前の年代:
紀元前1800年〜紀元前1700年

紀元前1700年 〜 紀元前1600年

族長アブラハムの時代。
カナン(パレスチナ)の地から古代エジプトに集団移住するが、やがてこの地で奴隷とされる。もともとカナンの地にいてエジプトに移動したのか、それともメソポタミアから直接移動したのかは不明。
古バビロニア王国、第6代のハンムラビ王(紀元前1729年-紀元前1686年)が30年間にわたる戦争の後にメソポタミアを征服した。ハンムラビ法典(ハムラビ法典。「目には目を、歯には歯を」の復讐法が有名)は彼によって作られた。
トロイア戦争が起こった?とされている。
中央ヨーロッパで青銅器時代始まる
バビロニアの「アトラハシス叙事詩」が成立。

前1700年〜1500年頃

西アジアで、フルリ人による征服。

前1700年

ミノア内乱。

前???年

カナンで飢饉が発生する。
この時、ケラル地方(ペリシテの民)を治めていたのは、かつてのアビメレクの息子であるアビメレク(名前も継いだ?)であった。 この当時、イサクはゲラル地方に滞在していた。そこの地元の住民達に妻であるリベカのことについて尋ねられ、殺されることを免れるために、妹と偽った。 アビメレクはその後、イサクとリベカの親しい仲を目撃(夫婦である事を目撃した?)し、悲劇は未然に終わった。

前1686年

ハンムラビ バビロニア王が死去。
イサク60歳の時、カナンの女性である妻リベカとの間に、双子エサウ(兄)とヤコブ(弟)が生まれる。

前1671年

テラの息子アブラムが175歳において死去。 アブラムの墓廟はパレスチナのヨルダン川西岸地区ヘブロンにあり、ユダヤ教とイスラム教の聖地として尊崇されている。

前1665年

セムの息子アルパサクデが438歳において死去。

前1663年

シリア・パレスチナ地方に起源を持つ雑多な人々の集団ヒクソスの民が新たに王朝を起こす。 ヒクソス政権と呼ばれるこの王朝は、過去のエジプトの分化を継承していた事から、エジプト第15王朝と呼ばれる。
エジプト第14王朝トゥティマイオス(ドゥディメス1世)王代において、ヒクソスがメンフィスを占領し、「暴力を持ってエジプトを奪った」とされている。
エジプト中王国が終わり、エジプト第2中間期に入る。
ナイル川デルタ東部を制圧したヒクソスの王サイテス(もしくはサリティス)はアヴァリス市(現在のテル・アル=ダバア遺跡)を建設し、そこを拠点にエジプトを支配したと言う。 エジプト第15王朝において、マネトのはヒクソスの支配を6人の王による合計284年間としている。一方トリノ王名表では6人の王、108年間とされている。 メンフィスから逃亡した民は諸規模の国家を作り、エジプト第15王朝の属国となる。この国が後にエジプト第17王朝と定義される。

前???年

リベカは弟のヤコブを愛し、兄が受けるはずであった長子の祝福をヤコブが得られるように図って成功する。 このため、ヤコブの身に危険がおよぶとリベカは自分の兄ラバンのもとへヤコブを逃がした。
イサクはこの時、ヤコブを祝福し「カナンの娘を妻にめとってはならない。立ってパダンアラムへ行き、あなたの母の父ベトエルの家に行って、そこであなたの母の兄ラバンの娘を妻にめとりなさい」と助言し、ヤコブをお送り出した。 エサウは、ヤコブが出発した後にこの事を知り、イサクがヤコブの妻にふわさしい者はカナンにはいないのだと思った。

前???年

エサウはアブラハムの子イシマエルの所に行き、イシマエルの娘マハラテ(ネバヨテの妹)を妻にめとった。

前???年

第13王朝を継承するエジプトの民の小国において、ラーヘテプが統治。
後のエジプト第17王朝となる。

前???年

ベエルシバからパダンアラムへ逃亡の途上、ヤコブはベテルの地にて、天国に上る階段の夢(ヤコブの梯子)を見て、自分の子孫が偉大な民族になるという神の約束を受ける。

前1655年

アルパサクデの息子シラが433歳において死去。

前???年

ヤコブが、ハランにすむ伯父ラバンのもとに身を寄せる。 その際には、ラバンの娘ラケルへの好意を利用した。

前1650年

ミノア文明/女神の王族(テラ島:サントリー二火山)が爆発し、男性たちによって、完全にミノア文明が滅亡する。 ミノアの女神たちが、マイアの民を呼び寄せる。
テーベのエジプト第13王朝がほぼ衰退していき、前1633年まで続く。
エジプト第14王朝が起こる。
一方でテーベにおいて、ヒクソスとよばれたアジア系移民(おもにシリア・パレスチナから移住)が、アヴァリスを拠点にあらたにエジプト第14王朝が成立する。
マネトの記録によれば、76人のクソイス(都市や島)の王がいたという事であるため、連合国家として成立していた事が推測される。 エジプト第14王朝自体の記録は乏しく、統治していた王の名は、ベブネム王(アジア民族系の名前)やネヘシ王の名前がある。
特記すべき事として、ネヘシ王はエジプト高官の息子であった事が判明している。この事から、エジプト第14王朝は連合国家としてのみならず、民族にとらわれず技量で王を立てていた事も考えられる。 宗教観/信仰においても多神教信仰の特質があり、パレスチナ・シリアにあった信仰が取り入れられていた。パレスチナの神バアル・ゼフォンがエジプト文化圏のなかにも現れるのはこの時期からと推定される。 他、いくつかの小規模な国々に分化する事になる。

前???年

第13王朝を継承するエジプトの民の小国において、セベクエムサフ1世が統治。 後のエジプト第17王朝となる。

前???年

ヤコブがラケルと結婚を申し出る。 ラバンは下の娘、ラケルとの結婚の条件として、7年間の労働を要求する。

前???年

第13王朝を継承するエジプトの民の小国において、アンテフ6世が統治。 後のエジプト第17王朝となる。

前???年

ヤコブがラケルと結婚を申し出を行い、7年が経過。 この時、ラバンは嘘をついて、レアと結婚させた。 ヤコブは抗議したが、さらにラケルと結婚するためにもう7年間の労働を要求した。
ヤコブがラケルの姉レアと結婚。

前???年

第13王朝を継承するエジプトの民の小国において、アンテフ7世が統治。 後のエジプト第17王朝となる。

前???年

ヤコブがレアと結婚して7年が経過。 ヤコブがラケルと結婚する。

前???年

第13王朝を継承するエジプトの民の小国において、アンテフ8世が統治。
後のエジプト第17王朝となる。

前???年

ヤコブと妻レアとの間に、 息子ルベン、シメオン、レビ、ユダが生まれる。
※ ※ ※
ルベンは、ヤコブとレアの間に生まれた第1子であり、イスラエルの十二支族/ルベン族の祖とされる。 ルベン族は後において、エノク族、パル族、ヘツロン族、カルミ族の4氏族によって構成されるようになる。
※ ※ ※
シメオンは、ヤコブとレアの間に生まれた第2子であり、イスラエルの十二支族/シメオン族の祖とされる。 シメオン族自体は、記録としてはほとんど登場しないため、架空の一族ではないかとも言われている。 ただ、外部の古文献からは、シメオン人らしき痕跡を見る事はできる。 シメオン人の領地は、ユダ族によって保持されており、シメオン人はかなり早い段階でユダ族に吸収されていたものと考えられている。
※ ※ ※
レビは、ヤコブとレアの間に生まれた第3子であり、イスラエルの十二支族/レビ族の祖とされる。 ミルカを妻とし、3人の息子ゲルション、ケハ、メラリをもうけた。さらにエジプトで娘ヨケベテをもうけたとも言われている。 後に、ユダ族とベニヤミン族とともにユダ王国を形成する。 レビ族は後にイスラエル祭司階級を得る事になる。
※ ※ ※
ユダは、ヤコブとレアの間に生まれた第4子であり、イスラエルの十二支族/ユダ族の祖とされる。 後に、レビ族とベニヤミン族とともにユダ王国を形成する。
※ ※ ※
レアがヤコブに(ラケルほど好かれていないという意味において)嫌われているのを神が耳にしたために神が授けてくれた子であるとのレアの確信により付けられた。 レアには子供が生まれたのに、自分に子供ができないことをあせったラケルは、自分の女奴隷ビルハに子供を生ませる事にした。

前???年

第13王朝を継承するエジプトの民の小国において、セベクエムサフ1世が統治。
後のエジプト第17王朝となる。

前???年

ヤコブとラケルの侍女ビルハとの間にダン、ナフタリが生まれる。
※ ※ ※
ダンは、ヤコブとビルハの間に生まれた第1子であり、イスラエルの十二支族/ダン族の祖とされる。 後にフシムという一人の息子ができる。
※ ※ ※
ナフタリは、ヤコブとビルハの間に生まれた第2子であり、イスラエルの十二支族/ナフタリ族の祖とされる。 後にヤフツェルエル、グニ、エツェル、シレムという子供ができる。

前1633年

古代エジプト第13王朝と第14王朝の終わり、第15王朝の開始。
第13王朝内にあったアジア系民族が13王朝衰退において、独立しはじめ、この時、ヒクソスをファラオとして王朝を起こす。
ヒクソスとは、古代エジプト語の「ヘカ・カスウト」に由来し、一般にシリア・パレスチナ地方に起源を持つ雑多な人々の集団を意味する。 ここで言うヒクソスは、まさにその集団の中での「王」を指した言葉。 エジプト第15王朝は、隣接するパレスチナも王朝勢力圏に含まれていた。 エジプト第15王朝に属しながら、独自の分化を形成し派生した国が、エジプト第16王朝を起こす。 エジプト第15王朝とそこから派生したエジプト第16王朝は、テーベを中心とする本来のエジプトの民から、非常に大きな敵意を向けられていた。
第13王朝を継承するエジプトの民の小国において、セナクトエンラー・タア1世が統治。 後のエジプト第17王朝となる。

前???年

ヤコブがラバンに帰郷の申し出を行う。 この時もヤコブは、数年の条件をつけ、家畜の群れを増やすために利用した。 ヤコブがラケルと結婚を申し出を行ってからこの出来事に至るまで、結果的にヤコブは財産を築く事となった。

前1628年頃

サントリーニ島の爆発

前???年

ヤコブは独立するために、ラバンの元から全家族をつれて逃亡する。 ラバンはヤコブ一行を追う。 ヤコブとラバンは和解して、ラバンの提案で石の柱を立てて契約を結ぶ。 ラバンはそれをアラム語でエガル・サハドタと名付け、ヤコブはヘブル語でガルエデと名付けた。

前???年

ヤコブとレアの侍女ジルパとの間に、ガド、アシェルが生まれる。
※ ※ ※
ガドは、ヤコブとジルパの間に生まれた第1子であり、イスラエルの十二支族/ガド族の祖とされる。 エジプトに下るときには、7人の子供がいた。 後にパレスチナへ移住する際には、カド族はルベン族、マナセ族の半部族と共に、羊飼いとしてヨルダン川の反対側に残留した。 それは、牧畜に適したヨルダン川の東側を求めたためであった。 しかし、定住後は、カナン人と戦う責任を負わされて、先頭に立って戦い、ヨシュアから祝福を受ける事になる。
※ ※ ※
アシェルは、ヤコブとジルパの間に生まれた第2子であり、イスラエルの十二支族/アシェル族の祖とされる。 後にアシェルには、イムナ、イシュビ、ベリア、ヘベル、マルキエルの5人の子供ができる。 それぞれの子どもたちもまた、イムナ族、イシュビ族、ベリア族、ヘベル族、マルキエル族の5氏族の祖となる。

前???年

ヤコブと妻レアとの間に、息子イッサカル、ゼブルンが生まれる。
※ ※ ※
イッサカルは、ヤコブとレアの間に生まれた第5子であり、イスラエルの十二支族/イッサカル族の祖とされる。
※ ※ ※
ゼブルンは、ヤコブとレアの間に生まれた第6子であり、イスラエルの十二支族/ゼブルン族の祖とされる。 エジプト宰相になっていたヨセフの勧めでエジプトへ移住する歳には、セレデ、エロン、ヤフレエルという3人の子供がいた。この3人の子供もゼブルン族の氏族の開祖になった。

前1604年

ノアの息子セムが600歳において死去。

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