリウスがダルマティア属州の属州都サロナで生まれる。のちのディオクレティアヌス帝。
2月11日。マッシナの戦いで、サーサーン朝のシャープール1世がローマ皇帝ゴルディアヌス3世を敗死させる。
フィリップス・アラブスが即位。
魏(正始5年)/
曹爽は大功を立てるため蜀漢への侵攻を企てる。司馬懿は失敗を予期して強く反対したが、曹爽は蜀漢出兵を強権的に行い(興勢の役)、結果的に大失敗に終わり多くの損害を出した。そのため、これ以降両者の対立が表面化することとなった。同年、曹操の廟庭に功臣1人を追加して祭った。
呉(赤烏7年)/
正月、呉の名将として知られる陸遜が丞相に任じられたが、荊州統治という従来の職務はそのままだったため、首都の建業は丞相不在という状況になった。また、宮中においても孫権の娘である孫魯班(全琮の夫人でもある)と孫和の生母である王夫人の不和が存在していたともされる。その王夫人は孫権の寵愛深い妃だったがその身分はあくまでも夫人(側室)である。潘淑(後の皇太子の母)のように正式な后として重んじられることはなかった。
孫和・孫覇が和睦していないとの声を孫権が聞き、孫権は2人と群臣の往来を禁止するが、状況は悪化していった。以降、魯王派(孫覇派)は太子廃立の動きを強め、太子派(孫和派)はこれを防ごうとする。また孫覇は群臣の言に乗って太子廃立に自らも意欲を見せていた。群臣たちは真っ二つに割れた。
この頃、孫和母子に不満を抱いている孫魯班は孫権が病気になったとき、孫和が妻の叔父である張休の屋敷に招かれていたことを利用し、孫権に対し「孫和は祈祷も行わずに、妻の実家で謀議を廻らしている」と讒言し、またその母の王夫人も孫権が病気であることを喜んでいると讒言した。まもなく王夫人が憂いのあまり死去すると、孫権の孫和に対する寵愛も衰えた。
楊竺は陸遜に関する20条の疑惑事項を告発した。そのため孫権は陸遜に対して問責の使者を何度も送った。この前後は魯王派の讒言が激しく、太子太傅の吾粲は処刑され、顧雍の孫で陸遜の甥にあたる顧譚・顧承をはじめとして張休・姚信ら太子派の重要人物が次々に左遷(もしくは流刑)された。
歩騭・朱然らが、蜀は魏と通じて呉を攻めようとしていると言上。孫権はこれを信ぜず、こう言った「人の言うことはあてにならぬ。私は諸君の為に家の存亡を賭けてこれを保証しよう」。果たして、蜀漢にそのような企ては無く、孫権の予想通りだった。

神功皇后摂政45年/245年:乙丑

呉(赤烏8年)/ 魏からの降将である馬茂が謀反を起こす。馬茂は符節令の朱貞・無難督の虞欽・牙門将の朱志たちと共に孫権暗殺の計画を練るが、事前に事が見通して失敗に終わっている。
楊竺の告発、孫権からの譴責の書状から憤慨の中で陸遜が死去。子の陸抗が陸遜の故郷埋葬のために呉郡に戻り、宮廷に参内したときにすべて晴らした。
大和/
魏の少帝、倭の大夫に黄幢を授け、帯方郡を通じて伝授させることとする(魏の正始六年、『魏志』倭人伝)。
三国志/魏書によれば、正始六年、魏が難升米に黄幢を授与とある。

神功皇后摂政46年/246年:丙寅

魏(正始7年)/
後の三国時代の魏の第5代、最後の皇帝、曹奐が生まれる。
毌丘倹が高句麗に遠征し丸都城を蹂躙する。 呉(赤烏9年)/
朱然は上表して、前年に起きた魏からの投降者馬茂による孫権暗殺未遂事件の報復として、再び魏の柤中に侵攻し、曹爽討伐に出る。朱然の勇猛により曹爽が万余人以上を失い、大した被害を受けて退却した。朱然はこれを見逃さず魏軍を追撃し、歩兵と騎兵を6千率いた魏の李興を撃ち破り、数千人を斬り、1000人ほどを捕虜にした。
9月の人事改変で全琮が右大司馬、歩騭が丞相になった事で、魯王派が主導権を握る。

神功皇后摂政47年/247年:丁卯

大和/
倭の女王卑弥呼は、狗奴国と対立していたが、倭の使者を帯方郡に遣わし、狗奴国との交戦を告げる。魏は、使者を倭に派遣し、詔書・黄幢を倭の大夫に与え、檄をつくって告喩する(魏の正始8年、『魏志』倭人伝)。
北九州で皆既日食が観察されている、という説がある。
三国志/魏書によれば、正始八年、倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与とある。
新羅/
助賁王が死去。沾解王が即位。
魏(正始8年)/
帯方太守王頎到官。この頃に半島の直轄化が完了した。
5月、曹爽が政治権力の集約を図る中、身の危険を感じた司馬懿は政務に関与せず自邸に引きこもった。それを聞いた曹爽と何晏はさらに専横を強め、国家転覆をも企てんとしていた。そんな中李勝は曹爽の命で司馬懿邸を訪れると、司馬懿は病が重いふりをする。それにより曹爽らは司馬懿に対する警戒を解いた。 呉(赤烏10年)/
孫権は諸葛壱に命じ魏の諸葛誕を誘き寄せようと謀り、自身も軍を率いて出陣した。諸葛誕らはこれに乗らず撤退した。
丞相の歩騭が死去。

神功皇后摂政48年/248年:戊辰

大和/ この頃、女王卑弥呼死す。径100余歩の冢を造り、奴卑100人を殉葬する。
男王を立てるが、国中服さず、誅殺しあい、1000余人が殺されたという。
卑弥呼の宗女壱与(または台与)が女王となり、国中が治まる。
魏使ら、檄をもって壱与に告喩する。壱与、倭の大夫ら20人を遣わして、魏使らを送らせ、生口30人、白珠5000孔などを献じる(魏の正始九年、『魏志』倭人伝)。
三国志/魏書によれば、卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだとある。

日本神話の天照大神の岩戸隠れのエピソードは、この年日本で見られた日食をモチーフにしたものとする解釈がある。
ローマ/
ローマ皇帝ピリップス・アラブスによるローマ建国一千年祭が行われる。
呉(赤烏11年)/
交州交阯郡・九真郡の夷賊らが呉に対して反乱を起こし、この報告を聞いた孫権は、陸胤らに命じて平定させた。陸胤が説得したことにより高涼郡の渠帥である黄呉ら三千家余りやさらに南の賊帥百余人ら五万家余りが降伏した。その後も周辺の郡の反乱を平定し、降伏者を兵士として軍に編入し強勢を誇ったという。

神功皇后摂政49年/249年:己巳

大和/
三国史記/于老列伝によれば、倭国使臣が新羅の舒弗邯の昔于老を殺した。
魏(嘉平元年)/
1月6日、曹芳が明帝の陵墓に参拝するために高平陵に向かった隙を突き、司馬懿が洛陽を制圧し曹爽は降伏する。(高平陵の変)その後曹爽一族、一党を追放・誅殺したため、これ以降の魏は事実上司馬氏の支配するところとなった。
元号を嘉平に改元。
ローマ/
ローマ皇帝フィリップス・アラブスが死去。
ローマ帝国デキウスが即位。
呉(赤烏12年)/
右大司馬の全琮が亡くなる。
この事で、魯王派(孫覇派)と太子派(孫和派)両勢力が拮抗して覇権争いが勃発する。
孫権は嫌気がさして末子の孫亮を寵愛しだす有様であり、孫亮に皇位を継承させようとした。

神功皇后摂政50年/250年:庚午

ペルシア/
ササン朝ペルシャのシャープール1世がインドのクシャン朝を破る。
ローマ/
ローマ皇帝デキウスが、キリスト教徒を迫害。
3月31日。後の西ローマ帝国皇帝、コンスタンティヌス朝の創始者となる、コンスタンティウス・クロルスが生まれる。
年代は不明だが、ヴィデーハ朝がこの期にクシャナ朝より独立し、ティーラブクティ国となる?
ヴィデーハ朝は、マガダ国と婚姻関係の強い国であったが、ティーラブクティ国となってもその関係は継承されていた可能性が強い。
また、その関係性から、バラモン教を主とする中でも排他的な価値観を持つ国であったとされており、しばしば周辺の国々と対立していた。
呉(赤烏13年)/
孫権が、魯王派(孫覇派)と太子派(孫和派)の政争に対する決断を下し、孫和を幽閉した。この処置に反対した孫和派の屈晃と驃騎将軍の朱拠は棒叩き100回の刑を受けた上、前者は郷里に帰らされ、後者は新都郡の丞に左遷され任地に赴く途中で中書令の孫弘に自害させられた。他にも、孫和の処置に反対した十数人の役人が処刑されたり、放逐された。罪を受けた人々の中には、無実の者もあったという。
8月、太子孫和は廃され(後に南陽王に封じる)、魯王孫覇は死を賜った。さらに孫覇派のうち積極的な工作を行っていた全寄・呉安・孫奇らをことごとく誅殺した。数年前に処刑された楊竺は、死体が長江に捨てられた。
11月、その代わりの皇太子として孫亮が擁立され、二宮事件は一段落した。
のちに孫権は、中央に孫和を帰らせる為に彼の名誉を回復しようと考えたが、孫和を憎悪していた長女の全公主弾劾により思いとどまっている。
12月、文欽が偽の降伏を申し入れてきたが、朱異はこれを見破り、孫権に信用しないよう申し入れた。孫権は呂拠に命じ、大軍を率いて文欽の身柄を引き取りに行かせたが、文欽は現れなかった。

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西暦250年〜西暦300年