前の年代:
紀元前1100年〜紀元前1000年

紀元前1000年 〜 紀元前900年

一般には弥生時代と定義されている。
アーリア人のガンジス川流域への移住と共に、ドラヴィダ系民族との混血が始まる。 これ以降、アーリア人の認識は人種ではなく、言語や思想によってなされるようになる。
現在ドラヴィダ系の人々はインド全域に居住しているが、古くからの文化を保持する民族は南インドを中心に居住している。
メソポタミアのシュメール文明との関連性も指摘されている。ドラヴィダ語とシュメール語に共通性が見られるといった議論がインドではなされており、ドラヴィダ人はメソポタミア地方から移住したとの説も存在している。

前1000年頃

バラモン教が成立する。
バラモンとは、ブラフマン=ブラフミン(司祭)の事。創造神ブラフマーを中心とし、維持神ビシュヌ、破壊神シヴァの三神において世界が成り立っているという教義と思想が、この時期において完全に国家体制のなかに取り込まれ、バラモン教として成立した。 当時は、ブラフマー神、ビシュヌ神、シヴァ神のそれぞれが信仰対象となっていた。現在では、ビシュヌ神の臍にブラフマー神が取り込まれ、大きく二派が主流となっている。 バラモン教が成立以後は、ヴェーダが再編され、伝承主体の内容からバラモン教の思想主体へと内容が大きく変更された。神と対立する存在=悪魔の概念が明確に定義された。
メキシコ湾岸の熱帯低地(現ベラクルス州サン・ロレンソ)で大がかりな建築物や石の彫刻の技術を持った農耕民達によるオルメカ文化の繁栄が続く。 ユダ国とイスラエル国の対立は続いたが、戦況はユダ王国にあった。
アブネル将軍は、ユダ国に加担したいがため、ダビデ王と取引を進み出た。 ダビデ王はこの時、ミカルを返すことを要求して実行させた。
イスラエル国内で、アブネル将軍の裏切りが発覚し、密かに内紛が発生。アブネル将軍は家臣のヨアブによって殺害された。 アブネル将軍の裏切りと死の報せを聞かされたイシュバール王も、その昼寝中に家臣であるバアナとレカブによって暗殺される。 イシュバール王の首は、バアナとレカブという二人の家臣によって、ダビデ王の元にもたらされるが、ダビデ王はイシュバールを殺した罪で2人を誅殺し、木に吊るした。 主導者を失った南イスラエル国もダビデが継承する事となり、結果としてユダ国とイスラエル国を統一し、イスラエルの王となる。
1957年、青森県八戸市是川において是川石器時代遺跡が発掘される。新井田川の河岸段丘上に立地、中居遺跡が紀元前1000年~300年頃にて栄えたとされている。
1944年、青森県つがる市木造おいて亀ヶ岡石器時代遺跡が発掘される。紀元前1000年~300年頃にて栄えたとされている。亀山、沢根及び近江野沢の3地区からなり、土坑墓群、漆塗り製品、ヒスイ製品の玉類や、大型の遮光器土偶などが発見された。
2012年、青森県弘前市大森において大森勝山遺跡が発掘される。紀元前1000年頃に構築された、岩木山の北東麓に位置する環状列石を中心とする遺跡。

前???年

ダビデは両王国の中心に位置するイェルサレムのエブス人を倒し、以後、ここを拠点にペリシテ人らを退けた。

前995年

イエルサレムを首都におき、イスラエル王国が建国。
ダビデ王が、正式に古代イスラエル王として即位する。(-前965年)
サウル王とヨナタンの遺骨はダビデによってベニヤミンの地ツェラの父の墓に葬られた。

前993年

周王朝において、康王の子である姫瑕が、昭王(しょうおう)として即位する。 即位して間もなく准夷の反乱が発生したがこれを平定。積極的な南方遠征で東夷26邦を従わせ、さらに楚への遠征を実施するが、遠征途中に行方不明となった。楚軍の攻撃により戦死したと言われている。
『史記』の周本紀によれば、南方を巡狩(視察)して戻ってくることなく亡くなったと伝えられており、その死は諸侯にも知らされなかったとある。 一方、同書の斉太公世家によると、斉の桓公が諸侯を率いて楚を破った。そのとき楚の成王への問責の一つに、300年前昭王が南方の巡狩から帰ってこなかったことをあげている。
昭王が楚王の先祖との戦いで戦死したことは、諸侯のあいだで周知であったとみえる。
エジプト第21王朝において、ウセルマアトラー・メリアメン・セテプエンアメン・アメンエムオペトが共同王となる。

前992年

アメン大司祭国家において、ヘムネチェルテピエンアメン・メンケペルラーが死去。
アメン大司祭国家において、スメンデス2世が王位を継承する。

前991年

エジプト第21王朝の王アアケペルラー・セテプエンアメン・パセバカエムニウト1世(プスセンネス1世)が死去。
エジプト第21王朝において、ウセルマアトラー・メリアメン・セテプエンアメン・アメンエムオペト(アメノフティス)が王位を継承する。

前990年

ダビデ王はペリシテ人との戦いを続け、エルサレムを確保して、神の箱を運び上げた。 契約の箱はバアレ・ユダ(キルヤト・エアリム。現在のデイル・エル=アザル)にあったため、これをイェルサレムに運んだ。 主の箱がエルサレムに運び込まれる時には、力の限り喜び踊った。それを見たミカルはダビデを軽蔑した。 それゆえに、ミカルには死ぬまで子供が授からなかったと言われている。 契約の箱は、ダビデの宮殿の外にある天幕に置かれた。
アメン大司祭国家において、スメンデス2世が死去。 アメン大司祭国家において、カーケペルラー・セテプエンアメン・パネジェム2世が王位を継承する。

前989年

『ダビデ台頭史』が書かれる。
イスラエル王国に官僚体制の整備が行なわれる。

前988年-

ダビデは家臣ウリヤの妻、バト・シェバを見初め、彼女を妻にするため謀略によってウリヤを戦死させる。
預言者ナタンにとがめられてダビデも後悔するが、神はこれを許さず、バト・シェバから生まれた子供の命を奪った。

前???年

現在の日本の本白根山が噴火。

前986年

バト・シェバからソロモンが、ソロモンが誕生する。

前985年

周王朝において、昭王が楚への遠征途上で行方不明になる。 このため、昭王の子である姫満が暫定的に即位するが、その後に昭王の死が判明。 この経緯から姫満が、穆王(ぼくおう)として即位する。
彼には様々な伝承が残されている。彼の馬は「穆王八駿」と呼ばれる8頭の馬を駆って、犬戎ら異民族を討ったとされている。
また、司寇(司法官の長)である呂侯に命じて『呂刑』と呼ばれる刑法を定めて社会の安定を図ろうとしたが、その3千と言われる罪状の多さに却って諸侯や民衆の反感を買った。 また彼は西の彼方にある、神々が住むとされた崑崙山にも立ち寄り西王母に会い、西王母が後に入朝したと言われている。 このことは穆天子伝にて記載がある。

前984年

エジプト第21王朝の王ウセルマアトラー・メリアメン・セテプエンアメン・アメンエムオペトが死去。
エジプト第21王朝において、アアケペルラー・セテプエンラー・(オソコル)が王位を継承する。

前978年

ダビデ、ティルスをはじめとするフェニキア諸都市と同盟を結ぶ。
エジプト第21王朝の王アアケペルラー・セテプエンラー・(オソコル)が死去。 エジプト第21王朝において、ネチェルケペルラー・セテプエンアメン・サアメン(プシナケス)が王位を継承する。

前972年

息子アブサロムの反乱が起こる。
バト・シェバとソロモンは、一時エルサレムを追われる。 ダビデはなんとかアブサロムの反乱を収める。
アブサロムはダビデの意に反して殺害された。

前969年

アメン大司祭国家において、カーケペルラー・セテプエンアメン・パネジェム2世が死去。
アメン大司祭国家において、プスセンネス3世が王位を継承する。

前965年頃

シェバの乱が起こる。
ソロモン派とアドニヤ派で王位継承をめぐり、宮廷を二分する争いが発生得する。
サアメン(シアメン)が王、パレスチナ地方の動乱に介入。

前962年

イスラエル王国にソロモン王が即位。(-前925年)※ダビデ王位継承史』による
ソロモン王、エルサレムに神殿建設を行なう。
ソロモンの指輪の伝承はここが起源。
書物『レメゲトン』が事実に基づいているものであるなら、 この時、すでにアシュタールは、魔王(サタン)アスタロトと、女神イシュタルという別々の存在として、人々に認識されていた事になる。 また、バアルにおいても、魔王(サタン)バエルと、魔王(サタン)ベルゼブブという別々の存在として認識されていた。 こちらは、当時のペリシテ人(フェニキア文明)との対立から、相手方の神を悪魔としていた。
※ ※ ※
ソロモン王がソロモンの指輪によって召喚した堕天使(悪魔)は、総数として72の存在と言われている。 尤も悪魔という概念が当時からあったのかについては、定かではない。おそらく対立関係にあったという状況から、後の宗教観によって「悪魔」そして「操った」と定義された可能性は大いにある。 そもそも召喚された72の存在は、当時エジプトを含めた多くの地域で崇拝されてた神々の名前が列挙されている。 後世の宗教観を排除した観点から見た場合、72神の神々(を信仰するすべての民)の協力を経てソロモン神殿が建設された、という見方もできる。

前???年

イスラエル王国ソロモン王が、エジプト第21王朝ネチェルケペルラー・セテプエンアメン・サアメン王の娘シバ(王女)を妻に迎える。

前959年

エジプト第21王朝の王ネチェルケペルラー・セテプエンアメン・サアメン(プシナケス)が死去。
エジプト第21王朝において、ティトケペルウラー・セテプエンラー・パセバカエムニウト2世(プスセンネス2世)が王位を継承する。
彼は娘を傭兵としてエジプトのブバスティスに定住していたリビア人の有力者シェションクと結婚させた。

前???年

リビア人の有力者シェションクが、軍司令官としての勢力を強めていく。

前950年頃

ソロモン、エイラト、エツヨン・ゲベルに開港、船団交易開始。 バビロニア王朝で、国内分裂が発生。
イスラエル/経済的繁栄 知恵文化の発展。
シリアは、イスラエルと共同で海上交易を行なう。 諸外国との同盟、政略結婚によるソロモン王の異邦人の妻たち、エルサレムに住む。
シリア/ダマスコを中心にアラム人諸都市(これが、ダマスコというひとつの国となるきっかけとなる。)

前???年頃

ペロポネソス半島のラコニア地方に、都市国家スパルタが建国される。
スパルタは、ヘーラクレイダイの一人/アリストデーモスの息子である、始祖のエウリュステネースとプロクレースが双子だったことから、この二人の血統であるアギス家とエウリュポン家の二家の世襲の王を戴いていた。その一方で、監督官の存在によって王の権限は立憲君主制の君主のように大きく制限されていた。王の権利は軍の指揮権、会戦時に右翼に陣取って指揮する権利(右翼は最も危険な場所であり、その分そこを占めることは名誉とされていた)、祭事に関する諸権利などであった。 エウリュステネースとプロクレースは、ペロポネーソス半島に侵入したドーリス人と戦ったアリストデーモスの戦死と共に共同で王位につき、成人に達するまでは母アルゲイアーの兄弟のテーラースの後見を受けた。 成人するとプロクレースとエウリュステネースは、デルポイの神託に従って互いを共同統治者としてスパルタの王位に就いたが、彼らは仲が悪かった。このため、代々スパルタには王がそれぞれの家系から二人いる。 それぞれの王の家系から、エウリュステネース=アーギス朝、プロクレース=エウリュポン朝として治世がおこなわれた。

前945年頃

異教祭儀の導入。
アメン大司祭国家において、プスセンネス3世が死去。 アメン大司祭国家が滅亡する。
エジプト第21王朝の王ティトケペルウラー・セテプエンラー・プスセンネス2世が死去。 軍司令官シェションクが、新たに新王朝を起こす。(エジプト第22王朝)
エジプト第22王朝において、ヘジケペルラー・セテプエンラー・シェションク1世(セソンキス)が王位を継承する。
シェションク1世は、リビュア出自の王であった事から、王朝を故郷リビュア地域(タニスとメンフィスの中間あたり)にあるブバスティスに遷都する。

前940年頃

周王朝において穆王が死去した(?)ため、穆王の子である姫繄扈が、共王(きょうおう)として即位する。姫辟方(後の考王)とは兄弟。

前930年

スパルタで、父エウリュステネスより、アーギスが王位を継いだ。これによりアーギス朝が始まる。
アギス1世は、次代の王エケストラトスの父である。アギスは歴史というよりはむしろ神話の人物である。彼がエウリュステネスによって認められた権利を減らそうとしたことに対して住民が抵抗したため、彼はヘロスを占領し、彼らを鎮圧した。こうして、彼らにはヘロットという農奴階級の名が与えられた。また、彼の治世にはポリスとデルフォスの下でクレタに、グラスの指導の下でアイオリス地方への植民が行われ、またパトレウスの指導の下でアカイアに都市を建設した。

前928年

周王朝において密国滅亡事件がおこり、その結果として共王が祖父(昭王)と父(穆王)の領土拡大路線を受け継いだ。

前927年

ヤブロアムの乱が起こる。
シリアが、イスラエルから独立する。

前926年

ソロモン王の死後、北イスラエル王国と南ユダヤ王国に分かれる。
北イスラエル王国では、ヤロブアム王朝が発生、南ユダヤ王国ではダビデ王朝が発生する。

前925年頃

アーリア人がガンジス川流域に進出。
ドラヴィダとの接触期。
メキシコのオルメカ文化が発生。
スパルタが創建される。
このころより日本列島に中国大陸・朝鮮半島などから多数の移住者が渡来、定着する。 弥生時代の始まりが紀元前10世紀まで遡る可能性がある。国立歴史民俗博物館の研究グループが、九州北部の遺跡から出土した弥生時代早期の土器に付着していた煮焦げなどの炭化物の年代測定の結果、通説より500年遡ることが裏付けられたと発表した。

前924年頃

エジプト第22王朝ヘジケペルラー・セテプエンラー・シェションク1世(セソンキス)が死去。
エジプト第22王朝において、セケムケペルラー=セテプエンラー・オソルコン1世(オソルトン)が王位を継承する。

前903年頃

周王朝において共王が死去。

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