前の年代:
紀元前1900年〜紀元前1800年

紀元前1800年 〜 紀元前1700年

ソドムとゴモラの街が壊滅する。また、アブラムと彼の子孫が、カナンの地に到達する。インダス文明を築いたドラヴィダ人が、インダスの都市を放棄する。

前1800年頃

ニビルが太陽系に最も遠のき、地球に干渉。
エジプトのアメンエムハト3世がファイユーム盆地を開発。
テラ/アブラハム一行は、途中のハランに住み着いた。
現在のパキスタンでインダス文明を築いたドラヴィダ人が、300年もの時間を経て、インダス文明の都市を放棄する。
一説では、気候変動によるものと考えられている。

前1798年

ニマートラー・アメンエムハト3世が、息子アメンエムハト4世を共同王に任命。

前1797年

エジプト第12王朝を統治していたニマートラー・アメンエムハト3世が死去。
共同王であったマーケルウラー・アメンエムハト4世が、エジプト第12王朝を統治。

前1797年

リウの息子ナホルが148歳において死去。

前1794年

ダミク・イリシュ王を最後にイシン第1王朝は、ラルサ王朝リム・シン1世によって滅ぼされ、傘下に吸収される。

前1793年

バビロン第1王朝シン・ムバリト王が死去。

前1792年

バビロン第1王朝においてシン・ムバリトの息子ハンムラビが、王を継承する。
バビロン王朝は、当時弱小国であったため、同じく小国と化していたアッシリアの王シャムシ・アダド1世と同盟を結ぶ。 以降、次第に国は繁栄していった。

前???年

テラの息子ナホルと、ラハンの娘ミルカが結婚する。
ウツ、ブズ、ケムエル、ケセド、ハゾ、ピルダシュ、イドラフ、ベトエル、テバ、ガハム、タハシュ、マアカが生まれる。 後にベトエルに娘リベカと息子ラバンが生まれる。
リベカは後にイサクの妻となる。
ラバンは後に妻との間に、レア、ラケルと二人の娘が生まれる。この二人はヤコブの妻となる。

前1787年

アモリ人、ウルクとイシンを征服。( - 1784年)

前1786年

エジプト第12王朝を統治していたマーケルウラー・アメンエムハト4世が死去。
王妃セベクネフェルが、セベクカラー・セベクネフェルとして、エジプト第12王朝を統治。

前1785年

バビロン王朝が、ウル市、ウルク市を占領する。

前1784年

バビロン王朝が、南のラルサ王のリム・シン1世からイシンを奪い、ティグリス川を渡り、この辺の主要都市マルグムを征服した。
西では、ユーフラテス川流域のラピクムを占領した。

前1782年

女王セベクカラー・セベクネフェルが死去。 大家令であったヘテプイブラー・アアムサホルネジュヘルアンテフが一時王位を簒奪した。
間もなく彼の政権は終わり、セベクヘテプ1世が王位についた。
エジプト第12王朝をの国家制度は、セベクヘテプ1世によってそのままエジプト第13王朝に継承される。 エジプト第13王朝は極めて弱体化が進み、王の記録はあまり残っていない。 マネトの記録によれば、第13王朝にはテーベ(古代エジプト語:ネウト)出身の60人の王がいたとされ、トリノ王名表には36人の王が記録されている。
明らかに第13王朝の王達の平均在位期間は数年程度であった。
このような状況にも関わらず第13王朝の政府機構は王朝が存続したほとんどの期間において正常に機能していた。 エジプト第13王朝は、時代の流れとともに、宰相を中心として国家を運営する王朝へと変化した。
シリア・パレスチナ地方からの異民族が多く訪れるようになり、メソポタミア地方からの分化とも統合されていった。 シリア地方のバアル神が崇拝されていた痕跡も残されている。

前1781年

アッシリア王シャムシ・アダド1世が死去。これにより、アッシリアは瞬く間に弱体化。
マリ王国が復活する。
エシュヌンナ王朝が周辺国家を吸収合併し、大きくなっていく。

前1771年

アブラム75歳の時、ヤハウェ神(יהוה)から啓示を受ける。
アブラムはテラと別れ、再度移住を始めた。この旅路にはサライの他、アブラムの兄弟ハランの息子ロトも同行している。 また、ハランの地で一族に加わった大勢の人々もアブラムに従った。

聖書には「父テラの死後」と記載されている。しかしこの時のテラの年齢は145歳。

前???年

バビロン王朝ハンムラビ王が、マリ王ジムリ・リムとの同盟関係を通じて兵力を手に入れ、エシュヌンナやアッシリアなど周辺国との戦いに勝利し、ラルサへも圧迫を加えていた。
リム・シン1世はハンムラビに対して同盟の申し入れを行ったが、ハンムラビはこれに対し明確な回答を返さなかった。

前???年

一行はカナン(パレスチナ)の地方に入ると、シェケム(エルサレムの北方約50km)で神がアブラムの前に現れ、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と預言された。 アブラムは、自分のために現れてくださった神のため最初の祭壇をシェケムに築いた。
その後、アブラム一行は更に南下してベテルとアイの間(エルサレムの北方約20km)に移り住んだ。ベテルとアイの間にも神のための祭壇を築き、神の御名によって祈った。
この後さらにネゲブへと到った。
それに従って、妻サライ、甥ロト、およびハランで加えた人々とともに約束の地カナン(パレスチナ)へ旅立った。

前???年

カナン地方を飢饉が襲ったため、一族はエジプトへの避難を余儀なくされる。(エジプト第13王朝)
アブラムはサライの美しさゆえに自身に危害が及ぶと案じたので、エジプト人の前では自分の妹(実際、異母妹ではあった)であると偽るよう彼女に懇願した。 その懸念は現実のものとなった。サライの評判を聞きつけたエジプトの王ファラオは彼女を娶り、その褒美としてアブラムには莫大な富を与えた。 しかし、度重なる災いがファラオと王家に降りかかるに及んで、サライがアブラムの妻であることを知った。
激怒したエジプト王は、サライをアブラハムに返すと、二人をエジプトから送り出した。

前1766年頃

エベルの息子ペレグが239歳において死去。
中国、殷(商)王朝興り、夏王朝を滅ぼす。

前???年

アブラムの一行は放浪を続けた後、ベテルとアイの間の祭壇のところまで戻り、神の御名によって祈った。 アブラム一行は既に家畜も奴隷も金銀財産も十分持ち過ぎていたので、牧夫たちの争いをきっかけに アブラムがカナン地方(ヨルダン川西岸)を、ロトがヨルダンの低地全体を選び取って住み分けた。
ロトは、のちに東のほう、ヨルダン川東岸に移動した。
なお、ロトがヨルダンの低地を選び、移り住んだ時点では、そこにはまだソドムとゴモラが存在しており、これらの都市は神の怒りによって滅ぼされる直前であった。 アブラムとロトとが分かれた後、アブラムに神から以下のような預言が下された。
「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
※ ※ ※
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信じるいわゆる聖典の民は、 いずれも彼を唯一神ヤハウェ(יהוה)が人類救済のために選んだ預言者として篤く尊敬し、祝福する傾向が強い。
そのため、これらの宗教は「アブラハムの宗教」とも呼ばれる。

前???年

ソドムとゴモラの街壊滅。文献の年記をたどると、この年が有力。
ただし、3123年での隕石墜落説が正しければ、1358年のずれがある事が推測される。
2018年11月28日において、アメリカ東洋研究所が約2週間の期間をもって死海北側のミドル・ゴールと呼ばれる地域を調査した結果が公表される。 この当時、この場所には街が存在しており、同時に空中で発生した巨大な爆発によって、この地域を中心とした500平方kmが焦土化し、土壌の破壊と汚染から回復までに600年の期間を擁した事が判明する。 この場所に存在していた街は、古代都市タル・エル・ハマム(Tall el-Hammam)という名前であった。 出土した陶器の多くはガラス化しており、少なくとも4000度以上の高温でないとこうした変化はおこならない。
一方で、3123年での隕石墜落説はメソポタミア文明での観察記録によって記載されている事が判明している。つまり、その時期においても何かしらの巨大爆発があり、別の出来事として伝えられている可能性もある。 おそらくこの街が「ソドムとゴモラの街」と呼ばれたのではないかとの事。
ソドムとゴモラの街は、甚だしい性の乱れた街であった。
※ ※ ※
『エゼキエル書』16章49-50節において、次のように書かれる。
「お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。 彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。 そのために、わたしが彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見たとおりである。」
さらに16章53節から55節では、いずれソドムとその娘たちを復帰させることを、神が示唆している。
「わたしは、捕らわれた彼女たちを帰らせる。すなわち、捕らわれたソドムとその娘たち、捕らわれたサマリアとその娘たち、および彼女たちと共に捕らわれたお前たちを帰らせる。 お前は自分の不名誉を負わねばならない。また、お前が彼女たちを慰める結果となったすべての行いのゆえに、不名誉を負わねばならない。 お前の妹であるソドムと、その娘たちは元の姿に帰り、サマリアとその娘たちも元の姿に帰り、また、お前と娘たちも元の姿に帰るであろう。」
一方、旧約時代からの伝承を受け継いで編纂された新約聖書においても「ユダの手紙」において
「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています 」
との記載があり、てソドムやゴモラが「不自然な肉の欲」によって罰されたことを古代のユダヤ地方が伝承していたことが確認できる。
※ ※ ※
アブラハムが、ソドムとゴモラに関して事前にヤハウェと問答をした。
ヤハウェは、ソドムとゴモラの罪が重いという機運が高まっているとして、それを確かめるために降(くだ)ることをアブラハムに告げた。 アブラハムはそれに応じて、正しい者が50人いるかもしれないのに滅ぼすとは、全くありえない、と進み出て言った。 それに対しヤハウェは、正しい者が50人いたら赦(ゆる)すと言った。 そこでアブラハムは「塵芥(ちりあくた)に過ぎない私ですが」と切り出し、正しい者が45人しかいないかもしれない、もしかしたら40人しかいない、30人、20人と、正しい者が少なくても赦すようにヤハウェと交渉をした。 最終的に、「正しい者が10人いたら」というヤハウェの言質を取り付けた。

ヤハウェの使い(天使ハマルアヒーム)二人がソドムにあるロトの家へ訪れ、ロトは使いたちをもてなした。
やがてソドムの男たちがロトの家を囲み、使いたちとセックスをするから使いたちを出すよう騒いだ。 ロトは二人の使いたちを守るべく、かわりに自分の二人の処女の娘達を差し出そうとした。
しかし使いたちは、ヤハウェの使いとして町を滅ぼしに来たことをロトに明かし、狼狽するロトに妻と娘とともに逃げるよう促し、町外れへ連れ出した。
ロトがツォアル(ヘブライ語: צוער‎ 英語: Zoara)という町に避難すると、ヤハウェはソドムとゴモラを滅ぼした。 天から降る硫黄と火からロトが逃げ込んだ。(ロトの洞窟)
ロトの妻(ヘブライ語: אשת לוט‎)は禁を犯して後ろを振り向き、塩の柱(ヘブライ語: נציב מלח‎ ネツィヴ・メラー)に変えられた。
ヤハウェはアブラハムに配慮して、ロトを救い出した。
※ ※ ※
クルアーンにも町の名前は出てこないが、ほぼ同じ物語が述べられており、預言者ルート(ロト)に従わなかったために、彼に従ったわずかな仲間を除き滅ぼされた。 その際、神に滅ぼされた他の民(ノアの洪水で滅んだ民や、アード族やサムード族(英語版)など)とは異なり、ルートの民(すなわちソドムの住民)は、偶像や他の神を崇拝する罪ではなく、男色などの風俗の乱れの罪により滅ぼされた。
この記述から察するに、ソドムとゴモラの街は、ロトが統治していた街である可能性がある。
※ ※ ※
ソドムとゴモラの廃墟は死海南部の湖底に沈んだと伝えられる。 これは、「シディムの谷(ヘブライ語: עמק השדים‎ 英語: Vale of Siddim)」と、シディムの谷の至る所にある「アスファルト」の穴に関する『創世記』の描写と、死海南部の状況が似通っていることなどから、一般にもそう信じられているが、 その一方で、死海南岸付近に点在する遺跡と結びつけようとする研究者も存在する。
※ ※ ※
創世記によると、この洞窟でロトと二人の娘の間に生まれた男の子二人が、それぞれモアブとアンモンの民族の祖先となったとされる。 ロトの洞窟を含む前述の遺跡すべてが、かつてモアブと呼ばれた地、現代のカラク県(ヨルダン王国)にあることは、ソドムとゴモラ、ロト、そしてモアブの伝承を考える上で興味深い。 上記の考古遺跡から出土した考古資料は、現在ヨルダンのカラク考古博物館(カラク城内)やアンマン国立考古博物館で見ることができる。

前???年

神がソドムの町を滅ぼした後、アブラハムの一族は再び南へ向かって放浪し、ゲラル地方に到達した。 アブラハムはここでもまたサラを自分の妹であると偽ったので、彼女はゲラルの王アビメレクの王家に娶られた。
神はアビメレクとその王家を罰したのだが、今回は彼の夢の中に現れて、サラには触れぬよう警告した。 アビメレクはサラをアブラハムに返すと、贈り物を送るだけでなくゲラルでの滞在を二人に勧めた。
その返礼としてアブラハムは、アビメレクの平安、とりわけこの度の罰によって不妊となってしまった王家の女たちの回復を神に祈願した。 すると神がそれに応えたので、女たちは子供を生むようになった。

前1764年

バビロン王朝ハンムラビ王とラルサ王朝による戦争が起こる。( - 1750年)

前1763年

ラルサ市はバビロン軍の攻撃を受けて陥落した。この時の戦いがどのようにして始まり、どのような経過を辿ってバビロンが勝利したのかは分かっていない。
ラルサ王朝のリム・シン1世が死去し、バビロニア第1王朝/ハンムラビ王の傘下となる。
独立国としてのラルサの歴史はこれによって終焉したが、ハンムラビ王はラルサ市を南部メソポタミア支配の拠点として更に拡大したため、ラルサ市自体はその後もしばらくの間、繁栄を続けた。

前1762年

バビロン第1王朝の王ハンムラビと、エシュヌンナ国が衝突し、バビロン第1王朝が勝利する。
エシュヌンナ国は一時ながら、エラムの支配下に置かれた。

前1761年

この道程の途上、神はアブラムと彼の子孫に対してカナン(パレスチナ)の地を与える約束をした。しかしサライは不妊の女であった。
彼女は75歳になるに至って自らによる出産を諦め、サライの女奴隷のハガルを側女としてアブラムに与えた。 当時のこの地方には、不妊の妻が女奴隷を夫に与え、その側女との間に生まれた子供を自分の子供にできる風習があり、サライもまた、ハガルを通じて息子を得ようとしたのであった。
しかしハガルは妊娠したとたん、女主人サライを見下すようになった。この屈辱に耐えかねたサライがアブラムに不平を漏らしたところ、アブラムはこの件に関しては干渉しない旨を伝えた。 するとサライはハガルを虐待するようになったので、ついにハガルはサライの元から逃亡してしまった。
しかし、シュル街道の泉の所で彼女に御使いが現れ、神はハガルの苦悩をご覧になられたので、ハガルの子孫は多くなる事を約束し、その子供にイシュマエルという名前を付けるよう命令し、サラの下へ帰って服するよう指示された(創世記16:7-12)。 ハガルは神を「エル・ロイ(わたしを顧みられる神)」という名前で呼び、私は神を見た後も生きていると語った(創世記16:13)。
ハガルはその後、サラのもとへと戻り、無事イシュマエルを出産している。

前1759年

バビロン第1王朝の王ハンムラビが、マリ王国を攻略。

前1757年

バビロン第1王朝の王ハンムラビが、エシュヌンナ国を攻略。 バビロン軍に包囲され、ハンムラビ王の水攻めによって都市は崩壊し、放棄された。
バビロン第1王朝の王ハンムラビが、アッシリアへ出兵し、征服する。 これにより、ハンムラビ王は、メソポタミア地方を統一した。
都市国家バビロンがシュメール及びアッカドの地を再統一したことにより、シュメール及びアッカドの地の王の地位を獲得した。 統一されたこの地域はバビロニアとも呼ばれるようになった。
ハンムラビは『ハンムラビ法典』と呼ばれる法典によって都市文明を確立したことで有名である。
『ハンムラビ法典』は被害者や加害者の身分によって刑罰に違いを付け、身体刑を多く科すため、現代の視点からは残酷であると見られる。 しかし成文法を作るだけでなく、法を体系化しようとしたことは、文明の発達にとって重要な一歩であるとみなされる。『聖書』にある「目には目を、歯には歯を」という言葉は『ハンムラビ法典』に遡ることができ、同害復讐法体系との関連が指摘されている。ハンムラビはこのほかにも、灌漑手段改良への援助を行うなど、バビロンの改良に努めた。

前1754年

メレクの息子ノアが、950歳において死去。

前1750年頃

セベクヘテプ2世がエジプト第13王朝を統治。
アラスカ州、ヴェニアミノフ山が噴火。
バビロン第1王朝において、ハンムラビ王が死去。 リム・シン2世が、ラルサ王朝の実権を取り戻す。

前1749年

メソポタミアで反乱が起こる。( - 1712年)

前1748年

イシュマエルが13歳のとき、アブラム一行がカナン(パレスチナ)の地に入る。
シェケム(エルサレムの北方約50km)でモレ(Moreh)の樫の木がある場所で、神がアブラハムに現れ、彼に多くの子孫が生まれること、彼らにカナンの地が与えられること、そしてイシュマエルではなく、サライによって誕生する息子イサクがその地を受け継ぐことを約束した。 もっとも、アブラムには信じがたい約束であったため、彼はイシュマエルについての約束の成就を神に祈願した。
それでも神は、イサクについての約束が成就すると念を押した。
アブラハムはそこに祭壇を築いて、そこから32km南のベテルに移動した。
この折に、アブラムはアブラハムへと、サライはサラへとそれぞれ改名されている。
そんなある日のこと、二人のもとに三人の客人が現れ、今から一年後、サラには息子がいることを告げた。 この言葉を聴いてサラは内心、密かに笑っていたのだが、この行為が「イサク」という息子の名前の由来となっている。

前1747年頃

セベクヘテプ2世が死去し、ケンジェル王がエジプト第13王朝を統治。
宰相アンクウが権力を振るう。

前1746年

アブラム(アブラハム)100歳の時、息子イサクが生まれる。 サラは90歳のとき、幸福に満たされながら、まさに約束された日取りにイサクを産んだ。 やがてイシュマエルはイサクをからかうようになり、サラはハガルとイシュマエルを追い出すように夫に懇願した(創世記21:9、10)。 それは、イシュマエルにアブラハムの跡を継がせたくないという当然の主張であった。
アブラハムはこの件に関して心を痛め、神に助言を求めた。
神がサラの懇願を聞き入れるように命じると、彼はハガルに食料を与えて去らせた(創世記21:11-14)。
サラは、この後に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアと多くの子供を産んだ。 ミディアンの子孫はさかえ、ミディアン人となっていく。

前1746年

ハガルとその息子イシュマエルはベエル・シェバの荒野をさまよい、水が尽きると彼女は息子が死ぬのを見たくないと思い、低木の下に隠して自分は離れた所に座り、声を上げて泣き始めた(創世記21:14-16)。
すると御使いが天から呼びかけ、神は少年の声を聞かれたので彼を大きな国民にすると約束し、ハガルを元気づけた(創世記21:17、18)。
神がハガルの目を開くと、彼女は井戸を見つけ生き延びる事ができた(創世記21:19)。
ハガルとイシュマエルはこうしてパランの荒野に住んだ。 その後、ハガルはイシュマエルのためにエジプトから妻を迎えた(創世記21:20、21)。
イシュマエルは、ネバヨト、ケダル、アドベエル、ミブサム、ミシュマ、ドマ、マサ、ハダド、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマ、マハラト(バセマトと同一?:エサウの妻となる)とたくさんの子供を産んだ。 これによりイシュマエルの子孫はさかえ、イシュマエル人(アラブ人)となる。

前1736年

ペレグの息子リウが239歳において死去。

前1732年

イサクが14歳の時、パダンアラムにて、ラバンの娘リベカと結婚する。 ラバンは妻ベトエルと共に、アブラハムのしもべをむかえ、親切にもてなした。

前1730年

エジプト王朝第13王朝において、セベクヘテプ4世が統治。 先々代宰相アンクウの孫、イイメルウが宰相となる。

クソイス出身の民の王(ベブネム王?)が、下エジプト(ナイル川デルタ地帯)のアヴァリス(古代エジプト語:フト・ウアレト)を中心とした狭い範囲において支配下において、第13王朝の統制を離れた。 この頃にエジプト王朝第14王朝が発生したと考えられている。
マネトの記録によれば第14王朝には76人のクソイスの王がいた。
第14王朝は、アジア人やエジプト人が王として統治した。 シリア・パレスチナ地方からの異民族が多く滞在するようになり、第14王朝ではセト神がアヴァリスの主神となった。 このセト神はヒクソスが崇拝した神である事から、シリア・パレスチナ地方の異民族の分化とも統合されていた事が伺える。

前1720年

エジプト王朝第13王朝を統治していたセベクヘテプ4世が死去。
アイ王が王朝を引継ぎ、エジプト王朝第13王朝最後の王となる。

前1711年

ナホルの息子テラが205歳において死去。
奇跡の業によって生まれた息子、何にも増して愛している一人息子のイサクを生贄として捧げよと神が直々に命じる。 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。 神が命じたモリヤの山を上るさなか、父子の間では燔祭についての短い会話が交わされている。 イサクは献げ物の子羊がないことに戸惑うのだが、アブラハムは多くを語らなかった。
「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」
時点でイサクはすでに、自分が燔祭の子羊として捧げられることを認識していたと思われる。 しかし、彼は無抵抗のまま父に縛られ、祭壇の上に載せられるのであった。 神の命令は「あなたの子孫はイサクによって伝えられる」という21章12節の約束と明らかに矛盾していた。 にもかかわらず、アブラハムはほとんど盲目的に神の言葉に従ったのである。
実際には、イサクの上に刃物を振り上げた瞬間、天から神の御使いが現れてその行為を止めた。 アブラハムが周囲を見回したところ、茂みに角を絡ませた雄羊がいたので、彼はそれをイサクの代わりに神に捧げた。
※ ※ ※
この「イサクの燔祭」という出来事では、アブラハムに対してイサクを生贄に捧げるように命じたのは神である説とそうでない説がある。 神である説の場合は、「信仰」という上で最も過酷な神の試練という解釈がなされている。
一方で神ではないとする説は、カナンの地において生贄を求める神モロクが、アブラハムに命じたのではないかという説が有力である。 モロク神は火による生贄を求めていたらしく、当時の中東地域では、モロク神信仰も盛んであった。

前1709年

アブラム137歳の時、妻サラは127年にてキルヤト・アルバ(ヘブロン)で生涯を閉じる。
アブラハムはヘト人エフロンから畑を買い取り、そこにあったマクペラの洞穴に彼女の亡骸を埋葬した。

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紀元前1700年〜紀元前1600年