前の年代:
紀元前150年〜紀元前100年
紀元前100年 〜 紀元前50年
開化天皇58年/前100年:辛巳
前漢/匈奴に捕まっていた浞野侯趙破奴が脱走し、漢に帰国した。
開化天皇59年(前99年):壬午
前漢/漢は弐師将軍の李広利率いる3万の騎兵を酒泉から出撃させ、右賢王を天山で撃ち、首虜万余級を得て還った。それに対し、今度は匈奴が大挙して李広利を包囲する事に成功する。李広利の兵はほとんど脱出することができず、6~7割の軍勢が戦死した。漢はまた因杅将軍の公孫敖を西河から出撃させ、強弩都尉の路博徳と涿邪山で合流したが、何もすることができなかった。騎都尉の李陵率いる歩兵5千人を居延の北千余里から出撃させ、単于且鞮侯と遭遇し戦闘になる。李陵は万余人を殺傷したが、兵糧が尽きたので撤退しようとしたところ、単于に包囲され、匈奴に降った。単于且鞮侯は李陵に自分の娘を娶らせた。
開化天皇60年(前98年):癸未
4月、開化天皇が崩御。
10月、春日率川坂本陵にて埋葬。
崇神天皇元年(前97年):甲申
日本/
1月、祟神天皇が即位。
異称を、御間城入彦五十瓊殖天皇。所知初国天皇(はつくにしらししすめらみこと)『古事記』。御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)『日本書紀』という。
「御間城天皇(みまきのすめらみこと)の世に、額(ぬか)に角有ひたる人、一(ひとつ)の船に乗りて、越国(こしのくに)の筒飯浦(けひのうら)に泊まれり。故(かれ)、其処(そこ)を号(なづ)けて角鹿(つぬが)と日ふ。」
越国(こしのくに)は、紀元後6世紀頃において北陸地域にあった国を指す言葉である。
この時、越国の筒飯浦(福井県敦賀市気比町)に鉄の生産国である意富加羅国(おおからこく)の王子ツヌガアラシトが来日する。(アメヒホコもしくは少彦名尊の同一視説もあるが、大陸から渡った他国の民の総称としても考えられる。)泊まった地域を角鹿(同町角鹿)と呼んだ。(『ホツマツタエ』『日本書紀』記)
『風土記』『播磨国風土記』『日本書紀』記によれば、ツヌガアラシトは、出雲(ヤマト)に渡ったとされる。当時の出雲は、石川県〜島根県までの日本海側の地域を跨ぐ大国であった。「ツヌガ」と呼ばれるようになったのは、現在の福井県敦賀市にある気比神宮のあたりであり「角鹿」という地名も現存している。
この時代、『日本書紀』によれば、ヤマト朝廷は三輪山の麓、城上郡志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社付近を中心として勢力をもった豪族、磯城県主(しきのあがたぬし)から、正妃を輩出していたとある。さらに『先代旧事本紀』や『新撰姓氏録』によると、磯城県主は、物部同族であったとしている。
祟神天皇と遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)の間に、遠津年魚眼眼妙媛は荒河戸畔(あらかわどべ)の娘と記載がある。荒河戸畔は紀伊国(和歌山県)の地名のひとつ。
前漢/司馬遷が『史記』を完成。
漢はふたたび弐師将軍の李広利率いる6万の騎兵と10万の歩兵を朔方から出撃させ、強弩都尉の路博徳率いる1万、游撃将軍の韓説率いる3万を五原から出撃させ、因杅将軍の公孫敖の4万を雁門から出撃させた。匈奴はこのことを聞くと、遠く余吾水の北までの足手まといになるものを撤退させ、単于は10万の騎兵を率いて李広利と河南で戦闘となった。李広利は匈奴に降伏し、韓説は何の成果もなく、公孫敖は左賢王と戦ったが敗北して引き揚げた。
崇神天皇2年(前96年):乙酉
匈奴/単于且鞮侯が死去。長子の左賢王が狐鹿姑単于として即位する。
狐鹿姑単于は弟の左大将を左賢王としたが、数年で病死したので、その子の先賢撣を日逐王とし、狐鹿姑単于の子を左賢王とした。
崇神天皇3年(前95年):丙戌
三輪山西側のふもとの瑞籬宮(みずかきのみや、奈良県桜井市金屋)に遷都。金星は古来鉄に関係する名前で、実際に遺跡から沢山の鉄屑が見付かっている。(時代は未確認)。
崇神天皇4年(前94年):丁亥
前漢/武帝と趙婕妤との間に、劉弗陵(後の昭帝:第8代皇帝)が生まれる。
崇神天皇5年(前93年):戊子
大和/近畿圏で疫病が流行し、多くの民がなくなる。
崇神天皇6年(92年):己丑
疫病が流行の影響で、百姓は流浪し朝廷に謀反を起こす勢力が出てくる。
疫病を鎮めるために宮中に祭られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移し、更に大物主命を祭った。
天照大神は、まず皇居の北1Kmにある笠縫邑、現在の檜原神社に移した。
倭笠縫邑(かさぬひのむら:現在地は不明だが、桜井市もしくは磯城郡が推定候補地として上がっている)に磯城(しき)の神籬を立て、天照大神と草薙の剱を奉遷し、皇女豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に奉斎せしめた。
その遷祭の夕べに、宮人は皆参詣し、終夜、宴楽歌舞した。その後、大神の教へのままに、国々処々に大宮処を求めた。
神武天皇以来九帝のあひだ同殿共床にあり、漸く神の勢ひを畏れ、共に住むこと安からずと、改めて斎部(いむべ)氏をして石凝姥神裔、天日一箇裔の二氏を率て、更めて鏡剱を鋳造し、以て護身御璽と為した。
今の践祚の日に献る神璽鏡剱は、これである〔内侍所といふ〕。
※
皇女豊鋤入姫命が奉斎したのは33年。檜原神社、巻向坐若御魂神社、笠縫神社、志貴御県坐神社、笠山荒神宮、天神社、飛鳥坐神社を転々とする。
その後60年をかけて各地を移動し、次の垂仁天皇の時代に最終的に現在の伊勢神宮内宮に鎮座した。詳細記事:元伊勢
倭大国魂神は、いくつかの場所を移動し、最終的に皇居の北10Kmにある現在の大和神社に鎮座した。
前漢/
夏、武帝が建章宮にいた際、一人の男が帯剣して中竜華門に入るのを見た。武帝は男を異人ではないかと疑ってこれを捕えるよう命じたが、男は剣を捨てて逃げ、捕えることができなかった。武帝は怒って門候(城門の役人)を処刑した。
冬11月、三輔の騎士を動員して上林苑を捜索した。捜索のために長安の城門も閉じられ、11日後にようやく解かれた。この頃、巫蠱の禍が始まった。
公孫賀は夫人が皇后・衛子夫の姉であったために重用され、太僕を経て丞相に引き立てられていた。子の公孫敬声は父に代わって太僕となったが、皇后の甥であることを笠に着て驕奢の振る舞いが多く、北軍の軍費を横領したことが発覚して投獄された。
公孫賀は、陽陵の大侠客として知られた朱安世という者を捕え、それと引き換えに公孫敬声の罪を除こうとした。ところが捕えられた朱安世は「丞相の災いは皇族にまで及ぶぞ。南山の竹を全て使っても俺の自白を書き留めるのに足らず、斜谷の木を全て使っても俺の手かせ足かせを作るのに足らないだろうよ」と笑った。そして獄中から、公孫敬声が陽石公主(武帝の娘)と密通していること、甘泉宮(離宮)への道に偶人を埋めて武帝を呪っていることを告発した。
崇神天皇7年(前91年:アスス暦637年):庚寅
大物主命は、占いにより祟りをなしている事が判明する。
倭大国魂神は、いくつかの場所を移動し、最終的に皇居の北10Kmにある現在の大和神社に鎮座した。
前漢/武帝が泰山で封禅の儀を執行する。
前漢/悼皇考(史皇孫)劉進と王翁須との間に、劉病已(後の宣帝:第9代皇帝)が生まれる。
前漢/巫蠱の獄がおこる。
春正月、公孫賀も投獄されて公孫敬声とともに獄死、一族はみな誅せられた。代わって中山靖王の子で涿郡太守の劉屈氂が丞相を拝命した。
夏閏4月、武帝の娘である諸邑公主と陽石公主、衛皇后の甥で衛青の子である長平侯衛伉が誅せられた。
その頃、武帝は甘泉宮へ行幸した。武帝が甘泉宮で病床に臥せっていることを知った江充は、衛皇后や衛皇后の子・劉拠(衛太子)に憎まれていたことから老齢の武帝が崩御した後に誅せられるのを恐れ、皇帝の病は巫蠱によるものと奏上し、巫蠱の摘発を命ぜられる。江充は胡巫を率い、地面を掘り返して偶人を捜索し、呪い師の類いを捕えては証拠をでっちあげ、拷問にかけて自白させた。人々はお互いに巫蠱の罪で誣告しあい、連座して死ぬ者は数万人に及んだという。
年老いた武帝は左右の臣下がみな巫蠱により自分を呪っているのではないかと疑い、その事実の有無にかかわらずあえて冤罪を訴えようとする者もいなかった。江充はこれに付け入り、宮中の蠱気を除かねば武帝の快癒はないと胡巫の檀何という者に言上させ、按道侯韓説、御史の章贛、黄門侍郎の蘇文らとともに宮中を捜索した。後宮で寵愛を受けていない夫人から捜索を始め、皇后宮を経て太子宮にまで至り、ついに偶人を発見した。
驚愕した劉拠は太子少傅の石徳(石慶の子)に問うたが、連座して誅せられることを恐れた石徳は秦の扶蘇を引き合いに出し、武帝の使者を騙ってでも江充を捕えてその陰謀を暴くように勧めた。劉拠は初め逡巡したが、劉拠を捕えようとする江充の動きが速かったため、結局は石徳の言に従った。
秋7月、劉拠の食客が武帝の使者を騙って江充らを捕えた。韓説は偽使を疑い従わなかったのでその場で殺され、章贛は傷を負って後に死んだ。劉拠は「趙の下郎め、前に趙王父子を乱したのに飽き足らず、さらにまた我が父子を乱そうというのか!」と江充を罵って斬った。江充は趙国邯鄲の生まれであり、趙国の太子の罪を暴いたことがあったのである。また、胡巫も上林苑の中で焼き殺された。その夜、劉拠は舎人の無且に節(皇帝の旗)を持たせて未央宮へ入り、長御(女官)の倚華を通じて衛皇后にことの次第を伝えるとともに、中厩の車や長楽宮の衛兵を動員し、武庫から兵器を運び出した。
甘泉宮へ逃げ帰った蘇文は武帝に劉拠の謀反を訴えた。武帝はそれでも謀反とは断定せず、使者を送って劉拠を召し出すことにした。ところが使者はあえて劉拠のもとには行かず、殺されそうになったということにして甘泉宮へ帰ってきたので、武帝は謀反を真実と思い激怒した。劉屈氂は丞相府から身体一つで逃げ出したために印綬すら紛失する有様だったが、武帝のもとへ長史を急使として送った。そこで劉屈氂が事件を公にせず、未だに兵を動かしていないことを知った武帝は「事態は急を争うのだから、公にすべきである。丞相は周公旦の風格を備えていない。周公は管叔鮮と蔡叔度を討伐して見せたぞ!」と叱責。劉屈氂に璽書を与え、牛車を横たえて盾とすること、短兵を交えず死傷者をなるべく少なくすること、城門を閉じて謀反人を逃がさないようにすることなどを指示した。
劉拠は「陛下は甘泉宮で病床に臥しておられるというが、何事かが起こったのであろう。姦臣はそれに乗じて乱を起こそうとしたのだ」と百官に告げたが、武帝は甘泉宮から長安城西の建章宮に移り、三輔近県の兵を動員して劉屈氂にこれを率いさせた。劉拠は制(皇帝の命令)と偽って中都官の囚人を解き放ち、兵器を与えて少傅の石徳と賓客の張光に率いさせるとともに、囚人の如侯に節を持たせて長水・宣曲に駐屯していた胡騎(胡人の騎兵)を長安に呼び寄せようとした。ところが偶然にも侍郎の馬通が如侯を捕え、如侯が偽使であることを胡騎に示した。馬通は如侯を斬り胡騎を率いて長安へ向かったが、さらに楫棹の士、すなわち楫(かじ)と棹(さお)とで操船する水夫を動員して大鴻臚の商丘成に委ねた。なお、当時漢が用いていた節(旗)は赤色だったが、劉拠の側が赤色の節を用いたので、区別するために黄色の旄(旗飾り)をその上へ付け加えることになった。
劉拠は北軍の兵を動員するため、護北軍使者の任安を召し出して節を与えた。しかし任安は節を拝受した後に陣営の門を閉じて動かなかった。北軍の動員を諦めた劉拠は長安9市のうち4市から兵を駆り集め、数万の軍勢になった。長楽宮の西の闕下で劉屈氂の軍勢と遭遇し、5日間に渡る戦闘で長安の溝渠は血に染まった。しかし謀反人とされた劉拠に味方するものは少なく、劉屈氂の軍勢がやや数で優ったため、劉拠はついに敗れて南の覆盎城門へ奔った。この門を守っていた司直の田仁は同情して見逃したので、劉拠は城外へ脱出した。
劉拠の捜索が続く間、壺関県の三老の茂(姓は令狐あるいは鄭)という者が上書して劉拠に対する寛恕を願った。武帝はこれに深く心を動かされたが、未だ劉拠を赦免することはできなかった。劉拠は湖県の泉鳩里という所に落ち延びていたが、金策のために知人に使者を送ったことから発覚した。
8月、追っ手に隠れ家を取り囲まれ、最早逃げられないことを悟った劉拠は部屋にこもり縊死した。山陽県出身の張富昌という兵士が戸を蹴破り、新安県の令史の李寿が駆け込んで劉拠を抱え下ろしたが、すでに手遅れであった。劉拠を匿っていた隠れ家の主人は戦って死に、皇孫(武帝の孫すなわち劉拠の子)2人も殺された。
劉拠が敗退した後、衛皇后のもとへ宗正の劉長楽と執金吾の劉敢が遣わされ、衛皇后は自殺した。遺体は小さな棺に納めて長安の南の桐柏に葬られた。衛氏もまたことごとく誅せられた。劉拠には3男1女があったが、この事件でみな死んだ。太子良娣(妃に次ぐ地位にある妻)の史氏は衛皇后とともに桐柏に葬られた。劉拠と史氏の子・劉進(史皇孫)はその夫人王氏や娘とともに広明に葬られ、劉進の弟2人は劉拠とともに湖県に葬られた。劉進と王氏の子である劉病已(後の宣帝)のみは生後間もなかったため殺されずに済んだ。
賓客として太子宮に出入りしていた者は誅せられ、劉拠とともに戦った者は族誅、劉拠に心ならずも従った者は敦煌郡に移された。劉屈氂は太子を見逃した田仁を処刑しようとしたが、御史大夫の暴勝之は武帝の裁可を得ないうちに田仁を処刑することへ反対した。武帝はこれを知って「田仁は司直でありながら謀反人を見逃したのだから、丞相がこれを斬ろうとするのは法に則っている。なぜ御史大夫は勝手に止めたのか」と激怒し、暴勝之は恐れて自殺した。田仁、そして劉拠の節を拝受しながら動かなかったため二心を抱くものとされた任安は、ともに腰斬となった。馬通が如侯を捕えた功により重合侯に、景建が石徳を捕えた功により徳侯に、商丘成が張光を捕えた功により秺侯にそれぞれ列侯された。また、劉拠を追捕した功により李寿が邘侯に、張富昌が題侯に列侯された。
巫蠱の密告を調べてみるとその多くは冤罪であったので、武帝は劉拠に謀反の意志がなかったことを悟った。
前漢/巫蠱の獄により、皇后衛子夫・戻太子劉拠・史氏・悼皇考(史皇孫)劉進・王翁須と劉病已の兄と妹が処刑された。生後間もない劉病已は投獄されたが丙吉により養育され、恩赦により釈放されると民間で育てられた。成長してからは遊侠を好んだり、鶏を闘わせ、馬を走らせ、そこから村里の奸邪や吏治の得失を知った。掖庭令の張賀(張安世の兄)から学費を出してもらい学問も身につけていった。やがて掖庭での養育に改められた際、張賀が劉病已の後見役となり、張安世の子の張彭祖が学友となり、長安郊外の尚冠里に居した。
崇神天皇8年(前90年):辛卯
崇神天皇、高橋邑の活日を大神(現、大神神社)の掌酒とする。さらに大物主の子孫に当たる太田田根子に託して祀らせた。
前漢/巫蠱の獄より
秋頃、たまたま高寝郎(高祖劉邦の廟を管理する役)の田千秋という者が上書して劉拠の冤罪を訴えた。これに改めて心を動かされた武帝は召し出した田千秋を直ちに大鴻臚へ任命、数か月後には丞相へ昇格させた。江充の一族は誅せられ、蘇文は横門の橋上で焼き殺された。また、泉鳩里で劉拠に刃を向けた者も北地郡の太守となっていたが、一族みな誅せられた。武帝は無実の劉拠のために湖県に思子宮という宮殿を建て、帰来望思の台を設けた。人々はこれを聞いて涙した。
夫人が巫蠱を行ったとして丞相劉屈氂が腰斬、劉屈氂の事件を受けて弐師将軍李広利は匈奴へ降伏し、李広利と関係があった邘侯李寿も誅殺された。
匈奴/上谷・五原に侵入し、吏民を殺略。それからしばらくして、再び五原・酒泉に侵入し、両部都尉を殺害する。
漢は弐師将軍の李広利率いる兵7万を五原に、御史大夫の商丘成率いる3万余の兵を西河に、重合侯莽通率いる4万騎を酒泉の千余里に派兵した。狐鹿姑単于は漢が派兵したのを聞くと、輜重隊を趙信城の北邸の郅居水に移し、左賢王はその人民を駆って余吾水6~700里を渡り、兜銜山に配置。狐鹿姑単于は自ら精兵の左安侯を率いて姑且水を渡った。商丘成の軍がそれを追撃するが所見なく還ると、匈奴は大将と李陵率いる3万余騎に商丘成軍を追撃させ、浚稽山で合戦し、転戦すること9日、商丘成の兵は善戦し、匈奴軍は蒲奴水に至ると不利とみて撤退した。莽通の軍が天山に至ると、匈奴は大将の偃渠と左右呼知王率いる2万余騎に漢兵を要撃させるが、漢兵の強さをみると撤退した。
李広利が塞を出たので、匈奴は右大都尉と衛律率いる5千騎に夫羊句山狹において漢軍を要撃させた。李広利は属国を遣わし胡騎2千と戦闘になり、死傷者は数百人となった。漢軍は勝ちに乗って北へ追撃し、范夫人城に至ると匈奴は奔走した。李広利は護軍の将2万騎を遣わし郅居之水を渡る。1日して左賢王と左大将に遭遇、匈奴と漢軍が合戦すること1日、漢軍は左大将を殺した。狐鹿姑単于は漢軍が疲れているのを知ると、自らの将5万騎で李広利を遮撃した。さらに夜、漢軍が塹壕を掘っていたところを襲撃すると、漢軍は大いに混乱し敗れ、遂に李広利が降った。狐鹿姑単于は李広利の貴臣ぶりを知ると、娘を嫁がせ、先に降った衛律よりも尊寵した。
崇神天皇9年(前89年):壬辰
崇神天皇の夢に神人が現れ、神託を授ける。
「赤盾8枚。赤矛8竿で墨坂神に祀れ。また、黒盾8枚、黒矛8竿を大坂神に祀れ」
4月、崇神天皇は教え通りに墨坂神と大坂神を祀る。
崇神天皇10年/前88年:癸巳
前漢/巫蠱の獄より
鎮定に功のあった者たちもほとんどがなんらかの理由で地位を失った。
重合侯馬通がその兄の馬何羅とともに謀反して腰斬となり、徳侯景建も馬通に連座して腰斬、秺侯商丘成は不敬があって自殺、題侯張富昌は何者かに殺害された。
大和/
7月、崇神天皇が群臣を集め、以下のように言われた。
「民を導く根本は教化にある。今はすでに天神国神を敬い、災いは全て無くしたが、遠くの荒人(野蛮な民)は、未だ教(ノリ:国の理)を知らず、王の声に従わないでいる。
群臣から選出して、四方へ遣いを出し、朕の憲を知らしめよ」
9月、大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波へ派遣する。そして「もしも、教を享受しないものがあれば、兵を挙げてこれを討て」と伝えた。
4名の者は、印綬を受けて将軍となった。
大彦命が和珥坂上(わにさかのうえ)に到着した時、少女から歌を聞く。大彦命は歌の意味を少女に問うが、少女はもういちど歌を歌うと姿を消した。
大彦命は天皇の元へ戻り、事の次第を報告したところ、天皇の大叔母にあたる倭迹々日百襲姬命から「武埴安彦(たけにわやすひこ)がその妻吾田媛(あたひめ)と謀反を起こそうとしている」事を知る。
崇神天皇は諸々の将軍を集め、話し合いを行った。
幾時もないうちに、武埴安彥と妻の吾田媛が謀反を起こし挙兵する。武埴安彦は山背(山城)から吾田媛は大坂から都を襲おうとした。
崇神天皇は、五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を大坂に送り、これを迎え撃って妻吾田媛を討った。一方山背には大彦命と彦国茸(ひこくにふく、和珥(わに)氏の祖)を向かわせこれを打ち破った。
倭迹々日百襲姬命は大物主神の妻となる。
大神は昼は姿が見えず、夜にしか現れなかったので、倭迹々日百襲姬命は姿が見たいと神に言った。
大神は「吾は朝に櫛笥に入っている。それを見ても驚くな」と答えたが、倭迹々日百襲姬命は櫛笥に入っていた美麗な小蛇を見て、驚いて叫んだ。
大神は人の姿となり、倭迹々日百襲姬命に「お前は吾に恥をかかせた。吾も山に還り、恥をかかせよう」と答え、大空を踏み御諸山に登った。
倭迹々日百襲姬命は仰ぎ見た後これを悔やみ、箸で陰をついて亡くなった。
10月、崇神天皇は群臣を集め、以下のように言われた。
「今、背いた者はことごとく罰を下した。機内は無事だが、海外には荒ぶる俗人が未だに騒いでおり止んでいない。その四道将軍は今たちまち出発すべし」
四道軍が海外国への討征へ向かう。
※
7月〜9月での討征はあくまでも本土内での話であり、10月での海外とはおそらく、現在の九州や四国、北海道等の海を隔てた国々と思われる。ユーラシア大陸には渡っていない。
※
古代ローマでミトリダテス戦争(- 紀元前63年)。
崇神天皇11年/前87年:甲午
大和/四将軍が地方の敵を帰順して、帰参した。
前漢/巫蠱の獄より
春2月、武帝は病床に臥し、末子である劉弗陵が立太子された。武帝はまもなく病死し、劉弗陵が8歳で即位し昭帝となる。
武帝が生前に昭帝の後見を依頼していた大司馬大将軍の霍光、左将軍の上官桀、車騎将軍の金日磾により政務が輔弼され、間もなく金日磾が死去すると霍光と上官桀の両者による後見が行われた。当初は良好な関係にあった両者であるが、徐々に霍光に権力が集中し、一方で上官桀の孫娘が昭帝の皇后として入内すると関係は悪化し、霍光に不満を持つ武帝以来の旧臣で御史大夫の桑弘羊と昭帝の即位に不満を抱く燕王劉旦(昭帝の異母兄)が上官桀派になったことで朝廷は不安定なものとなった。
崇神天皇12/前86年:乙未
匈奴/狐鹿姑単于は漢と和親を求めるようになったが、病にかかる事となる。
狐鹿姑単于には左大都尉となった異母弟がおり、賢かったので国人は彼を次の単于に推していた。初め、母閼氏(ぼうえんし:匈奴の皇太后)は単于を恐れて子を立てず左大都尉を立てたが、のちに彼を殺させた。左大都尉の同母兄はこれを怨み、単于庭(単于の本拠地)の会議に出席しなくなった。狐鹿姑単于は臨終に際し、諸貴人たちに「我が子はまだ幼く、国政ができないので、弟の右谷蠡王を立てよ」と遺言した。
崇神天皇13年/前85年:丙申
匈奴/狐鹿姑単于が死去。この時、衛律らと顓渠閼氏は謀って、喪を隠して単于の令と偽り、子の左谷蠡王を擁立して壺衍鞮単于とした。
子の左谷蠡王が壺衍鞮単于として即位する。
壺衍鞮単于は即位すると、漢と和親を求めることにした。一方、左賢王と右谷蠡王は単于に即位できなかったことを妬み、衆を率いて南の漢に帰順したいと考えたが、自ら実行できないので、盧屠王を脅して共に西の烏孫に降り、匈奴を撃つことを謀った。しかし、盧屠王はこれを単于に報告したので、壺衍鞮単于は人を使ってこれを尋問したが、右谷蠡王は不服とし、その罪を盧屠王になすりつけ、国人も皆これを冤罪としたので、無罪となった。左賢王と右谷蠡王は任地に戻ると、それ以降、龍城の会議(匈奴の国会)に出席しなくなった。
崇神天皇15年/前83年:戊戌
秋、匈奴/代郡に侵攻し、都尉を殺した。壺衍鞮単于は年少で即位したため、母閼氏が不正な統治を行い、国内は乖離し、常に漢の襲来を恐れていた。そこで衛律は単于に19年間匈奴に抑留させていた不降者の蘇武や馬宏等を漢に帰国させ、漢と和親を謀った。
崇神天皇16年/前82年:己亥
ローマ/ルキウス・コルネリウス・スッラがローマの終身独裁官に就任。
前漢/巫蠱の獄より
長安に劉拠を自称する男が現れた。男が今は亡き劉拠にあまりにも似ているため群臣は何も言い出せなかったが、京兆尹の雋不疑はすぐさま男を捕えさせた。調べてみると実際には夏陽県に生まれて湖県で占い師をしている張延年あるいは成方遂という者であり、男は腰斬となった。
匈奴/左右部の2万騎を発し、漢の辺境を侵した。漢軍はこれを追撃し、9千人を斬首獲虜し、甌脱王を生け捕った。匈奴は甌脱王が漢に捕われたのを知ると、恐れて西北に遠く去り、南に水草を追えなくなり、人民を発して甌脱(おうだつ)に駐屯した。
崇神天皇17年/前81年:アスス暦647年:庚子
匈奴/ふたたび9千騎を遣わし受降城に駐屯し漢に備えた。この時、衛律はすでに死去していた。衛律は生前、常に漢との和親を説いていたが、匈奴が信用しなかったために、衛律の死後、匈奴は兵数に困り国益は貧しくなった。壺衍鞮単于の弟の左谷蠡王は衛律の言葉を信じ、漢と和親を謀り辺境を侵さなかった。その後、左谷蠡王が死去。
崇神天皇18年/前80年:辛丑
前漢/
上官桀派が処刑、もしくは自殺に追い込まれ、以降は霍光が輔政の任にあたり、その子弟がこれを補佐するという体制が宣帝の代の初期まで続く。
匈奴/
壺衍鞮単于は犁汚王に辺境を偵察させ、酒泉・張掖の警備が弱いこと知ると、出兵してふたたびその地を得ようとした。右賢王・犁汚王の4千騎は3隊に分かれ、日勒・屋蘭・番和に侵入した。張掖太守と属国都尉は兵を発して撃ち、これを大破し、脱走者は数百人となった。属国千長の義渠王の騎士は犁汚王を射殺し、黄金2百斤・馬2百匹を賜い、犁汚王に封ぜられた。属国都尉の郭忠は成安侯に封ぜられた。これより後、匈奴は張掖に侵入しなくなった。
崇神天皇19年/前79年:壬寅
匈奴/
匈奴の3千余騎は五原郡に侵入し、数千人を殺害した。この年、東胡の生き残りで匈奴に臣従していた烏桓族が、歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に破られた時の恥に報復した。壺衍鞮単于は激怒し、2万騎を発して烏桓を撃った。漢の大将軍の霍光は、この情報を得ると、中郎将の范明友を度遼将軍に任命し、3万の騎兵を率いさせ、遼東郡から出陣させた。范明友は匈奴の後を追って攻撃をかけたが、范明友の軍が到着したときには、匈奴はもう引き揚げた後だった。烏桓は匈奴の兵から手痛い目を受けたばかりで、范明友は彼らが力を失っているのに乗じて、軍を進めて烏桓に攻撃をかけ、6千余りの首級を上げ、3人の王の首をとって帰還し、平陵侯に封ぜられた。
崇神天皇24年/前74年:丁未
前漢/
昭帝が死去。
21歳で急病に倒れ、1カ月ほど病床についたのち死去した。
昌邑王劉賀が一時即位するが品行不良を理由に廃位されると、儒教の経典、特に詩経・論語・孝経に通じており、「質素倹約に務め、仁愛深い性格だ」という丙吉・霍光らの推薦により上官皇太后の詔から、劉詢(劉病已)が受ける事となり、まずは陽武侯に封じられ、間もなく宣帝(第9代皇帝)として即位した。
宣帝と許皇后との間に、劉奭(後の成帝。第10代皇帝)が生まれる。
匈奴/
匈奴は范明友を恐れて出兵できなくなった。そこで匈奴は烏孫へ攻撃し、車延・悪師の地を取った。烏孫公主は昭帝宛に上書し、漢に救援を要請した。しかし漢では昭帝が崩御し、宣帝が即位していた。
崇神天皇25年/前73年:戊申
ローマ/
古代ローマで剣闘士のスパルタクスが反乱を起こす(- 紀元前71年)。
バティアトゥス養成所にはガリア人とトラキア人の剣闘士が多く所属していたが、興行師は邪な考えを持って彼らをひとつ所に押し込めていた。
約200人の剣闘士たちが脱走を計画したが、密告によって露見してしまい、このうちのおよそ70人が養成所を脱走し、武器を奪って武装化しヴェスヴィウス山に立て籠もった。剣闘士たちはガリア人のクリクススとオエノマウス(英語版)そしてスパルタクスを彼らの指導者に選んだ。 古代の歴史家アッピアヌスはスパルタクスが指導者であり、他の2人はその部下であるとしているが、リウィウスやオロシウスは3人は同等の指導者であったことを示唆している。近隣の奴隷もスパルタクスらの反乱軍に加わり、その規模は拡大していった。
スパルタクスを指導者とする反乱軍の規模は古典史料によって異同があるが、南イタリア制圧から半島北上の全盛期には12万人から20万人、壊滅する最終局面では30万人以上に達したと推定されている。元老院は法務官のグラベル次いでウァリニウスを討伐に派遣するが、スパルタクスはこれを相次いで撃退した。数万人に膨れ上がった反乱軍は南イタリアの幾つかの都市を略奪・占領して冬を越した。
前漢/
烏孫の昆弥(こんび:烏孫の君主号)が、匈奴襲来に対して、宣帝宛に上書して救援を要請。
崇神天皇26年/前72年:己酉
ローマ/
スパルタクスが北上を開始。プルタルコスはアルプスを越えて奴隷たちを故郷へ帰すことが反乱軍の目的であったとし、一方、アッピアヌスやフロルスはローマ進軍が彼らの目的であったとしている。アッピアヌスは反乱軍の軍紀が厳正であったことを伝えており、スパルタクスは略奪品を平等に分配し、金銀の個人的な所有を禁じていた。また、サッルスティウスに拠れば、スパルタクスは無用な暴行と略奪といった逸脱行為を禁じたという。
この年の2人の執政官レントゥルスとゲッリウスが率いる正規のローマ軍団が差し向けられ、クリクススの率いる別動隊3万人が殲滅されたが、スパルタクスはこれら2人の率いるローマ軍団を撃破した。スパルタクスは戦死したクリクススの霊を弔うためにローマ兵の捕虜300人に剣闘士試合をさせ犠牲に捧げた。スパルタクスの率いる反乱軍は北イタリアに到達したが、何らかの理由によって彼らはアルプス越えを行わず、軍を反転させて再び南イタリアへと向かった。元老院はレントゥルスとゲッリウスから軍権を剥奪して、新たに法務官に選出されたクラッススに反乱鎮圧を委ねた。
前漢/
漢は烏孫の要請を受け、祁連将軍の田広明の4万余騎を西河から、度遼将軍の范明友の3万余騎を張掖から、前将軍の韓増の3万余騎を雲中から、後将軍の趙充国を蒲類将軍とし、3万余騎で酒泉から、雲中太守の田順を虎牙将軍とし、3万余騎で五原から出陣させた。以上の五将軍率いる兵10数万騎は塞を出ること2千余里、校尉の常恵は烏孫西域の兵を指揮し、烏孫の昆弥は自ら翕侯(きゅうこう:諸侯)以下5万余騎を率いて西方から入り、総勢20数万が匈奴を攻撃した。匈奴は漢が大軍を発したのを聞くと、老弱は奔走し、畜産を駆って遠く逃げ去ったので、五将軍にはあまり戦功がなかった。
一方、常恵が指揮する烏孫軍には戦功があったので、常恵は長羅侯に封ぜられた。しかし、匈奴の被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなる。その冬、壺衍鞮単于は烏孫を報復攻撃した。しかし、その帰りに大雪にあって多くの人民と畜産が凍死した。さらにこれに乗じて北の丁令、東の烏桓、西の烏孫に攻撃され、多くの死傷者が出て、多くの畜産を失った。これにより匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は大虚弱となった。
崇神天皇27年/前71年:アスス暦657年:庚戌
匈奴/
匈奴が衰退し始める。漢は匈奴を幾度に渡って侵攻を続けたため、匈奴は辺境を侵す力を失う。
ローマ/
スパルタクスの反乱軍は一度はクラッススの軍団を撃破したが、やがてイタリア半島最南端のカラブリア地方の都市レギウム(現在のレッジョ・ディ・カラブリア)にまで追い込まれてしまう。過去2度の奴隷戦争の舞台となったシキリアへの奴隷反乱の拡大を企図して兵の派遣を目論み、キリキア海賊に渉りを付けてシキリアへの渡航契約が成立したものの、海賊はスパルタクスから贈物だけをせしめて、約束の日に姿を現すことはなかった。
クラッススは包囲網を狭めており、陸峡にまたがる長城を建設して反乱軍の補給を絶ち、奴隷たちは飢えに苦しめられた。元老院がヒスパニアから帰還したポンペイウスの軍団を反乱鎮圧に差し向けることを決定すると、スパルタクスは長城を強行突破して脱出を図った。ガンニクスとカストゥスの別動隊がクラッススの軍団に捕捉殲滅されたが、スパルタクスは兵の向きを変えて追撃してきたローマ軍の騎兵集団を撃破する。だが、この勝利によって兵たちが思い上がり、ローマ軍と戦うことを指揮官たちに強制しようとした。さらにスパルタクスの故郷のトラキアでの反ローマ闘争が鎮圧され、マケドニアからルクッルスの軍団がブルンディシウムに到着したと知ったスパルタクスはあらゆることに絶望し、クラッススの軍団との決戦を決めた。
スパルタクスとクラッススとの最後の戦場の場所を明確にしていない。
プルタルコスの伝えるところによれば、スパルタクスは決戦を前に自らの馬を引き出させて斬り捨て、「勝てば馬は幾らでも手に入る。負ければもう必要ない」と言い放って歩兵として戦いに加わったという。スパルタクスはクラッススをめがけて押し進んだが叶わず、小隊長2人を殺し、仲間たちが逃げ惑う中も戦場に踏みとどまり、多くのローマ兵に取り囲まれて遂に斃れた。
アッピアヌスは「敵に包囲され槍で突かれて腿に傷を負い跪きながらも楯を前に掲げて戦い続けた」と伝えており、この戦場描写はポンペイ遺跡から発掘されたこの戦いを描いた壁画とも一致している。フロルスは「スパルタクスは将軍になったかのように勇敢に前線で戦った」と述べている。スパルタクスの死体は発見できなかった。
リウィウスによればこの戦いで反乱軍側は6万人が殺されたという。クラッススは捕虜6千人をローマからカプアに至るアッピア街道沿いに十字架に磔にした。第三次奴隷戦争の鎮圧後、古代ローマ時代に2度と大規模な奴隷による反乱が起こることはなかった。
崇神天皇28年/前70年:辛亥
10月15日 、ローマの詩人/ウェルギリウス(プブリウス・ウェルギリウス・マロ)が生まれる。
バージルともいう。『牧歌』、『農耕詩』、『アエネイス』という3つの叙情詩及び叙事詩(ヘクサメトロスという韻律で書かれた詩でテオクリトスと同一又は類似の韻律を踏襲している)を残した。ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において最も重視される詩人である。
生地はガリア・キサルピナのアンデスという村で、現在の北イタリアマントヴァ付近のアンデスという農村だったと考えられている。ウェルギリウスはクレモナとミラノで教育を受けた後、ローマで修辞学・弁論術・医学・天文学などを修め、その後エピクロス学派の哲学を学んだ。
ガイウス・ユリウス・カエサルの暗殺後、マルクス・アントニウスとオクタウィアヌスは、ピリッピの戦いで共和派を破ったが、その後オクタウィアヌスは、退役軍人に農地を与えるため、イタリア各地で農地の没収を始めた。
その際ウェルギリウスの農地も一時没収の憂き目に会うが、オクタウィアヌスに直訴することで、没収をまぬがれた。
ポリオの庇護を受けて、ウェルギリウスは『牧歌』を完成させる。
それが、オクタウィアヌスの寵臣であったガイウス・マエケナスの目にとまり、以後その庇護を受け、詩作活動を行った。
紀元前19年、50歳で没した。
崇神天皇29年/前69年:壬子
前漢/
霍光が死去すると、宣帝は肥大しつつあった霍氏一族の権力、特に軍の指揮権を徐々に剥奪し、外戚の許氏らの子弟に与えた。これに反発した霍光の遺児が反乱を計画すると、それを理由に霍氏一族を処刑している。反乱成功後に帝位を簒奪する予定であった大司馬霍禹は腰斬の刑となり、皇后の地位にあった霍氏(霍光の娘)も廃位して幽閉された。
崇神天皇30年/前68年:癸丑
ローマ/プトレマイオス朝エジプトが滅び、ローマの属州となる。
匈奴/壺衍鞮単于が死去。弟の左賢王が虚閭権渠単于として即位。
虚閭権渠単于は即位すると、右大将の娘を大閼氏(だいえんし:皇后)とし、先代の顓渠閼氏を退けた。顓渠閼氏の父の左大且渠はこのことを怨んだ。この時の匈奴は辺寇ができないほど衰弱していたので、漢は外城を廃止し、百姓を休めた。虚閭権渠単于はこれを喜んで聞き、貴人を招いて漢との和親を求めた。左大且渠はその事を心害し、呼盧訾王とともに各万騎を率いて南の長城付近で猟をすることを請願し、互いに出迎えともに入る。一行がまだ到着しないうちに、3騎は漢に亡命し、匈奴に寇略したいと言った。
ここにおいて宣帝は詔で辺境の騎兵を発して要害処に駐屯し、大将軍・軍監・治衆ら4人に5千騎を率いさせ、捕虜を各数10人捕えて帰還した。時に匈奴はその3騎を亡くしたので、侵入せず兵を引いた。
この年、匈奴では飢饉となり、人民・畜産16~17が死んだ。また両屯の各万騎を発して漢の来襲に備えた。その秋、匈奴は甌脱(おうだつ)と戦い、衆を殺傷したので、漢に降った。
崇神天皇31年/前67年:甲寅
前漢/劉奭が立太子される。
しかし、外戚の霍氏一族は権勢維持のため霍皇后が生んだ子を皇太子として後継に立てることを目論みこれに反発、劉奭の暗殺を企てるが失敗した。この皇太子暗殺未遂事件と許平君暗殺事件は、後に宣帝が霍氏一族を粛清する一因となった。
劉奭が亡き愛妾の司馬良娣をしのんで嘆き悲しんだり、儒教に傾倒するなどあまりに理想主義で叙情的な性格から、父の宣帝は「わが家を乱すのは太子ならんか」としてその統治能力に疑問を持ち、加えて後嗣が生まれないことを理由に皇太子の廃位を検討、丞相の黄覇に劉奭に代わって次男の淮陽王劉欽を太子とすることを諮問した。
しかし、劉奭が糟糠の妻であり霍氏一族に謀殺され悲劇の最期を遂げた許皇后の忘れ形見であるという宣帝の思いや、生母の従弟である中常侍許嘉(許延寿の子)と継母の王皇后の工作により、王政君との間に生まれた劉驁(後の成帝)の誕生を理由に廃太子には至らなかった。
宣帝は親政を開始した。
匈奴/
西域の城郭諸国(オアシス都市)は匈奴を挟撃して、車師国を奪取し、その王及び民衆を捕えて去る。虚閭権渠単于は車師王昆の弟の兜莫を車師王とし、その余民を収めて東に移住させ、あえて故地に住まわせなかった。漢は屯士を派遣して車師の地を開墾した。
崇神天皇32年/前66年:乙卯
匈奴/匈奴は西域諸国を怨んで車師を撃ち、左右大将の各万余騎を派遣して田右地に駐屯し、烏孫・西域に侵攻しようと考えた。
崇神天皇33年/前65年:丙辰
任那の国が朝貢してくる。
崇神天皇35年/前63年:戊午
古代ローマのポンペイウスがセレウコス朝シリアを滅ぼし、ユダヤを平定する。
ローマ帝国の皇帝/アウグストゥス(インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス/ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス)が生まれる。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、帝政(元首政)を創始、「ローマの平和」を実現した。
ローマ帝国騎士ガイウス・オクタウィウスと妻アティアとの間に、トゥリヌスが生まれる。後の初代ローマ帝国皇帝アウグストゥス(ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス)。
生まれた時には、父の名を継いで、ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスという名となる。
幼少の頃はウェレトラエ(現ヴェッレトリ)の祖父のもとで過ごす。
崇神天皇36年/前62年:己未
匈奴/匈奴は左右薁鞬の各6千騎を派遣して、左大将とともに再び漢の田車師城者を撃ったが、降すことができなかった。
崇神天皇37年/前61年:アスス暦667年:庚申
高句麗が建国。
ローマ/三頭が再び集まり、三頭政治の5年間延長を決定。アントニウスはオクタウィアヌスに120隻の軍船を、オクタウィアヌスはアントニウスに2万の軍団兵を相互に提供することを約束した。
アントニウスはオクタウィアヌスに約束した軍船を送った。
イスラエル/
ヘロデ大王がユダヤ王となる(- 紀元前4年)
匈奴/
丁令(ていれい:匈奴北部にあった部族国)が3年連続で匈奴に侵攻し、人民数千を殺略し、馬畜を駆って去った。匈奴は万余騎を派遣してこれを撃ったが、何も得ることなく帰還した。
崇神天皇38年/前60年:辛酉
ローマ/
古代ローマでカエサルが執政官に就任、ポンペイウス、クラッススと共に第一回三頭政治を開始。
匈奴/
虚閭権渠単于は10万余騎を率いて長城近辺で猟をした際、漢の辺境を荒らしたくなった。虚閭権渠単于がまだ来ないうちに、題除渠堂は漢にこのことを伝えて亡命した。漢は彼を鹿奚盧侯とし、後将軍の趙充国を派遣して4万余騎を率いて縁辺九郡に駐屯して匈奴に備えさせた。数日後、虚閭権渠単于は病で吐血したので、侵攻を取りやめた。虚閭権渠単于は題王都犁胡次らを漢に送って和親を請願したが、その報が届く前に虚閭権渠単于は死去する。
虚閭権渠単于が亡くなると郝宿王の刑未央は人を遣わして諸王の招集をかけた。しかし、顓渠閼氏とその弟の左大且渠の都隆奇はまだ諸王が招集しないうちに右賢王の屠耆堂を立てて握衍朐鞮単于としてしまう。
即位した握衍朐鞮単于はさっそく漢と和親を結ぶべく、弟の伊酋若王の勝之を遣わし漢に入朝させた。一方で虚閭権渠単于時の用事貴人や郝宿王の刑未央らを殺し、顓渠閼氏の弟の都隆奇を任用し、さらに虚閭権渠単于の子弟近親を罷免して自らの子弟をこれに代えた。虚閭権渠単于の子の稽侯狦は即位できなかったので、妻の父である烏禅幕の所へ亡帰した。この年、以前から握衍朐鞮単于と不和であった日逐王の先賢撣が漢に帰順したので、漢は日逐王を封じて帰徳侯とした。そこで握衍朐鞮単于は新たに従兄の薄胥堂を日逐王に任じた。
崇神天皇39年/前59年:壬戌
日本/
豊鋤入姫命、但波の吉佐宮(余社宮)に遷幸し、四年間奉斎。ここから更に倭国へ求める。
豊宇介神(とようけのかみ)が天降って(大神に)御饗を奉る。
匈奴/
握衍朐鞮単于は先賢撣の2人の弟を殺した。この際、烏禅幕は助命を懇願したが、握衍朐鞮単于がそれを聞き入れなかったので、単于を強く怨むようになった。その後、左薁鞬王が死ぬと、握衍朐鞮単于は自分の末子を立てて薁鞬王とし、単于庭(本拠地)に留めた。しかし、薁鞬貴人は共に故薁鞬王の子を立てて王とし、東へ遷った。握衍朐鞮単于は右丞相に1万騎を率いさせてこれを撃たせたが、逆に数千人を失って敗北した。このころから握衍朐鞮単于はその暴虐殺伐のせいで、国中から附かれなくなっていた。また、太子左賢王が何度か左地貴人をそしったため、左地貴人たちは怨むようになった。
崇神天皇40年/前58年:癸亥
ローマ/
カエサルがガリア戦争を開始(- 紀元前51年)。
トゥリヌスの父ガイウス・オクタウィウスが死去。妻アティアは、ルキウス・マルキウス・ピリップスと再婚。
匈奴/
東方の烏桓族が匈奴東辺の姑夕王を撃ち、多くの人民を手に入れたので、握衍朐鞮単于は激怒した。これに恐れた姑夕王は、すぐさま烏禅幕や左地貴人らと共に虚閭権渠単于の子の稽侯狦を立てて呼韓邪単于とし、左地の兵4~5万人を発して、西の握衍朐鞮単于を撃つべく姑且水の北に至った。しかし、握衍朐鞮単于の兵は戦わずして敗走してしまう。そこで握衍朐鞮単于は弟の右賢王に救援を求めたが応じてもらえず、握衍朐鞮単于は怒り怨んで自殺した。左大且渠の都隆奇は右賢王の所へ亡命し、その民衆はことごとく呼韓邪単于に降った。
冬、呼韓邪単于から命を狙われていることを覚った左大且渠の都隆奇と右賢王(握衍朐鞮単于の弟)は、日逐王の薄胥堂を立てて屠耆単于とし、数万の兵を発して東の呼韓邪単于を襲撃した。呼韓邪単于の兵は敗走し、屠耆単于が政権を担うこととなった。屠耆単于は長子の都塗吾西を左谷蠡王とし、少子の姑瞀楼頭を右谷蠡王とし、単于庭(首都、本拠地)に留め住まわせた。
民間者に在った呼韓邪単于の兄の呼屠吾斯も自立して郅支骨都侯単于(郅支単于)となり、呼韓邪単于を破った。敗れた呼韓邪単于の配下の左伊秩訾王が漢に対し臣下と称して助けを求めることを進言し、反対が多かったがそれに従うことにした。
崇神天皇41年/前57年:甲子
秋、屠耆単于は元日逐王の先賢撣の兄である右薁鞬王と烏藉都尉にそれぞれに2万騎をつけて東方に駐屯させ、呼韓邪単于に備えた。この時、西方の呼掲王の来は唯犁当戸と共謀して、屠耆単于に「右賢王が自立して烏藉単于となろうとしている」と嘘の報告をした。そこで屠耆単于は右賢王父子を殺したが、後で冤罪であったことを知り、今度は唯犁当戸を殺した。呼掲王はこれを恐れ、遂に叛いて自ら立ち、呼掲単于となった。右薁鞬王はこれを聞くなり自立して車犁単于となり、烏藉都尉も自立して烏藉単于となった。 ここにおいて五単于が並立することとなる。 屠耆単于は自ら兵を率いて東の車犁単于を撃ち、都隆奇に烏藉単于を撃たせた。烏藉単于と車犁単于は敗北して西北へ遁走し、呼掲単于の兵と合流して4万となる。烏藉単于と呼掲単于は単于号を棄てて、共に車犁単于を補佐し、屠耆単于に対抗した。屠耆単于はこれを聞くなり、左大将と都尉に4万騎をつけて東方に駐屯させ、呼韓邪単于に備えるとともに、自らは4万騎を率いて西の車犁単于を撃った。 車犁単于は敗北して西北へ遁走し、屠耆単于は西南に引いて闟敦地に留まった。
崇神天皇42年/前56年:乙丑
匈奴/
呼韓邪単于は弟の右谷蠡王らを遣わし、西の屠耆単于の屯兵を襲い、1万余人を殺略した。
屠耆単于はこれを聞くと、自ら6万騎を率いて呼韓邪単于を撃った。屠耆単于は千里進み、嗕姑地に至らない所で呼韓邪単于の兵約4万と遭遇して合戦した。しかし、屠耆単于の兵が敗北し、屠耆単于は自殺してしまう。
呼韓邪単于は、さらに車犁単于を帰順させて、3つに分裂していた匈奴を再統一した。
この一連の匈奴の内乱を見た呼韓邪単于の左大将である烏厲屈は、父の呼掲累烏厲温敦とともに、その衆数万人を率いて南の漢に降った。
都隆奇は屠耆単于の末子である右谷蠡王の姑瞀楼頭とともに漢へ帰順した。
烏藉都尉はしばらくして李陵の子によって、ふたたび烏藉単于として立てられた。しかし、まもなく呼韓邪単于に捕らえられて烏藉単于と車犁単于は共に斬首された。呼韓邪単于はふたたび単于庭に遷ると数万人を裁いた。
この時、屠耆単于の従弟である休旬王は、5~6百騎を率いて左大且渠を撃ち殺し、その兵を併合して右地に至ると、自立して閏振単于となり、西辺に陣取った。
閏振単于が自立したので、呼屠吾斯も自ら立って郅支骨都侯単于となり、東辺に陣取った。
これにより、匈奴はふたたび3つに分裂した。
崇神天皇43年/前55年:丙寅
豊鋤入姫命、倭国伊豆加志本宮(厳橿之本宮)に遷り、八年間奉斎。
崇神天皇44年/前54年:丁卯
匈奴が東匈奴と西匈奴に分裂。
西辺にいた閏振単于は、その衆を率いて東の郅支単于を攻撃した。郅支単于は迎撃して閏振単于を殺し、その兵を併せると、今度は弟の呼韓邪単于のいる単于庭(首都)へ進攻した。呼韓邪単于は敗北し、その兵は敗走した。郅支単于は単于庭に本拠を置いた。
崇神天皇45年/前53年:戊辰
パルティア/
カルラエの戦いでパルティアがクラッススを破る。
匈奴/
呼韓邪単于が、子である銖婁渠堂を漢に入朝させた。同様に郅支単于も漢に助けを求め子の右大将である駒于利受を遣わして入朝させた。
崇神天皇46年(前52年):己巳
弥生時代の池上曽根遺跡から出土した神殿らしい高床式建物に使用されていた柱を年輪年代測定法で検査すると、この年の伐採ヒノキ材であることが判明した。
崇神天皇は、多数の子息のうち、豊城命(とよきいりひこのみこと)と活目尊(いくめのみこと)に勅し、どちらを後継者にするかそれぞれの見る夢で判断すると伝えた。
豊城命は「御諸山(みもろやま:三輪山)に登り、東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見た」と答えた。
一方で、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。
その結果、崇神天皇は活目尊が領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとした。
豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣された。
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日本書紀に記載されている活目尊とは、活目入彦五十狭茅尊(後の垂仁天皇)の事。
当時の皇族の習慣では、末子相続の慣例はなく、巫(かんなぎ)による宣託が主流であった事が伺える。
豊城命は豊城入彦命の事。
匈奴/
呼韓邪単于は自ら五原の要塞を訪ね、翌年正月に漢への入朝を願い出る。
崇神天皇47年(前51年:アスス暦677年):庚午
豊城命が東国を治めさせるため、毛野(けの)の地に移ったと考えられる。ここより天皇家の血縁が2つに分かれる。
毛野の地は、現在の群馬県と栃木県を合せた地域。
記紀において、4世紀頃の記載に「上毛野(かみつけの)」や「下毛野(しもつけの)」の名称が出てくる時点では、すでに、上毛野=現在の群馬県領域と下毛野=現在の栃木県領域で区分されていた事が伺える。(朝廷に近い地域を上としている)
前漢/
元帝と王皇后との間に、太孫(後の成帝。第11代皇帝)が生まれる。
匈奴/
呼韓邪単于が入朝すると、漢の宣帝は甘泉宮で呼韓邪単于に会い、単于を諸侯王より上位に位置するものと決め、臣と称しても名を言わなくても良いこととし、中国の冠や衣服、黄金の璽などを賜り、兵と食料を出して呼韓邪単于を助けた。郅支単于は呼韓邪単于が漢に入朝したことを知ると兵が弱くもう戻って来られないと踏み、右地(西方)を攻撃した。しかし烏孫は漢が呼韓邪単于を受け入れたことを知ると郅支単于を拒んだ。
その後は、元帝の代になっても漢は呼韓邪単于に食料を給したが、漢の使者を殺した郅支単于を討つよう呼韓邪単于を責めた。呼韓邪単于は北に帰る際、同行していた車騎都尉韓昌、光禄大夫張猛と月氏王の頭蓋骨で作った盃で「今より以降、漢と匈奴は一家となり、代々偽って攻めたりすることのないように」と盟を結んだ。呼韓邪単于は北へ帰ると人々は彼の下に帰順し、匈奴は平定される事となる。
呼韓邪単于の側近であった攣鞮は、呼韓邪単于が漢に投降すると、右地(西部)に逃亡し、2人の兄の余兵数千人を得て、自立して伊利目単于となった。
次の年代:
紀元前50年〜紀元前1年