前の年代:
紀元前300年〜紀元前250年
紀元前250年 〜 紀元前200年
孝霊天皇41年/前250年:辛亥
戦国時代の趙の公子で政治家。戦国四君の一人/平原君が死去。
秦の武将蒙驁が総帥となる。
韓の宰相を務めていた姫平が死去。秦による賊探索から逃れるために姫平の子族は、張氏に改名した。
孝霊天皇42年/前249年:壬子
秦の昭襄王が死去した事から、東周軍と韓軍が合併して、秦を攻め入った。しかし、秦の蒙驁総帥がこれを機会とし、東周・韓合併軍を強襲した。
秦の武将王齮が、東周の洛陽と韓の城皋・滎陽を占拠した。
秦が九鼎を移し、周の王畿を占拠した。
これにより、周が完全に秦に吸収されるかたちで滅亡。
孝霊天皇44年/前247年:甲寅
秦の将軍王齕、韓の上党を攻めて、太原郡を置いた。魏の信陵君が五カ国連合軍を率いて秦を攻めてきたのを蒙驁と迎え撃ったが敗れた。秦軍は河内から河外(河南の地)に退却し、その軍を解散した。
秦の武将王齮、韓の上党を攻めて、太原郡をおいた。
政が即位する。李斯を丞相として国力増強に努める。
カルタゴの将軍ハンニバル・バルカ(政治家)が生まれる( - 前183年)
孝霊天皇45年/前246年:乙卯
荘襄王が若くして死去。政、秦の皇帝に即位する。
呂不韋は仲父(ちゅうほ、父に次ぐ尊称あるいはおじという意味)と言う称号を授けられ、呂不韋の権勢はますます上がった。
秦の武将王齮、蒙驁、麃公らと共に将軍に任じられる。
孝霊天皇47年/前244年:丁巳
戦国時代の魏の公子、政治家・軍人。戦国四君の一人/信陵君が死去。
秦の将軍王齮、同僚の蒙驁が韓を攻め十三城を取るも、同年に死没。
なお、『史記』の「秦本紀」に登場し長平の戦いなどで活躍した将軍王齕は「秦始皇本紀」では一切触れられず、逆に「秦始皇本紀」で初めて現れる王齮は「秦本紀」には登場しない。遅くとも南朝宋代には王齕と同一人物である可能性が論じられており、裴駰の『史記集解』は徐広の説を引いて、「齮」字について「一に齕に作る」と述べている。
スパルタ/
共同統治者であるエウリュポン朝の王アギス4世が即位。
孝霊天皇48年/前243年:戊午
スパルタ/
アギス4世が、初期のリュクルゴスの制度を目指し、債務免除を実施。
レオニダス2世は、王位につく前、長らくセレウコス朝シリアのセレウコス2世に仕えており、オリエント式の習俗を身につけていた。そのため、レオニダス2世は質実剛健を旨とするリュクルゴス制度からの市民の逸脱を黙認し、富裕者の味方であった。彼は共同統治者のエウリュポン朝の王アギス4世の貧困にあえぐ市民のための改革に反対する。
レオニダス2世の反対により、アギス4世の制度では、土地の再分配が遅れたので、市民の反感を招く事になる。
アギス派の監督官であったリュサンドロスは、異国で育てられ、異国の妻を娶っていたレオニダス2世を「ヘラクレスの子孫たるスパルタ市民は異国の女との間に子を儲けるべからず、またスパルタより異国に移住したる者は殺害すべし」という古い法律、レオニダス2世が父の前でスパルタを破滅させるという誓いを立てたことを持ち出して弾劾した。
また、クレオンブロトス2世を説得して味方につけて、レオニダスを廃位させるように仕向けた。
レオニダス2世はアテナ神殿に逃げ込んだものの、有罪判決を受けて王位を追われる事になる。
孝霊天皇49年/前242年:己未
スパルタ/
レオニダス2世が、アルカディアに亡命。
王位にはレオニダス娘婿クレオンブロトス2世が登った。
孝霊天皇50年/前241年:庚申
スパルタ/
監督官のアゲシラオスの助力によってレオニダス2世が帰国。レオニダス2世はアギスとクレオンブロトスへの復讐に取り掛かった。
レオニダス2世がクーデターを起こす。
アギス4世はカルキオイコス神殿、クレオンブロトスはポセイドン神殿に逃げ込み、庇護を乞うたが、アギス4世をその祖母と母もろとも処刑した。
レオニダス2世は復位すると、クレオンブロトス2世へと軍を進めた。しかし、レオニダス2世の娘であり、クレオンブロトス2世の妻でもある、キロニスの説得によって、クレオンブロトス2世は命を助けられた。クレオンブロトス2世は妻子共々テゲアへと亡命した。
アギス4世の弟であったアルキダモス5世は身の危険を感じてメッセニアに亡命した。
ローマ/
アエガテス諸島沖の海戦が起こる。
この海戦では、執政官ガイウス・ルタティウス・カトゥルス率いる新しいローマ艦隊が勝利を挙げた。カルタゴは艦隊の大半を失い、新船を建造する経済的余力もなく、船員の人手を探す力も失った。ハミルカル・バルカも艦隊が無くてはカルタゴから切り離されてしまい、降伏せざるを得なかった。
ローマが第一次ポエニ戦争に勝利し、カルタゴに代わって地中海を支配する国になった。戦争の直後は、両陣営共に財政も民力も疲弊した状態だった。領土の境界線は、地中海を結ぶ直線と彼らが考えた境界線をひいて最終確定した。ヒスパニア、コルシカ島、サルデーニャ島とアフリカはカルタゴのものとして残されて、その線の北側は全てローマに引き渡された。ローマが勝利した要因は、敗北を断固として拒否し続け、完全な勝利だけを受け入れたことが大きい。さらに、共和政ローマは戦費のために個人的投資を集める力が高く、市民の愛国心を呼び起こして船と船員の資金を供給させたが、この能力も戦争の行方を決定付けた要素の一つである。カルタゴと比較すると違いは明確で、カルタゴの貴族達は、公の利益のために私有財産を危険にさらすことに対しては明らかに及び腰だった。また、第一次ポエニ戦争の結果としてローマ海軍が正式に誕生したが、それは、この後ローマが属州を拡張するために大きな力となった。
孝霊天皇51年/前240年:辛酉
スパルタ/
アギス4世の妻アギアティスは多額の財産とずば抜けた美貌を誇っていたので、レオニダス2世は無理矢理自らの息子クレオメネス3世と結婚させた。
エウリュポン朝のスパルタ王には、エウダミダス3世が即位した。
ローマ/
第一次ポエニ戦争によって、カルタゴはシチリア島をローマに割譲し、地中海における海上覇権を大きく減退させた。カルタゴはこの損失を補うため、ヒスパニア(イベリア半島)の征服に取り掛かった。ハミルカル・バルカによってヒスパニアの征服と植民地化が開始され、彼の死後は娘婿のハスドルバルが事業を継続した。
シュラクサイ/
ローマによるシチリア全土属州化の中で、シュラクサイのみはローマの同盟国として独立を保ち、ヒエロン2世の統治の下繁栄を続けた。
孝霊天皇52年/前239年:壬戌
韓の君主、桓恵王が死去。
桓恵王の子である韓王安が後を継いだ。
マケドニア/
マケドニアの王アンティゴノス2世が死去。デメトリオス2世が即位。
孝霊天皇53年/前238年:癸亥
戦国時代の楚の政治家。戦国四君の一人/春申君が死去。
呂不韋が政の生母である太后(趙姫)と密通する。
これは元々、呂不韋が商人をしていた頃から太后となる以前の趙姫を寵愛していたためであるが、趙姫が太后となってしまった今では、不義密通を危険と感じたため、嫪毐を宦官に偽装させて太后に派遣した。
太后は密通という形で嫪毐を寵愛した。
孝霊天皇54年/前237年:甲子
嫪毐と太后(趙姫)の間に、2人の子供が生まれる。
孝霊天皇55年/前236年:乙丑
太后(趙姫)と嫪毐の密通が発覚する。
これにより、嫪毐は政に対し謀反を起こした。この反乱はすぐに鎮圧され、嫪毐は車裂きの刑で誅殺された。
この時、太后との間にできた2人の子供も処刑され、太后は幽閉される事となる。
その後の調査で、呂不韋が太后に嫪毐を派遣した事も発覚した。
本来は処刑であるものの、今までの功績から、丞相職の罷免と蟄居(ちっきょ)の刑に減刑されたとされている。
※蟄居の刑とは、いわゆる軟禁の刑の事。
しかし、蟄居の刑でありながらも、呂不韋は客との交流を止める事はなかった。
そのため、秦王/政は呂不韋が客や諸国と謀って反乱を起こすのではないかと危惧する事になる。
ローマの将軍スキピオ・アフリカヌス(政治家)が生まれる( -前183年)
孝霊天皇56年/前235年:丙寅
秦の政治家。大商人/呂不韋が死去。
秦王/政が呂不韋に詰問状をだして、蜀地域への流刑を追加。
呂不韋とその一族は、蜀へ移動する事となる。
最期は自らの末路に絶望し、鴆酒を仰いで自殺したとされている。
この時、呂一族は蜀に止まり、後に劉備玄徳が興した蜀漢にて、呂の末裔である呂凱が仕えたと記録に残る。
スパルタ/
レオニダス2世が死去。次代の王にはクレオメネス3世が就いた。
クレオメネス3世は、アギス4世に習いスパルタの改革を始めた。
ギリシア/
シュキオンのアラトス率いるアカイア同盟は、ペロポネソス半島全域の統一をもくろんでいた。レオニダスの死を知ったアラトスは、国境のアルカディアの都市群を攻撃する。プルタルコスによれば、これはスパルタの衰えを推し量るための作戦だったという。
アンティゴノス朝マケドニアの影響力も削ぐようになったが、同時にスパルタの王クレオメネス3世との間に確執が生じるようになった。
孝霊天皇57年/前234年:丁卯
秦で人質になっていた、燕の太子である丹が昔親しかった政に挨拶に伺ったが、秦王政から冷遇を受けた。丹は、秦が燕にとって災いをおよぼす国だと判断し、秦から逃亡する。
中国/平陽の戦いがおこる。
桓齮が平陽に直行する。
趙が扈輒を将として平陽を救援に向かわせ、秦軍と戦う。秦軍は十万の趙兵を平陽の城外で斬首し、趙将の扈輒を討ち取る。
孝霊天皇58年/前233年:戊辰
秦が韓に侵攻。韓王安は兄弟である公子の韓非を使者として秦に派遣したが、韓非は秦に抑留される。
桓齮が宜安・平陽・武城に攻め入り、各々の将を討ち取る。
燕の太子である丹が人質になっていた秦から逃げ帰ってきた。燕が遠らからず秦によって滅ぼされる事を危惧し、始皇帝暗殺を企てる。
丹が博士の菊武に相談をしてみたところ、菊武は田光を丹に紹介した。丹は田光に相談をしてみたところ、田光は刺客として荊軻を推薦した。
しかしこの時、田光は丹が始皇帝暗殺を企てる事を想定はしていなかったため、自らが情報を漏らすわけにはいかなかった。そこで田光は、荊軻に事の次第を伝えたあと、情報を漏らさないように、自害した。
肥の戦いがおこる。
桓齮は秦軍を率いて東の上党に進軍し、太行山を越えて趙の深部に侵入し、趙軍を破って赤麗と宜安を占領する。李牧率いる趙軍と秦軍は宜安付近で対峙した。秦軍は大敗し、桓齮の率いる秦軍のうち少数は包囲から脱し、秦国へ退却するも、そこに桓齮将軍の姿はなかった。討ち死にしたとも言われている一方で、敗戦の処罰を免れるために一人で逃亡したとも言われている。
趙は秦に占領されていた土地を取り戻した。その功により李牧は武安君に封じられた。
荊軻は丹からの依頼を引き受け、丹に暗殺計画の具体的な策を示した。用心深い政に刃物が届く距離まで近くには、直接献上品を渡す事ができる距離まで近く事。それには
・燕でも最も肥沃な土地である督亢を献上。それを示すための地図を手渡しする機会をつくる
・それには、かつての秦の将軍にして、燕に逃亡した樊於期の首を差し出す事で信用を得る
というものだった。
※
樊於期に関しては、一説では233年での敗戦での処罰を恐れた桓齮が、名前を変えて燕に頼って逃亡したという説がある。
※
丹は無用な犠牲が出る事を悲しんだが、荊軻は樊於期に会う事にし、丹は暗殺のための暗器(暗殺のための道具)を探す事になった。
孝霊天皇59年/前232年:己巳
西楚の覇王/項羽が生まれる( -前202年)
後の猛将にて、その目は重瞳であったと伝えられている。
孝霊天皇60年/前231年:庚午
韓王安が秦に、南陽の地を割譲した。
この後、内史騰率いる秦軍10万が韓に攻め込み、韓王安は捕虜となる。
孝霊天皇61年/前230年:辛未
秦が韓を滅亡させる。
韓の地には、潁川郡が設置され、秦の統治下に置かれた。
ギリシア/
アカイア同盟のアラトスはペロポネソスを一つの統一体にしようとしており、それに組せぬアルカディアを略奪するなど狼藉を働いていた。こうしてアラトスはクレオメネスの出方を試し、歳も経験も足りぬ若造と彼を見くびってかかった。
しかし当時、スパルタの実権はクレオメネス王よりも、国の要所を任されていたエフォロス(監督官)たちにあったため、ラコニアとメガロポリスの国境地帯であったベルビナにクレオメネス王を派遣した。クレオメネス3世は同地を占領し、砦をめぐらせた。
孝霊天皇62年/前229年:壬申
ギリシア/
クレオメネス3世が、アカイアを攻撃し、テゲア、マンティネア、カヒュアイ、アルカディアのオルコメノスといった諸市を占領し、アイトリア同盟と同盟を結んだ。アエトリア同盟を構成するテゲア、マンティネア、カピュアイ、オルコメノスといった都市がスパルタの味方に付いた。
スパルタの監督官たちは、メガロポリスとの国境沿いにあり係争中だったアテナイオン砦を制圧するべくクレオメネスを向かわせた。これに対し、アカイア同盟は会議を開き、スパルタとの開戦を決定した。アラトスはスパルタがアテナイオンの防衛を固めていることへの報復としてテゲアとオルコメノスへ夜襲をかけたが、市内の内通者は、クレオメネスのベルビナ占領を聞いて何もしなかったため、連携がうまくいかず失敗し、夜襲の事実を悟られないように撤退した。
クレオメネスはアカイア同盟軍が夜襲を試みていたことに気づき、アラトスに遠征の目的を問いただした。アラトスが、クレオメネスのアテナイオン要塞化を止めるためだと返答すると、クレオメネスは「差し支えなければ、なぜあなたたちが松明と梯子を持ってきたのか、理由を書き送ってくれないだろうか。」と返した。
クレオメネス戦争が起こる。
クレオメネスはアルカディア内部に進出したが、アカイア同盟との戦争を恐れたエフォロスは彼に撤退を命じ、彼はそれに従った。しかしその直後にアラトスがオルコメノスの北のカヒュアイを占領したため、再びクレオメネスを出撃させた。クレオメネスはアルカディア中央部のメテュドリオンを占領し、アルゴリス地方を荒らしまわった
マケドニア/
マケドニアの王デメトリオス2世が死去。アンティゴノス3世が即位。
孝霊天皇63年/前228年:癸酉
ギリシア/
5月、アカイア人はストラテゴスとしてアリストマコスを任じ、彼を歩兵20000と騎兵1000からなる軍と共に差し向けた。それに対してスパルタ軍は5000人を切る数であった。両軍はパランティオン近郊で遭遇した。戦う意思を持っていたクレオメネスをアリスマコスに同行していたアラトスは恐れ、アリストマコスに注意を呼びかけて自らは戦列から身を引いた。この数の差ではスパルタ軍には勝てないというのがアラトスの計算であり、スミスも2万人のアカイア人では5000人のスパルタ人に敵わないとしている。
このことによってアラトスは味方からは非難され、敵からは嘲弄された。
スパルタ/
エウリュポン朝の王エウダミダス3世が死去。
孝霊天皇64年/前227年:甲戌
ギリシア/
5月、アラトスはストラテゴスに選出されるとエリスを攻撃した。クレオメネスはエリスの援助の要請に応じて出撃した。彼はリュカイオン山近くで作戦を終えて引き上げているアカイア軍に奇襲を仕掛け、多数を殺傷した。この戦いでアラトスも戦死したという誤報が流れたが、アラトスはそれを逆手に取り、残余の兵と共にマンティネイアへ行き、敵襲を全く予想していなかったマンティネアを易々と占領した。
これによりスパルタ陣営には厭戦気分が高まり、クレオメネスの戦争遂行に反発が出るようになった。
スパルタの共同統治者であるエウリュポン朝のエウダミダス3世が死去していた。
クレオメネス3世は、マンティネア陥落で気落ちしたスパルタ人を元気付けるために叔父のアルキダモス5世をメッセニアから呼び戻し、王位を継がせる。
ところが、アギスを殺した者たちは報復を恐れてアルキダモスを暗殺した。
それに怯まず、クレオメネスはエフォロスに賄賂を渡して今一度の遠征の評決を下させた。そして彼はメガロポリス領に進撃し、レウクトラ(スパルタが覇権を失ったレウクトラの戦いのあったボイオティアのレウクトラではない)を占領した。そして、すぐにアラトス率いるアカイアの援軍がやって来たため、両軍は激突した。当初アカイア軍はスパルタ軍を押し、追撃を行った。しかし、アラトスは深い峡谷のために追撃をやめたが、メガロポリスの将軍リュディアダスはこれを不服として自ら騎兵部隊を率いて敵に追い討ちをかけた。しかし彼は木々や掘割、塁壁などの障害物によって思うよう身動きが取れないところに入ってしまったため、それを見たクレオメネスはタラスとクレタの傭兵部隊を放って逆襲を仕掛け、リュディアダスを戦死させた。これにより勇気を得たスパルタ軍は反撃に転じ、アカイア軍の全軍を壊走させるに至った。その後クレオメネスはリュディアダスの亡骸を丁重に扱い、メガロポリスの城門の前まで送り届けた。
この勝利で勢いを得たクレオメネスは自らの計画を実行に移そうとした。彼はエフォロス制の廃止、財産の共有、そしてギリシアの覇権国としての再浮上という計画を話し、それに賛同したメギストヌウス(再婚した母の夫)他数名を仲間に引き入れた。そしてクレオメネスはその前段階として彼の計画に反対しそうな者たちを引き連れてアルカディアへ遠征し、彼らをわざと疲れさせて彼らの方から同地への残留を希望するよう仕向け、邪魔者を排除した。帰国するや否やクレオメネスは志を同じくする者たちを差し向け、一人を除いて会食中の5人のエフォロスを皆殺しにした。ただし、エフォロスの一人アギュライオスは命からがら神殿に逃げ込んだため、クレオメネスは彼を見逃してやった。その直後、クレオメネスは本格的な改革を始めた。彼は全ての土地の共有化、債務の帳消しを行った。さらに、外国人やペリオイコイのスパルタ市民への門戸を開いて市民即ち兵数を増やし、4000人のペリオイコイを重装歩兵として訓練し、マケドニアのサリッサを取り入れるなどした。そしてクレオメネスは自ら範となりつつ、リュクルゴスの立法に遡るスパルタのかつての実質剛健を旨とする伝統を蘇らせた。また、弟のエウクレイダスを共同統治者として王位につけ、単独支配のイメージを和らげた。
王の政治権力を妨害する監督官たちの排除に成功したクレオメネスは、リュクルゴスという者を立法者に取り立て、自分の猛烈な改革遂行を認めさせた。まず彼は自身の持つすべての土地を国家に納めた。彼の義父や友人たち、そして残る市民も後に続いた。その後クレオメネスは、国のもとに集めた土地を、4000人の新市民(アギスの改革の際には4500人)に均等に再分配した。その半分は亡命していたかつての市民で、残り半分の大部分はスパルタ軍と共に戦った傭兵であった。また中には、スパルタに貢献したペリオイコイも含まれており、彼らは土地を与えられ市民の仲間入りをした。この4000人の増員により、減少していたスパルタ市民の層は厚みを取り戻した。
ヘイロータイについては、もともと持ち分地ごとに毎年の収穫高に左右されていた税収の量を、一定の量に定めさせた。またクレオメネスは4,000人の重装歩兵を訓練し、かつてのスパルタの軍事と社会規律を復興した。
スパルタ市民の子どもは厳しいアゴーゲー(スパルタ教育)を課され、大人の市民も訓練させられ、普段から軍事的な枠組みの共同体で暮らすことを求められた。さらに、クレオメネスは新設した軍を、一世紀前にカイロネイアの戦いでアテネ・テーベ軍を破ったマケドニア軍の方式に習わせると宣言した。例えば彼が導入したマケドニア式のサリッサ(5メートルの長槍)は、その後2年間のスパルタの戦争で猛威を振るった。改革の仕上げに、クレオメネスはエウリュポン朝の王統に弟エウクレイダスを据え、スパルタの二王をアギス朝出身者で独占した。
孝霊天皇65年/前226年:乙亥
元韓の都である新鄭で、韓の元貴族たちによる反乱が発生。
しかし、秦はこれを鎮圧し、韓王安が処刑された。
ギリシア/
マンティネア市民が街からアカイア同盟の守備隊を追い払ってくれるようクレオメネスに要請してきた。クレオメネスは兵を率いて夜にマンティネアに忍び込み守備隊を駆逐すると、そのまま近くのタゲアに進軍した。さらにスパルタ軍はそこからアカイアへ進撃した。同盟軍との会戦を求めていたクレオメネスはディメに進軍し、アカイア軍の主力と対峙した。この戦いでスパルタ軍はアカイア同盟のファランクスを壊滅させ、多くの敵兵を殺し捕虜とした。さらにクレオメネスはLasiumの街を征服し、エリスに返還した。
しかし寡頭制を取るスパルタでは、クレオメネスの改革への反発があった。また彼の快進撃は、逆に彼に対する敵意がペロポネソス半島中に広まることにつながった。クレオメネスは、コリントスなど戦略的要地を征服していった。クレオメネスの改革は打ち負かした人々に適用されることはなかったが、それでも彼の軍事的成功に大きく貢献していた。実際、一部のアカイア人はクレオメネスの改革に含まれる債務免除や土地の均等分配に憧れていた。しかしクレオメネスは征服した人々に関心を寄せなかった。
クレオメネスは捕虜や占領地を返す代わりにアカイア同盟の主導権を渡す条件で講和を持ちかけ、アカイア人もそれに応じた。彼らはアルゴスの南のレルナに会議のためにクレオメネスを招いたが、クレオメネスは強行軍をして水を飲みすぎたため、吐血し、声も出せなくなったため、会議は取りやめになり、彼はスパルタに戻った。
クレオメネスはアラトスと交渉を始めたものの、両者間の憎悪感情があまりに大きく、合意に至ることはできなかった。
一方、アラトスは33年にも及ぶ自分の地位と名誉が若造に横取りされそうになっているのに嫉妬し、かつての仇敵アンティゴノス3世をペロポネソスに招き、その力を借りてクレオメネスを倒そうとした。アラトスは救援の代わりにアクロコリントスの支配権をアンティゴノスに譲ると約束した。そして、アラトスはクレオメネスに無礼な行いをし、クレオメネスは今一度アカイア人に宣戦した。
しかし、その時アカイア同盟は内部分裂の危機にあった。同盟離脱の意向を持った都市がいくつも現れ、マケドニア人を呼びこんだアラトスに憤りを感じる者もいたのである。この機に乗じてクレオメネスはアカイアに侵攻し、まずアカイア東部のペレネを強襲して占領し、続いてアルカディア北辺のペネオスとペンテレイオンを味方につけた。一方アカイア人はその時コリントスとシキュオンで裏切りの気配があったのでアルゴスからそちらへ軍を送っていた。
その時アルゴスではネメア祭が開催されており、クレオメネスは祭りで大勢の人がいる時にそこを襲えば容易にアルゴスを占領できると考えた。彼は夜中に劇場を見下ろすアスピス地域に軍を向わせてそこを占領し、誰一人立ち向かう者もなく易々とアルゴスを占領した。アルゴスはスパルタの駐屯軍を受け入れ、20人の市民を人質として差し出し、スパルタの同盟国になった。これまでアルゴスを味方に引き入れたスパルタの王はおらず、名将として名高いエピロス王ピュロスでさえアルゴスを占領できず、同地での戦いで敗死したことから、アルゴス占領によってクレオメネスの名声と評価は一気に高まった。そして、アルゴス陥落のすぐ後にはクレオナイとフレイウスがクレオメネスになびいた。
ローマ・カルタゴ/
カルタゴの将軍ハミルカル・バルカの娘婿ハスドルバルが、ローマとの間にエブロ川以北には進出しない旨の誓約を交わした。
孝霊天皇66年/前225年:丙子
ギリシア/
その頃アラトスはコリントスで親スパルタの人々の審問などを行っていたが、この知らせを聞くやコリントスもがスパルタになびくと思い、市民を評議場に集めて自分はその隙にシキュオンへと逃げ帰った。アラトスの予想は的中し、コリントス人は間もなく市をクレオメネスに明け渡した。この知らせを聞いたクレオメネスはコリントス人がアラトスを逮捕しなかったことを責め、使者としてメギストヌウスを送り、未だアクロコリントスにはアカイアの守備隊が残っていることからこれを明け渡せば多額の金を渡すことを知らせた。
その後、クレオメネスはトロイゼン、エピダウロス、ヘルミオネを味方につけ、コリントスにやって来た。そしてアクロコリントスを包囲・封鎖し、アラトスの許へアクロコリントスをアカイアとスパルタとで共同で管理すること、これを受ければアラトスに彼がエジプト王プトレマイオス3世より受けている二倍相当の年金を与えるとの約束を携えて使者を送った。ここでアラトスはアクロコリントスをスパルタに渡すか、対クレオメネス戦への援助の見返りとしてアンティゴノス3世に渡すかの選択を迫られた。彼は後者を選び、自身の息子を含めた人質をアンティゴノスに送り、アカイア人を説得してアクロコリントスのアンティゴノスへの引渡しを決議させた。これを受け、クレオメネスはシキュオンの領地を荒らしまわり、コリントスにあったアラトスの財産をコリントス人たちが彼に献上したのでそれを受け取った。
孝霊天皇67年/前224年:丁丑
ギリシア/
アンティゴノスはアイトリア人がテルモピュライで彼の通過を阻止しようとしたためにエウボイアを経由してペロポネソスへ迫った。ゲラネイア峠を超えつつある敵に対し、クレオメネスは正面から敵のファランクスと戦うよりは地の利を活かして戦おうと考え、イストモスに陣を張り、アクロコリントスとオネイアの山々の間に柵と塹壕を設けて防衛線を敷いた。前進を阻まれたアンティゴノスは夜間にレカイオンを経由して突破しようとしたが撃退され、多数の戦死者を出した。万策尽きたアンティゴノスの許へアラトスからの使者がやってきて、アルゴスがスパルタから離反しようとしている旨を伝え、援軍を求めてきた。アンティゴノスはアラトスに1500の兵士を貸し与え、アラトスは海路でエピダウロスへと向った。反乱の指導者アリストテレス(哲学者のアリストテレスとは別人)はアラトスの到着を待たずにアクロポリスのスパルタ人守備隊に襲い掛かり、続いてシキュオンよりティモクセノス率いるアカイア軍が駆けつけた。
これを知ったクレオメネスは2000人の兵士を与えてメギストヌウスを直ちにアルゴスへと向わせた。しかし、メギストヌウスは戦死し、クレオメネスはアルゴスを失えば自軍は退路を絶たれ、ラコニアは敵の手に落ちると考え、コリントスから撤退し、自らアルゴスへと向った。クレオメネスがコリントスを発ったすぐ後にアンティゴノスはコリントスに入城して駐屯軍を置き、続いてアルゴスへと向った。アルゴスを攻撃中のクレオメネスはアンティゴノス軍がやってくるのを見ると撤退に転じ、アルゴスを放棄した。この事件を受けてすぐ、あるいは少し時間を置いてクレオメネスに味方した都市はことごとく彼から離反し、アンティゴノスに与した。「こうして彼は、最短の時日で最大の権力を手中に収め、もうすこしというところ、せめてはもう一年もかければ、申し分なくペロポネソス全体の主権者となれたのであったのに、たちまちにして、ここに再び、すべてを失った」。
さらにテゲアにて、最愛の妻アギアティスの死の知らせが撤退中のクレオメネスに追い討ちをかけた。彼は悲しみに打ちひしがれつつも、表向きは平然とした態度を取り、夜明けと共にテゲアを発ち、スパルタに戻った。
クレオメネスの帰国後、エジプトのプトレマイオス3世が母と子を人質として差し出すことを条件にクレオメネスに財政援助を申し出た。プトレマイオスはこれまではアカイア同盟を支援していたが、アンティゴノスを抑えるにはクレオメネスの方が都合が良いと考え、政策を転換したのである。クレオメネスは迷ったが、母クラテシクレイアは欣然としてそれを受け入れたので、母と子供たちをエジプトに送った。
孝霊天皇68年/前223年:戊寅
政、秦の最大の敵であった楚を滅亡させる。
ギリシア/
一方、アンティゴノスはアカイア人と共にテゲアを包囲戦の末占領し、オルコメノスおよびマンティネアを荒らし回り、ヘライアとテルプサを降伏させ、アカイア同盟の会議に出席するためにアイギオンへと向った。このため、クレオメネスの支配領域はラコニアだけになってしまった。そこで彼は戦力増強と金策のためにヘイロータイのうち5アッティカ・ムナを納入した者を自由民として認め、500タラントンの金と2000人の兵士を得た。彼は彼らをマケドニア式に武装させ、アンティゴノスの白楯隊への対抗部隊とした。その後、彼はメガロポリスを占領しようと考え、兵士には五日分の食料を持たせてセッラシアへと向かい、あたかもアルゴリス地方へと向わんとしているように見せかけた。そしてメガロポリス領へ転進し、部下のパンテウスに2タグマの部隊を授けてそこが手薄になっているとの情報が入っている二つの塔の間の城壁の占領を命じ、本隊はゆっくりと進めた。パンテウスは首尾よく任務を果たし、多くの住民を逃がしたもののメガロポリスを占領した。
クレオメネスは最初はアカイア同盟からの脱退を条件にメガロポリス市には手をつけず、そのままにしておいたが、メガロポリス人のフィロポイメンがアカイア人に味方することを主張してクレオメネスを弾劾し、クレオメネスから降伏する代わりに市には手をつけないという条件を引き出したメガロポリス市民のリュサンドリダスとテアリダスを追い出したため、怒ったクレオメネスは市を徹底的に略奪し、破壊し、帰国した。
クレオメネスがメガロポリスを占領した頃、アイギオンでアカイア同盟の会議が催されており、アンティゴノスもそれに参加していた(紀元前224年9月)。彼はそこで自分の処置について説明し、これからの戦争をどう戦うかについて話し合い、そして全同盟軍の総司令官に任命された。ここで彼はピリッポス2世が設立したヘレネス同盟を「諸同盟の同盟」の名で復活させ、ギリシアの大部分の都市はそれに加入した。しかし、メガロポリスの占領とそれに続く破壊がアカイア人の耳に入ると、それはアカイア人たちに大きな衝撃を与えた。アンティゴノスはメガロポリス救援に取り掛かろうとしたが、彼の軍は既に越冬のため各ポリスに分散していて迅速には動けないため、ひとまず自身は越冬のために少数の手勢と共にアルゴスへと向った。
孝霊天皇69年/前222年:己卯
ギリシア/
クレオメネスは次の手を打った。すなわち、彼はすぐには動けない敵の状況を見越してアルゴスへと向った。もしアンティゴノスが手向かってくれば一戦交える腹積もりであり、もしそうでないならアルゴスを助けられなかったという事実によってアンティゴノスへの信用を失わせ、彼とアルゴスの仲を裂けると考えた。事はクレオメネスの予想通りに進んだ。国土が荒されるのを見たアルゴス人たちはアンティゴノスの許に押しかけて戦いを要求したが、アンティゴノスは遂にクレオメネスの挑発には乗らなかった。クレオメネスは城壁の前でアンティゴノスを散々愚弄嘲笑した後、帰国した。
夏、アンティゴノスはマケドニアより軍勢を集め、アカイア軍と合流し、ラコニア侵攻を企てた。ポリュビオスによればその陣容は以下の通りである[9]。マケドニア軍は重装歩兵10000人、軽装歩兵3000人、騎兵300騎、それに追加してアグリアネス人とガリア人各1000人、歩兵3000人と騎兵300騎から成る傭兵、アカイア軍は歩兵3000人と騎兵300騎、マケドニア式に武装したメガロポリス軍の1000人、ボイオティア軍は歩兵2000人と騎兵200騎、エピロス軍は歩兵1000人と騎兵50騎、イリリア人1600人。計歩兵28000人と騎兵1200騎。
セッラシアの戦い
対するクレオメネスはラコニアに入る全ての道の守りを固め、自らは20000人の軍を率いてセッラシアへと向い、両軍はセラシアにて激突した。この戦いでスパルタ軍は、スパルタ市民6000人中200人を残してことごとく戦死するという決定的な敗北を喫し、クレオメネスはスパルタへと逃げ帰った。
この時、エウリュポン朝の王統を継いだエウクレイダスも戦死したと言われている。
スパルタに帰国したクレオメネスは市民たちに抵抗せずにアンティゴノスに降伏するよう命じ、自らは捲土重来を期してエジプトへと亡命した。その後、スパルタに至ったアンティゴノスはスパルタとその市民を寛大に扱い、エフォロス制を復活させるなどしてスパルタをクレオメネスの改革前の状態に戻した。三日間スパルタに留まった後、マケドニアにイリリア人が侵入したとの知らせを受けたアンティゴノスは帰国した。
エジプトの王プトレマイオス3世エウエルゲテスは、亡命してきたクレオメネス3世を厚遇した。
スパルタ/
クレオメネス3世が亡命後、アギス朝で空位となる。
エジプト/
プトレマイオス3世エウエルゲテスが死去。プトレマイオス4世フィロパトルが即位。
跡を継いだプトレマイオス4世はクレオメネス3世を無視したばかりでなく、次第に彼を軟禁状態に置くようになった。
孝霊天皇70年/前221年:庚辰
政、中国を統一する。
自ら皇帝(初めての皇帝なので、始皇帝という)を名乗った。この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものである。
文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設した。
万里の長城の建設は主に農民を使役して行われたが、過酷な労働と極度の法治主義に国内は不満が高まり、反乱の芽を育てた。
匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。
このとき、南方には、南海・象(しょう)・桂林の3つの郡が置かれた。これは、中国王朝によるベトナム支配の始まりでもある。
マケドニア/
マケドニアの王アンティゴノス3世が死去。
イリュリアの諸都市との戦闘中に戦死した。部下を激励していて叫び続けている時に血管が切れたためと言う。
ピリッポス5世が即位する。
未だ歳若い王であったが、マケドニア北部からのダルダニ人の進攻を食い止めるなど統率力を見せた。
ローマ/
ハスドルバルが暗殺されると、ハミルカル・バルカの息子ハンニバルが後継者となった。ローマの伝記作者に拠れば、ハンニバルは幼い頃からローマに対する憎悪を教え込まれ、攻撃の機会を狙っていたという。
孝霊天皇71年/前220年:辛巳
秦の始皇帝政が、天下巡遊を始める。
マケドニア/
ギリシアで内紛が生じるとピリッポス5世の扇動に応じる形でヘレネス同盟の軍がコリントに集結、同盟の主導権を握った彼はアイトリア、スパルタ、エリスに対して軍事行動を起こす。この一連の行動により彼はギリシアでの指導的な立場を確立し、ギリシア外でもその名が知られるようになった。
エジプト/
アルシノエ3世がプトレマイオス4世と結婚。彼女は政治にも積極的に参加した。
腐敗しつつあった宮廷改革に取り組む姿勢を見せたが、夫が消極的であったため成功しなかった。
ギリシア/
ギリシアで内紛が発生。
孝霊天皇72年/前219年:壬午
秦の始皇帝による天下巡遊は、咸陽→嶧山(山東省聊城市)→泰山(山東省泰安市)→黄(山東省竜口市)→腄(山東省煙台市)→成山(山東省文登市)→之罘(中国語版)(山東省煙台市)‐瑯琊(琅邪、山東省諸城市)→彭城(江蘇省徐州市)→衡山(湖南省湘潭市)→南郡(湖北省南部)→湘山祠(湖南省湘陰県)→武關(陝西省丹鳳県)→咸陽の順まで進む。
一説によれば、泰山で自らの不老不死を祈る儀式を執り行ったとされている。
徐福が、秦の始皇帝に東方に不老不死の霊薬がある事を具申する。
始皇帝が不老長寿の仙薬を求め、世界中に調査団を派遣する。
徐福は始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出する。
この徐福の足取りは、東アジア各地に残っている。
司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衡山列伝」によれば、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったと記述されている。
出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説あるが、河北省秦皇島、浙江省寧波市慈渓市が有力とされている。
途中、現在の韓国済州道西帰浦市(ソギポ市)や朝鮮半島の西岸に立寄り、日本に辿り着いたとされる。
張良子房、倉海君という人物に出会い、その人物と話し合って屈強な力士(窮奇)を借り受ける。
ローマ/
ハンニバルはサグントゥムを攻撃した。サグントゥムはエブロ川以南の都市であったが、ローマとの同盟を結んでいたため、ローマは攻撃停止を求める使節団をカルタゴに派遣した。しかし、両者が交渉をしている間にサグントゥム陥落の一報が到着、クィントゥス・ファビウス・マクシムスは使節団を代表して宣戦を布告した。
ローマとカルタゴとの間に第二次ポエニ戦争始まる(‐紀元前201年)。
カルタゴ側の将軍ハンニバル・バルカはイタリア半島の大部分を侵略し、多大な損害と恐怖をローマ側に残したため、この戦争はハンニバル戦争とも称される。
スピキオとハンニバルの戦いは有名である。
ハンニバルはサグントゥムを攻撃した。サグントゥムはエブロ川以南の都市であったが、ローマとの同盟を結んでいたため、ローマは攻撃停止を求める使節団をカルタゴに派遣した。しかし、両者が交渉をしている間にサグントゥム陥落の一報が到着、クィントゥス・ファビウス・マクシムスは使節団を代表して宣戦を布告した。
ローマを屈服させるにはイタリア本土を直接攻撃するしかない。しかし、制海権がローマに握られている以上、海上からの侵攻は困難である。さらにローマはカルタゴの侵入が予想されるイタリア西部、南部に兵力を配置していた。ここでハンニバルはアルプス山脈を越え、ローマの防備の薄い北方から侵攻するという前代未聞の発想に至る(ハンニバルのアルプス越え)。
エジプト/
セレウコス朝シリアのアンティオコス3世(大王)との第四次シリア戦争が始まる。
クレオメネスは友人たちと図って、脱出と反乱の扇動を試みた。しかしアレクサンドリア市民がなびかないと悟ると、クレオメネスは再び捕らえられる前に自殺した。
スパルタ/
監督官によって王に選ばれ、アゲシポリス3世が即位。また、共同統治者として、リュクルゴスも即位する。
リュクルゴスは精力的にメッセニア、アカイア同盟、そしてその争いに介入してきたマケドニア王国と戦う。
リュクルゴスがメガロポリス領のアテナイオンを包囲。
孝霊天皇73年/前218年:癸未
張良子房、下邳にて黄石公とであり、太公望兵書を授かる(伝説)。
スパルタ/
リュクルゴスがメッセニア、続いてテゲアに攻め込んだが、大した成果もなく戻った。しかし、歩兵2,000と騎兵200からなるメッセニア軍がラコニアとアルゴスの境まで接近してくると、リュクルゴスはそれを迎え撃って敗走させた。彼は余勢を駆ってペロポネソスにいるマケドニア王ピリッポス5世と戦おうとし、アミュークライ(スパルタ市の南)へと向かった。そこでリュクルゴスはエウロタス川を挟んだアミュクライの対岸のメネライオンに2,000を切る兵士と共に着陣し、残りの部隊はのろしが上がれば出撃するよう指示してアミュクライに残した。北進したピリッポスは傭兵、盾兵、イリュリア人の部隊を率いて川を渡り、リュクルゴスの拠る丘に攻撃をかけた。当初ピリッポスは傭兵だけを戦わせ、この時はリュクルゴスは優勢に戦ったが、ピリッポスが次いで盾兵とイリュリア人と順次戦力を投入すると、リュクルゴスはその二倍の兵力差の前に押し潰され、敗走した。スパルタ軍は数百人の戦死者とそれを上回る捕虜を出した。
ローマ・カルタゴ/
5月、弟のハスドルバルにヒスパニアの統治を任せたハンニバルは、カルタゴ・ノヴァ(現カルタヘナ)を進発し、海岸線沿いに南フランスを進んだ。ローヌ川での戦いを経て9月、ハンニバルは約40,000名の兵士と30頭の戦象を率いてアルプス越えに挑んだ。なお、この際にカルタゴ軍が辿ったルートの詳細は不明であり、現在でも諸説分かれている。9月のアルプスはすでに冬季といってよく、ケルト人の部族との戦いもあり、大軍での越山は困難を極めた。イタリアに到着した際のカルタゴ軍の兵力は26,000名(歩兵20,000名、騎兵6,000名)、戦象はわずか3頭となっていた。
カルタゴ軍がイタリア北部に現れたという知らせはローマに大きな衝撃を与えた。元老院は執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオに2個軍団を与え、急遽迎撃に派遣した。
11月、ティキヌス川付近で両軍の指揮官が直接指揮する騎兵同士が会敵し、そのまま戦闘になった。精強なヌミディア騎兵を中心とするカルタゴ軍がローマ騎兵を一蹴し、指揮官スキピオも負傷した(ティキヌスの戦い)。スキピオはピアチェンツァまで軍を後退させ、もう1人の執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスと彼の率いる軍団の合流を待った。カルタゴ軍は南進し、トレビア川を挟んでローマ軍と対峙した。
12月18日、ハンニバルは騎兵によってローマ軍を対岸に誘引し、さらに林の中に埋伏させた弟マゴの指揮する騎兵にローマ軍の後方を奇襲させ、大損害を与えた(トレビアの戦い)。
この勝利はハンニバルの名声を大きく高めた。ローマに敵対的だったガリアの部族はハンニバルを支持し、彼らの合流によってカルタゴ軍は一挙に50,000まで膨れ上がった。
前218年頃
徐福が日本に到着する。日本各地沿岸部に徐福の伝承が残っている事から、徐福は海路を通じて日本各地を巡った事が想定される。
第2回巡遊で一行が陽武近郊の博浪沙という場所を通っていた時、突然120斤(約30kg)の鉄錐が飛来した。これは別の車を砕き、始皇帝は無傷だった。この事件は、滅んだ韓の貴族だった張良が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった。この事件の後、大規模な捜査が行われたが張良と勇士は逃げ延びた。
張良は逃亡以後、一時的に下邳を名乗った。
孝霊天皇74年/前217年:甲申
スパルタ/
リュクルゴスが革命を目論んでいるという噂が広がったため、リュクルゴスはアイトリアへと逃亡した。しかし、後に噂は嘘であることが判明したため、彼は呼び戻された。その後、彼はアイトリアのピュリアスと手を結び、メッセニアに同時攻撃を仕掛けようとしたが、ピュリアスが早々と敗退したために計画は失敗する。
エジプト/
第四次シリア戦争のラフィアの戦いにおいて、エジプト原住民を主力に取り込んだエジプト軍が勝利し、コイレ・シリア周辺の確保に成功した。ラフィアの戦いにおいて原住民が勝利に貢献したことで、支配層(マケドニア人、ギリシャ人)は原住民の重要性を認識し、以降のプトレマイオス朝は彼らへの配慮を強めざるを得なくなる。
アルシノエ3世も歩兵隊、騎兵隊を率いてセレウコス朝のアンティオコス3世との間で行われたラフィアの戦いにも参加した。
マケドニア/
ギリシアで内紛が生じるとピリッポス5世の扇動に応じる形でヘレネス同盟の軍がコリントに集結、同盟の主導権を握った彼はアイトリア、スパルタ、エリスに対して軍事行動を起こす。この一連の行動により彼はギリシアでの指導的な立場を確立し、ギリシア外でもその名が知られるようになった。
ローマ・カルタゴ/
元老院はガイウス・フラミニウス、グナエウス・セルウィリウスを執政官に選出、新たに4個軍団50,000名を動員した。両執政官はそれぞれ2個軍団を率いて北上し、分散してカルタゴ軍を待ち構えたが、ハンニバルは彼らの予想を裏切り、アペニン山脈を越えて南下した。フラミニウスはこれを追撃、セルウィリウスとの挟撃を意図していたが、ハンニバルは逆に各個撃破を狙っていた。カルタゴ軍はトラシメヌス湖畔の隘路と丘陵を利用して、進撃して来たフラミニウス軍を伏撃、多大な損害を与えた(トラシメヌス湖畔の戦い)。こうした戦勝の中でローマ本軍とその捕虜には厳しく接する一方、同盟都市の捕虜は丁重に遇してローマからの離反を促すメッセージを託して即時釈放するなど、「戦勝を材料として同盟都市を離反させ、その上でローマを滅ぼす」という戦略の元で工作を重ねた。
3度の敗北を喫したローマはクィントゥス・ファビウス・マクシムスを独裁官に選出し、彼に一切の権限を委ねた。ファビウスはハンニバルとの正面対決を避け、カルタゴ軍の消耗を待つ持久戦をとった。しかし、ハンニバルによってイタリア全土が略奪にさらされると、ファビウスの迂遠な戦略は批判を招き、「クンクタトル(ラテン語でぐず、のろまの意)」というあだ名がつけられた。ファビウスの任期が切れると、元老院は決戦を望む声を反映し、ルキウス・アエミリウス・パウルスとガイウス・テレンティウス・ウァロを執政官に選出した。両名は80,000名の軍団を率いてハンニバルの迎撃に向かった。
孝霊天皇75年/前216年:乙酉
マケドニア/
ギリシアでの地位を確立したピリッポス5世はやがてアドリア海湾岸部でのローマの影響力を阻害しようと画策する。まず彼は海路よりイリュリアに進攻し、初回はうまくいかなかったものの再度進攻して成功を収め、イリュリアを支配下にする。
ローマ・カルタゴ・カプア/
8月2日、アプリア地方のカンナエ近郊で両軍は対峙、当日の指揮官であるウァロが決断し、ローマ軍約80,000(うち10,000名が陣地に残留)はカルタゴ軍約50,000に決戦を挑んだ。戦闘序盤でカルタゴ軍左翼の騎兵はローマ軍右翼の騎兵を撃退。続いてローマ軍後方を迂回して反対側の翼へ回り込み、右翼の騎兵とローマ騎兵を挟撃した。ローマ軍中央はカルタゴ軍中央に猛攻撃を加えていたが、戦闘前にハンニバルが弓なりに歩兵戦列を配置していたため、徐々に押し込まれながらも持ちこたえていた。カルタゴ軍歩兵戦列の両翼に配された古参のアフリカ人傭兵は互角の戦いを繰り広げており、ローマ軍中央はV字になりつつあった。そこへローマ騎兵を撃退したカルタゴ騎兵が、歩兵戦列の後方に回り込み、完全な包囲態勢が完成した。恐慌状態に陥ったローマ軍は密集し、中央で圧死が発生、さらに外周から徐々に殺戮され、突破口を開くこともできずに殲滅された。ローマ軍の損害は、死傷60,000名、捕虜10,000名という破滅的なものであり、執政官パウルスと約80名の元老院議員も戦死した。この戦いは、完全包囲を成功させた最初の戦例であり、さらにまた自軍に倍する敵軍を包囲殲滅した稀有な戦例である。ハンニバルの傑出した軍才を証明するものといえるだろう(カンナエの戦い)。
カンナエの戦いの勝利により、ハンニバルは戦略的に重要な戦果を得ることができた。いくつかの都市国家や部族はローマから離れたが、それにはカンパニアのアテラ、カラティア)、アプリアの一部、サムニウム人(ペントリ族を除く)、ブルッティ族、ルカニ族、ウゼンティ族、ヒルピニ族、コンパサ(現在のコンツァ・デッラ・カンパーニア)、マグナ・グラエキアのギリシャ人都市国家ではタレントゥム(現在のターラント)、メタポントゥム、クロトーン、ロクリ、加えてガリア・キサルピナ全土等が含まれる。ネオポリス(現在のナポリ)はローマとの同盟関係を続けた。
一方、ローマはカルタゴとの戦いで壊滅的な大敗北に絶望していた。ローマ人は神に助けを請い、人身御供を捧げることにした。数人の奴隷が殺され、フォルムに埋められた。これはローマにおける最後の人身御供として記録されている。元老院はファビウスの考えが正しかったことを悟り、ファビウス(この頃には、クンクタトルの意味が『ぐず』より前向きな意味に変化したとも言われ、『ローマの盾』とも言われた)、とマルクス・クラウディウス・マルケッルス(ファビウスに対し『ローマの剣』と呼ばれた)を執政官として態勢の立て直しを図った。
ハンニバルは、兵の一部を弟のマゴ・バルカに与えてブルティウムに向かわせ、その地域の諸都市・部族のローマからの離脱とカルタゴへの服従を誓わせ、それを拒む場合には攻撃した。
ハンニバル自身は軍の大部分を率いてカンパニアに向かい、カプアとの間にローマとの離脱交渉を行った。カプアはローマに次ぐ第2の都市であり、この頃から100年ほど前の紀元前312年にはアッピア街道でローマと結ばれており、依然として重要性が高かった。歴史家のティトゥス・リウィウスによると、100人以上のカルタゴ人が街に入り、カプア側の代表であるパクウィウス・カラウィウスとの交渉を行った。
カンパニア人達は、ローマの知事だけでなく何人かのローマ市民を保護を名目にして逮捕し、浴場に監禁した。その後浴室の温度を異常に上げたため、これらの人々はみな死亡した。ハンニバルとの同盟に反対した少数の人々は追放され、キュレネに到着した時点でプトレマイオス朝のファラオであるプトレマイオス4世に保護され、ローマに送り返された。
一方、ハンニバルはカプアに入城し、指導者や裕福な市民の歓迎を受けた。その中の1人がハンニバルを襲撃しようとしたが、直ちに捕らえられて殺された。ハンニバルは元老院議員を召集して、カルタゴとの同盟関係を結んだことに感謝し、戦闘が起こった場合はカプアを防衛することを約束した。
ハンニバルはカプアとの同盟を結んだ後にカンパニアでの作戦を再開した。ネオポリスの攻略は失敗に終わったが、続いて無抵抗での降伏を期待して軍をノラに向けた。しかし、ハンニバルの到着前に法務官(プラエトル)マルクス・クラウディウス・マルケッルスが先に街に入っておりハンニバルを攻撃してきた。
第一次ノラの戦いが起こる。
マルケルスはノラの救援に赴き、バンディウスという当地の名士を味方につけたが、ノラにはいまだハンニバルに味方する者も多くいた。彼らはローマ軍がハンニバルと交戦するために町から出撃すると、後に残された荷物を盗むつもりであった。そこでマルケルスは軍を場内に置き、輜重部隊を城門の傍らに配置し、ノラの住民には城門に近づかないよう布告し、荷物を盗まれないようにした。
ハンニバルがやってくると、マルケルスは自分が陣取っていた城門を開けると騎兵を率いて出撃し、続いて別の城門からも歩兵部隊を出撃させた。それに対し、ハンニバルは部隊の一部を割いてそれに当たらせた。さらに第3の門より3つ目の部隊が出てきたため、不意を突かれたカルタゴ軍は混乱に陥り、退却した。プルタルコスによれば、この戦いでカルタゴ軍は5000人を失ったのに対し、ローマ軍の戦死者は500人未満であった。
マルケッルスは第一次ノラの戦いで勝利を収めたことで、ハンニバル相手にも勝ちうることを示してカンナエで消沈したローマ人を勇気づけた。基本戦略としてファビウスの持久戦略を採用してハンニバルとの決戦を避け、同時に攻撃対象をシチリア島(マルケッルスが攻略)、ヒスパニアなどのカルタゴ周辺へと変更して外からの切り崩しを狙った。そしてティベリウス・センプロニウス・グラックスに「奴隷軍団」を組織させてマルケッルスらと共にハンニバル包囲網を担わせる。さらに優勢な海軍力を生かしてカルタゴ海軍を脅かし、カルタゴ本国からのハンニバルへの補給を断った。
ハンニバルはノラの攻略を諦め、ヌケエリア(現在のノチェーラ・インフェリオーレ)に向かい、そこを略奪して火を放った。カルタゴ軍は再度ノラを攻撃したが、3,000の兵を失ってこれも失敗し、アケラに向かった。マルケッルスはノラの城門を固く閉ざし、歩哨に誰も街から出ないように見張らせた。次に敵と内通した反逆者70人を死刑にした。これらの人々の財産は没収され、元老院での許可のもとローマのものとした。その後ノラを出てスエッスラを見下ろす高台に野営した。
ハンニバルは当初アケラを無抵抗で降伏させることを望んだ。しかし、市民のローマに対する忠誠心が強いことを知り、攻城戦を開始した。しかし街の防御は不十分であり、多くの市民が夜中にカルタゴ軍の塹壕を超えて脱出し、まだローマとの同盟関係を維持している近隣の都市に逃げ込んだ。ハンニバルはローマの独裁官に選出されたマルクス・ユニウス・ペラがカシリヌムに新たな軍団を向かわせていることを知り、カプアでの騒乱を防ぐために、アケラを破壊し火を放った。ハンニバルはローマ軍の動きを予測して軍をカシリヌムに向けた。その時点でカシリヌムの守備兵はプラエネステ兵570名と少数のローマ兵、加えてカンナエでの敗北後に増強された460名のみであった。食料不足の不安はあったものの、三方をヴォルトゥヌス川に囲まれたこの小さな街を守るには十分と考えられていた。
ハンニバルはカシリヌムに接近し、イサルカという指揮官の下にアフリカ兵を派遣し、降伏交渉を行わせた。交渉は失敗して戦闘が始まったが、ローマ軍は何度かカルタゴ軍の攻撃を撃退した。冬が近づくとハンニバルは野営地の防御を強化し、カシリヌムのローマ軍に攻略を諦めていないと思い込ませ、実際にはカプア近郊に軍の大部分を撤退させた。
リウィウスによると、ハンニバルは冬の間ほとんどの部隊を街に駐屯させていた。長い間戦場の厳しい環境に耐えてきたカルタゴ兵は、都市での生活に慣れていなかった。リウィウスは軍の規律が緩んだとしてカルタゴ軍がカプアで冬を過ごしたことを批判している。一部の兵士は地元の女性と問題を起こした。そうでないものも、春になって作戦を開始したときに、まるで新兵のように肉体的・精神的強靭さを欠いていた。カプアに戻りたくて、軍を脱走するものも多かった。しかしこの有名な「カプアでの堕落」は、イタリアの歴史家ガエタノ・デ・サンクティス)によって疑問視されている。
孝霊天皇76年/前215年:丙戌
始皇帝による第2回巡遊がおこなわれる。
スパルタ/
リュクルゴスが共同統治者のアゲシポリス3世を廃位し、単独の支配者となる。
マケドニア/
ローマに進攻中のカルタゴの武将ハンニバルと同盟を結び、ローマと対抗する。
ローマ・カルタゴ・カプア/
春になるとカルタゴ軍はカシリヌムに戻り、数ヶ月にわたって包囲を続けた。同じ頃、ローマの独裁官であるマルクス・ユニウス・ペラはそこから遠くないテアヌム・シディシヌムに冬営していた。マルケッルスも前執政官(プロコンスル)としてカレスで編成された2個軍団を率い、スエッスラに移動した。また、カンナエの残存兵は法務官アッピウス・クラウディウス・プルケルが率いてシチリアに渡り、逆にシチリアにいた軍団がローマに戻された。
新たな2人の執政官、クィントゥス・ファビウス・マクシムスとティベリウス・センプロニウス・グラックスはそれぞれ軍を率い、ファビウスは「奴隷兵士」と同盟国兵士25,000名を率いてペラの野営地を引き継いだ。マルケッルスもノラの防衛のためスエッスラから移動した。
他方、マリオ・アルフィオを指導者とするカンパニア人達はクーマエをローマとの同盟から離脱させるべく、諜略を用いた。グラックスはこの計画の情報を得ると外交使節を送り、3日後にはクーマエから4.5キロメートル程の距離にあるハマスでクーマエの元老院議員と会った。グラックスは篭城に備え、クーマエに食料を可能な限り運び入れ、貯蔵するように提案した。一方で、全軍をハマスに移動させた。続いて行われた戦いはローマ・クーマエ連合軍の勝利に終わり、カンパニア側の戦死は2,000を超え、マリオ・アルフィオも戦死した。ローマ側の戦死者は100人以下であった。グラックスは敵の野営地を一掃した後、ティファタ山に野営していたハンニバルが急襲をかけてきた場合に備えて、クーマエの城壁内に撤退した。
ハンニバルは翌日にクーマエに到着し、攻城兵器を備え付けて街を包囲した。ファビウスはカレスのカストラ(防衛拠点)に駐屯していたが、占いの結果が凶であるとして、ヴォルトゥヌス川を越えることは無かった。グラックスは反撃の準備を行った。結局ハンニバルは包囲を解き、ティファタ山に引き上げた。
一方、ファビウスは罪滅ぼしの儀式を完了するとヴォルトゥルヌス川を渡り、軍を率いてカルタゴ側に寝返っていたクブルテリア、トレブラ、アウスティクラ(おそらくは現在のサティクラ)の占領に向かった。これらの都市では多くのカルタゴ軍捕虜を得た。その後、スエッスラを見下ろすクラウディアナのカストラに向かった。到着後、マルケッルスにノラに向かいそこを守備するように命令した。ノラでは元老院はローマ側につき、一方民衆はハンニバルに降伏しようとしていた。
夏の間、マルケッルスはヒルピニ族、サムニウム人、ガリア人に対して何度も襲撃を行い、かってサムニウムがローマに敗れた際の記憶を思い出させた。このため、ヒルピニ族やサムニウム人はハンニバルに使節を送り、軍事的保護を求めた。彼らは、マルケッルスの略奪に対してカルタゴ軍が自分たちを見捨てていると抗議した。ハンニバルは彼らを安心させ、土産を持たせて返し、直ちに反撃を行うと約束した。ハンニバルはティファタ山に少数の守備兵を残し、主力軍を率いてノラに向かった。ノラ近郊で野営し、ブルティウムからのハンノの援軍と合流することとした。
第二次ノラの戦いが起こる。
マルケッルスは、その後もサムニウムの略奪を続けていたが、常に退却路は確保していた。全ての行動は、ハンニバルと対しているかのように慎重かつ良く分析されたものだった。カルタゴ軍の接近を察知すると、マルケッルスは直ちに兵をノラの城壁内に撤退させた。カルタゴ軍は周囲の略奪を始めたが、そこにローマ軍が襲いかかり、優勢に戦いを終えた。その日の戦いで5,000人のカルタゴ兵が戦死し、600人が捕虜となった。ローマの損害は1,000以下であった[60]。当初はカルタゴに好意的だったノラの市民も、ローマを見直した。ハンニバルはノラから撤退し、ハンノをブルティウムに送り、自身はアプリアのアルピで冬営に入った。
ファビウスはハンニバルがアプリアに向かったことを知ると、ノラとネオポリスにあった穀物を全てスエッスラの彼の野営地に運び入れた。その後守備兵を残し、軍をカプアへ向かわせた。カンパニアでは焦土作戦を実施し、カプア軍が城外に出て戦うように仕向けた。
カプア軍の兵力は6,000であり騎兵は優秀であったが、歩兵は戦力としては期待できなかった。このため、まずは騎兵が攻撃を開始した。リウィウスは、カプアの勇敢な騎士がローマの騎士に一騎討ちを挑んだと述べている。この決闘は決着がつかなかったが、一戦を交えた後、その騎士は城内に撤退した。
ファビウスは軍を撤退させ、カプア人に種まきを許し、略奪も行わなかった。その後スエッスラに戻り冬営を行った。マルケッルスは適切な数の守備兵をノラに残し、同盟都市に負担をかけすぎないように残りの兵をローマに戻した。もう1人の執政官であるグラックスはその軍団をクマエからアプリアのルセラに動かし、法務官マルクス・ヴァレリウス・レヴィヌスをブリンディジウムに派遣し、マケドニアのピリッポス5世に備えさせた。
ファビウスはポッツオーリに陣地を構築して守備兵を置き、その後ローマに戻った。
シュラクサイ/
シュラクサイ王ヒエロン2世が死去すると、孫であるヒエロニムスが王位に付き、シュラクサイの支配階級の中に反ローマ的な感情が出始めた。ヒエロニムスは暗殺され、親カルタゴ勢力も除去されたが、ローマの威嚇的姿勢のためにシュラクサイは戦争に備えざるを得なくなった。
孝霊天皇77年/孝元天皇元年/前214年:丁亥
2月、孝霊天皇が崩御。
孝元天皇が即位。
尊皇后曰皇太后。
『古事記』では、大倭根子日子国玖流(おほやまとくにくる)命と表記する。 『日本書紀』では、大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)。欠史八代の一人で、実在の人物ではないと考えられている。(実在するとする説がある)
軽の境原(かるのさかいばら)宮に坐しまして、天の下治らしめしき。(この後は、三人の比売(ひめ)を娶り、五人の御子をもうけ、その内の一人が天皇の位についき、後の御子も結婚して御子をもうけ、それぞれが平群・蘇我臣の祖となった、と記している)この天皇の御年、五十七歳(いそぢまりななとせ)。御陵は、劔池(つるぎのいけ)の中の岡の上にあり。(『古事記』)。軽の境原宮、劔池の中の岡は奈良県高市郡。記紀に見られるのは系譜のみで事績は全く伝えられていない。奈良県橿原市石川町の剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのうえのみささぎ)に葬られたとされる。
ローマ/
クィントゥス・ファビウス・マクシムスとマルクス・クラウディウス・マルケッルスが執政官に再選された。6個軍団が増設され、ローマの総兵力を合計で18個軍団とすることも決定された。
ローマ・カルタゴ・カプア/
ローマの総兵力増強はカプアの市民を不安にさせ、ハンニバルの元にカプアへの帰還を要請するための使節が送られた。ハンニバルも、ローマ軍に行動を邪魔されないよう急ぎ行動する必要があると考え、アプリからカプアを見下ろすティファタ山の野営地に移動した。ヌミディア兵とイベリア兵は野営地とカプアの防衛のために残され、残りの兵はアヴェルヌス湖に向かった。ハンニバルはそこから南東4キロメートルにあるプテオリのローマ守備軍を攻撃する計画であった。
ファビウスはハンニバルがアプリを離れカンパニアに戻ったことを知ると、直ちにローマを出発し彼の軍に合流した。続いてティベリウス・グラックスの元に使者を派遣し、軍をルケリアからベネヴェントゥムに移動させた。法務官を務めていた息子で同名のクイントゥス・ファビウスにアプリアに行きグラックスの代理を務めるよう命令した。全ての軍の指揮官達は所定の場所に向かった。
アヴェルヌス湖のハンニバルの元に南イタリアのタレントゥムらの使者が訪れ、街をローマから解放して欲しいとの懇願を受けた。ハンニバルは時機を見てその実行を約束した(実現するのは2年後の第一次タレントゥム攻城戦である)。古いギリシャ殖民都市であるタレントゥムは裕福であるだけでなく海に面していた。当時アドリア海対岸のマケドニアのピリッポス5世はカルタゴと同盟関係を結んでいた。やはり港湾都市であるブリンディジは依然ローマとの同盟を維持していたため、タレントゥムはピリッポス5世が陸軍派遣を決意した場合、それを受け入れるに最適であった。ハンニバルはクーマからミスヌム岬付近までを略奪し、プテオリに向かい攻撃の準備を整えた。プテオリの守備兵は6,000であった。街は地形的に攻略が難しく、また防御体制も整っていた。ハンニバルは3日に渡って攻めたが、占領できる可能性は無かった。結局包囲を解いてネオポリスに向かい、付近を略奪した。
マルケッルスがノラ近くまで達すると、一般市民の中には再び反ローマ・反ノラ元老院感情が出来ていることを知った。実際、親カルタゴ派はハンニバルに使者を出し、降伏を申し出ていた。この親カルタゴ派に反対するノラ貴族は、マルケッルスに対応を依頼した。マルケッルスはヴォルトゥヌス川を越えることにやや難儀はしたものの、1日の内にカレスからスエッスラに移動した。翌日の夜にノラに歩兵6,000と騎兵300を急行させ、街を占領してノラ元老院を保護した。
第一次ベネヴェントゥムの戦いが起こる。
同じ頃、ファビウスはカシリウムに到着し、そこを守備するカルタゴ軍への攻撃準備ができていた。他方、グラックスとカルタゴのハンノは、ほぼ同時にベネヴェントゥム付近に到着していた。続く戦闘はグラックスの勝利に終わり、リウィウスによると15,000のカルタゴ兵が戦死するか捕虜となった。
第三次ノラの戦いが起こる。
ネオポリス付近を略奪した後、ハンニバルはノラに向かった。マルケッルスはこれを聞き、スエッスラに残っていた法務官のマルクス・ポンポニウス・マトの軍を増援として直ちにノラに呼び寄せた。今回もハンニバルはノラを落とせず撤退せざるを得なかった。翌日にローマ軍は出撃したが、ハンニバルは野営地から動かなかった。3日目の夜、ノラ占領の見込みはないと判断したハンニバルは、タレントゥムに向かった。
これらの戦闘はベネヴェントゥムとノラの間で起こったが、ファビウスは2,000のカンパニア兵と700のカルタゴ兵が守るカシリウム近くに野営していた。カシリウム側は奴隷と一般市民も武装して、ローマの野営地を襲ったが、これは失敗した。ファビウスはマルケッルスにノラに適当な数の守備兵を残してカシリウムに来るか、あるいはベネヴェントゥムのティベリウス・グラックスを派遣するように依頼した。
マルケッルスはノラに守備兵2,000を残してファビウスに合流した。すなわち、2人の執政官が協力してカシリウムを攻撃したこととなる。しかし攻撃によるローマ兵の損害は少なくなく、ファビウスは攻撃を中止した。他方、マルケッルスは撤退をせず、攻城兵器を準備した。これを見たカンパニア兵は、ファビウスに対して無血開城して近郊のカプアに撤退することを申し出た。しかしながら、カンパニア兵が城外に出ると、マルケッルスはこれを虐殺し、さらに城内に突入して殺戮を続けた。50人のカンパニア兵のみがファビウスの元に駆け込み、無事カプアに行くことが出来た。カンパニア兵とカルタゴ兵捕虜はローマに送られ監獄に閉じ込められた。市民は近郊の都市に移された。
一方、グラックスはベネヴェントゥムで大敗していたハンノの再起を阻止するため、南イタリアのルカニアに同盟国軍の兵の一部を派遣し、カルタゴ野営地近くを略奪させた。しかしローマ軍が分散しているところをハンノに攻撃されて多少の損害を受けた。ハンノはグラックスに追撃されることを恐れ、その後ブルティウムに撤退した。グラックスの本軍はアッピア街道を進み、カルタゴ側の都市となっていたカウディウム(現在のモンテサルキオ)を破壊した。ファビウスもカルタゴ軍に寝返った都市を攻撃するためにサムニウムに向かい、コンブルテリア、テレシア、コンプサ、ファギフラ、オビタニウムも破壊された。ルカニアのブランダ(en)、アプリアのアイカ(現在のトローイア)はカルタゴ軍に占領されていた。これらの都市は奪回され、カルタゴ軍25,000が戦死、170が捕虜となった。捕虜はローマに連行され、タルペーイアの岩から突き落とされて殺された。マルケッルスはノラに戻った後病気を得、これらの作戦にはほとんど参加できなかった。
ローマ・シュラクサイ/
ローマとシュラクサイが開戦。マルクス・クラウディウス・マルケッルスが率いるローマ軍がシチリアに上陸し、海陸からシュラクサイを包囲した。シチリア東岸のシュラクサイは城壁都市でありその堅牢な防御で知られていた。また、シュラクサイの防衛担当者の中に、科学者・数学者であるアルキメデスがいた。
シュラクサイは堅牢に防御されていたために、数ヶ月間ローマのあらゆる攻撃に耐えた。攻城戦の困難さを実感し、ローマは新兵器を投入することとした。サンブーカと呼ばれる艦載型の鉤縄付き攻城塔や、城壁の上部に滑車で降ろせる、艦載型の梯子等である。他方、アルキメデスも防衛用の新兵器を考案したとされる。壁越しに巨石を放り出して敵艦に落とす装置や、壁越しに腕を伸ばして破城槌や攻城用の小屋の上に丸太を落とす装置などが知られている。アルキメデスの鉤爪と呼ばれる兵器は、クレーン状の腕部の先に吊るされた金属製の鉤爪を持つ構造で、この鉤爪を近づいた敵艦に引っ掛けて腕部を持ち上げることで敵艦を傾けて転覆させるものであった。また、巨大な鏡を並べて、ローマ艦の帆を焼いたという伝説もある(2世紀の著述家ルキアノスによる)。これらの兵器に加えて、城壁に備え付けられた投石機や型弩弓での攻撃に苦戦し、結局は力攻めを余儀なくされた。
戦闘は膠着状態となった。ローマ軍は城内に突入することも、またシュラクサイに対する外部からの補給を完全に絶つこともできなかった。他方、シュラクサイ側もローマ軍を撤退させることはできなかった。カルタゴもシュラクサイの救援を試みたが撃退された。再度の救援計画が立案されたが、イベリア半島での作戦を優先したためにシュラクサイ向けの兵士・艦艇を用意できなかった。結局、シュラクサイは独力で戦い続けるしかなかった。
前214年-
この頃、富士山の麓に、富士王朝が存在していたとされている。
この富士王朝は、徐福が現在の富士吉田に到着した時に、建国したものではないかという説がある。
秦国が「万里の長城」の基盤となる「長壁」を建設する。もともとは、斉国や楚国が、国境線に建築していた「長壁」を、1つにつなぎ再構築した。この当時は、人馬が飛び越える事ができない、高さ2m程度、幅は3〜5m程度のものであったとされている。
孝元天皇2年/前213年:戊子
大和/孝元天皇と欝色謎命の間に、稚日本根子彦大日日尊(後の開化天皇)が生まれる。
秦の始皇帝、宰相の李斯の進言により焚書坑儒を実施。
秦の始皇帝、政の長子である扶蘇は、温厚な人格と聡明で知られ、父や多くの重臣達から将来を嘱望されていたが、この政治(焚書坑儒)に諫言したため怒りを買う。
ローマ/
ローマの執政官はファビウスの同名の息子とセンプロニウス・グラックスが選出された。ファビウスには父がレガトゥスとして同行していた。
ローマ・カルタゴ・カプア/
2人の執政官がそれぞれの担当地域に到着した時、112人のカンパニアの騎士が、ローマ野営地を略奪するとの口実でカプアを出て、スエッスラのローマ野営地に来て交渉を求めた。法務官グナエウス・フリウス・セントマウルス・マクシムスとの協議の結果、武装を解除した10人が交渉に参加することが認められた。グナエウスは彼らの意思を確認し、カプアを奪取した際には彼らの資産を返却すると約束した。ファビウスはアルピを攻撃し勝利している。
孝元天皇3年/前212年:己丑
アルキメデスが死去。
ローマ・カルタゴ・カプア/
ハンニバルがタレントゥムの攻略を目指しているとき、2人の執政官、アッピウス・クラウディウス・プルケルとクィントゥス・フルウィウス・フラックスはカプア攻略の意図を持ってサムニウムに軍を進めていた。他方、近郊の土地の種まきをローマ軍が妨害していたため、カプアの食料は不足し始めていた。
このため、カプアはハンニバルに使者を派遣し、ローマ軍が到着して周辺の道路を占拠する前に、カプアに食料を運び込んでくれるよう依頼した。ハンニバルはブルティウムのハンノに対し、カプアに十分な食料を運ぶように命令した。ハンノはローマ軍を避けるため、ローマ側の都市であるベネヴェントゥムから4.5キロメートルに野営地を設置し、周囲の穀物を収穫し野営地に運び込ませた。その後カプアに食料を取りに来るように伝えたが、カプア側は十分な準備が出来ておらず、ハンノはこれを叱責した。
第二次ベネベントゥムの戦いが起こる。
ベネヴェントゥムの出来事が届くと両執政官はボヴィアヌム(現在のボヤーノ)に移動し野営した。フラックスは次の夜にはベネヴェントゥムの城内に入った。そこでハンノの兵士が馬車2,000台でカプアへ食料を運んでいったことを知った。カルタゴ軍野営地はいくらかの農民や奴隷が残っているだけで武装した兵士はほとんどおらず、混乱状態にあった。カルタゴ軍野営地は良く防御されており、ローマ軍は苦戦したが、最後にはローマ軍が勝利した。ローマ軍はカルタゴ軍野営地を破壊した後ベネヴェントゥムに戻り、略奪してきた物資は兵の間で分配された。敗北を知ったハンノはブルティウムに戻ったが、途中での逃亡兵も多かった。
カルタゴ軍が敗北したことを聞くと、カプアはハンニバルに対し、2人の執政官がカプアから1日の距離のベネヴェントゥムにいることを知らせた。ハンニバルは周囲の略奪を防ぐために騎兵を派遣したが、その数は2,000に留まった。同じ頃、プルケルとフラックスはベネヴェントゥムからカプアに向かって兵を進めていた。ベネヴェントゥムを空にはできないため、ルカニアを占領していたティベリウス・グラックスに騎兵と軽歩兵を派遣させた。ティベリウスは途中でカルタゴ軍のマゴに待ち伏せ攻撃を受けたが、これを退けた。しかしグラックスは戦死し、その後の指揮はグナエウス・コルネリウス・レントゥルスが執ることとなった。
カンパニアに入ったローマ軍はカプア周辺の略奪を行ったが、マゴの率いるカルタゴ軍騎兵とカプア兵の奇襲を受けた。ローマ軍は蹴散らされ、1,500が戦死した。この後ローマ軍はより注意して行動するようになった。ハンニバルもまた弟のマゴと合流すべくカプアへ向かった。ハンニバルには、彼の不在中に起こった戦闘がカプアに有利であったため、カルタゴ軍の猛攻にはローマ軍は耐えられないとの確信があった。戦闘が始まると、カルタゴ軍騎兵の連続攻撃にローマ軍は苦しみ、また弓矢での攻撃に圧倒されていた。最初のカルタゴ騎兵攻撃に衝撃を受けたローマ軍の被害は甚大であったが、ローマ騎兵の反撃によりどうにか大敗北は避けることができた。
シラルスの戦いが起こる。
この戦闘の後、2人の執政官はハンニバルを避けてカプアから撤退した。翌日の夜に2人は分かれ、フラックスはクーマに、プルケルはルカニアに向かった。ハンニバルはプルケルを追撃し、その殿軍を撃滅して16,000を殺したが、プルケルの捕捉には失敗した。
しかしローマ軍は諦めず、執政官2人は攻城兵器を準備し再びカプアを包囲することとした。ヴォルトゥルヌス川沿いのカシリヌムに食料を集積し、また河口のヴォルトゥルヌムの防備を強化して守備兵をおいた。また制海権強化のためプテオリ(現在のポッツオーリ)にも守備兵をおいた。これら2つの港湾要塞とローマの外港であるオスティアに、サルディニアからの食料と法務官のマルクス・ユニウス・シラノがエトルリアで冬季に集めた食料を集積した。この危機的な状況の中、ハンニバルはカプアを離れることは望まなかったが、法務官グナエウス・フリジウス・フラックスがアプリアの幾つかのカルタゴ側都市を攻撃し成功したとの連絡が届いたため、そちらに対処するためにアプリアに向かわざるを得なかった。
第一次ヘルドニアの戦いが起こる。
ハンニバルはこの新しく編成されたローマ軍を殲滅する意思を固め、ヘルドニア(現在のオルドーナ)近郊で戦闘となったがハンニバルが勝利した。グナエウス・フリウィウス・フラックスは騎兵200と共に脱出したが、ローマ軍の残りの部隊は包囲されて少数に分断され、18,000の兵力のうち脱出できたのは2,000程に過ぎなかった。
その後、残存兵の再集結のために特使が派遣され、法務官のプブリウス・コルネリウス・スッラも同様の任務を与えられ、奴隷兵士を軍に戻した。執政官プルケルはデキウス・ユニウスにヴォルトゥルヌルスの防衛を、マルクス・アウレリウスにプテオリの防衛を委ね、サルディニアやエトルリアから食料が届いたら、直ちにカプア近郊の野営地に送るように手配した。プルケル自身がカプア近郊に到着すると、フラックスがすでにカシリヌムから十分な補給物質を運びいれ、包囲戦の準備を完了していた。執政官2人はガイウス・クラウディウス・ネロの率いる軍がスエッスラから到着するのを待って包囲戦を開始した。
アレクサンドリアのアッピアノスによると、カプアの城壁とローマ軍の最前線の距離はおよそ370メートルであった。カプアはハンニバルに救援を求めた。戦略的な状況はカルタゴ軍にとって不利になりつつあった。カプアはローマ軍6個軍団に包囲されており、食料は不足していた。法務官のプブリウス・コルネリウス・スッラは執政官のプルケルとフラックスに対し、カプアからの脱出を希望する市民に対してはそれを許してはどうかと提案した。他方、ハンニバルはタレントゥムの攻略を実施し、都市そのものは得たもののローマ軍要塞の攻略は短期では難しいと判断し(第一次タレントゥム攻城戦)、ブルンディジウムに転進してその攻略を行っていたが、このときにカプアからの救援要請を受け取った。ハンニバルは自身が戻ったらローマ軍はカルタゴ軍に抵抗できないだろうと返答をした。使者がカプアに戻ると、カプアはすでに二重の濠と塁壁で囲まれていた。
ローマ元老院からの依頼により、プブリウス・コルネリウス・スッラは両執政官に対して手紙を出し、ハンニバルがカプア周辺にいないのであれば、翌年の選挙のためにどちらかがローマに戻るよう求めた。結果、プルケルがローマに戻り、フラックスはカプアに留まることとなった。
ローマ・シュラクサイ/
ローマはシュラクサイの市民がアルテミス神の祝祭に参加し、防御が手薄になるとの情報を得た。シュラクサイは二重の城壁で囲まれていたが、少数のローマ兵が暗闇にまぎれて外郭の城壁を梯子を使って突破し、直ちに援軍を招きいれたため、外郭部はローマ軍の手に落ちた。しかし、内郭は依然として堅牢であった。アルキメデスが殺害されたとされるのは、このときである。
マルケッルスは、高名な数学者であり、防衛兵器の発明家であったアルキメデスを殺さないように命令していた。アルキメデスはこのとき既に78歳前後であったが、ローマ軍が侵入してきた後でも研究を続けていた。ローマ兵が家にやってきて彼の研究を邪魔すると、アルキメデスはこれに対して強く抗議し退去を求めた。この兵士は、それが誰だかを知らず、その場でアルキメデスを殺害した(あるいはローマ軍を苦しめた兵器の発明家と知っていたのかもしれない)。
ローマは外郭を支配下においたものの、シュラクサイ市民は内郭に退避して抵抗を続けた。しかし内郭の面積は小さく、ローマは外部からの補給を完全に遮断することができた。8ヶ月を経過した頃、場内では飢餓の苦しみが始まり、ローマとの講和が議論されるようになった。モエリスカスという名の指導者の一人がローマと内通し、アレトゥーサの泉近くにローマ軍を招き入れ、陽動攻撃を行っている間に城門を開けた。親ローマ地区に衛兵を置き、マルケッルスはシュラクサイの略奪を許した。長期の攻城戦に苦戦していたローマ兵は市内を暴れ周り、多くのシュラクサイ市民を殺害し、また生き残った市民の殆どを奴隷とした。シュラクサイは完全に略奪され、破壊された。
シュラクサイは再びローマの手に戻り、シチリア島全体がローマの属州となった。シュラクサイを確保したことにより、カルタゴはシチリアでの足場を失い、そこからイタリアにいるハンニバルを支援することが不可能となった。このため、ローマはイタリアとイベリアにその戦力を集中することができるようになった。
前???年
秦の始皇帝政から怒りをかった扶蘇は、北方の騎馬民族・匈奴に対する国境警備の監督を命じられ、僻地の蒙恬の駐屯地へ遠ざけられる。
孝元天皇4年/前211年:庚寅
日本/遷都於輕地、是謂境原宮。
中国/東郡(河南・河北・山東の境界に当たる地域)に隕石が落下する。その隕石に何者かが「始皇帝死而地分」(始皇帝が亡くなり天下が分断される)という文字を刻みつける事件が発生。周辺住民は厳しく取り調べられたが犯人は判らず、全員が殺され、隕石は焼き砕かれた。
また、秋頃において、ある使者が平舒道という所で出くわした人物から「今年祖龍死」という言葉を聞いた。その人物から滈池君へ返して欲しいと玉璧を受け取った使者は、不思議な出来事を報告した。次第を聞いた始皇帝は、祖龍とは人の先祖のこと、それに山鬼の類に長い先のことなど見通せまいとつぶやいた。しかし玉璧は、第1回巡遊の際に神に捧げるため長江に沈めたものだった。始皇帝は占いにかけ、「游徙吉」との告げを得た。そこで「徙」を果たすため3万戸の人員を北方に移住させ、「游」として始皇37年(前210年)に4度目の巡遊に出発した。
始皇帝政が、末子の胡亥と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊は東南へ向かかう。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵(南京)にて天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした。また、海神と闘う夢を見たため弩を携えて海に臨み、之罘で大鮫魚を仕留めた。
始皇帝政、平原津に到着してほどなく病気となる。
症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方にとどまっている長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を作成し、信頼を置く宦官の趙高に託した。
7月、始皇帝、政が病で亡くなる。沙丘の平台(現在の河北省邢台市広宗県)にて崩御。
伝説によると、彼は宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬「丹」を服用していたという。
始皇帝の死が天下騒乱の引き金になることを李斯は恐れ、一行はこれを秘したまま咸陽へ向かった。崩御を知る者は胡亥、李斯、趙高ら数名だけだった。
死臭をごまかすため大量の魚を積んだ車が伴走し、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた帰路において、趙高は胡亥や李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。
扶蘇に宛てた遺詔は握りつぶされ、後継は胡亥とし、扶蘇には自害を勧める偽の詔が渡された。
蒙恬は偽詔であることを看破し、その旨を扶蘇に進言したが、「疑うこと自体義に反する」と述べてそれを受け入れず、偽命に従って自決した。
疑問を持った蒙恬は獄につながれた。一方で、民衆には扶蘇が自決したことは、伝えられなかった。
劉邦が亭長の役目を任ぜられ、人夫を引き連れて咸陽へ向かう。ところが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡した。
劉邦は「秦は法も厳しく、人夫が足りなければその引率者が責任を取らされる」とやけを起こし、浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がした。
行く当てがなくなった劉邦は、手元に残った人夫らとともに、沼沢へ隠れた。すると噂を聞きつけた者が子分になりたいと次々と集まり、劉邦は小規模な勢力の頭となる。
マケドニア/
ローマがアイトリア同盟と同盟関係となるとピリッポス5世の影響力は次第に衰えていき、さらにローマの支援を受けたペルガモンのアッタロス1世の進攻を受けるなど劣勢に立たされるようになる。
ローマ・カルタゴ・カプア/
フラックスとプルケルは引き続き前執政官(プロコンスル)として同じ軍団の指揮を執ることになった。また、カプアを攻略するまで、その場を動かないように命令された。カプアの裏切りは他の多くの都市にも影響を与えたため、ローマはその行為に激怒していたが、その富と都市としての重要性のため、奪還した後には再びローマの主権を強制するつもりだった。
1人のヌミディア騎兵が、ローマ軍の包囲を突破してハンニバルに連絡することを申し出て成功した。この例だけでなく、騎兵同士の戦いは、包囲戦中何度も起こっていたが、カプア騎兵がローマ騎兵に常に優越していた。このため、ローマ軍は新戦術を採用することとした。まず優れた歩兵を選抜し、騎兵用の短い盾を持たせ、騎兵の後ろに2人乗りして馬から落ちなくなるまで乗馬訓練を行った。各兵士は7本の投槍を持ち、合図に従って一斉に行動することとなっていた。
ローマ軍の包囲は完全であったため、この訓練は安全に実施でき実戦の準備が整った。カプア騎兵はローマ騎兵に対して、投槍での攻撃を行った。すると合図があり、ローマ軽歩兵は一斉に馬から下りて、その投槍を立て続けに投げつけた。当然ではあるが、カプア騎兵はこのような攻撃を予想しておらず、大損害を受けた。続いてローマ騎兵が驚くカプア騎兵に対して追撃を行い壊走させた。この時から、騎兵に対して軽歩兵が支援する戦術が確立された。この投槍軽歩兵部隊はウェリテスと呼ばれ、その後正式化されてローマ軍の戦術に組み込まれた。
カプアがこのような状況にあったとき、ハンニバルはタレントゥムの攻略を続けるべきか、あるいはカプアを防衛すべきか迷っていた。最終的には、カプアだけでなくカルタゴに味方した多くの同盟都市のことを考慮し、カプアに向かうことにした。ほとんどの補給部隊と重騎兵を残し、ハンニバルは歩兵と軽騎兵を選抜し、33頭の戦象を伴ってカンパニアに向かった。カプアに接近するにあたっては、以前カラティアの要塞を攻撃した時に使ったティファタ山背後の渓谷に野営地を設定した。
ハンニバルはカプアに彼らの接近を知らせ、カルタゴ軍がローマ軍の攻撃を開始すると同時に、カプア軍も城門を開けて外に出て攻撃するように伝えた。ハンニバルの突然の来襲はローマ軍に恐怖を引きこした。ハンニバルはプルケルの防御柵へ接近を開始し戦闘を強要したが、プルケルはこの挑発には乗らなかった。ハンニバルはしばしば騎兵を派遣して、ローマ軍野営地に投げ槍攻撃を行なって怒りを誘い、ローマ騎兵を誘い出そうとした。またカルタゴ歩兵は柵の破壊を試みた。しかし、ローマ軍は決心を変えず、軽歩兵が反撃を行ったのみで、主力の重装歩兵は投げ槍攻撃から自身を守ることに専念した。
ポリュビウスによると初期の戦闘は小競り合い程度とされているが、リウィウスはもっと激しい戦闘があったと記している。ハンニバルの攻撃と同時に、カプア城内からボスタルとハンノに率いられた兵が出撃した。対するローマ軍は軍を以下のように分けて対抗した。
戦闘は兵士の雄叫びで開始され、市民も城壁の上で青銅の器物を打ち鳴らした。プルケルがカプア兵に対し、フラックスがハンニバルに相対した。第VI軍団の戦列に対し、イベリア兵は中央部を3頭の戦象で突破しようとしていたが、ローマ軍野営地に突入できるかは不確かであった。フラックスは第VI軍団の危機的状況を見て、ナヴィウスおよび何人かの百人隊長に対し救援を命令した。命令を受けたナヴィウスは軍団旗を手に第一戦列兵(ハスタティ)を率いて敵に向かった。ナヴィウスは長身で、彼の軍歴を示す可憐な甲冑を身に着けていた。イベリア兵の戦列に接近すると、彼の周りには投槍が降り注いだ。しかしかれは退却せず、そのまま前進した。
指揮官の1人であるマルクス・アティリウス・レグルスは第VI軍団の第三戦列兵(プリンキペス)を率いてイベリア兵に反撃した。野営地の防衛を担当していたルキウス・ポルシウス・リキニウスとティトゥス・ポプリウスは、ヴォルトゥルヌス川を渡河しようとする戦象部隊と戦っていた。戦象は濠をわたる途中で殺された。しかし、ここを乗り越えてカルタゴ兵は濠を渡った。カプアから出撃してきたカプア兵とカルタゴ兵はローマ軍を打ち破れず、城門の近くで戦い続けた。
カプアは多数の強力な投石機やスコルピオで防御されているために、ローマ軍はカプアの城門に近づくのは困難と判断した。また、司令官の1人であるプルケルも投槍が胸にささって負傷した。しかし、戦場には多くの敵兵が倒れており、残りの兵も城内に撤退した。ハンニバルはイベリア兵の敗退とローマ野営地の強固な防御力を見て、歩兵と騎兵に背後を守らせながら撤退することとした。ローマ軍はこれを追撃しようとしたが、混乱が生じた。混乱が拡大しないように、フラックスは整然とした撤収を選んだ。リウィウスによると、ハンニバル軍の損害は8,000、カプア軍の損害は3,000であり、カルタゴ軍から15本、カプア軍から18本の記章が奪われた。
しかし、他の古代の歴史家はこのような戦闘があったことを否定している。ヌミディア騎兵とイベリア兵が戦象を伴ってローマ軍野営地に突入し、これを破壊した。続いてハンニバルがこの恐慌を拡大するために、自軍のイタリア半島出身者をローマ軍野営地に潜入させ、ラテン語で撤退命令が出たとの嘘を流した。この欺瞞は見抜かれ、ローマ軍はカルタゴ軍に反撃し、戦象は火を使って撃退された。
ハンニバルはカプア城内に入城できず、膠着状態に陥ったことに不満であった。会戦を避けて防御戦術に徹底したローマ軍に関して、ポリュビウスはその理由を騎兵の劣勢にあったとしている。ローマ軍騎兵は野戦ではカルタゴ軍騎兵に対抗できないため、その野営地に留まることを好み、他方カルタゴ軍は周辺からの食料調達が出来ないため長期間の滞陣ができなかった。
ハンニバルは別のローマ軍の到着により補給が遮断されることを恐れ、また強力な攻撃によっても封鎖を解くのは困難と考えた。解決策として、ハンニバルは急ぎ移動してローマそのものを攻撃し、市民に混乱を生じさせ、カプアのローマ軍が救援のために戻らざるを得ない状況を作ることを計画した。その場合、カプアのローマ軍はほとんどがローマに向かうであろうから、残留している軍を打ち破るのは容易になる。
熟考の末、ハンニバルはリュビア人の連絡者をローマ軍の包囲するカプアに送り込んだ。ハンニバルがローマに向かった場合、カプアが見捨てられたと考えて降伏するのを避けるためであった。カプアの市民が包囲戦に耐え続けるよう、手紙にカプアを離れる理由を書き送った。手紙の内容は、カプアを離れるのはカプアを救うためであり、ローマ軍は必ず彼を追うであろうから、数日後にはカプアの包囲は解かれるであろう、というものであった。
ヴォルトゥルヌス川のボートを鹵獲し、ハンニバルは軍に出発を命じた。ボートの数は十分であり、一夜の間に渡河は完了したが、これはカプアに到着して5日後のことであった。ハンニバルは幕僚と夕食をとり、夜明け前に渡河を行った。
ハンニバルがこの作戦を遂行していることを知ると、フラックスは直ちにローマ元老院に手紙を書き送った。元老院は、状況の重大さを認識し、全体集会が召集された。他方、ハンニバルはサムニウムを抜けてローマに急行し、わずか40スタディオン(7.5キロメートル)の距離に野営地を設営した。その到着は突然であり、また予想外のものであったため、このことが知られると市民は驚き動揺が広がった。ハンニバルがこのような距離にまでローマに接近したことは、過去にも無かった。また、市民の一部はカプアのローマ軍が敗北したのではないかと疑った。
しかしローマ市防衛のために新たに2個軍団を新設していたことを知ると、ハンニバルは街自体の攻略は諦め、周辺地域を襲撃し、略奪を行った。カルタゴ軍野営地には略奪した物質が積み上がった。数日後、ハンニバルはカプアに戻ることを決めた。十分な略奪を行い、またローマ自体の攻略が不可能であったのも理由であったが、最大の理由はカプアのローマ軍が包囲を解いてローマに向かうに十分な日数が経過したと信じたためであった。あるいはカプアに多少の兵を残しているかもしれないが、いずれにせよハンニバルにとって想定していた事態であった。
ハンニバルはカプアに急いだが、プルケルはカプアの包囲を解いておらず、依然としてローマの防御力は強力であった。このため、ハンニバルはカプアには戻らず、ダウニアからブルティウムに向かい、陥落寸前のレギウムの攻略を続けた。ローマ人はローマ市を守り、またカプアの包囲も解かなかった。カプア包囲継続という自身の行為の重要性を確信し、大いなる決意を持ってこれを実行した。
フラックスがローマに向かったにも関わらず、カプアの包囲は弱まらなかった。それだけでなく、ハンニバルではなくフラックスが戻ってきたことにカプア市民は驚いた。しかしこの事実から、カプアはハンニバルから見捨てられたことを理解した。以前、ローマ軍は決められた日までに市民がカプアを離れた場合、彼らを罰することはないと通達していたが、実際にはハンニバルに対する忠誠心とローマへの恐怖のため、脱出した市民はいなかった。ローマ同盟都市であることを放棄したことをローマが許すことはないと考えていたのである。
カプア貴族は降伏を決め、家に戻って最後の時を待った。カルタゴからカプア守備に派遣されたボスタルとハンノは、ハンニバルに対してカプアだけでなくカルタゴ守備兵を見捨てたことを非難する手紙を書いた。しかしこの手紙はローマ軍の手に渡った。伝令として選ばれたヌミディア兵がローマ軍に投降したのである。同じく多くのヌミディア兵がローマに投降した。しかし70人以上の投降兵が殺され、切り落とされた腕がカプアに運ばれた。このような残酷な仕打ちにカプア市民は絶望した。ローマとの同盟解消を支持したウィビウス・ウィリオは降伏を待つことなく、自決した。また、元老院議員達に惨劇を見る前に自決することを薦めた。宴会が開催され、十分な食事とワインが振舞われた後、毒が入れられた杯が配布された。ローマへの降伏の使節を送るに先立ち、27人の元老院議員が自決した。
降伏宣言の翌日、ローマ軍野営地前のユピテル門が開けられた。プルケルとフラックスの2人のプロコンスルとネロが率いるローマ軍はここを通って入城した。カプア城内の全ての武器は集められ、全ての城門には衛兵が配置された。その後、カルタゴ守備軍とカプア元老院議員がローマ軍司令官の前に立たされた。元老院議員たちは鎖で繋がれ、また所有する全ての金銀を財務官(クァエストル)に差し出すよう命令されていた。結果、2,700ポンドの金と31,200ポンドの銀が押収された。27人の元老院議員はカレス(現在のカルヴィ・リゾルタ)へ、28人はテアヌム・シディシヌム(現在のテアーノ)へ捕虜として送られた。
カプア元老院議員の処分に関しては、プルケルとフラックスの間で分かれた。プルケルは助命に傾き、フラックスは死刑との意見であった。両者の意見が一致しなかったため、その処置だけでなく捕虜の尋問も元老院に委ねられた。フラックスは、この処置がラテン系の同盟都市との関係に悪影響を及ぼすのを恐れ、騎兵2,000と共にテアヌムに向かった。
テヌアムに到着すると、フラックスはそこの責任者に拘留されているカプア捕虜を彼の前に連れてくるよう命じた。そして連行された捕虜を杖で打ち、斧で首を刎ねた。その後直ちにもう1つの捕虜拘留地であるカレスに向かった。すでにローマ元老院から指示が届いていたが、フラックスはそれを読まずに捕虜全員を処刑した。処刑終了後、ローマからの指令書を読んだが、カレスを離れようとしたとき、1人のカプア人が自分を殺せと叫んだ。フラックスはこれを狂人と思ったが、指令書を呼んだ後であったため殺すことが出来なかった。この男はフラックスの眼前で自分の胸を突き刺して自殺した。
元老院議員70人と貴族300人以上が処刑された。他のカプア人はラテン系のローマ同盟都市に送られ幽閉されたが、様々な理由で死亡した。最終的には、相当数の人々が奴隷身分に落とされて売却された。カプア自体は破壊されず、農業都市として再建され、農民、解放奴隷、商人、職人などが新たな住民となった。その領土と公共建造物はローマ人のものとなった。市には独自の公的機関、元老院、裁判所等は設置されず、ローマから毎年知事が送られた。
カプアが陥落すると、ローマとの同盟を解消して敵対していた他の都市は、ローマとの関係の再構築を模索し始めた。最初の例はアテラとカラティアであったが、その指導者は処刑された。市民の多くは街を離れ二度と戻らなかった。ローマはしかしながら、街に火を放ったり、建物や城壁の崩壊は行わず、街の略奪もしなかった。街には罪は無いとして恩赦を与え、その資産は残した。ローマに反逆したものはその代償を払う必要はあるが、ハンニバルからの支援は期待できないということを明らかにした。
ハンニバルの立場は難しくなった。数において勝る敵から、多くの都市を守ることは出来ない。ハンニバル軍は1か所に存在するだけだが、ローマ軍は必要な場所にどこにでも軍を派遣できた。多くの同盟都市をその運命に委ねさせるを得ず、また反乱によるカルタゴ兵への殺害を防ぐために、守備兵も引き揚げるしか無かった。この不誠実さと残酷さを非難するものも多かった。
ローマ・カルタゴ/
ローマが開戦原因となったサグントゥムを制圧。ローマ軍の脅威によって、カルタゴのハスドルバルはイタリアのハンニバルへ援軍を派遣できなくなった。
ハスドルバルは状況の変化を待っていた。弟のマゴがカルタゴ本国から率いてきた増援を合わせて戦力を整えつつ、ローマ軍内のヒスパニア兵が脱走するように仕向けた。ハスドルバルは好機を選んで反攻に移り、バエティス川の戦いでローマ軍を破ってコルネリウス兄弟を戦死させた。ただし、ローマ軍の戦力自体はいまだ侮れないものであったため、ハスドルバルはむやみに攻撃を仕掛けることを控え、軍を三分して着実に領土を奪還していった。
孝元天皇5年/前210年:辛卯
スパルタ/
リュクルゴスは王位を狙ったケファロンなる者によって殺される。
しかし、ケファロンの計画は失敗したため、王位はリュクルゴスの子のペロプスとその後見人マカニダスによって継がれた。
ペロプスが即位する。
後見人マカニダスは軍を率いてアルゴスの国境を巡視し、これがアカイア同盟を刺激したため、その援助の要請を受けたマケドニア王ピリッポス5世のギリシアへの介入を招いた。
ローマ・カルタゴ/
プブリウス・コルネリウス・スキピオの同名の息子、後のスキピオ・アフリカヌスが新司令官としてヒスパニアに到着した。指揮官の戦死でローマ軍は意気消沈していたが、スキピオは卓越した手腕で軍を掌握し、またたくまに失地を回復した。
秦/胡亥が兄の扶蘇を謀殺して即位。
9月、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。
胡亥は、獄につながれた蒙恬にたいして、自殺するように詔を発し、蒙恬はとやむを得ず自決した。
二世皇帝の胡亥、宦官の趙高、李斯が実権を握るが、権力争いにより宮中は泥沼化し、中原にいたっては、非人道的な収税のため、民の非難が絶えない状況となる。
12月、胡亥が阿房宮の造営を行う。
孝元天皇6年/前209年:壬辰
秦/趙高が、有力者や不平派を悉く冤罪で殺害し、蒙毅もこれによって誅殺される。
7月、秦/陳勝・呉広の乱がおこる。
反乱軍の勢力が強大になると、沛の県令は反乱軍に協力するべきか否かで動揺した。
そこへ蕭何と曹参が「秦の役人である県令が反乱しても誰も従わない。人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ。
県令は一旦はこれを受け入れたが、劉邦に使者が行った後に考えを翻し、沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした。
劉邦は一計を案じて、絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ(当時の中国の都市は基本的に城塞都市)。
その手紙には「今、この城を必死に守ったところで、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。今のうちに県令を殺して頼りになる人物を長に立てるべきだ」と書いてあり、それに応えた城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れた。劉邦は最初は「天下は乱れ、群雄が争っている。自分などを選べば、一敗地に塗れることになる。他の人を選ぶべきだ」と辞退した。しかし、蕭何と曹参までもが劉邦を県令に推薦したので、劉邦はこれを受けて県令となった。以後、劉邦は沛公と呼ばれるようになる。
この時、劉邦が集めた兵力は2、3千というところで、配下には蕭何・曹参の他に犬肉業者をやっていた義弟の樊噲、幼馴染の盧綰、県の厩舎係をやっていた夏侯嬰、機織業者の周勃などがいた。
この軍で周辺の県を攻めに行き、故郷である豊の留守を雍歯という者に任せたが、雍歯は旧魏の地に割拠していた魏咎の武将の周巿に誘いをかけられて寝返ってしまった。怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った。当時、陳勝は秦の章邯の軍に敗れて逃れたところを殺されており、その傘下に属した旧楚の公族系の景駒が甯君と秦嘉という者に代わりの王に擁立されていた。劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が必要だと考えて、景駒に兵を借りに行った。
9月、日本/孝元天皇が、大日本根子彥太瓊天皇(孝霊天皇)を于片丘馬坂(かたをかのむまさか)の陵(みささぎ)に葬る。
9月、項梁と項羽が会稽郡役所に乗り込み、郡守である殷通をだまし討ちした後に襲いかかってきた殷通の部下数十名を一人で皆殺しにする。会稽の役人たちは項羽の強さに平伏、項梁は会稽郡守となって造反軍に参加した。さらに項梁は項羽に命じて襄城を攻めさせた。
項羽は襄城を攻め落とした後、城兵を全て生き埋めにして凱旋した。
匈奴/
頭曼単于の子である冒頓が反乱を起こし、父、継母、異母弟及びその側近を抹殺する。
冒頓単于として即位。
東胡から使者がやってきて「頭曼様がお持ちだった千里を駆ける馬を頂きたい」と言った。即位直後の若輩のため、甘く見てのことだった。冒頓単于は部下を集めて意見を聞いた。部下達は「駿馬は遊牧民の宝です。与えるべきではありません」と言ったが、冒頓単于は「馬は何頭もいる。隣り合う国なのに、一頭の馬を惜しむべきではない」といい、東胡へ贈った。
これに更に甘く見た東胡は、再度使者を送り「両国のため、冒頓様の后の中から一人を頂きたい」と言った。部下達は「東胡はふざけすぎています。攻め込みましょう」と言ったのだが、冒頓単于は「后は何人もいる。隣り合う国なのに、一人の后を惜しむべきではない」と言い、東胡へ贈った。
また東胡から使者がやってきて、「両国の間で国境としている千余里の荒野を、東胡が占有することにしたい」と言ってきた。先の件では一致して反対した部下達も、遊牧民故に土地への執着が薄いこともあり二分された。その一方が「荒地など何の価値も有りません。与えても良いでしょう」と言った途端、冒頓単于は怒り「土地は国の根幹である!今与えても良いと言った者は斬り捨てろ!」と言い、馬に跨り「全国民に告ぐ!遅れたものは斬る!」と東胡へ攻め入った。一方の東胡は先の件もあって完全に油断しており、その侵攻を全く防げなかった。物は奪い、人は奴隷とし、東胡王を殺し、東胡を滅亡させた。
冒頓は続けて他の部族に対しても積極的な攻勢を行い、月氏を西方に逃亡させるなど勢力範囲を大きく広げ、広大な匈奴国家を打ち立てた。丁度中原は秦帝国崩壊から漢楚戦争の頃であり、北方を注視していなかったこともモンゴル高原の統一を容易にした。しかしそれは、中原を統一した漢との決戦がいずれ行われることを示していた。
ローマ・カルタゴ/
スキピオはヒスパニアの首都といえるカルタゴ・ノヴァ(現カルタヘナ)を強襲、制圧。その後、この町で職工などを雇い、新兵の訓練と武装の生産を急ピッチで進めた。
孝元天皇7年/前208年:癸巳
日本/2月2日、孝元天皇が、欝色謎命(うつしこめのみこと)を皇后に立てる。欝色謎命の父は大矢口宿禰命、母は坂戸由良都姫命。大綜麻杵命と坂戸由良都姫命の間に生まれた欝色雄命(うつしおのみこと:穂積氏の祖)を兄に持つ。皇后は後に二男一女を産んだ。長子は大彥命、末子は、稚日本根子彥大日々命(後の開化天皇)、娘は倭迹々姬命(やまとととひめのみこと)。また、立太子はされなかったが、少彥男心命という子もいたと言われている。大彥命の弟であったとの事。
孝元天皇はさらに二人の妃を娶った。一人は伊香色謎命という妃で、彥太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を産んだ。武內宿禰命の祖父である。
もう一人の妃は、河內靑玉繋の娘である埴安媛(はにやすひめ)で、武埴安彥命(たけはにやすひこのみこと)を産んだ。
※
欝色謎命の母である坂戸由良都姫は、第4代天之御影命である川枯彦命の娘である。三上氏の祖先。
大彥命は後の崇神天皇の御代に四道将軍の一人となり、北陸を治める。
武埴安彥命は、同じく崇神天皇の御代にて、後の妻の吾田媛とともに謀反を起こす事になる。
※
秦/
劉邦は甯君と共に秦軍と戦うが、敗れて引き上げ、新たに碭(現在の安徽省宿州市碭山県)を攻めてこれを落とし、ここにいた5、6千の兵を合わせ、さらに下邑(現在の安徽省宿州市碭山県)を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めて、やっとの思いで豊を陥落させた。雍歯は趙の武臣を頼って逃れた。
10月、秦/胡亥が罪人を大赦する。その後、胡亥は趙高を郎中令に任じて、政務を預けた。
11月、秦の将である章邯は陳において陳勝を破る。
12月、秦/秦代末期の反乱指導者/陳勝が部下に裏切られ死去。
6月、秦/項梁は范増から教えを請い旧王家の末裔・羋心を探し出してこれを「楚王」に祭り上げる。羋心は「懐王」を名乗り、大いに威勢を奮う。
7月、秦/項羽は劉邦とともに項梁の命令で城陽城を落とし、西に向かい秦軍を濮陽の東で撃破した。二人は、定陶城を攻めたが落とすことができず、さらに西に向かう。
8月、秦/雍丘において、秦の三川郡守である李由(李斯の長子)を討ち取る。引き返して、外黄を攻めたが、そこから去って陳留を攻める。
9月、秦/項梁が定陶で秦の章邯と戦い戦死。
9月、秦/楚の懐王、盱台から彭城に移り、総大将となる。懐王は、斉の使者に項梁の戦死を予言した宋義を楚軍を指揮する上将軍に任じ、項羽を次将にして魯公に任じる。
章邯に攻められていた趙の救援は宋義が当たることになり、項羽は項梁の仇を討つため劉邦とともに関中を入ることを望んだ。
しかし、懐王の老将たちから「項羽は勇猛ですが残忍で、以前、襄城で皆殺しを行い、通過する先々では残滅されないことはない」という反対があり、劉邦のみが関中に派遣され、西方の地を攻略することとなる。
宋義は趙の張耳・陳余の救援要請を受けて趙の鉅鹿へ向かったが、進軍を安陽までで止めてしまい、46日間安陽に留まる。
項羽は進軍すべきと宋義に直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破る」と言い、「狂暴で使命に従わないものは斬刑に処す」という項羽に対してあてこすった命令を全軍に出す。
宋義は斉と和親するため、斉の宰相に就任しようと楚軍から離れていく息子の宋襄を送るための大宴会を開く。その一方で、兵は飢え、凍えて苦しんでいた。
秦/秦代の政治家/李斯が死去。
エジプト/
上エジプトのテーベで独立した政権が樹立され、王朝の支配から完全に離れたものとなる。
ローマ・カルタゴ/
カルタゴのハスドルバルは反撃のため、分散していたマゴの軍と合流しようとした。これを察知したスキピオは、合流前に各個撃破するべくハスドルバルのもとへ急行し、バエクラの戦いでこれを破った。ここにおいてカルタゴのヒスパニアにおける支配力は低下した。
ハスドルバルはヒスパニアの放棄を決意し、ハンニバルの元へ最後の援軍を派遣するべく、自身軍団を率いてイタリアへ向かった。ハンニバルと同様に、アルプス越えをしてローマ軍の警戒線を抜けるつもりだった。
一方のローマ軍は兄弟の合流を防ぐため、マルクス・リウィウス・サリナトル指揮の2個軍団を急派して追跡させた。また、ハスドルバルがハンニバルに送った密使が、ハンニバルと対峙していたガイウス・クラウディウス・ネロの軍勢に捕えられた。ネロは密かに南イタリアからハスドルバルの軍勢を追うために、7千の軍勢を指揮して北イタリアに急行した。
ハスドルバルの軍団は、ガイウス・クラウディウス・ネロとマルクス・リウィウス・サリナトル率いるローマ軍に進軍を阻まれた。
孝元天皇8年/前207年:甲午
11月、秦/項羽は、「秦が趙を打ち破れば、さらに強大になる。懐王は宋義を上将軍に任じ、国運を託しているのに、宋義は兵を憐れまず、子の出世という私事ばかり考えている。社稷の臣ではない」と言い、懐王の命令と偽り、宋義が斉と謀り反逆したとして、宋義が帰ってきたところを殺害する。
諸将は項羽に従い、項羽を仮の上将軍とする。また、宋襄も追いかけて殺害した。懐王は、項羽を上将軍に任じ、項羽が趙救援の軍を率いることとなった。
項羽は北進を開始し、鉅鹿を包囲していた秦の章邯が率いる20万を超える大軍と決戦を行い、大勝利を挙げる(鉅鹿の戦い)。この戦いで数に劣る楚の兵は皆一人で十人の敵と戦ったと伝えられる。
12月、項羽の勇猛さと功績により各国の軍の指導者たちは項羽に服属し、項羽は各国諸侯の上将軍となり、諸侯の軍はその指揮下に入った。項羽はその後も章邯率いる秦軍を攻めて連戦連勝する。同年6月、章邯は配下の司馬欣や趙の陳余に降伏するよう進言を受け、項羽と盟約を結ぼうとする。この時の盟約は成立しなかったため、項羽はさらに章邯を攻撃して勝利して、章邯と盟約を結んだ。
7月、章邯は降伏し、雍王に引き立てることで、戦いは終わった。降伏した20万人以上の秦兵を先鋒にして、新安に進ませた。
スパルタ/
マカニダスが、マンティネイアに侵攻。
夏にマンティネイアにてフィロポイメン率いるアカイア同盟軍とマンティネイアの戦いで戦う。この戦いでスパルタ軍は敗れ、マカニダスはフィロポイメン自身によって討ち取られた。マカニダスの地位にはナビスが就いた。
ナビスは成長したペロプスが自身に取って代わることを恐れた。
ナビスはエウリュポン朝の王デマラトスの子孫を自称して、ペロプスから政権を奪取し廃位する。
エジプト/
プトレマイオス4世フィロパトルが急死。
マケドニア/
劣勢になりつつあるものの、いまだマケドニアは健在でピリッポス5世はにわかに勢力を増してきたアカイア同盟の指導者フィロポイメンに近づいてローマの隙を突いてペルガモンの勢力をギリシア本土から一掃、アイトリア地方の宗教的な中心地であるテルムムを陥落させ、アイトリアの諸都市を屈服させ、ローマの息のかかったギリシア諸都市とフォエニケの和約を結び、有利に戦局を進める事に成功した。時勢に乗るピリッポス5世はこれを機にセレウコス朝のアンティオコス3世と共同でまだ若年のプトレマイオス朝の王プトレマイオス5世の支配下にあったエーゲ海地方に進攻する。
ローマ・カルタゴ/
グルメントゥムの戦いが起こる。ガイウス・クラウディウス・ネロがハスドルバルと合流するために北上するハンニバルを攻撃。
メタウルスの戦いが起こる。ガイウス・クラウディウス・ネロ、マルクス・リウィウス・サリナトルがハスドルバルを破り、戦死させる。
ローマ軍に捕捉されたハスドルバルは、メタウルス川を戦場に選んだ。ハスドルバルは象を投入したが暴れて役に立たなかったため、象を殺して戦闘に突入した。ハスドルバルは当初兵力がローマ軍より多く、優勢だったが、執政官ネロは自軍の右翼からメタウルス川の岸に移動し、カルタゴ軍の右翼を攻撃し、地形を利用してカルタゴ軍を包囲し、殲滅した。混乱の中でハスドルバルは戦死した。
ハスドルバルの首は剥製にされ、ハンニバルの陣営に投げ込まれた。この時までハンニバルは、ハスドルバルのイタリア到着と死を知らなかったという。この戦いでの敗戦により、カルタゴ勝利の可能性は消え、ハンニバルはイタリア半島の先端に閉じ込められることになった。なお、執政官リウィウスの担当していた戦線で起こった戦いだったため、執政官ネロに凱旋式挙行は許されなかった。
孝元天皇9年/前206年:乙未
中国/
張良子房、劉邦と合流し、軍師となる。
10月、秦王子嬰が降伏。秦帝国は滅んで、1国としての秦国に規模が縮小する。
スパルタ/
ナビスがペロプスを処刑する。
ナビスは王を称したが、リヴィウスやポリュビオスは彼を王とは呼ばず、彼を僭主と呼んでいる。
権力を掌握したナビスは紀元前3世紀末の改革者クレオメネス3世の路線を取った。彼は裕福者を追放して彼らの土地の再分配を行い、多くの奴隷を解放して市民階級に上げた。こうした市民の増大は兵力の増大を意味しており、彼のスパルタ再興のための布石であった。リヴィウスとポリュビオスはナビスの評価について、軍事力と残虐さによって権力を掌握した血に飢えた暴君として言及している。
ローマ・カルタゴ/
イリッパの戦いが起こる。大スキピオがマゴ、ハスドルバル・ギスコを破る。
スキピオはイリパの戦いでカルタゴ軍の残存部隊を破り、間もなくヒスパニアの征服を完成した。マケドニアはカルタゴの敗勢を確信し、紀元前205年、カルタゴとの同盟を破棄してローマと講和を結んだ。これまでにマルケッルスやグラックスらを戦死に追いやったハンニバルだが、支援を完全に断たれてイタリア半島南端に封じ込められ、戦えばローマ軍を撃破し軍を維持したもののそれ以上の行動までは起こせなかった。
カルタゴのマゴのもとには、新たな傭兵を雇用するための軍資金が送られてきたが、大軍を編成するには十分ではなかった。このため、カディルの公共資産だけではなく、寺院の資産も供出させる必要があった。また、カルタゴ・ノウァ(現在のカルタヘナ)に対する海上からの襲撃にも資金が必要であった。この攻撃は失敗に終わり、マゴがカディルに戻ると城門が閉じられていた。このため、マゴはバレアレス諸島に向かい、メノルカ島に冬営地を設置した。
孝元天皇10年/前205年:丙申
中国/
秦の将軍/章邯が死去。
劉邦は味方する諸侯との56万と号する連合軍を引き連れて彭城へ入城した。入城した漢軍は勝利に浮かれてしまい、日夜城内で宴会を開き、女を追いかけ回すという有様となった。一方、彭城の陥落を聞いた項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、油断しきっていた漢軍を散々に打ち破った。この時の漢軍の死者は10万に上るとされ、川が死体のためにせき止められたという(彭城の戦い)。劉邦は慌てて脱出したが、劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。この大敗で、それまで劉邦に味方していた諸侯は一斉に楚になびいた。
劉邦は息子の劉盈(恵帝)と娘(魯元公主)と一緒に馬車に乗り、夏侯嬰が御者となって楚軍から必死に逃げていた。途中で追いつかれそうになったので、劉邦は車を軽くするために2人の子供を突き落とした。あわてて夏侯嬰が2人を拾ってきたが劉邦はその後も落とし続け、そのたびに夏侯嬰が拾ってきた。
劉邦は碭で兵を集めて一息ついたものの、ここで項羽に攻められれば防ぎきれないことは明らかだったので、随何に命じて楚軍の英布を味方に引き込むことに成功したが、英布は楚の武将・龍且と戦って破れ、劉邦軍と合流した。劉邦は道々兵を集めながら軍を滎陽に集め、周囲に甬道(壁に囲まれた道)を築いて食料を運び込ませ、篭城の用意を整えた。この時期、劉邦の幕僚に謀略家・陳平が加わっている。
その一方、別働隊に韓信を派遣し、魏・趙を攻めさせて項羽を背後から牽制しようとした。また元盗賊の彭越を使い、項羽軍の背後を襲わせた。
スパルタ/
ナビスが共和政ローマとの平和条約を結ぶ。
ローマ/
ペストが流行する。これはローマ軍、カルタゴ軍双方に大打撃を与え、加えてカルタゴ軍は食料不足に苦しんでいた。通常、執政官は年末には翌年の執政官選挙のためにローマに戻るが、年末になってもペストは蔓延しており、その深刻さのためにクラッススはローマに戻ることができなかった。
ローマ・カルタゴ/
夏、カルタゴ艦隊が突然にリグリアの海岸に出現した。軍艦30隻に加えて多くの輸送船を伴っており、14,000の陸上兵力を輸送していた。奇襲によってゲノアを陥とし、イングアニ族の土地に入り同盟関係を樹立した。また、エパンテリ族とも反ローマ同盟を結んだ。
リグリアとガリア・キサルピナはマゴの作戦に最適であった。第二次ポエニ戦争勃発前にも、ローマはポー平原で現地部族に対する勝利を収めており、殖民都市の建設を始めてはいたが、この土地のガリア人を完全に支配することはできていなかった。インスブリ族とボイイ族に率いられたガリア人は、ハンニバルの侵入(紀元前218年)直前にも反乱を起こしており、後にはハスドルバルの軍に加わっていた。マゴは南下してハンニバルとの合流する作戦であった。
ローマ元老院は重大な懸念を抱き、2つの軍をアリミヌム(現在のリミニ)とアッレティウム(現在のアレッツォ)に派遣し、マゴの南下を阻止しようとした。ローマはメタウルスの戦いの勝利によりガリア・キサルピナを征服したが、それを活用することに失敗した。しかし、マゴの上陸による危険は過大評価すべきではなかった。カルタゴからの援軍を受け取った後でも、カルタゴ軍の兵力は兵7,000、戦象7頭、軍艦25隻に過ぎず、ローマ軍の防衛線を打ち破るには全く不足していた。これがマゴがカルタゴ本国が望んだ、南下してハンニバルと合流するという目的を達成できなかった理由である。
スキピオの副官(レガトゥス)であるガイウス・ラエリウスがアフリカに上陸し、ヒッポ・レギウス(現在のアンナバ)付近を略奪したために、この状況に拍車がかかった。スキピオ自身によるアフリカ侵攻を阻止するため、カルタゴはあらゆる手段を講じた。背後の安全を確保するために、ヌミディアとの関係を再構築した。ローマ軍をイタリアに引き付けておくために、ブルティウムのハンニバルとインスブリアのマゴに援軍が送られ、マケドニアのピリッポス5世に外交使節を送り、イタリアまたはシチリアへの攻撃を依頼した。しかし、これらの試みの効果は大きくなかった。ピリッポスはプブリウス・センプロニウス・トゥディタヌスと講和して第一次マケドニア戦争は終了したためである。
スキピオは先の会戦でヌミディア王シュファクスを追撃して王位から引きずり下ろし、ローマ側についていたマシニッサをヌミディア王に即位させた。
孝元天皇11年/前204年:丁酉
中国/
楚軍の滎陽攻撃は激しく(滎陽の戦い)、甬道も破壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。ここで陳平は項羽軍に離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増・鍾離眜との間を裂くことに成功する。范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。
離間の計は成功したものの、漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を劉邦の影武者に仕立てて項羽に降伏させ、その隙を狙って劉邦本人は西へ脱出した。その後、滎陽は御史大夫の周苛、樅公が守り、しばらく持ちこたえたものの、項羽によって落とされた。
西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて滎陽を救援しようとした。しかし袁生が、真正面から戦ってもこれまでと同じことになる、南の武関から出陣して項羽をおびき寄せる方がいいと進言した。劉邦はこれに従って南の宛に入り、思惑通り項羽はそちらへ向かった。そこで項羽の後ろで彭越を策動させると、こらえ性のない項羽は再び軍を引き返して彭越を攻め、その間に、劉邦も引き返してくる項羽とまともに戦いたくないので、北に移動して成皋(現在の河南省鄭州市滎陽市)へと入った。項羽は戻ってきてこの城を囲み、劉邦は支えきれずに退却した。
夏侯嬰のみを供として敗走していた劉邦は、韓信軍が駐屯していた修武(現在の河南省焦作市修武県)へ行って、韓信が陣中で寝ているところに入り込み、韓信の軍隊を取り上げた。さらに劉邦は韓信に対して斉を攻めることを命じ、曹参と灌嬰を韓信の指揮下とした。また盧綰と従兄弟の劉賈を項羽の本拠地である楚へ派遣し、後方撹乱を行わせた。
韓信はその軍事的才能を遺憾なく発揮し、斉をあっさりと下し、楚から来た20万の軍勢と龍且をも討ち破った。ただ斉を攻める際に手違いがあり、斉に漢との同盟を説きに行った酈食其が殺されるということが起きている。
エジプト/
夏に彼女の影響力を恐れた廷臣たちのクーデターにより、女王アルシノエ3世が暗殺される。
アルシノエ3世を毒殺した廷臣ソシビオスとアガトクレスが幼少のプトレマイオス5世を擁立した。
ソシビオス、アガトクレスらが後見人として権勢を振るうが、やがて彼らに疑いの目が向けられる。
ローマ・カルタゴ/
ローマのスキピオがアフリカに上陸した。外部からの援助が期待できず、マゴもハンニバルもローマ軍に大きな圧力をかけることは出来なかった。ハンニバルとマゴの兄弟は、強大なローマ軍を挟んで南北に大きく隔たっていた。マゴは、2年前に兄のハスドルバルに与えられたのと同じ使命を果たすことを求められていた。メタウルスでのハスドルバルの戦死を踏まえて、ローマ軍に対する攻撃は十分に準備された後に行うべきと考えた。このため、ガリア人とリグリア人の首長達との会談を持ち、マゴの使命は彼らをローマから解放することであることを確認し、しかしそのためにはさらに多くの兵が必要であると訴えた。リグリア人は直ちに賛同したが、ガリア人は国境及び領内をローマ軍に脅かされているために、表立って反乱を起こすことは拒否した。その代わり、秘密裏に補給物質と傭兵を提供し、マゴの兵力は多少は拡大した。
同じころ、プロコンスルのマルクス・リウィウス・サリナトルがエトルリアからガリア・キサルピナに移動して、センプロニウス・ルクレティウスと合流し、マゴの進路を遮断した。しかし、リウィウスは防御態勢に徹していた。このため紀元前204年には大きな動きはなかった。マゴは兵力不足であり、ローマも長年の戦争に疲弊し、戦意も落ちていた。ラテン人の同盟都市の幾つかは、数年前からローマに兵・軍資金を提供するのを拒否しており、ローマの軍司令官はこれの対応に追われていた。このため、新しい兵の徴集を進める必要があった。
執政官の一人であるマルクス・コルネリウス・ケテグスは、エトルリア都市に反乱を起こさせるというマゴの謀略を阻止するために、エトルリアに留まる必要があった。
クロトナの戦いが起こる。
もう一人の執政官であるプブリウス・センプロニウス・トゥディタヌスは、ハンニバルに対抗するためにブルティウムに派遣された。
リウィウスによると、行軍中のハンニバル軍とセンプロニウス軍の間の遭遇戦であった。カルタゴ軍が勝利し、ローマ軍は戦死1,200の損害を受けて混乱のうちに野営地に撤退した。ハンニバルは防御された野営地を攻撃する準備はしておらず、このためローマ軍は一掃されることを免れた。とは言え、センプロニウスは激しい一撃を受け、新編成されたローマ軍2個軍団はカルタゴ軍に対抗できないと判断された。センプロニウスは翌日の夜には野営地を放棄し、プロコンスルのクラッススが招聘された。
センプロニウスはクラッススの軍と合流し、復讐を求めてクロトナに戻った。センプロニウスは彼の軍団を前線に配置し、クラッススの軍を予備とした。リウィウスの記載によれば、ハンニバルは2倍の兵力を有するローマ軍に対抗できず、戦死4,000、捕虜300の損害を受けてクロトナに撤退せざるを得なかった。しかし、ローマ軍がクロトナを攻撃したかは不明である。センプロニウスは他に関心を向け、クランペティアを攻撃した。コンセンティア、パンドシア、およびあまり重要ではない幾つかの都市が、自主的にローマ軍に降伏した。
孝元天皇12年/前203年:戊戌
中国/
劉邦は項羽と対陣して堅く守る作戦をとっていたが、一方で項羽の後ろで彭越を活動させ、楚軍の兵站を攻撃させていた。項羽は部下の曹咎に「15日で帰るから手出しをしないで守れ」と言い残して出陣し、彭越を追い散らしたが、曹咎は漢軍の挑発に耐えかねて出陣し、大敗していた。漢軍は項羽が帰ってくると再び防御に徹し、項羽が戦おうと挑んでもこれに応じなかった。
その頃、韓信は斉を完全に制圧し、劉邦に対して鎮撫のため仮の斉王になりたいとの使者を送ってきた。これを聞いた劉邦は怒って声を荒らげそうになったが、それを察知した張良と陳平に足を踏んで諫められ、もし韓信が離反してしまえば取り返しがつかないことを悟り、韓信を正式な斉王に封じた。
漢楚両軍は長い間対峙を続け、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた劉太公を引き出して大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ」と迫ったが、劉邦はかつて項羽と義兄弟の契りを結んでいたことを持ち出して「お前にとっても父親になるはずだから殺したら煮汁をくれ」とやり返した。次に項羽は「二人で一騎討ちをして決着をつけよう」と言ったが、劉邦は笑ってこれを受けなかった。そこで項羽は弩の上手い者を伏兵にして劉邦を狙撃させ、矢の1本が胸に命中した劉邦は大怪我をした。これを味方が知れば全軍が崩壊する危険があると考え、劉邦はとっさに足をさすり、「奴め、俺の指に当ておった」と言った。その後劉邦は重傷のため床に伏せたが、張良は劉邦を無理に立たせて軍中を回らせ、兵士の動揺を収めた。
一方、彭越の後方攪乱によって楚軍の食料は少なくなっていた。もはや漢も楚も疲れ果て、天下を半分に分けることを決めて講和した。この時、劉太公と呂雉は劉邦の下に戻ってきている。
ローマ・カルタゴ/
ウティカの戦いが起こる。大スキピオがハスドルバル・ギスコ、シュファクスを破る。
バグラデス川の戦いが起こる。大スキピオがハスドルバル・ギスコ、シュファクスを破る。
キルタの戦いが起こる。大スキピオの副官のガイウス・ラエリウスとマシニッサがシュファクスを破る。
ポー平原遠征が起こる。プブリウス・クインティリウス・ウァルス、マルクス・コルネリウス・ケテグスが、マゴを破る。
両軍は行動を開始した。プロコンスルのケテグスとプラエトルのウァルスはマゴに対抗するために4個軍団を率いてインスブリア族の土地(現在のミラノから遠くない場所)に入った。リウィウスの『ローマ史』によると、両軍とも2段構えの戦列を敷いた。ローマ軍は2個軍団を前方に、残り2個軍団と騎兵を後方に配置した。マゴは、裏切りの可能性を考慮してガリア兵を後方に配置し、また数頭の戦象も後方に置いた。現代の研究では、マゴの兵力は30,000以上であったと推測されている。
戦闘が開始されると、カルタゴ軍の前方戦列は健闘したが、後方のガリア兵は信頼できないことが判明した。ローマ軍はカルタゴ軍戦列を突破しようとしたが、失敗し逆に押し返された。そこで、ウァルスは騎兵(3,000ないし4,000)をカルタゴ軍戦列に突撃させ、混乱させようとした。しかしながら、マゴはこれを予測しており、戦象を前進させた。このためローマ騎兵の馬は恐怖に襲われ、散り散りになってしまった。これをヌミディアの軽騎兵が追撃した。続いて戦象はローマ歩兵に向かい、重大な損害を与えた。しかし、ケデグスが後方のローマ軍団を投入すると、カルタゴ軍の形勢は不利となった。戦象は投槍で攻撃され、多くは死にまた残りはカルタゴ軍に突っ込んだ。マゴはガリア兵にローマ軍の反撃を止めるように命じたが、失敗した。
リウィウスによると、カルタゴ軍は5,000を失って撤退した。加えて、マゴの大腿に槍が刺さり、瀕死の重傷を負った。他方、ローマ軍の損害も少なくなく、完勝というわけでもなかった。前方の2個軍団は2,300を失い、また後方の部隊も損害を受けた。この中には3人のトリブヌス(上級指揮官)が含まれる。騎兵の多くも戦死し、多くのエクィテス(騎士階級)が、戦象に踏み潰された。その夜、マゴは敗北を認め、ローマ軍を戦場に残してリグリアの海岸まで撤退した。
ハンニバルは十数年ぶりに故国カルタゴに戻る事となった。
孝元天皇13年/前202年:己亥
中国(前漢)/
劉邦、項羽を滅ぼし、前漢を建てる。(‐紀元後8年)
項羽は東へ引き上げ、劉邦も西へ引き上げようとしていたが、張良と陳平は退却する項羽の軍を攻めるよう進言した。もしここで両軍が引き上げれば楚軍は再び勢いを取り戻し、漢軍はもはやこれに対抗できないだろうというのである。劉邦はこれを容れて、項羽軍の後方を襲った。
劉邦は同時に、韓信と彭越に対しても兵士を連れて項羽攻撃に参加するように要請したが、どちらも来なかった。劉邦が恩賞の約束をしなかったからである。張良にそれを指摘された劉邦は思い切って韓信と彭越に大きな領地の約束をし、韓信軍と彭越軍を加えた劉邦軍は一気に膨張した。項羽に対して有利な立場に立ったことで、その他の諸侯の軍も雪崩をうって劉邦に味方し、ついに項羽を垓下に追い詰めた。
追い詰めはしたものの、やはり項羽と楚兵は勇猛であり、漢軍は連日大きな犠牲を出した。このため張良と韓信は無理に攻めず包囲しての兵糧攻めを行い、楚軍を崩壊させた。項羽は残った少数の兵を伴い包囲網を突破したが、楚へ逃亡することを潔しとせず、途中で漢の大軍と戦って自害した(垓下の戦い)。遂に項羽を倒した劉邦は、いまだ抵抗していた魯を下し、残党たちの心を静めるために項羽を厚く弔った。
劉邦は群臣の薦めを受けて、ついに皇帝に即位した。
論功行賞をした際、戦場の功のある曹参を第一に推す声が多かったが、劉邦はそれを退けて蕭何を第一とした。常に敗れ続けた劉邦は、蕭何が常に用意してくれた兵員と物資がなければとっくの昔に滅び去っていたことを知っていたのである。また韓信を楚王に、彭越を梁王に封じた。張良にも3万戸の領地を与えようとしたが、張良はこれを断った。また、劉邦を裏切って魏咎に就くなど、挙兵時から邪魔をし続けながら、最後はまたぬけぬけと漢中陣営に加わり、功こそあれど劉邦が殺したいほど憎んでいた雍歯を速やかに什方侯にした。これは、論功行賞で不平を招いて反乱が起きないための張良の策で、他の諸侯に「あの雍歯が賞せられたのだから、自分にもちゃんとした恩賞が下るだろう」と安心させる効果があった。
劉邦は最初洛陽を首都にしようと考えたが、劉敬が長安を首都にする利点を説き、張良もその意見に賛同すると、すぐさま長安に行幸し首都に定めた。
劉邦が家臣たちと酒宴を行っていた時、劉邦は「皆、わしが天下を勝ち取り、項羽が敗れた理由を言ってみよ」と言った。これに答えて高起と王陵が「陛下は傲慢で人を侮ります。これに対して項羽は仁慈で人を慈しみます。しかし陛下は功績があった者には惜しみなく領地を与え、天下の人々と利益を分かち合います。これに対して項羽は賢者を妬み、功績のある者に恩賞を与えようとしませんでした。これが天下を失った理由と存じます」と答えた。
劉邦は「貴公らは一を知って二を知らない。わしは張良のように策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決することは出来ない。わしは蕭何のように民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させることは出来ない。わしは韓信のように軍を率いて戦いに勝つことは出来ない。だが、わしはこの張良、蕭何、韓信という3人の英傑を見事に使いこなすことが出来た。反対に項羽は范増1人すら使いこなすことが出来なかった。これが、わしが天下を勝ち取った理由だ」と答え、その答えに群臣は敬服した。
7月、燕王臧荼が反乱を起こし、劉邦は親征してこれを下し、幼馴染の盧綰を燕王とした。その中で劉邦は次第に部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになった。特に韓信・彭越・英布の3人は領地も広く、百戦錬磨の武将であり、最も危険な存在であった。
ある時「韓信が反乱を企んでいる」と讒言する者があった。群臣たちは韓信に対する妬みもあり、これを討伐するべきだと言ったが、陳平は軍事の天才・韓信とまともに戦うのは危険であると説き、だまして捕らえることを提案した。劉邦はこれを受け入れて、巡幸に出るから韓信も来るようにと言いつけ、匿っていた鍾離眜の首を持参した韓信がやって来たところを虜にし、楚王から格下げして淮陰侯にした。
エジプト/
アガトクレス達に対してペルシオンの知事トレポレモスが反乱を起こし、アガトクレスが虐殺される。
プトレマイオス5世が即位する。
プトレマイオス5世はエジプトの住民からの支持を得るため、種々の方策を実施した。
セレウコス朝シリアとの戦争により、第五次シリア戦争が勃発。
シリアのアンティオコス3世(大王)はマケドニア王国のピリッポス5世とプトレマイオス朝がエジプト外に有する領土の分割を協議し、2つの国は連携してアナトリア半島やシリアに存在するプトレマイオス朝の支配地を攻撃した。
ローマ・カルタゴ/
クロトナの戦いはこの年にも継続されていたらしいが明確な記載はない。
敗北を喫したカルタゴは、イタリア半島のハンニバルを呼び戻して戦力を再編する一方で、ローマに休戦を打診した。 スキピオは以下の条件を提案した。
ローマ側では、元老院と市民集会がスキピオの条件を了承し、一時は休戦が結ばれるかと思われた。ところが、スキピオへ送られたローマの補給船団が嵐にあい、カルタゴから約40kmの海岸へ上陸したところを、カルタゴ海軍が拿捕するという事件が起こった。ローマは返還を要求したが、この事件とハンニバルの帰国で強気になったカルタゴは、上の条件を拒否し、和平交渉は決裂した。カルタゴはハドゥルメトゥムに上陸したハンニバルに、約50,000名の兵と80頭の戦象を派遣した。
スキピオ、ハンニバルの両名とも、当時の戦闘において騎兵が非常に重要であることを認識していた。ハンニバルはヌミディアを失ったことによる騎兵不足を補うため、逃亡中であるシファックスの息子に参戦を求めると、息子は騎兵2000を率いて参戦すると約束した。スキピオ側は、王になったばかりのマシニッサに参戦を求め、マシニッサは歩兵6000・騎兵4000で参戦すると約束した。
両軍は、これらヌミディアからの援軍と早めに合流するため、近づきつつも西へと行軍した。ハンニバルは行軍中、カルタゴ政府からの「早くスキピオを撃破せよ」との命令を拒絶している。
ハンニバルはザマの町に到着したところで、ローマ軍が100kmほど西にいることを知り、斥候を3人出した。しかし、これはローマ軍に捕らえられた。スキピオが斥候に目的を尋ねると、彼らは死を覚悟していたので偵察だと本当のことを答えた。スキピオは将官の1人に「彼らの望むものを全て見せよ」と言った。
斥候は3日かけてローマ軍の陣地を全て見てまわった。スキピオは偵察に満足したかを聞き、3人から「十分に見た」との答えを得ると、ハンニバルに全てを報告するように言って彼らを解放した。この間、マシニッサと彼の兵がローマ軍に合流している。
ハンニバルは斥候の報告を聞くと、スキピオに会談を申し入れた。
両軍はお互いに向かって進軍した。その6kmほどになったところでスキピオが使者を送ったため、両軍は停止し、陣地の設営を開始した。
翌日、スキピオとハンニバルはそれぞれ騎兵一隊を連れて、両軍の中間にある低い丘へ出向いた。2人とも丘の中腹ほどに騎兵を置き、通訳だけを連れて進み、会談を始めた。
ハンニバルは、一時はイタリア半島を席巻した自分が今は自国の危機を救う立場になっていることを挙げ、現状がどうあれ戦闘で国の運命を決めることは危険な賭けであると説き、ローマがシチリア、サルデーニャ、スペインを領有することを条件に和平を提案した。スキピオは、この戦争を始めたのがカルタゴ側であること、ハンニバルのイタリア撤退が自発的なものではなくローマのアフリカ侵攻を受けてのものであることを挙げ、和平の条件を変えるわけにはいかないと言った。会談は終わり、明朝に決戦が行われることになった。
ザマの戦いが起こる。
スキピオは、重装歩兵を中央に配置、その前面に軽装歩兵を展開させ、左翼にローマ騎兵、右翼にヌミディア騎兵を配置した。敵軍に戦象が存在することを知ったスキピオは、各中隊(マニプルス)の間隔を広めにとらせ、隊列に抜け道を作り出すことによって戦象の突撃を逸らせるようにした。彼は直進のみで小回り利かない象の習性を熟知していたわけである。スキピオ自身は中央で指揮を執り、左翼のローマ騎兵はガイウス・ラエリウス、右翼のヌミディア騎兵はマシニッサに指揮を任せた。ローマ軍の戦術目的は、数において優勢にある騎兵を活かした敵軍の包囲にあった。スキピオはカルタゴ軍によってローマ軍が包囲殲滅されたカンナエの戦いの再現を狙っていた。
ハンニバルは、最前列に戦象を配置、その後方に三列の歩兵戦列を並べ、その両翼には半数に分けた騎兵を置いた。カルタゴ軍の歩兵は、リグリア人やケルト人からなる傭兵、リビア人およびカルタゴ市民兵、イタリア以来の古参兵という三種類に大別できる。ハンニバルはこれを戦力として信頼できない順番、すなわち傭兵、市民兵、古参兵の順番に並べていた。これまでの戦術の要となっていた騎兵戦力で劣るハンニバルは、歩兵による中央突破を意図しており、そのための総予備が信頼する古参兵であった。前二列は敵の疲労を誘うためのいわば捨て石であり、戦象も敵の戦列を混乱させるためであった。歩兵戦列の第一列はマゴ、第二列はハンノ・ボミルカルに指揮させ、ハンニバル自身は第三列の指揮を執った。
戦いは戦象による突撃で始まった。しかし、スキピオの事前の配置が活き、戦象はローマ軍の隊列の隙間を通り抜け、突撃は大きな効果をもたらさなかった。前進以外の行動が不可能である戦象は、方向転換のために停止したところを、ローマ軍軽装歩兵の投槍や鉦によって混乱し、無力化してしまった。戦象の突撃失敗を見たハンニバルは、自軍の騎兵を後退させた。ローマ軍騎兵は直ちに追撃を開始したが、これはハンニバルによる陽動作戦だった。ハンニバルは自軍の騎兵戦力が劣勢であることを知り、偽装後退させることによって、追撃に向かうローマ軍の騎兵を戦場から引き離そうとしたのだ。この狙いが成功したカルタゴ軍は、騎兵の脅威を気にすることなく、歩兵同士の戦いに移行することができた。
しかしながら、歩兵同士の戦いは、傭兵からなるカルタゴ軍に対し、質で勝るローマ軍が有利だった。カルタゴ軍第一列の傭兵は、ほどなく圧倒されだした。ハンニバルは第二列の市民兵に攻撃を命令したが、大半が新兵で構成されていた第二列は、怖気づいて前進を拒否した。そのため、第一列と第二列の間で同士討ちまで発生した。やむなくハンニバルは事前の予定よりも早く第三列の古参兵を投入することにした。
疲労したローマ軍に対し、第三列の古参兵は優勢に戦闘を進めた。ローマ軍戦列中央を大きく押し込んだが、このためにカルタゴ軍は、湾曲したローマ軍戦列の両翼に包み込まれるような形になっていた。中央を突破すればカルタゴ軍の勝利は確実だったが、そうなる前に、カルタゴ軍騎兵を駆逐したローマ軍騎兵が戦場へ復帰した。ローマ軍騎兵はカルタゴ軍の後方へ回り込み、歩兵戦列の両翼もカルタゴ軍の側面へ機動した。スキピオの企図したとおりにカンナエの包囲が再現された。包囲されたカルタゴ軍はパニックに陥り、傭兵や市民兵は大半が降伏した。古参兵は必死に抵抗したが、そのために彼らは殲滅された。
この戦闘で、カルタゴ軍は約20,000名の死傷者を出し、15,000名が捕虜となった。ハンニバル自身はわずかな供回りとともに逃亡した。一方、ローマ軍の損害は戦死1,500名、負傷4,000名ほどであった。
ザマの戦いに敗れたカルタゴは、スキピオに講和を申し入れた。
カルタゴは条約を受け入れた。これによって、カルタゴは海外領土および海軍力をほぼ喪失し、ローマの地中海における覇権が確立することとなった。
カルタゴはローマの同盟国になることを強要され、膨大な賠償金を課せられ、国の前途も危ぶまれた。しかしそれまでカルタゴの政治を牛耳っていた貴族たちが権勢を失い、敗軍の将であるハンニバルの返り咲きが可能になった。彼は先頭に立って母国の経済建て直しを図る。
ハンニバルは行政の長であるスッフェトに選ばれ、改革の陣頭指揮を取る。まず名誉職に過ぎなくなっていたスッフェトの権限を回復し、自分に権限を集中させた。次いでカルタゴの行政母体である「104人委員会」の改革に着手する。直接選挙によって議員を任命することとし、また民衆の支持を背景に議員の任期を終身から2年へと変更した。ハンニバルの行政改革は効果を挙げた。そして改革の結果賠償金返済を完遂し、彼は軍人としてのみならず政治家としての手腕の高さも証明した。
孝元天皇14年/前201年:庚子
前漢/
匈奴に攻められて降った韓王信がそのまま反乱を起こした。劉邦はまた親征してこれを下した。
マケドニア/
マケドニアの攻勢を恐れるペルガモン、ロドスなど他のギリシア諸都市が、ピリッポス5世を海戦で破る。この同時期に西方のローマもカルタゴを下していた。
第2次ポエニ戦争が終わり、カルタゴの脅威がなくなると共和政ローマとの関係に軋轢が生じる。
スパルタ/
ナビスが、スパルタおよびローマ両国の同盟国で紀元前4世紀まではスパルタの支配下にあったメッセニアに侵攻して、これを占領した。
次の年代:
紀元前200年〜紀元前150年