前の年代:
紀元前2400年〜紀元前2300年
紀元前2300年 〜 紀元前2200年
北ヨーロッパで金属が使われ始めた。(青銅器時代の始まり)
ナイル川とモエリス湖を結ぶ運河が作られた。
前約2300年頃
惑星連合-知的生命の集合体「ヤハウェ」に対する、人の信仰の価値観が変化する。
肯定的哲学を人々に伝え残す。
人と、さらに別の存在との間に「アナック」という種が誕生する。
エノク書/創世記6・4によれば、グリゴリ(ウォッチャーズ)と人間の間に「ネフィリム」という種が生まれたとある。
民数記13・33によれば、「アナック」は「ネフィリム」の出であるとの事。
「車輪の中の車輪」という名の天使(メル=カヴァ?)が、「不休の目」を持つ智天使(ケルビム?もしくはオファニム)の存在を形成する。
これにより、ハルマゲドンの概念にさらに強い思念形態が加わる。
北ヨーロッパで金属が使われ始めた。(青銅器時代の始まり)
ナイル川とモエリス湖を結ぶ運河が作られた。
前約???年
アッカド王朝サルゴンが、西方遠征に乗り出し、マリを始め、エブラ、アナトリア南東部の「銀の山」(タウルス山脈)、「レバノン杉の森」(アマヌス)を征服した。
ただし、これらの西方遠征説話は、彼の孫のアッカド王ナラム・シンの物に非常に類似しており、ナラム・シンの業績がサルゴンに仮託されたものである可能性がある。
これらの業績によって彼は「上の海(地中海)から下の海(ペルシア湾)までを征服した王」と記録される。そして彼が作ったこの領域は史上初の帝国であるといわれる。この様な記述はルガルザゲシのそれを踏襲した物と考えられる。
イェリコの街が、異民族の来襲によるものと思われる火災にあい、廃都となる。
前2300-2200年頃
現在はイラク国立博物館に収蔵されている男性の頭像がニネヴェで作られた。
前2300-2184年頃
現在はペンシルベニア大学に収蔵されている、エンヘドゥアンナのディスクがウルで作られた。
前2299年頃
キシュ第4王朝の王ジムダルが死去 ウシ・ワタルが継承する。
前2292年頃
キシュ第4王朝の王ウシ・ワタルが死去 イシュタル・ムティが継承する。
前2288-2224年
現在はブルックリン美術館に収蔵されている、ペピ2世とアンクネスメリラー2世の像が作られた。
前2281年頃
キシュ第4王朝の王イシュタル・ムティが死去 イシュメ・シャマシュが継承する。
前2279年
アッカド王/サルゴンが死去。 リムシュがアッカド王朝を継いだ。 リムシュ王は、父王サルゴンや甥のナラム・シンの影に隠れあまり注目されることの無い王であるが、征服王の一人であったことを示す記録はかなりある。 なお、次の王マニシュトゥシュはリムシュの兄であったが、なぜ弟であるリムシュの方が先に王となったのかは不明である。
前2278年頃
史上最も在任期間の長い君主であるペピ2世が6歳で王の座に就いた。
幼少の王に代わって実権を握ったのは、彼の母アンクネスメリラー2世と宰相のジャウ(共にクウイ家の出身)。
ペピ2世が統治を開始した。
リムシュが治世の時、ウル王カク(kaku)などに率いられてシュメール地方を中心とする大反乱が発生した。
この大反乱には他にラガシュなど他の主要都市も参加していた。リムシュはこの反乱を人工的な洪水を起こして殲滅するなどして鎮圧に成功し、王朝の基盤を固めた。
即位に伴う反乱を鎮圧した後、彼は下の海(ペルシア湾)を船で超えて遠征を行い、またエラムへも遠征を行ったという。
前2270年頃
キシュ第4王朝の王イシュメ・シャマシュが死去 シュ・イリシュが継承する。
前2269年
アッカド王/リムシュがが宮廷において部下に粘土板で撲殺される。 兄のマニシュトゥシュががアッカド王朝を継いだ。 父サルゴンや息子ナラム・シンに比較して注目されることが少ない王であるが、彼も征服者として各地に遠征を行ったとされている。 また北へ向かってアッシュール市やニネヴェ市にも痕跡を残した。後代のアッシリア王シャムシ・アダド1世の記録では、マニシュトゥシュはニネヴェの神殿を創建したとされている。
前2255年頃
キシュ第4王朝の王シュ・イリシュが死去 ナンニアが継承する。
前2254-2218年頃
現在はルーヴル美術館に収蔵されている、ナラム・シンの石碑がおそらくシッパルで作られた。
前2254年
ノアの息子ヤペテ(ヤフェト)が生まれる。
前2254年頃
アッカド王/マニシュトゥシュが宮廷で粘土板によって撲殺される。 ナラム・シンがアッカド王朝を統治。 エラム地方や、アナトリア半島南東部、地中海地方(エブラ)に遠征を行ってアムル人を討ち、サルゴンを上回るアッカド史上最大の領土を築き上げた。 彼が行った遠征は考古学史料が比較的残っており、サルゴンの遠征に比較して実証性が高い。 こうした遠征を行うために国内各地に要塞を建築し、連絡網を築いた。 しかし大幅に拡大した領土では反乱が相次いだ。記録によれば、領土各地で反乱が発生したために1年間に9回の戦闘を行ったという。 この「1年間に9回の戦闘を行った」反乱は、恐らくシュメールなど帝国の中核地帯で発生した反乱と思われる。 ナラム・シンは、この反乱の鎮圧成功を高らかに謳い上げ、以後碑文などに記す自分の名前に神を意味する発音しない限定符「ディンギル」を付けるようになる。
前2250年頃
国際層序委員会による基底年代において、ここから西暦1950年の期間が、完新世:メーガーラヤンの区分となる。
前2250年頃
フルリ人の都市国家ウルケシュ(テル・モザン遺跡)の王トゥプキシュ・エンダンの治世。
前2248年頃
キシュ第4王朝の王ナンニアは、王位を捨てて宝石商となる。 キシュ第4王朝が滅亡する。
前2240年頃
エラム王クティク・インシュシナクが即位 この王のもとでエラムはスサやアンシャンなどイラン高原南西部全域を支配下に置く。
前2234-2184年頃
中国の伝説的な王である舜の治世。
前2217年頃
アッカド王/ナラム・シンが死去。
息子のシャル・カリ・シャッリが王位を継いだ。
ナラム・シンはメソポタミア史上初めて自らを神格化した王であるが、シャル・カリ・シャッリはそれを受け継ぐ事はなかった。
彼を神とする臣下の文書が残されてはいるが、シャル・カリ・シャッリ自身が自らを神として記させた文書は現在まで確認されていない。
彼の治世には帝国各地に異民族が侵入し、その対応に追われた。具体的に記録に残っているのはアムル人、フルリ人、そしてグティ人の侵入である。
彼は西方の都市バサル(現:ジェベル・ビシェリ)でアムル人と戦って勝利し、またグティ人の王シャッラクを破るなどして帝国の維持に努めた。
特に問題となっていたのがグティ人の侵入である。
彼の時代の書簡の中には、農場主がグティ人が襲ってきたら家畜を略奪されないよう街の中に入れるようにと指示しているものもある。
更にシュメール諸都市でも反乱が発生し、彼の著しい努力も空しくアッカド王朝は弱体化の一途を辿った。
前2217-2193年
アッカドが遊牧民に侵略された。
前2215年頃
グティの軍がザグロス山脈よりメソポタミアに進出しアッカド軍を破る。 この時期、グティ人の他にアムル人やフルリ人がアッカド国内に侵入し続ける。
前2210年頃
グティ人をまとめていた指導者が、グティの国の基盤をつくる。 王の名は記されていない。
前2204年
ノアが500歳の時、息子セムが生まれる。
次の年代:
紀元前2200年〜紀元前2100年