前の年代:
紀元前2200年〜紀元前2100年

紀元前2100年 〜 紀元前2000年

中国で夏王朝が起こる。
バベルの塔の建設があり神の御手で破壊され、ディアスポラが起こる。
伝承によれば、この時、世界の言語は共通のものでなくなり、意思疎通ができないものとなったとされている。

前2100年頃

中国最古の王朝である夏ができた。
ウル第3王朝がウル・ナンムによって建てられメソポタミアを支配した。
伝承:/ インドで、ヤーマヤーナ戦争が起こる。
(※ラーマ=クリシュナ:ヴィシュヌの7つ目のアヴァターラ(化身)と言われる。)

前2100-2050年頃

ウル遺跡のジッグラトが建設された。

前2095年

第3王朝の王ウル・ナンムが死去。

前2094年

ウル・ナンムに代わり、シュルギがウル第3王朝を統治した。 教養豊かな王として知られ、48年間にわたる治世の間にウルは著しく発展した。名前は「高貴な青年」の意。

前2080年

エジプト第9王朝で戦争が始まった。 エジプト第1中間期が終了し、エジプト中王国が興った。

前2077年

ウル第3王朝の王シュルギが、王朝の官僚組織を整え常備軍を編成し、これまでにない厳格な文書行政を敷いた。 シュルギは、「四方領域の王」を名乗り、自らを神とした。

前2071年

アイルランド神話に記録された最初の戦争であるMagh Itheが始まった。

前2070年

中国で禹が夏を建国した。

前2069年頃

アルパクサデ35歳の時、息子シェラが生まれる。
エジプト第11王朝を統治していたアンテフ2世(ワハアンク王)が死去。 エジプト第11王朝において、アンテフ3世(ナクトネブテプネフェル王)が統治。

前2064-1986年

エジプトの2つの王朝の間で戦争が始まった。

前2060年頃

エジプト第11王朝を統治していたアンテフ3世(ナクトネブテプネフェル王)が死去。 エジプト第11王朝において、ネブヘテプラー・メンチュヘテプ2世(スアンクイプタウィ王)が統治。

前2055年頃

エジプト第1中間期が終了した(紀元前2040年との説もある)。 エジプト第11王朝(上流エジプト)のメンチュヘテプ2世が、メンフィスを首都とする下流エジプトを打ち破った。 これにより、古代エジプトは再び融和した(紀元前2040年との説もある)。
この時点により、エジプト中王国の定義となる。
メンチュヘテプ2世がファラオとなり統治を始めた。 ウトゥ・へガルがウルクを統治し、ウルク第5王朝を建国。

前2050年

アッカド帝国の後継者としてウトゥ・へガルが、新王朝を樹立させる。
ウルク第5王朝の王がおこる。ウトゥ・へガルは、グティ人の王に反抗。 彼は最後のグティ人王Tiriganに対峙し、シュメールの都市を導いた。何処で戦いがあったかは定かではないが、ウトゥ・へガルは勝利を収めTiriganをGutiumへと退却させた。 TiriganはDubrum(場所は不明)に止まり、現地の人々にもてなされた。 しかしウトゥ・へガルが街に向かい進軍していると聞くと、Dubrumの人々はTiriganと彼の家族を囚人として捕らえた。Tiriganはウトゥへガルの前に引きずり出され、シュメールを離れGutiumに戻ることに承諾した。 グティ人を破りウトゥ・へガルはシュメールの王として即位した。 しかし彼は力を維持できず、7年の後に退位する事になる。

前2049年

シーヘンジのカシの木が倒れた。

前2048年

ウル第3王朝シュルギが死去。 王妃シュルギシムティらも殉死した。

前2047年

シュルギに代わり、アマル・シンがウル第3王朝を統治した。
兄弟のシュ・シンと争い王位を奪われた。名前は「シン神の仔牛」の意味である。 アマルはシュメール語であるが、シンはアッカド語であり、メソポタミアにおけるアッカド語の普及が進展していたことが見て取れる。

前2046年

エジプト第11王朝メンチュヘテプ2世が、ホルス名を「ネチェルヘジェト」と改名した。 キシュ第肆王朝ウル・ザババ400年間の在位はここまで。

前2040年頃

エジプト第1中間期が終了し、エジプト中王国が興った。 ウル第3王朝アマル・シンの息子シュ・シンが反乱を起こし、王を名乗る。 王妃アビシムティはアマル・シンを見限り、シュ・シンの反逆に手を貸した。

前2040年

メリカラーが死に、エジプト第10王朝が終了。 この時、エジプト第1中間期が終わり、エジプト中王国にはいる。 メンチュヘテプ2世がエジプト第11王朝を興す。

前2039年頃

シェラ30歳の時、息子エベルが生まれる。 その後にヨクタンが生まれる。

前2037年

アマル・シンが殺害され(病死とするものもある)、シュ・シンが王位を奪いアマル・シン派の官僚たちは失脚した。 アマル・シンに代わり、シュ・シンがウル第3王朝を統治した。

前2038年

ウル第3王朝にて、シュ・シンが王に即位する。

前2034-2004年

ウルとアムルの間で戦争が起こった。

前2030年

ウル第3王朝のシュ・シン王が死去。

前2029年

ウル第3王朝にて、シュ・シンの息子であるイディン・ダガンが王を継承する。

前2028年

シュ・シンに代わり、イビ・シンがウル第3王朝を統治した。 イビ・シンの治世において、王朝は西からのアムル人の侵入と東からのエラムの攻撃に曝され、その対応に追われた。 シュメール王名表の年代に則せば、イシュビ・エッラはこの時より、イシン朝の基盤を築いた。

前2025年

都市ラルサで、新王朝がアムル系と見られる人々によって建設される。 ナプラヌムが君主となる。

前2022年

シュメール地方で大規模な飢饉が発生すると、王朝の弱体化は如何ともしがたい様相となった。 イビ・シン王はウル第3王朝に仕えていたアムル人イシュビ・エッラに食料調達を命じて彼をイシン市に派遣したが、イシュビ・エッラは反旗を翻し、イシン市を拠点にウル第3王朝から独立した(イシン第1王朝)。 弱体化したウル第3王朝にはこれを止める術はなく、イビ・シン王は彼の独立を承認せざるを得なかった。 イシン第1王朝が樹立する。

前2021年

エジプト第11王朝メンチュヘテプ2世が、ホルス名を「スマタウィ」と改名した。

前2017年

アムル人イシュビ・エッラがイシン市を拠点に独立し、イシン第1王朝を建国。

前2010年

エジプト第11王朝を統治していたネブヘテプラー・メンチュヘテプ2世が死去。 エジプト第11王朝において、スアンクカラー・メンチュヘテプ3世(スアンクタウィエフ王)が統治。

前2009-1997年頃

メンチュヘテプ3世の墓が建設された。エジプト第11王朝が興った。

前2007年

ウル第3王朝の首都ウルがエラム国の侵攻によって陥落する。

前2006年

ウル第3王朝 エラム人によってイディン・ダガン王がはるか東方へ連行された。 これをもって、ウル第3王朝は滅亡する。

前2004年

メンチュヘテプ2世が死去。
エベル34歳の息子ペレグが生まれる。
バベルの塔破壊
エラムがウルを破壊した。 ----
オリオン・グループ、ディアスポラ(離散)を時期に、地球上を立ち去る。
旧約聖書によると、民族の始祖アブラハムが、メソポタミアのウルから部族を引き連れてカナンの地(現在のイスラエル、パレスチナ付近)に移住したとされる。 彼らは「移住民」という意味のヘブライ人と呼ばれたらしいが、 バビロニア(神の門)/そしてバベルの塔が、ウル付近にあった(もしくはジグラットそのものではないか)という事を考えると、この時すでにディアスポラの後に彼らが移動を始めたのが理にかなっているように思える。 現時点でのディアスポラとはコミュニティを意味するものであるらしく、ギリシャ人、フェニキア人、アルメニア人、華人、近代奴隷制によって新大陸に連れてこられたアフリカ人の子孫にもこのように定義されているらしい。 カナンの地に移動したのは、フェニキア人(彼らもまたヘブライ人)という事になる。

エラム人がシュメールに侵入し、イビ・シン王は敗れエラムに連れ去られた。エラム人は南部メソポタミアの都市を破壊して支配下に置いた。 このウル第3王朝の滅亡は『ウル市滅亡哀歌(英語版)』などの文学作品を通して語り継がれた。 ちなみに、創世記の記述では、バベルの塔が崩れたという事は記載されていない。混乱がもたらされたとある。
ミノア文明が興る。
ヨーロッパは青銅器時代を迎える。
エチオピアから農民と牧畜民がケニアに移住。メソ・アメリカ各地で定住農村村落の成立。
メソアメリカ、先古典期。( - 紀元後300年)
エラム人は南部メソポタミアから更に支配領域を拡大することはなかった。 独立勢力を築いていたイシン王イシュビ・エッラは、エラム人の北上を食い止めることに成功し、逆に攻勢に出てエラム人をシュメールから排除することに成功したため、南部メソポタミアの大部分がイシンの支配下に入った。 イシュビ・エッラ以降のイシンの歴代王は、ウル第3王朝の後継者たることを主張し、マラドやウルクなど混乱の中で独立していた周辺国を次々と制圧していった。

前2004年

都市ラルサの君主ナプラヌムが死去したため、エミスムが君主を継承する。

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紀元前2000年〜紀元前1900年