前の年代:
紀元前200年〜紀元前150年

紀元前150年 〜 紀元前100年

 

開化天皇8年/前150年:辛卯

みずへび座ベータ(B)星が南極星であった。

開化天皇9年/前149年:壬辰

マケドニア/
アンティゴノス朝最後の王ペルセウスの子ピリップスと称したアンドリスコスがマケドニア王を名乗り、ローマからの自立を宣言。
開戦直後は幾つかの成功を収める。
ローマ・カルタゴ/
カルタゴが首都の明け渡し要求を拒否したため、ローマはカルタゴ攻撃戦を開始する。
第三次ポエニ戦争が起こる。
ローマはすぐにカルタゴを包囲した。ただし、これはローマの一方的なカルタゴの蹂躙でしかなかった。

開化天皇10年/前148年:癸巳

マケドニア/
ローマから派遣されたクィントゥス・カエキリウス・メテッルスがピュドナの戦いでアンドリスコス率いるマケドニア軍を撃破。これにより、アンドリスコスはローマ軍に捕えられた。クィントゥス・カエキリウス・メテッルスはこの功績によりマケドニクスの尊称を得た。

開化天皇12年/前146年:乙未

ローマがマケドニアを属州にする。
スキピオ・アエミリアヌス率いるローマ軍がカルタゴを破壊。
ルキウス・ムンミウス率いるローマ軍が、コリントスの戦いでコリントスを破壊。
第三次ポエニ戦争が終り、カルタゴがローマによって滅ぼされる。
完全包囲下にあり、食料も他物資も補給のないカルタゴ側は次第に追い詰められ、最後は嵐も加勢し、スキピオ・アエミリアヌスによって町は陥落した。アエミリアヌスはかつて繁栄したカルタゴの町が陥落し炎上する光景を目にし、現在栄華を誇るローマもいつかは同じ運命を辿るであろうことを考え、歓喜ではなく悲嘆の心情を手記に記している。
包囲戦の後半には多くのカルタゴ人が餓死した。さらに戦いの最後の6日間には、多くの戦死者が出た。戦後に残されたカルタゴ人の数は5万人で、戦前に比べるとわずかな数だったが、全て奴隷として売られることになった。町は、10日間から17日間ほどで手際よく焼き払われた。町の壁や建物、港は完全に破壊され、一説によると周辺の土地は作物が育たぬようにと塩が撒かれた(塩土化)とも言われる。
残されたカルタゴの領土はローマに併合され、ローマのアフリカ属州を形成した。フェニキア人によって建設されたカルタゴはこの時に滅亡する。
後にガイウス・ユリウス・カエサルが植民都市としてカルタゴを再建するが、現地に現存する遺跡はその当時に建築されたものが残っているのみである。
ローマがギリシアを属州にする。

開化天皇13年/前145年:丙申

歴史家、『史記』の著者/司馬遷が生まれる。(-前87年)

開化天皇17年/前141年:庚子

前漢/景帝が死去。
武帝が即位する。
前漢/武帝が軍臣単于と友好条約を結び、匈奴と漢の友好関係が続く。

開化天皇18年/前140年:辛丑

前漢/武帝が大月氏に対して、対匈奴の同盟を説く使者を募集。
張騫はこれに自薦して郎となる。

開化天皇19年/前139年:壬寅

前漢/張騫が大月氏(インド)に派遣される。
武帝は、月氏と手を組んで匈奴を挟撃しようと考え、月氏への使者を募集した。そこで、郎であった張騫が使者となり、匈奴人の堂邑の甘父ら100人あまりとともに隴西を出た。しかし、すぐに匈奴に捕まってしまい、10年あまりも抑留された。

開化天皇20年/前138年:癸卯

開化天皇21年/前137年:甲辰

開化天皇22年/前136年:乙巳

前漢は五経博士を置き儒教を重用する。

開化天皇25年/前133年:戊申

ローマ/ティベリウス・センプロニウス・グラックスが護民官となる。
前漢/王恢将軍が、馬邑の富豪である聶壱が禁令違反の貢物を携えて、軍臣単于を騙し討ちにする計画を画策する。しかしこれを察知した軍臣単于が一人の漢将から仔細を聴いて至急引き揚げたという。これ以後、匈奴は漢との友好関係を断交し、再び対立の時代を迎える。

開化天皇28年/前130年:辛亥

1月、開化天皇が、間城入彥尊を立太子する。

開化天皇29年/前129年ごろ:壬子

パルティアがクテシフォンを首都とする。
前漢/漢が、衛青・公孫賀・公孫敖・李広の4将軍を匈奴へ向けて派兵したが、ほとんど成果がなかった。李広などは敗北し生け捕りにされた。
前漢/張騫が大宛(フェルガナ)に来訪する。
ある時、監視が緩まったのを機に脱出し、西へ行くこと数十日、大宛(フェルガナ)に到着した。
大宛は以前から漢と通商したいと望んでいたので、王は事情を聞き、とりあえず張騫たちを隣国の康居まで道案内をつけて送ってやった。そしてその康居も、張騫たちを目的地である大月氏まで送ってやった。
ようやく大月氏に着いた張騫たちは、漢とともに匈奴を挟撃してもらう旨を伝えたが、すでに大月氏には匈奴を討つ必要性がなくなっていたので、はっきりした返答がもらえなかった。

開化天皇30年/前128年:癸丑

匈奴/秋、匈奴の2万騎は漢の領内へ侵入し、遼西太守を殺害して2千人あまりの住民を連れ去った。さらに漁陽にも侵入し、将軍の韓安国を包囲した。しかし、燕からの援軍が到着し、匈奴は撤退。その後も匈奴は雁門に侵入したが、漢の衛青・李息の軍に撃退され、数千人が殺害・捕虜にされた。
前漢/失意の張騫は帰りの道筋に崑崙山脈を伝って行き、チベット系民族である羌族の支配地を通ることを選んだ。張騫たちは西域南道を通って帰ったが、またも匈奴に捕まってしまい、1年あまり抑留された。

開化天皇31年/前127年:甲寅

前漢/張騫たちが匈奴の混乱に乗じて脱出し、漢へ向かった。
衛青は雲中から隴西まで進軍し、オルドスに割拠する楼煩と白羊王を撃退し、秦代以来となる河南の地(オルドス)を匈奴から取り戻した。これにより漢は、朔方に長城を築き、秦の蒙恬の砦を修復して防備を固めた。
匈奴/冬、軍臣単于が死去。弟の伊稚斜は、兄の死後、太子であった於単(おたん)を退け、自ら立って単于となる。
於単は漢に亡命し、渉安侯に封ぜられたが、まもなく死去。

開化天皇32年/前126年:乙卯

前漢/張騫たちは13年ぶりに漢に帰国した。出発時にいた100人余りの使者は、張騫と堂邑の甘父の二人だけとなった。2人はそれぞれ太中大夫・奉使君にとりたてられた。
匈奴/匈奴騎兵数万が代郡に侵入し、太守の龔友を殺害し、千人余りの住民を連れ去った。

開化天皇33年/前125年:丙辰

前漢/漢と大宛が国交を結び、武帝は大宛の汗血馬を愛好するようになった。
匈奴/代郡・定襄郡・上郡に侵入し、数千人を連れ去った。この時、匈奴の右賢王は漢がオルドスを奪い、朔方に長城を築いたことに怨みを持っていたため、たびたび国境地帯に侵入して略奪をはたらいた。

開化天皇34年/前124年:丁巳

前漢/春、衛青を大将軍に任命し、6将軍10余万の大軍で匈奴討伐に向かった。匈奴の右賢王は漢軍が来るまいと思って酒を飲んでいたが、漢軍の夜襲をくらって身一つで逃走した。これにより漢軍は右賢王配下の民衆男女合わせて1万5千人と、裨小王(ひしょうおう:部族長)10余人を捕えた。
匈奴/秋、匈奴の1万騎は代郡に侵入して都尉の朱英を殺害し、千余人の住民を連れ去った。

開化天皇35年/前123年:戊午

ローマ/ガイウス・センプロニウス・グラックスが護民官となる。
前漢/大将軍衛青、再び匈奴討伐に向かい、1万9千人余りを斬首・捕虜にした。この時、匈奴への侵攻には、以前(前127年)に匈奴から逃げ帰ってきた張騫が同行し、地理知識を活かして大きく貢献した。その褒賞として衛尉・博望侯とされる。
匈奴/伊稚斜単于はかつて匈奴から漢に降った前将軍・翕侯の趙信を捕えたので、彼を自次王(じしおう)に封じ、自分の姉を娶らせた。その後、伊稚斜単于は趙信の計略を用いて対漢軍にあたった。

開化天皇37年/前121年:庚申

前漢/春、驃騎将軍の霍去病に1万騎をつけて匈奴を攻撃。霍去病は8千人を斬首・捕虜とし、匈奴の休屠王を撃退してその地にある天を祭るときの黄金の像を奪った。
前漢/夏、霍去病は合騎侯の公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山を攻撃した。
匈奴/左賢王は代郡と雁門郡を略奪していたが、博望侯(張騫)と李広の攻撃に遭った。この時、博望侯は遠征の期日に遅れたため李広の挟撃作戦が失敗した。博望侯は損害を発生させた罪で本来なら死罪となる所を、過去の功績により金銭で贖罪して庶民に落とされるだけで済んだ。張騫はこの後、西域へ旅をする。
その秋、伊稚斜単于は渾邪王と休屠王が西方を守備していたにもかかわらず、数万人の部下を漢に殺されたことに怒って処刑しようとした。しかし、それを恐れた渾邪王と休屠王は漢に降伏してしまう。このとき、渾邪王は休屠王を殺害して自分だけが漢に投降した。

開化天皇38年/前120年:辛酉

匈奴/右北平と定襄に侵入して千人余りの住民を殺害・略奪。
前漢/張騫は西域へ旅をしている途中で、現地の人が蜀名産の竹と布を持っていることに疑問を抱き、どうやって手に入れたのかを聞いた。身毒(インド)の商人から買ったと言う話を聞き、張騫は蜀から雲南→ビルマを通ってインドへと繋がるルートがあることを知った。張騫は武帝に対して雲南を漢の支配下に入れ、このルートを通じて西域と繋がり、匈奴へ対抗することを長安に帰ってきた直後から何度も進言する。

開化天皇39年/前119年:壬戌

前漢/春、衛青と霍去病をそれぞれ定襄郡・代郡から進軍させ、伊稚斜単于を攻撃した。伊稚斜単于は漢軍にかなわないと思い、西方へ逃走。このとき伊稚斜単于の配下にあった右谷蠡王は伊稚斜単于が死んだものと思い、自ら立って単于となったが、あとで伊稚斜単于が戻って来たので単于号を返上した。一方、左賢王は霍去病と戦ったが敗れ、7万人を失ったため、遠くへ逃走した。これにより匈奴は漠南の地(内モンゴル)を失い、漢は領土を増やすこととなった。
張騫が、更に別の方策として烏孫と同盟することを考え、烏孫への使者として赴く。

開化天皇44年/前114年:丁卯

匈奴/伊稚斜単于が死去。子の烏維が即位する。漢は越国(現在の中国浙江省あたり)の越族の反乱鎮圧にあたっていたため、匈奴に侵攻してくることはなかった。匈奴もまた、漢の国境地帯に侵入することはなかった。
前漢/張騫が死去する。この後、張騫の打った策が徐々に実を結び始め、西域諸国は漢へ交易に訪れるようになり、漢は匈奴に対して有利な立場を築くようになる。張騫の伝記は、後世において大きく取り上げられ、『史記』や『博物志』にも記載された。後に「張騫乗槎説話」として発展する事となる。
「張騫乗槎説話」は奈良時代において、大和にも伝わり、『今昔物語集』には説話として採録された。室町時代以降において、漢画の画題として狩野派などに好まれ、「張騫図」・「乗槎図」と呼ばれる作品が数多く描かれている。

開化天皇47年/前111年:庚午

前漢/武帝が南越を滅ぼす。また、もと太僕の公孫賀に1万5千の騎兵をつけて、九原から匈奴侵攻のため出撃させた。公孫賀は2千余里進み、浮苴井まで行ったが、1人の匈奴人も発見しなかった。また、もと従驃侯の趙破奴にも1万余騎をつけて令居から出撃させた。趙破奴は数千里進んで匈奴河水まで移動したが、1人の匈奴人も発見する事はなかった。
武帝は郭吉を匈奴に送り、匈奴に漢の臣下となるよう交渉させた。単于烏維は怒って郭吉を留置し、北海(バイカル湖)のほとりまで流刑としたが、漢の国境地帯に侵入する勇気がなかったので、たびたび使者を漢に送っては講和を申し込んだ。そこで漢は楊信を送り、講和する条件として、単于の太子を人質として漢に差し出すように要請した。しかし、漢側が公主と絹・綿・食物などの品々を匈奴に送ってから講和する従来の立場と違うとし、使者を送り返した。また漢は王烏を使者として匈奴に送ったが、単于が漢の高官とでないと交渉はできないとし、匈奴の貴族を使者として送ってきた。しかし、その使者が漢に到着すると病気で死んでしまい、漢は高官として路充国を送ったが、単于は匈奴の貴族が漢によって殺されたと思いこみ、路充国を留置してしまった。これにより交渉は決裂し、匈奴はたびたび漢の国境地帯に侵入するようになった。

開化天皇48年/前110年:辛未

前漢の武帝が泰山で封禅の儀を執行する。

開化天皇50年/前108年:癸酉

前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の4郡を置く。

開化天皇53年/前105年:丙子

前漢/武帝はある時、汗血馬が大宛の弐師城におかれていることを知ると、ほしくなったので、千金と金製の馬を持たせた使者を大宛に送り、千金と金製の馬で汗血馬を買おうとした。しかし、大宛は漢の足元を見て断ったため、武帝は怒り、李広利を弐師将軍に任命し、討伐に向かわせた。
匈奴/単于烏維が死去。子の詹師廬(児単于)が後を継ぎ、児単于として即位。右賢王には呴犁湖が選出された。
児単于は西北に移動し、左方(東方)は雲中郡、右方(西方)は酒泉郡・敦煌郡と境を接することとなる。
児単于が即位すると漢は匈奴を分裂させるため、2人の使者を単于と右賢王に送った。しかし匈奴領内に入ると2人とも単于の所へ連れて行かれ、児単于は怒って2人の使者を留置した。その後も漢は使者を2人よこしたので、その都度留置し、留置された使者は合わせて十組余りにもなった。匈奴が漢の使者を留置するので、漢のほうでも匈奴の使者を留置するようになった。冬、匈奴では大雪が降り、飢えと寒さで死ぬ家畜が多かった。児単于は年が若く、戦争や虐殺を好んだので、国民の多くは落ち着かなかった。そこで、左大都尉は単于を殺したいと考え、漢と密通して謀を企てた。

開化天皇54年/前104年:丁丑

前漢/李広利が大宛討伐に向かった。
李広利は、蝗害と飢餓で一つの城も落とすことができず、敦煌まで撤退した。これについて李広利は兵力が不十分だったので、もう一度遠征軍を出すことを請うたが、武帝は激怒し、李広利らを入国させなかった。

開化天皇55年/前103年:戊寅

前漢/武帝が浞野侯の趙破奴に2万騎を率いさせ、朔方から匈奴に進軍した。しかし、趙破奴は浚稽山まで行くと引き返した。匈奴の左大都尉は行動を起こそうとしたが発覚し、単于に処刑された。児単于は左方の兵をくり出して趙破奴を攻撃し捕らえ、その軍をすべて降伏させた。左大都尉の後継は、右賢王呴犁湖の弟である、且鞮侯が選出された。

開化天皇56年/前102年:己卯

匈奴/児単于は受降城を攻撃する途中で病死した。彼の子はまだ幼かったので、烏維単于の弟の右賢王呴犁湖が単于に選ばれ、 呴犁湖単于として即位。
漢は光禄勲の徐自為に五原塞から数百里、遠い場合では千里余りの地点に、城壁や物見櫓を築かせ、臚朐まで及んだ。そして、游撃将軍の韓説・長平侯衛伉をその近くに駐屯させ、強弩都尉の路博徳に命じて居延の沼地のほとりに砦を築かせた。
前漢/武帝は大宛討伐を諦めることができなかったので、一度目の遠征軍以上の軍備を整え、これ以上ないほどの大軍で、再び大宛討伐の遠征軍を編成し、李広利に託した。大宛の軍は漢軍を迎え撃ったが、漢軍の方が優勢だったので、籠城することにした。李広利は城の水源を絶ち、40日余りも包囲した末、外城を破壊し、大宛勇将の煎靡を捕虜とした。
汗血馬を差し出すのを拒んだために、このような事態になったので、大宛貴族たちは相談して大宛王の毋寡を殺し、漢軍にその首と汗血馬を差し出し、停戦を申し込むことにした。李広利らはこれを承諾し、軍を引いた。大宛王が殺されたので、漢は大宛貴族であった昧蔡という者を新たな王とした。しかしその後、大宛貴族たちは昧蔡を売国奴として殺害し、毋寡の弟の蝉封を大宛王に即位させ、その子を人質として漢に送った。
秋、匈奴/匈奴は大挙して定襄郡と雲中郡に侵入し、数千人の住民を殺害したり連れ去ったりし、2千石の高官数人を撃ち破った。さらに、徐自為が築いた砦や物見櫓を破壊した。また、右賢王に命じて酒泉郡と張掖郡に侵入させ、数千人の住民を連れ去ろうとしたが、漢の任文の援軍によって連れ去ろうとした住民を取り戻された。呴犁湖単于は漢の弐師将軍李広利が大宛遠征から帰る途上を遮断しようとしたが間に合わなかった。
冬、匈奴/呴犁湖単于は病死した。呴犁湖の後は弟の左大都尉の且鞮侯が、且鞮侯単于として即位する。

開化天皇57年/前101年/アスス暦627年:庚辰

前漢/
漢が大宛を討伐した事が諸外国に伝わり、震撼させる事となる。単于且鞮侯は恐れて、今まで留置していた漢の使者たちを全員帰国させ、敵意がないことを伝えた。そこで漢は中郎将の蘇武を派遣して、単于に多額の贈物を送った。すると単于は次第につけあがって、傲慢な態度をとるようになった。

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