前の年代:
紀元前2100年〜紀元前2000年
紀元前2000年 〜 紀元前1900年
1956年、秋田県鹿角市十和田において大湯環状列石が発掘される。紀元前2000年〜1500年頃にかけて構築された大規模な環状列石を主体とする遺跡。万座と野中堂の2つの環状列石は直径40m以上もあり、200年以上にわたって造り続けられたと考えられている。
1995年、青森県青森市野沢において小牧野遺跡が発掘される。紀元前2000年頃に構築されたと思われる、土地造成と特異な配石の大規模な環状列石を主体とする遺跡。
2001年、秋田県北秋田市脇神において伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡が発掘される。紀元前2000年〜1700年頃にかけて構築された環状列石を主体とする大規模な祭祀の遺跡。環状列石の規模は、直径30m以上のものであり、4つも環状列石が集中するものは例がないと言われている。
2006年、北海道森町鷲ノ木町において鷲ノ木遺跡が発掘される。紀元前2000年頃に構築された環状列石と竪穴墓域が主体の遺跡。外周約37×34mの円形を成している環状列石は、北海道内で最大規模。
前1998年
エジプト第11王朝を統治していたスアンクカラー・メンチュヘテプ3世(スアンクタウィエフ王)が死去。
前1997年
エジプト第11王朝において、ネブタウィラー・メンチュヘテプ4世(ネブタウィ王)が統治。
王のための石棺の材料を得るために派遣された遠征隊の司令官アメンエムハトが宰相となる。
イシン第1王朝のイシュビ・エッラ王が死去。
シュ・イリシュが王を継承する。
前1991年
エジプト第11王朝でクーデターが発生し、統治していたネブタウィラー・メンチュヘテプ4世(ネブタウィ王)が死去。
これをもってエジプト第11王朝が終わる。
第11王朝の宰相アメンエムハトが即位し、エレファンティネを首都として新王朝を起こす。
『ネフェルティの予言』と呼ばれる文書によればアメンエムハト1世は上エジプト第1県の出身であったとされる。
エレファンティネを首都とするこの州の厳密な境界ははっきりしないが、南はヌビアであるためアメンエムハト1世にヌビア人の血が入っているという説も存在する。
果てしない混乱の続いた第1中間期の終焉は人々の間に「救世主」によって救われたのだという観念を生み出した。
こうした風潮を利用した第12王朝の王達は、先行した第11王朝の統一事業を無視し、文学作品を通じて統一者、救済者であるのはアメンエムハト1世であると言う政治宣伝を繰り広げた。
セヘテプイブラー・アメンエムハト1世の統治により、エジプト第12王朝始まる。
※ ※ ※
『ネフェルティの予言』
ネフェルティの予言』は理想化された過去の時代である古王国時代の第4王朝を舞台にして神官ネフェルティがスネフェル王に予言を聞かせるという形式の文書である。
この文書によればネフェルティはスネフェル王の求めに応じて、全土が混乱と掠奪に晒されることや下エジプト(ナイル川デルタ地方)へのアジア人の侵入のあることを語った。
そしてその混乱状態を救済する者として、南方からアメニ(アメンエムハト1世の通称)が現れ、彼が国土を統一するであろうと予言したとする。
この作品はアメンエムハト1世の在位中か死亡直後に作成されたと考えられている。
エジプトの混乱について述べる部分は『イプエルの訓戒』など他の文学作品の描写と符合し、明らかに第1中間期の社会を描いたものである。
そして混乱を収める者としてアメンエムハト1世が登場するとし、しかもそれを数百年以上前に予言されていたこととすることで信頼性を得ようと試みている。
※ ※ ※
正統性を確保するため、また戦略的な理由から、首都をテーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール)から古王国時代の首都メンフィスのそばに建設したイチ・タウィへと移した。
「二つの土地の征服者」と言う意味の名を持つこの新首都は、正確な位置が未だ不明なままである。
そして近郊のエル・リシュトにピラミッド複合体の建設を行い、旧秩序の復活者としての立場を明確なものとしていった。
更にアメンエムハト1世は第11王朝時代に任命されていた州侯を罷免し、王室に敵対的であるとして排除された有力者の地位を復活させた。
これはアメンエムハト1世の即位が第11王朝の政策に不満を持つ有力者の支持を背景としたものであったためである。
しかし、家臣が強大な権力を持つことは王権の側からは好ましいことであるはずも無く、第12王朝の歴代王は長期的には州侯などの権力を削いでいく方針を持って統治に当たった。
前1976年
都市ラルサの君主エミスムが死去したため、サミウムが君主を継承する。
イシン第1王朝のシュ・イリシュ王が死去。
イディン・ダガンが王を継承する。
前1975年頃
ペレグ30歳の時、息子リウが生まれる。
前1971年
アメンエムハト1世が息子のセンウセルト1世に「共同王」という位を与え、王位継承を確かな物にしようとした。 これは後に大きな効果を発揮した。アメンエムハト1世が国内基盤の整備に力を注ぐ一方で、センウセルト1世は対外遠征を取り仕切り、シナイ半島やリビア人への遠征を行った。
前1962年
エジプト第12王朝を統治していたアメンエムハト1世が衛兵により、暗殺される。
『シヌヘの物語』によれば、共同王センウセルト1世はリビア人に対する遠征に勝利して帰還する途上であったが、父王暗殺の報を受けると軍隊を残し、少数の従者と共に急ぎ首都に帰還した。
そして恐らくアメンエムハト1世暗殺によって王位を得ようとした別の王子を殺害し、混乱を素早く収集して王位を保持することに成功した。
共同王を置いたことが王位簒奪の防止に有効であることが実例を持って証明された。
センウセルト1世が作成した『アメンエムハト1世の教訓』によれば、アメンエムハト1世は夕方に一時間余りの休養をとって寝台に横になっていた所、衛兵によって襲われた。彼は激しく抵抗したものの武器が無く、遂に殺害された。
共同王であったケペルカラー・センウセルト1世が統治。
センウセルト1世は父王の政策を受け継いで国内の基盤整備に尽力した。
南方のヌビアへの遠征が行われて重要な金鉱が確保され、騒乱に対応するために少なくても13の要塞を南部に建設した。
彼は各地で熱心に建築事業を行い、現在でもエジプトの全域からセンウセルト1世にまつわる遺跡が残されている。
中でも治世第30年に建設されたオベリスクは立った状態のまま現存するものとしては最古のものである。
前1955年頃
リウ30歳の時、息子ナホルが生まれる。
イシン第1王朝のイディン・ダガン王が死去。
イシュメ・ダガンが王を継承する。
イシュメ・ダガンの治世には経済改革が行われたらしい事が後世の文学作品より知られている。
その中でも彼の治世にニップル市に対して免税特権が与えられたことが強調されているが、これ自体は経済政策というよりは、宗教的中心地であったニップル市の有力者の歓心を買う事で離反を阻止しようとしたものであるとされる。
この他、徳政令の発布や娘をウルの女性祭司に任命するなどの処置を行って国内の安定に努めた。
彼の治世以降たびたび発布される徳政令は、経済面において何らかの社会不安が醸成されていたことを示すともいわれる。
こうした政策は息子のリピト・イシュタルに受け継がれることになる。
前1950年
ニップールで銅の秤によるシュメール・キュビトの制定。51.72 cm。
前1944年
イシン第1王朝が拡大を続ける一方で、ラルサ市でアムル人ザバイアが支配権を握る。
前1941年
都市ラルサの君主サミウムが死去したため、ザバイアが君主を継承する。 ザバイアが新王朝を樹立する。これをラルサ王朝とよぶ。 ザバイアはラルサ王朝で初めての王であるが、様々な資料から確認してみたところ、実は4代目である事が判明。
前1934年
イシン第1王朝のイシュメ・ダガン王が死去。
リピト・イシュタルが王を継承する。
彼は父王が行っていた社会改革を継続するとともに、領内の安定のためにイシン市を初めニップルやウルで減税処置や徳政令を発布して社会の安定を図った。
リピト・イシュタル法典と呼ばれる法律文書を残した。
また、父王に倣って娘をウルの女性祭司に任じた。
リピト・イシュタルのこれらの行動は明らかにウル第3王朝の王達を意識したものであるが、それとは裏腹に彼は対外的な困難に直面した。
領内の反乱に加え、アムル人諸部族の圧力が強まっており、更に決定的なことにラルサがグングヌム王の下で急激に勢力を拡大していた。
前1932年
アモリ人が、ウルを征服する。
ラルサ王朝のザバイア王が死去したため、グングヌムが君主を継承する。
前1929年
ケペルカラー・センウセルト1世が、息子アメンエムハト2世を共同王に任命。
前???年
ラルサ王朝グングヌムと、イシン王朝リピト・イシュタルが、南部メソポタミアの覇権を巡って激しく争った。
特にその初期の戦いで焦点となったのはウル市の争奪戦である。
ウルは旧ウル第3王朝の都であり、「ウル第3王朝の後継者」という立場を取る両王朝にとっては大義名分を支える政治的意味合いが強かった上に、ペルシア湾を通じた交易の拠点でもあり、戦乱で損傷していたとはいえその支配権は重大問題であった。
前1926年
エジプト第12王朝を統治していたケペルカラー・センウセルト1世が死去。
この時、とくに大きな混乱は無かった。
共同王であったネブカウラー・アメンエムハト2世が統治。
これよりセンウセルト2世の代まで、安定した平和が継続する。
活発な建築活動が継続して行われており、また食糧生産の増加を目指して農地開発が行われた。
前1925年
ラルサ王朝グングヌムと、イシン王朝リピト・イシュタルによる、ウルの争奪戦において、イシン王朝は最終的にラルサ王朝によるウル占領を阻止することはできなかった。 ウル市失陥はイシン第1王朝の覇権維持にとって致命傷とも言える出来事であり、その後のイシン没落に繋がることとなった。 そしてウル市失陥はリピト・イシュタル自身の権威にとっても致命傷であった。
前1924年
ウル市がラルサ王朝に、完全に占領された。
リピト・イシュタルは、ウル・ニヌルタによって王位は奪われ、死去した。
ウル・ニヌルタがイシン第1王朝の王となる。
前1920年
中国の黄河で大洪水が発生。2016年8月5日調べでは、現在の黄河よりも38メートルも高い水位であった事が判明。以後の夏王朝と中国文明の誕生につながる。
この事から、この大洪水は地球史上でノアの洪水よりも規模の高い最大規模の大洪水であった事が推測される。
前1916年頃
ナホル29歳の時、息子テラが生まれる。
前1913年
エジプトとヌビアの戦争が起こる。( - 1903年)
前1905年
ラルサ王朝のグングヌム王が死去したため、アビ・サレが王を継承する。
次の年代:
紀元前1900年〜紀元前1800年