前の年代:
紀元前400年〜紀元前300年
紀元前300年 〜 紀元前250年
孝安天皇93年/前300年:辛酉
セレウコスの勢力が強大化する。これを重くみたプトレマイオスは、リュシマコスに娘のアルシノエを嫁がせ、同盟を結んだ。
この動きにたいして、セレウコスは敗走したデメトリオスと同盟を結び、対立する事となる。
田斉において、宣王の子である田地が継承し、湣王(びんおう)として即位。
宣王の葬儀について、蘇秦が盛大に行うべきと進言した。これは、この時既に強大であった斉の財力を疲弊させるためであった。
蘇秦が湣王に取り立てられる。しかし、これを快く思わない対立者により蘇秦が刺客に暗殺される。
しかし、蘇秦は死ぬ間際に湣王に対して、刺客をおびき出す手立てを授けていた。
蘇秦は「私が死んだら私の遺体に対し車裂きの刑に処し、『蘇秦は燕のために斉で謀反を企てた』としてください。そうすれば私を殺した者が出てくるでしょう」と言った。
湣王は蘇秦の遺言に従い、蘇秦の遺体を車裂きの刑に処し、蘇秦が燕のために謀反を仕向けたと述べた。
湣王は蘇秦を暗殺した者を探すため、名乗り出た者に1000元の報奨を約束した。
すると4人が名乗り出てきた。4人とも自分が殺したと譲らなかった。すると4人は報奨の1000元を4人で分けることにしたと湣王に告げた。
これに湣王は怒り、4人とも斬り捨てた。
孝安天皇94年/前299年:壬戌
プトレマイオスの息子であるケラウノスが、プトレマイオスと対立。プトレマイオスはこれを後継者とせずにエジプトから追放した。
ケラウノスは密かにアルシノエの元に向かい身を潜めた。
田斉の湣王が、楚の宰相唐眜率いる軍勢を打ち破る。
秦の昭襄王は孟嘗君(田文)を宰相として迎え入れようとした。
孟嘗君はこれに応えて秦に入ったが、ある人が昭襄王に「孟嘗君は当代一流の人材であるが斉の人間であるから、秦の宰相になっても斉の利を優先するに違いない。斉に帰せば秦の脅威となる」と進言した。
昭襄王はこれを容れて孟嘗君が滞在している屋敷を包囲させ、孟嘗君の命は危うくなった。
孟嘗君は食客を使って昭襄王の寵姫に命乞いをしたが、寵姫は孟嘗君の持つ宝物「狐白裘(こはくきゅう)」と引き替えなら昭襄王に助命を頼んでも良いという。
しかし、孟嘗君は秦に入国する前に昭襄王にこれを献上していた。悩んでいた所、食客の一人である狗盗(犬のようにすばしこい泥棒)が名乗り出て、昭襄王の蔵から狐白裘を盗んできた。
これを寵姫に渡すと、その取り成しによって屋敷の包囲は解かれ、孟嘗君はひとまず危機を逃れることができた。
しかし昭襄王の気がいつ変わるかわからない。そこで孟嘗君は急いで帰国の途に着き、夜中に国境の函谷関までたどり着いた。
しかし関は夜間は閉じられており、朝になって鶏の声がするまでは開けないのが規則だった。すでに気の変わった昭襄王は追っ手を差し向けており、孟嘗君もそれを察して困っていたところ、食客の一人である物真似の名人が名乗り出た。
そして彼が鶏の鳴きまねをすると、それにつられて本物の鶏も鳴き始め、これによって開かれた函谷関を抜けて、孟嘗君は秦を脱出することができた。
昭襄王の追っ手は夜明け頃に函谷関へ着いたが、孟嘗君らが夜中に関を通ったことを知ると引き返した。こうして孟嘗君一行は虎口を脱した。
常日頃、学者や武芸者などの食客は、孟嘗君が盗みや物真似の芸しか持たないような者すら食客として受け入れていたことに不満だったが、このときばかりは孟嘗君の先見の明に感心した。
「つまらない才能」あるいは「つまらない特技でも、何かの役に立つ」を意味する鶏鳴狗盗(けいめいくとう)の故事はここから来ている。
秦から斉への帰途、趙の村に立ち寄ったとき、孟嘗君は村人から背の低いことを馬鹿にされた。
これに怒った孟嘗君は、食客と共に村人を皆殺しにした。
孝安天皇95年/前298年:癸亥
斉に帰った孟嘗君を、湣王は宰相として迎え入れた。
孟嘗君は匡章を統帥とする韓・魏との連合軍で秦を討つ。
孝安天皇96年/前297年:甲子
アンティパトロス朝のカッサンドロスが浮腫で死去する。
田斉の湣王は、父宣王の代から宰相を務める一族の孟嘗君に命じて韓・魏とともに秦を破り函谷関で布陣、その間に趙と共に中山国を滅ぼした。
孝安天皇97年/前296年:乙丑
韓の襄王が死去。襄王の子である釐王(きおう)が、後を継いだ。
宰相は姫開地の子である姫平が務めた。
孝安天皇98年/前295年:丙寅
戦国時代の趙の君主/武霊王が死去。
孝安天皇99年/前294年:丁卯
徐福が渡来する。
孝安天皇100年/前293年:戊辰
『史記』によれば、韓が魏や周と連合し、24万におよぶ大軍を動員し、魏の公孫喜に総指揮を委ねて秦を攻撃した。
秦の猛将/白起が、左更にすすみ、韓・魏を攻め、伊闕の戦いで24万を斬首した。さらに韓将公孫喜を捕え、5城を落とした。
孝安天皇101年/前292年:己巳
『史記』によれば、秦の猛将/白起が、魏を攻め、大小61城を落とした。
孝安天皇102年/前291年:庚午
日本/1月、孝安天皇が崩御。
秦の将軍司馬錯が、魏を討ち、軹・鄧を取った。また、白起と共に垣の城を落とした。
韓が秦の攻撃を受けて宛を失陥した。
孝霊天皇元年/前290年:辛未
孝霊天皇が即位。尊皇后曰皇太后。
『古事記』では、大倭根子日子賦斗邇(おほやまとねこひこふとこ)命と表記されている。 『日本書紀』は、大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)。欠史八代の一人で、実在しないと考えられている。(実在の人物とする説もある)
黒田(くろた)の廬戸(いほど)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしめしき。(この後は、四人の比売(ひめ)を娶って、八人の御子をもうけ、一人は天皇の位につき、あとの御子はそれぞれ吉備国などの祖になった、と記す。)天皇の御年、一百六歳(ももあまりむとせ)。御陵は片岡の馬坂の上にあり。(『古事記』)。黒田の廬戸宮は、奈良県磯城郡。
中国/韓が秦に武遂の地200里を割譲。
孝霊天皇2年/前289年:壬申
日本/2月、立細媛命、爲皇后。一云、春日千乳早山香媛。一云、十市縣主等祖女眞舌媛也。后生大日本根子彥國牽天皇。妃倭國香媛亦名絚某姉、生倭迹々日百襲姬命・彥五十狹芹彥命亦名吉備津彥命・倭迹々稚屋姬命。亦妃絚某弟、生彥狹嶋命・稚武彥命。弟稚武彥命、是吉備臣之始祖也。
中国/秦の将軍司馬錯が、魏を討ち、垣・河雍・決橋を取った。
天竺/マガダ国内において、ナンダ朝が完全にマウリヤ朝チャンドラグプタ王によって制圧される。
マウリヤ朝のバラ門であるカウティリヤが最期の王ダナ(ダナナンダ)を処刑。ナンダ朝が滅亡する。
前???年
斉が富強になると湣王は増長し、他国に強圧的な外交を行うようになる。
そしてそれを諌める孟嘗君と、「孟嘗君あっての斉」という風評を疎ましく思うようになり、湣王は宰相の孟嘗君を罷免する。
宰相を罷免されたことで、孟嘗君のもとにいた3000人の食客も立ち去っていったが、馮驩(ふうかん)という食客だけは残った。
孝霊天皇3年/前288年:癸酉
田斉の湣王が東帝を称し、秦の昭襄王が西帝を称した。
その時、蘇代が斉に入り湣王に対し「今帝位を称しても、各国は強大な秦になびくだけなので、帝位を称さずに王位を称して、桀宋(宋の康王が暴君だったために名声が低く、かつての夏の桀になぞらえ桀宋と呼ばれていた)を討てば名声が高まるでしょう」と説いたため、東帝を称すのを止めた。
孝霊天皇4年/前287年:甲戌
数学者・物理学者
シュラクサイのアルキメデスが生まれる。(‐紀元前212年)
前???年
馮驩は孟嘗君を斉の宰相に復職させるため策を用いて宰相に復職させた。
孟嘗君が斉の宰相に復職すると、馮驩は立ち去った食客たちを呼び戻すように進言した。
しかし孟嘗君は自分が貧窮していたときに立ち去った食客を詰った。
それに対し馮驩は好悪の情で去ったのではなく自分の識見を活かせなくなったので去っただけと諭して呼び戻すことを認めさせた。
孝霊天皇5年/前286年:乙亥
秦の将軍司馬錯が、魏の河内を攻め、魏は安邑を秦に献じた。
韓軍が秦軍に夏山で敗れた。
田斉の湣王は、宋を滅ぼした。
この頃、斉最大の支配地を得たため高慢になっていた湣王は、孟嘗君を疎ましくなって殺そうと画策する。
楚は国が裂かれ、趙・魏・韓・燕は領土を奪われ、泗水沿岸の魯などの諸侯は事実上属国になり、秦も斉の強大化に危機感を抱き始めるなど、湣王は他国に大きく恨まれていた。
特に父王を斉に殺された燕の昭王は恨みが高く、各国から人材を集め斉を攻めるため楚・趙・魏・韓・秦と同盟を計っていた。
孝霊天皇7年/前284年:丁丑
田斉の宰相であった孟嘗君が魏に逃亡し、魏は孟嘗君を宰相として迎えた。
韓の釐王が秦の昭襄王と西周(王城)で会合し、斉を攻撃する連合軍に参加した。
燕の楽毅が率いる5ヶ国の連合軍が斉を攻め、斉は済西で打ち破られ、首都臨淄も陥落し、これまで蓄積した財宝・資材すべてを燕に奪われる。
それから、斉の70余の城を次々と落とされ、各城の太守が楽毅の勢いに驚き降伏してしまうほどであった。斉は最終的に莒(草かんむりに呂)、即墨の2城だけを残すだけになった。
湣王は楽毅の軍勢に対し、2城で抵抗を続けるが、楚が援助に使わして宰相になっていた淖歯によって殺される。
田斉の君主であった湣王が死去。
その後、湣王殺害に怒った民衆により淖歯が殺され、湣王の子の法章(襄王)が擁立されて即位する。
孝霊天皇9年/前282年:己卯
韓の釐王が秦の昭襄王と新城で会合。
マケドニア/
リュシマコス王がが後継者問題で対立した息子アガトクレスを処刑。
ケラウノスは同母妹でアガトクレスの妻リュサンドラの味方につき、シリア王セレウコス1世の許へ助けを求めに向かった。
セレウコスは対リュシマコスの兵を挙げてリュシマコスが支配していた小アジアに侵攻する。
孝霊天皇10年/前281年:庚辰
マケドニア/
コルペディオンの戦いで、シリア王セレウコス1世が、マケドニア王リュシマコスに勝利し、敗死させる。
数ヶ月後、ケラウノスは、セレウコスには、ケラウノスの登位を援助する意思がないことに気づいたため、セレウコスを暗殺。
そして、ケラウノスはこれをリュシマコスの復讐としてアピールし、マケドニア(プトレマイオス朝)の王位に就くことを宣言した。
彼はリュシマコスの後継者としての地位を印象づけるためにリュシマコスの寡婦となったアルシオネに結婚を申し込んだ。
アルシオネと結婚したケラウノスはアルシオネの子供たちを殺し、彼女をサモトラキアへと追放して彼女が支配していたカッサンドレイア市を奪った。
また、エピロス王ピュロスと同盟を結び、ピュロスのイタリア遠征の際には歩兵5000人、騎兵4000騎、戦象50頭を貸した。
マケドニアの王位についたケラウノスはセレウコスの子アンティオコス1世、マケドニア王位を狙うアンティゴノス2世とギリシアを舞台に戦い、アンティゴノスを破り、アンティオコスと講和した。
孝霊天皇11年/前280年:辛巳
秦の将軍司馬錯が、隴西から兵を出して蜀に出て楚を討ち、黥中を取った。また、罪人を赦して南陽に移した。
戦国時代の政治家。法家の代表的人物/韓非が生まれる。( - 前233年)
ローマ/
ヘラクレアの戦いがおこる。
エピロス王ピュロスがローマ軍に勝利する。
孝霊天皇12年/前279年:壬午
戦国時代の政治家。戦国四君の一人、孟嘗君が死去。
ローマ/
アスクルムの戦いがおこる。
エピロス王ピュロスがローマ軍に勝利する。
マケドニア/
ガリア人がマケドニアとギリシアに侵入。
マケドニアの王、プトレマイオス・ケラウノスが死去。
それに際してダルダニ族からの援軍の申し出を受けたケラウノスはそれを断り、自力でガリア人を撃退しようとした。
さらにガリア人からケラウノスを試すために講和の申し出が来たが、それは自分を恐れてのことだと思い込んだケラウノスはそれを拒絶した。
それから数日後にケラウノスはガリア人と戦ったが、彼は遅れてやって来る味方の増援を待たずに敵と戦って敗死、その首は槍に付けられて戦場を引き回された。
ケラウノスの次の王位には弟のメレアグロスがついた。
2ヶ月の統治後、カッサンドロスの甥であるエテシアスによって廃位された。
エテシアスは、アンティパトロス朝を樹立し、王位についた。
しかし、在位45日において、親族のソステネスがエテシアス王を追い出して、自らが王位に就いた。
マケドニア王国の臣は、エピロス王ピュロスに対して、密かに「ガリア人に殺されたケラウノス王(プトレマイオスの息子)の後を継いで王になって欲しい」という要請を出す。
孝霊天皇13年/前278年:癸未
秦の猛将/白起が、楚を攻め、鄢郢の戦い(中国語版)で楚の首都郢を落とした。このため、楚は陳に遷都した。
同年、武安君の称を賜っている。
燕において、昭王が急死。太子時代から楽毅を嫌う恵王が即位する。騎劫と交代を命じられたため、暗殺を恐れた楽毅が趙に亡命、その隙に斉の田単が燕の軍勢を打ち破り、燕に奪われた70余の城を奪い返す。
だが、斉にかつての繁栄は無く、秦のみが強大な戦力を保有し、秦の侵攻を食い止める力は失われた。
マケドニア/
ソステネス王が、ブレンヌス率いるガリア人との戦いで敗れる。
孝霊天皇14年/前277年:甲申
マケドニア/
ソステネス王がアンティゴノス2世ゴナタスによって殺される。これにより、アンティパトロス朝は完全に断絶。
ギリシア/
エピロス王ピュロスがカルタゴ側で最大の要塞都市エリュクスを陥落させる。これに対しカルタゴは賠償金の支払いと軍船の提供を提案したが、自分の帝国を築くことが目的のピュロスはカルタゴがシチリアから完全に手を引くことを譲らなかった。その後もカルタゴを破ったものの、専制的に振舞ったためシチリア諸都市の反感を買い、諸都市からの支援が受けられずタラスへの撤退を余儀なくされた。
孝霊天皇15年/前276年:乙酉
天文学者・数学者・地理学者エラトステネスが生まれる。(‐紀元前194年頃)
マケドニア/
アンティゴノス2世ゴナタスがマケドニア王として即位する。
これにより、アンティゴノス朝が復活する。
孝霊天皇16年/前275年:丙戌
韓の釐王が将軍暴鳶を派遣して魏を救援したが、秦軍に敗れ、暴鳶は開封に逃れた。
ローマ/
ベネウェントゥムの戦いが起こる。
エピロス王ピュロスが再度ローマ軍と戦うも敗北し、エピロスへと撤退。
孝霊天皇17年/前274年:丁亥
マケドニア/
エピロス王ピュロスが要請を受けて、マケドニアに進行する。
アンティゴノス2世が、エピロス王ピュロスによって王位を追われる。
エピロス王ピュロスが、マケドニアの王位に就く。
孝霊天皇18年/前273年:戊子
韓の華陽が趙・魏連合軍の攻撃を受け占拠される。韓は秦に使者を送って救援を求めたが、秦は救援の軍は出さなかった。
韓の相国は陳筮に頼んで秦に赴かせ、陳筮は秦の穣侯魏冄に面会した。魏冄は救援軍の派遣を約束し、白起を派遣した。
秦の猛将白起は8日で到着し、魏の華陽を攻め、華陽の戦いで韓・魏・趙の将軍を捕え、13万を斬首した。また趙将賈偃と戦い、その士卒2万を黄河に沈めた。
孝霊天皇19年/前272年:己丑
マケドニア/
追放されたスパルタの王族クレオニュモスから援軍要請が入ったため、エピロス王ピュロスは、マケドニアを息子アレクサンドロス2世に任せて自身はペロポネソス半島へ遠征する。
しかし、その留守を突かれてアンティゴノス2世にマケドニアを脅かされる事となった。
エピロス王ピュロスは、スパルタ王アレウス1世の帰還、コリントスからの援軍の到着などで劣勢となり撤退した。
次にアルゴスの政争に介入し、その市街戦の最中に名もない女性に瓦を落とされ気絶したところを殺された。
ピュロスの死後、アレクサンドロス2世が王位を継いだ。
エピロス王ピュロスの報を受けたアンティゴノス2世は、アレクサンドロス2世を追い出そうと動くも、兵士の裏切りによってマケドニアを奪うことはできなかった。しかし、アンティゴノス2世の子デメトリオス2世が、軍を再建し、再度マケドニアに攻め入る。アレクサンドロス2世は敗走し、アンティゴノス2世が再びマケドニアの王位に就いた。
ギリシア/
ラコニアに攻め込んだエピロス王ピュロスをアレウス1世が撃退し、ペロポネソス同盟を再結成した。
孝霊天皇20年/前271年:庚寅
マケドニア/
アンティゴノス2世は、アレクサンドロス2世を追い出したのち、エピロスをも占拠する。これによりマケドニアが徐々に強大化。
アレクサンドロス2世はエピロスおも失うことになった。
エピロス/
敗走したアレクサンドロス2世は、アカルナニアに亡命する。そこでアカルナニア人の助けを受けてエピロスを回復した。
その後、アレクサンドロス2世は、アイトリア人と同盟してアカルナニアの諸都市を分け合い、領土を拡大していく。
孝霊天皇22年/前269年:壬辰
秦の武将胡傷(コショウ)、趙の閼与(あつよ)を攻めるが、趙奢(ちょうしゃ)の奇策にはまり、大敗した。
孝霊天皇23年/前268年:癸巳
インド/
マウリア朝第3代アショカ王が即位。
ギリシア/
ガリア人を駆逐して成立したアンティゴノス朝マケドニアはギリシアに覇を唱えていたが、アテナイやスパルタなどの有力国はそのアンティゴノス朝の影響力に懸念を抱いており、なんとかして打ち倒したいと考えていた。エーゲ海の支配者の座を狙うプトレマイオス朝エジプトもアンティゴノス朝に脅威を感じており、利害の一致した彼らは、反アンティゴノス同盟を結成するに至った。
孝霊天皇24年/前267年:甲午
ギリシア/
クレモニデス戦争が起こる。
反アンティゴノス同盟とマケドニアとの衝突で、各地で小規模な紛争が勃発する。
孝霊天皇25年/前266年:乙未
ギリシア/
プトレマイオス朝からパトロクロスを将軍として艦隊が派遣される。しかし、関わらず、アンティゴノス朝はこれに応戦し、徐々に優勢になっていく。
孝霊天皇26年/前265年:丙申
ギリシア/
コリントス近郊で行われた戦いにおいて小クラテロス率いるアンティゴノス朝が勝利を得て、スパルタ王アレウス1世が戦死する。
反アンティゴノス同盟の主力であったスパルタ軍が敗北したことで、アテナイ軍は防戦一方になり、城壁に籠りプトレマイオス朝の援軍をひたすら待たざるを得なくなってしまった。プトレマイオス朝の支援は間に合わず、アテナイは攻囲されることになる。
スパルタ/
スパルタ王アレウス1世が戦死した報により、息子のアクロタトスが王位を継いだ。
孝霊天皇???年/暦年不詳
孝霊天皇の皇子である、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)と弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)が、針間(後の播磨国)に派遣される。
吉備津神社の伝承によれば、この当時の吉備国には、異国より飛来した温羅(うら)という渡来人が、鉄文化を中心とする独自の国を作り上げていた。
伝承をままにたよれば、温羅(うら)の目は狼のように爛々と輝き、髪は赤々と燃えるが如く、そして身長は一丈四尺にもおよび腕力は人並みはずれて強く、性格は荒々しく凶悪そのものであった。
温羅は新山に城を築き都へ向かう船や婦女子を襲っていたので、人々は温羅の居城を鬼の城と呼び恐れおののいていたという。
都の朝廷もこれを憂い、名のある武将を遣わして討伐しようとしたが、すばしこく変幻自在の温羅を誰も討伐できず都に逃げ帰る有り様であった。
そこで五十狭芹彦命が派遣されることになったという。大軍を率いて吉備国に下って来られた命は吉備の中山に陣を敷いた。
犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来とともに彦五十狭芹彦命は温羅を討伐した。
捕えられた温羅は命に降参して、人民から呼ばれていた「吉備冠者」を五十狭芹彦命に献上した。この事から五十狭芹彦命は、吉備津彦命と呼ばれる事となった。
温羅の首を打ち取った吉備津彦命は、その祟りを恐れ、吉備津神社の釜の下に封じた。
※
一般的には、この伝承が日本の童話「桃太郎」の原型となっていると考えられている。
温羅は、百済の皇子とする説があるが、それは後世においての後付けでしかなく、大陸から渡ってきた者と考えるほうが自然。
また、伝承では温羅は恐ろしい存在として伝わっているが、これは当時の朝廷(孝霊天皇)に叛意を示していたためとも考えられる。
飛騨国の両面宿儺、河内国鬼住村の女性の鬼の伝承に並び、朝廷に叛意を持つ国もしくは長は後世において「鬼」として扱われ、鬼退治の話に集約されていく。
孝霊天皇27年/前264年:丁酉
秦の猛将白起が、韓の陘城を攻め、陘城の戦いで5城を落とし、5万を斬首した。
ローマ・カルタゴ・シチリア/
ローマとカルタゴとの間に第一次ポエニ戦争始まる。
シチリア島は西半分がカルタゴ領で、東半分がギリシア人勢力のシラクサが抑えていた。
北東にあるメッシーナはシラクサより離反したカンパニア人の傭兵部隊マメルティニが占領していた。
シラクサの僭主ヒエロン2世は、マメルティニに対して攻撃を開始した。マメルティニはローマとカルタゴの両方に助けを求めたが、これが原因で、ローマとカルタゴの衝突が大規模な戦争へと発展する。
出兵はカルタゴの方が早かったが、ローマもマメルティニと同盟を結び紀元前に出兵した。
マメルティニはカルタゴ軍を追い出してローマ軍を市内に入れたが、カルタゴ軍は城外には出たもののそこから撤退せず、またシラクサ軍も近くに陣を構えていた。3つ巴の状態となるが、ローマ軍は出撃し、カルタゴ・シラクサ両軍に勝利し、ローマとカルタゴはシチリアの覇権をかけた戦いに突入する。
孝霊天皇28年/前263年:戊戌
ローマ・カルタゴ・シチリア/
シラクサはローマと講和して同盟を結び、カルタゴ軍と衝突。
孝霊天皇29年/前262年:己亥
ローマ・カルタゴ・シチリア/
ローマはカルタゴが守るアグリゲントゥム(現アグリジェント)を攻略した。続いてローマはカルタゴの補給を断つため大艦隊を建造した。当初は劣勢であったもののカラス装置(コルウス)を用いた接舷戦闘を編み出していくつかの海戦に勝利し、海上でも優勢を保つようになった。
ギリシア/
アテナイは攻囲された反アンティゴノス同盟が、マケドニアに降伏。
スパルタ/
スパルタ王アクロタトスが、メガロポリスに侵攻する。(ここでいうメガロポリスは実際にあった都市の事。現代語のメガロポリスとは異なる)
僭主アリストデモスと戦い、双方多数の戦死者を出したもののアクロタトスが戦死した。
アクロタトスはこの時に身篭っていたため、後に生まれたアレウス2世が王位を継いだ。
孝霊天皇30年/前261年:庚子
アショカ王がカリンガ国を征服。
ギリシア/
反アンティゴノス同盟の援軍支援により、遅れて到着したプトレマイオス朝の艦隊は、コスの海戦にてアンティゴノス朝艦隊に敗北する。
海戦で敗北したプトレマイオス朝は、エーゲ海での影響力を弱める結果となった。
反アンティゴノス同盟は大敗を喫し、アンティゴノス朝のギリシア支配は決定的となる。
孝霊天皇31年/前260年:辛丑
将軍王齕が、趙を討って、上党を取った。趙も反撃してきて、秦は内密に白起を増援させて上将軍とし、王齕をその副将とした。長平の戦いでは、趙を大いに破った。
秦と趙による、長平の戦い。
秦の猛将白起が、巧みな用兵で趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝。王齕は副将。このとき40万余りに及ぶ趙兵捕虜の兵糧が賄えず、反乱の恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした。(40万人が殺害される。)
しかし、本国にあった宰相・范雎が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。
孝霊天皇32年/前259年:壬寅
秦の始皇帝/政が生まれる。( - 前210年)
秦が趙の首都邯鄲に攻め入る。王陵を起用して邯鄲を包囲。
将軍王齕が、白起に代わって、将として趙の武安君を討ち、皮牢を取る。
孝霊天皇33年/前258年:癸卯
秦が邯鄲の包囲に、増派もして、さらに指揮官を王齕に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。
この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。『戦国策』によれば、この時慌てた范雎と国王が自ら指揮を乞うも、白起は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかったうえ、王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。
孝霊天皇34年/前257年:甲辰
11月、戦国時代の秦の将軍/白起が死去。
秦の将軍王齕、邯鄲を攻めたが落とせないので、汾城郊外の秦軍と合流した。その後、魏を攻め、首を斬ること6千、魏軍は敗走し、黄河で2万人が流れ死んだ。汾城も攻め落とし、張唐に従って寧新中を抜いた。
秦の武将王齮、趙の邯鄲を包囲。(王齕と同一人物ではないかとの説がある)
白起が昭襄王によって自害させられる。 自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか? なぜ自害せねばならぬか?」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵40万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか? 天に対し罪を犯したのだ」と感嘆した。 秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。
孝霊天皇35年/前256年:乙巳
秦の武将楊摎(ヨウキュウ)、韓を討ち、陽城・負黍を取り、首級4万を挙げた。
敗戦した西周君がその領土を秦に献上した。このため赧王は秦の保護下に入った。
一方で、残された東周君派は、昭文君がまとめあげた。
周において、赧王が崩御。
西周君派の赧王が崩御した後も、東周君派は存続した。
昭文君は楚の力を借りて六国の諸侯を連合させ、秦を討伐しようとする。
前漢・初代皇帝/劉邦が生まれる。( - 前195年)
ギリシア/
マケドニアによるギリシア支配に対して、アカイア同盟が衝突を開始する。長期にわたってマケドニアと対立していく事になる。
孝霊天皇36年/前255年:丙午
1月、立彥國牽尊、爲皇太子。
マケドニア・エジプト/
アンティゴノス2世が、エジプト王プトレマイオス2世との和議を締結。
孝霊天皇37年/前254年:丁未
秦の武将楊摎、魏を討ち、呉城を取る。
スパルタ/
アレウス2世が王位を継いでいたが、8歳して病死する。
その次の王位は、老齢にもかかわらず、一族の男はレオニダス一人だけだったために、レオニダスが継いだ。
レオニダス2世が即位。
孝霊天皇38年/前253年頃:戊申
姫平の子である、姫良が生まれる。
後の張良子房であり、蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる。
孝霊天皇39年/前252年:己酉
秦で高齢の昭襄王が在位55年で逝去。
その次男の孝文王が立つと子楚は秦に送り返され太子となったが、孝文王が即位後3日でで逝去したために太子の子楚が即位して荘襄王となった。
呂不韋は丞相となり、文信侯と号して洛陽の10万戸を領地として授けられた。呂不韋の狙いは見事に当たり、秦の丞相として彼の権勢は並ぶものが無かった。
この時、秦の帝位は一旦、不在のままとなる。
孝霊天皇40年/前251年:庚戌
劉邦が生まれる。
次の年代:
紀元前250年〜紀元前200年