前の年代:
紀元前900年〜紀元前800年
紀元前800年 〜 紀元前700年
日ノ本(ヒノモト)國で、天真榊(アメノマサカキ)が五十鈴(イスズ=3000万年)に達したため、ヲシテ(ウガヤフキアエズ)朝が終焉を迎える。この最期の時期に生まれたのがタケヒトであり、アスス暦という独自の暦が作られた。この次期より神代から人代に変わる。
中東地域でマギが活躍し始める。
カーシー国の王族パーサが、この世界の真理を求めて出家し、数年後、真理に到達して全能の力を得る。
前800年頃
イベリア半島で古代ギリシア人とフェニキア人の交易が始まる。
エジプトの港都トロニス・ヘラクレイオンが沈没。(2000年に発見)
都市国家スパルタにおいて、エウノモスがエウリュポン朝の王位を継ぐ。
プルタルコスによれば、「詩人のシモニデスはエウノモスは立法者リュクルゴスと共にプリュタニスの子であると言っているが、大多数の人はエウノモスはプリュタニスの子で、ポリュデクテスとリュクルゴスがエウノモスの子である」としているようである。
一方で、ヘロドトスは「エウノモスをポリュデクテスの子である」としている。
パウサニアスによれば、エウノモスの治世は平和だったようである。次の王位にはカリラオスがついた。
ガンジス川の下流域(現在のビハール州辺と北ベンガル)にアーリア人が移住してくる。インドにおいてちょうど鉄器時代が始まった時期だったこともあり、当時インド最大の鉄鉱石の産地であり、かつガンジス川を介した水運と森林資源が存在したこの地方は急激に発達した。
前793年
エジプト第23王朝ウセルマートラー=セテプエンアメン・ペディバステトが死去。 エジプト第23王朝において、ウセルマートラー=メリアメン・シェションク4世が王位を継承する。
前790年
都市国家スパルタにおいて、先代の王アゲシラオス1世の子アルケラオスがアーギス朝の王位を継いだ。後に言われる「スパルタ王」とはアルケラオスの事をいう。 エウリュポン朝のカリラオス王と同時代の人でもある。アルケラオスはアルカディアとの国境のアイギュラを征服して住民を奴隷にした。
前789年
周王朝の宣王の異民族征伐において、千畝(せんぽ)の役で姜戎に大敗する。 これ以降、宣王の朝政は、厲王にみられる君主独裁化が進み、魯の継嗣問題介入、杜伯の処刑など諸侯への圧迫を強めていったため、周王朝の求心力は徐々に低下へと向かう。
前787年
エジプト第23王朝ウセルマートラー=メリアメン・シェションク4世が死去。 エジプト第23王朝において、ウセルマートラー=セテプエンアメン・オソルコン3世が王位を継承する。
前785年
当時のエチオピア(ヌビア南部地方:スーダン〜現エチオピア地域)で、ヌビア人達はナパタを都として独自の王国を建設した(クシュ王国、ナパタ王国とも)。
エジプト人はこの地域を「クシュ」と呼称していた。
この都市はナイル川第4急湍よりやや下流、かつて「清純の山」と呼ばれていたゲベル・バルカルという岩山の麓にあり、ここに残存する遺物の数々から、ヌビア人が(少なくとも支配階級は)高度にエジプト化されていたことが把握できる。
彼らはエジプト風の記念物を建設し、アメン神を信奉、ヒエログリフを用いて碑文を残した。
さらにエジプトと同じようにアメン神官団が大きな力を持つようになり、しばしば政策にも影響を与えた。
『墨子』明鬼篇によれば、周王朝において、宣王が杜伯を処刑する。
前782年
『墨子』明鬼篇によれば、周王朝において、宣王によって処刑された杜伯が、鬼神の力を借りて宣王を射殺したとある。
前781年
周王朝において宣王が死去したため、子である姫宮涅が、幽王(ゆうおう)として即位する。 後の平王、携王、太子伯服らの父にして、西周最後の王。
前780年
アララがクシュ王国の王として即位。
クシュ王国はエジプト文化を継承していた。この国が後にエジプト第25王朝となる。
都市国家スパルタにおいて、先代の王ポリュデクテスの子カリオラスがエウリュポン朝の王位を継ぐ(ただしこれはパウサニアスなど多数派の意見であり、一方でヘロドトスはカリラオスはエウノモスの子であるとしている)。
父が死んだ時、カリラオスはまだ子供だったため、リュクルゴスが摂政となって政治を行った。
プルタルコスの伝えるところによれば、リュクルゴスが外遊から帰国した時、彼の支持者たちのうち20人ほどが武装して早朝に広場に集まった。その時カリラオスは彼らが自分に危害を加えるのではないかと恐れ、カルキオイコス(アテナ)の神殿に逃げ込んだ。それから、彼は彼らによって説得され、そこを出てその仲間に加わったという。
また、カリラオスは共同統治者のアルケラオスと共にアイギュスを攻めて市民を奴隷にし、またアルゴスやテゲアとも戦った。
カリラオスは、アルケラオスによれば「悪人に対して厳しくないカリラオスが、どうしてすぐれた人であることがあろうか」と評された。
また、カリラオスの名は「人民の喜び」という意味であるという。
前778年
周王朝において、幽王が褒の地より後宮に入った褒姒を見て寵愛するようになった。
褒姒は笑うことがなく、幽王はなんとか彼女を笑わせようとした。絹を裂く音を聞き、彼女が微かに微笑んだことで、国中の絹を集めては引き裂かせたともいう。
褒姒は伯服を産むが、この年は関中で大地震が発生し、記録官の伯陽甫は、亡国の凶兆であると書き残した。
前776年
古代ギリシャにて最初のオリンピックが開催される。
オリンピア紀元が制定。
また、ギリシャにおいて最古の文字使用例が特定された年でもある。
前???年
周王朝においての事。 ある日、幽王は緊急時の合図の烽火を上げさせ、軍勢を集結させた。 軍勢は大あわてで駆けつけたが、何ごともなかったため将兵たちは困惑した。 ところが、この将兵たちの様子を見て、褒姒ははじめて笑った。 喜んだ王は以後しばしば無意味に烽火を上げさせた。 何度も無駄足を踏まされた諸将は、いつか烽火で集まることがなくなった。 また幽王は悪臣の虢石父を登用し、悪政を行わせたため、人民の怨嗟を買った。
前774年
鄭の領民が安堵して桓公を敬愛するようになった。周の幽王が桓公を周の司徒に任命する。
前773年
エジプト第22王朝ウセルマートラー=セテプエンラー・シェションク3世が死去。
エジプト第22王朝において、ウセルマートラー=セテプエンアメン・パミが王位を継承する。
鄭の桓公が周王室の将来を危ぶんで、太史伯(伯陽)に相談した。さらに鄭を洛水の東に遷す。すると虢と鄶の2国の民が桓公を慕い、10邑が桓公に献上された。
周の幽王は、申后の息子余臣(宜臼の兄弟)を携という地で奉り、鎬京で即位させた。姫余臣は携王と呼ばれた。
この東西の分裂劇の背後には虢(かく)という諸侯が密接に絡んでおり、この国は当時の大国晋のように、本家(東虢)と分家(西虢)に領地を分けていて争い、特に西虢は周王の側近(卿士)として宣王の時より王室に深く関わり、東西分裂の遠因を成したらしい。
そして各陣営の最前線に位置する形で激しく対立していた前提があったようである。
ともすれば東虢公が申侯を招き寄せ、結果幽王と太子伯服は死に、王朝分裂をもたらしたとも考えられる。
前772年
周王朝において、幽王が正室であった申后と息子(太子)である宜臼を廃した。
その変わりに褒姒を后に、息子の伯服を太子に立てた。
申后の父である申侯は怒り、蛮族の犬戎軍と連合して反乱を起こす。
この情勢を予期していた鄭の桓公は、戦塵を避けるために鄭の国民を東の東虢(とうかく)や鄶(かい)などの諸国に預けた。
前771年
都に迫る反乱軍に、幽王は烽火をあげて軍を集めようとしたが、すでに集まる兵はなかった。
鄭の桓公は忠義のため幽王の元に馳せ参じ、これに参戦した。
幽王と伯服は都に攻め入った犬戎によって驪山の麓で殺され、褒姒は犬戎に連れ去られた。
さらに反乱軍は、都を略奪して財宝をことごとく奪い去った。
この時、犬戎は鄭の桓公をも殺害した。鄭の人たちは共に桓公の子である掘突(くつとつ)を立てて鄭君(武公)とした。
幽王の死後、申侯は廃太子となっていた宜臼を平王として立てた。
しかし兵乱により王都の鎬京は破壊されていたため、平王は東の雒邑(洛邑)へと遷都した。
『竹書紀年』によれば、この時、混乱に陥った周の首脳や諸侯は個々の思惑を持ちつつ、携王は兄弟の姫宜臼(平王)と対決し、それぞれの陣営に分かれて、周朝立て直しの大義名分の下争った。
都の混乱の後、携王は鎬京に残り、民と国をとりまとめた。この時期を境に、周は鎬京を都とする西周と、洛邑を都とする東周に分かれる事となる。
これより春秋時代が始まる。秦、諸侯に列する。
鄭の掘突(くつとつ)が父の後をついで、鄭君(武公)となった。
古代ローマの建国者/ロムルスが生まれる。(-前717年)
前770年
周が犬戎に追われて東遷した際に、襄公は周の平王(姫宜臼)を護衛した功で周の旧地である岐に封じられ、これ以降諸侯の列に加わる。
(秦が最初に興った場所は現在の甘粛省礼県であったらしく、この地より秦の祖の陵墓と目されるものが見つかっている。)
洛邑(現在の洛陽)の王城に遷都し、平王によって東周が始まった。
前769年
鄭の武公は周の平王をたすけて王室を安定させる事に注力した。 西周と東周の政争が続くも、諸侯の多くは東周の平王に味方した。
前767年
エジプト第22王朝ウセルマートラー=セテプエンアメン・パミが死去。 エジプト第22王朝において、アアケペルラー=セテプエンラー・シェションク5世が王位を継承する。
前764年
ウセルマートラー・タケロト3世が共同王となる。
前763年
6月15日 - アッシリア王アッシュール・ダン3世が日食を記録した。 それを天文学的に割り出すと正確な日付が特定できたため、アッシリア年代学の基点となっている。
前760年
クシュ王国の王アララが死去。
クシュ王国マートラー・カシュタが王位を継承。
都市国家スパルタにおいて、先代の王アルケラオスの子テレクロスが、アーギス朝の王位を継いだ。
テレクロスの治世においてスパルタはアミュクレス、ファリス、ゲラントライなどを征服した。
テレクロスはアテネ神殿での祭典の時にメッセニア人との小競り合いで殺害され、この出来事は第一次メッセニア戦争の原因の一つとなった。
前759年
エジプト第23王朝ウセルマートラー=セテプエンアメン・オソルコン3世が死去。
エジプト第23王朝において、ウセルマートラー・タケロト3世が王位を継承する。
西周と東周が対立し戦を起こす。
多くの有力諸侯が与する平王は圧倒的な戦力で携王勢力を打倒し、このことでそれぞれの虢は力を削がれ、携王も平王に組する晋の文侯によって倒された。
これにより、西周は滅亡する。これにより鎬京は荒廃した。
これ以降は、東周が正式に周となる。都は洛邑(後の洛陽)が中心となった。
前757年
エジプト第23王朝ウセルマートラー・タケロト3世が死去。
エジプト第23王朝において、ウセルマートラー=セテプエンアメン・ルドアメンが王位を継承する。
メッセニアにおいて先代の王ピンタスの子であるアンティオコスとアンドロクレスが王位を継ぐ。
前756年
古代インドにおいて、ワーラーナシー(ベナレス)を首都するカーシー国の王族の子息としてパーサが生まれる。パーサは後に「ジナ」となる人物。
前???年
平王の子であり王太孫(皇太子)であった姫洩父が死去。
前754年
エジプト第23王朝ウセルマートラー=セテプエンアメン・ルドアメンが死去。 エジプト第23王朝において、ウセルマートラー・イウプトが王位を継承する。
前753年
4月21日、伝承によればロムルスによりローマ建国。
前751年
周の平王が崩御する。 平王の孫にして姫洩父の子である、姫林が王太孫となり、王位を継承して桓王として即位する。
前750年頃
イリアス成立。
アッシリア王国の隆盛、ダマスコとサマリアを征服する。
古代ギリシャの詩人/ヘシオドスが生まれる。
市国家スパルタにおいて、先代の王カリラオスの子ニカンドロスが、エウリュポン朝の王位を継ぐ。
ニカンドロスの在位中、スパルタはアルゴスへと侵攻し、またアギス朝の王テレクロスの殺害を引き金としてメッセニアとの間で第一次メッセニア戦争が勃発した。
前747年
クシュ王国の王マートラー・カシュタが死去。 クシュ王国メンケペルラー・ピアンキが王位を継承。 新たに国を改革して、エジプト第25王朝を樹立。
前745年
即位したティグラト・ピレセル3世の時代にアッシリア帝国はメソポタミア全域とシリア、パレスチナを支配した。
前744年
中国春秋時代初期の鄭の君主/武公が死去。武公が薨去したため、太子寤生(ごせい)が立って鄭君(以降は荘公と表記)となった。
パウサニアスによれば、メッセニア人のポリュカレスはスパルタ人のエウアイプノスに騙されたことをスパルタ王やスパルタの役人に訴えたが、スパルタ側は訴えを無視した。そこで、激怒したポリュカレスは多数のスパルタ人を殺傷してメッセニアへと逃げ帰った。
この出来事に符合するのか否かは不明だが、メッセニア人によるスパルタ王アーギス朝のテレクロス王が殺害される。
また、スパルタ人女性の拉致などもこの時期に挙げられた。
この事件により、スパルタは、ポリュカレスの身柄引き渡しをメッセニアに要求した。
メッセニア民会において、アンドロクレスはポリュカレスの引渡しを主張したが、アンティオコスはそれに反対した。
この対立は内戦に発展し、数で勝るアンティオコスの派がアンドロクレスとその味方を殺し、メッセニアはポリュカレス引渡しを拒否した。
このためにスパルタは、メッセニア征服を決定した。
前743年
第一次メッセニア戦争が勃発。
アーギス朝の先王テレクロスの子アルカメネスが、宣戦も国交断絶の知らせもなしにメッセニアに攻め込み、要地と目され、その時は完全に無防備だったアンフェイアへ夜襲をかけ、占領した。
エウパエスはメッセニア人の大集会で演説をして人々を励まし、スパルタ軍からの襲来に備えた。
鄭の荘公が、同母弟の叔段を京(けい:邑名)に封じ、太叔とした。
この時、大臣の祭仲が諫めたが、荘公は「母の所望だから」と聞き入れなかった。
前742年
古代インドにおいて、シシューナガが国をまとめ、マガダ国シシュナーガ朝が起こる。
マガダ国シシュナーガ朝が興国した正確な年代は、現在のところ不明である。
ここで定義したものは、代々の国王が独人君主制である事を前提にした国王の在位年間を遡って定義しているため、あくまでも暫定年数。
暦の単位に相違がある可能性も十分に考えられる。
文献においては『マハーヴァンサ』(『大史』)や『ディーパヴァンサ』(『島史』)にはビンビサーラ王が釈迦(ゴータマ=シッダールタ)より5歳年下であったとある。
釈迦(ゴータマ=シッダールタ)の生没年は未だ定説が無いものの、紀元前6世紀もしくは紀元前5世紀頃と推定されている。
このため、仮にシシュナーガ王がビンビサーラ王以前とすれば、シシュナーガ朝の創始は紀元前7世紀末か紀元前6世紀初頭、ビンビサーラ王以後とすれば紀元前5世紀末か紀元前4世紀初頭となる。
ただし、これらの文献は釈迦(ゴータマ=シッダールタ)を基準とした相対年数でしかなく、後世において、王と尊者の関係性を結びつけるプロパガンダとして改編された可能性もある。
前740年
都市国家スパルタにおいて、先代の王テレクロスの子アルカメネスが、アーギス朝の王位を継いだ。
前739年
第一次メッセニア戦争にて、スパルタとメッセニアの間で、一度目の会戦が発生。 メッセニア王エウパエスとスパルタ王アルカメネス/ニカンドロス両軍は、引き分けとなった。
前734年
第一次メッセニア戦争にて、スパルタとメッセニアの間で、二度目の会戦が発生。 メッセニア王エウパエスは、後の二人のスパルタ王となる、テオポンポスとポリュドロスの軍と戦い、再び引き分けた。この時左翼に陣取ったエウパエスは正面のテオポンポスを敗走させたが、右翼が劣勢だったため、テオポンポスの追撃に回らずに右翼の救援に駆けつけた。 この後、メッセニアでは戦争による財政の悪化、奴隷の逃亡、そして疫病の流行のため、窮地に立たされたため、メッセニア軍は要塞化されたイトメ山へ篭城した。 第一次メッセニア戦争の最中、メッセニアのアリストデモスの下で「処女を生贄に捧げよ」という神託が下り、王族の出のアリストデモスは自らの娘を供犠に差し出した。
前733年
第一次メッセニア戦争にて、スパルタはイトメ攻略の軍を派遣したが、大敗する。
前730年
エジプト第22王朝アアケペルラー=セテプエンラー・シェションク5世が死去。 エジプト第22王朝において、アアケペルラー=セテプエンアメン・オソルコン4世が王位を継承する。
前729年
この時、メッセニア軍とスパルタ軍の会戦において、メッセニア王エウパエスが奮戦の末戦死した。 メッセニア王エウパエスには子供がいなかったため、王家と縁続きのアリストデモスが王位に選出された。
前728年
デイオケスは故郷で裁判官を勤めていた。その公正な裁きで広い地域で評判となったという。
自分の影響力を悟ったデイオケスは裁判官を辞めると宣言する。
すると犯罪や暴力事件が多発するようになり、人々はデイオケスに裁判官に戻るよう懇願した。
デイオケスの要求により人々はデイオケスを王に選び、国土に法と秩序を行われることを希望した。
デイオケスは王位を受け入れ、宮殿を新都に建設するよう命じた。
7重の城壁を巡らせて都とし、諸制度と儀礼を定めてメディアの地を一つにまとめた。
デイオケス王により、エクバターナは国となった。
デイオケスは独裁者として統治し、人民に会おうとしなくなった。
最高判事として振る舞うと同時に、国内にスパイを放って法が行われているかを監視させたという。
デイオケスは多くの部族を統一してメディア王国を建設した。
メディア王朝の司祭には、宗教儀礼をつかさどっていたペルシア系祭司階級(呪術業や魔術業も含む)に「マギ」が置かれた。
※
この「マギ」は、アヴェスター語形マグに由来しているが、後に呪術師を意味する様々な言語に影響した。
ギリシャ語形の単数マゴス(μάγος)、複数マゴイ(μάγοι)を経由しラテン語化。
英語では単数メイガス(magus)、複数メイジャイ(magi)、形容詞メイジャン(magian)。
紀元後の東方三博士(MBC)を示す「賢者」の総称「マーゴイ」の呼称でも用いられるようになった。
前727年
下エジプトのサイスを拠点に、リビア人部族の首長テフナクト1世が新王朝を樹立。
エジプト第24王朝が起こる。
シェプセスラー・テフナクト1世が王となる。
前726年
第一次メッセニア戦争:イトメ山の戦いにおいて、スパルタ軍がメッセニア軍に敗北する。
この後に、スパルタ軍がトロイの木馬の戦術を真似た作戦に出る。100人の男を「逃亡者」という触れ込みでメッセニア人が立て篭っていたイトメへと送ったが、アリストデモスは「ラケダイモンが働いた悪事は、こと新しいが、その術策は古い」と言って敵の策を看破し、スパルタ軍を撃退した。
古代インド/カーシー国の王族パーサが、この世界の真理を求めて出家する。
前725年(スズ暦50年、キアヱ暦元年)
1穂=1年、1枝=60穂、10枝=600年、1000枝=6万年=1鈴(スズ)。1枝はヱトが1巡した周期でもある。
スズ暦50年/キアヱ暦7年=は「3000万年と7年目の年」という意味。
「二十五鈴 百枝二十八穂 年サミト」=150万+6000+28年の年28日目という計算。
【60進法】
天真榊木(アマノマサカキ)の寿命は、50鈴=つまり「五十鈴」であり、これで「万世一柱」とする。
51鈴目として、世継ぎの、新しい真榊木が植えられ、1穂(1年)を賜る。
(六百五十鈴)
前724年
アリストデモスはこの後もスパルタ軍と対立するが、奮戦虚しく戦況は悪化の一途を辿った。彼は娘の亡霊を夢に見たり、多くの不吉な予兆によって絶望し、さらに娘殺しが勝利を導かなかったことを思い、7年の在位の後に娘の墓前で自殺した。王は、人間の思慮が及ぶかぎりでメッセニアを救ったが、運命は王の働きをも企図をも、何ひとつ成就させなかった。 優秀な指揮官の喪失と不吉な予言の的中によってメッセニア人は狼狽し、戦意が落ちた。
前722年
アッシリア帝国にて、サルゴン2世が即位。
アッシリア帝国によりイスラエル王国(分裂後の北王国)が滅ぼされた。
北イスラエル王国の滅亡後、ヒゼキヤ王の時代に、エルサレム神殿での過越の祭にアシェル族の代表が参加。
イスラエル王国を滅ぼし、エジプトをパレスティナから逐い、バビロンを陥れる。
ギリシア人、地中海および黒海沿岸に植民地を建設。
メディア王朝の王として、ダイウックという人物が現れる。(この人物がデイオケスなのかは不明)
マンナエ王ダイウックは、アッシリアに反抗した部族の長であった。
アッシリアはその支配をイラン高原に拡大しようとしており、ウラルトゥ王国と共にマンナエはこれに敵対した。
ウラルトゥはマンナエと結んだが、これはマンナエをアッシリアとの緩衝国にしようとする目的と、マンナエの戦術を同盟軍として貴重なものとしていたためであるという。
京にいる段は母の武姜と謀って新鄭を攻撃してきた。これに対し、荘公は出兵して段を撃ち、続いて京に進攻した。
すると京の民衆が段に背いたため、段は京を出て共(きょう:国名)に逃げた。
荘公はこの乱に協力した母の武姜を城潁に移し、死ぬまで会うまいと誓った。
前721年
鄭の荘公は、母の武姜を城潁に移し誓いを立てたにもかからず、たまらず会いに行ってしまった。
前720年
エジプト第24王朝シェプセスラー・テフナクト1世が死去。
エジプト第24王朝において、ウアフカラー・バクエンレネフが王位を継承する。
市国家スパルタにおいて、先代の王ニカンドロスの子テオポンポスが、エウリュポン朝の王位を継ぐ。
彼の治世においてスパルタは第一次メッセニア戦争でメッセニアと戦った。一回目の会戦でも二回目の会戦でも両軍は引き分けた。
後者では右翼を率いていたテオポンポスはメッセニアの王エウパエスによって敗走させられたものの、左翼のポリュドロスが優勢に戦ったため、敗北を回避できた。
また、スパルタはテオポンポスの治世においてテュレア地方をめぐり、アルゴスとも争った。
パウサニアスによれば、テオポンポスの子アルキダモスが父より先に死んだため、テオポンポスの後は彼の孫ゼウクシデモスかひ孫のアナクシダモスが継いだ。
プルタルコスによれば、テオポンポスの治世にスパルタには監督官の制度が導入され、テオポンポスはレトラに民会への長老会と王の拒否権を加えた。
周の平王が死去する。
宋において宋の穆公が薨去したため、宋の公子馮が鄭に逃れてきた。
周と鄭の領地が接しており、鄭が境界線を越えて黍(稷、キビ)を収穫した。
この事が発覚して後、周の桓王は、族祖父(祖父の又従弟)にあたる鄭の荘公を卿士の職位より罷免した。
これに不満を持った荘公は一切朝見を行わなくなり、周と鄭の関係も悪化した。
前719年(スズ暦50年/キアヱ暦7年、アスス暦元年)
タケヒト(カンヤマトイハハレヒコ)が誕生する。
アススコヨミ(暦)が始まる。この時より、カミノヨからヒトノヨとなる。
五十ススの 千枝の二十年
天替わる 暦まだとて
物主が 伊勢に詣でて
前719年
第一次メッセニア戦争において、スパルタは長期的な包囲戦に戦略を転換する。これによってメッセニア人は飢餓に苦しめられた。
追い詰められたメッセニア軍は決死の反撃を試みるも、返り討ちに遭った。
最終的にイトメ山が陥落、メッセニア軍はメッセニア北部から撤退し、戦争はスパルタの勝利に終わった。
メッセニア人はスパルタ人によってヘロットの身に落とされた。
周王朝において、姫林が桓王として即位。
父である姫洩父がすでに亡くなっていたため、姫林が王太孫に定められ、祖父の平王が崩御すると継いで即位した。
桓王は諸侯の力を弱め、相対的に王権を強化する政策を実行した。
鄭が公子馮をかくまったため、衛と宋が攻撃してきた。
前717年
荘公は族孫にあたる周の桓王のもとに参朝したが、以前に周の禾を取ったことがあったため、礼遇されなかった。
前716年
エジプト第25王朝メンケペルラー・ピアンキが死去。
エジプト第25王朝ネフェルカラー・シャバカが王位を継承。
アッシリア王サルゴン2世はウラルトゥ王ルサ1世に戦争を仕掛ける。
メディア王朝ダイウックはウラルトゥと結ぶが、これに敗北する。
アッシリア軍はダイウックを捕らえ、その家族とともにシリアのハマに強制移住させた。
メディア王朝の王名の記述は、以後675年まで記録がないため、空位であったのかデイオケスが王として君臨していたのかは不明。
前715年(スズ暦50年、キアヱ暦11年、アスス暦4年)
イツセをタガノヲキミとする。
ウカヤフキアハセズ、ツクシ(九州)に行幸。
エジプト第22王朝アアケペルラー=セテプエンアメン・オソルコン4世が死去。
エジプト第22王朝が滅亡する。
エジプト第23王朝ウセルマートラー・イウプトが死去。
エジプト第23王朝が滅亡する。
エジプト第24王朝ウアフカラー・バクエンレネフが、エジプト第25王朝シャバカ(サバコン)によって殺される。
これにより、エジプト第24王朝は王が不在となる。そこへヌビア軍(エジプト第25王朝)が攻め入り、エジプト第24王朝は滅亡する。
エジプト第25王朝シャバカは、エジプト第24王朝があった都市サイスに、エチオピア人アンメリスを知事として任命する。
周より礼遇されなかった荘公は、荘公は祊邑(ほうゆう)と、魯に属していた許の田とを取り換えた。
前???年
マガダ国シシューナガ王治世の頃、パーナが「ジナ」となる。 後のジャイナ教成立において、23番目のティッタンカラであり、ニガンタ派の開祖と言われている。 全能の力を獲得して8つの求道者のコミュニティを創りあげたとされている。
前710年
ヒゼキヤが、ユダ王国の王として即位。(-前687年)
前707年
周と諸国の間で繻葛の戦いが起こる。
周の桓王は荘公が周に参朝しなかった事を理由に、蔡、衛、陳と連合して鄭を攻撃した。
周の桓王が諸侯を率いて鄭を攻撃したとき、黒肩は周の左軍を率いた。
これに対し荘公は、祭仲・高渠弥らとともに出兵し、連合軍を撃破した。
周王室の力の衰えを露呈する形になる。
桓王は王権の強化に努めたが、周王室の衰退はとどまらず、諸侯間の紛争を阻止する影響力を失った。
前706年
アッシリア帝国にて、ナケリブ王が即位する。
北戎が斉に侵攻する。鄭の荘公は、太子の忽(こつ)を救援に向かわせた。
これによって北戎を撃退できたので、斉の釐公は鄭の忽に娘を娶らせようとした。
しかし忽は「我が国は小国で、斉とは釣り合いがとれません」と言って断った。
前705年
センナケリブ が、アッシリア王国の王として即位。(-前681年)
バビロニアの征服者となる。
前704年(スズ暦50年、キアヱ暦20年、アスス暦13年)
ウカヤフキアハセズが、タケヒト(カンヤマトイハハレヒコ)に譲位のミコトノリを発する。
オシクモが、ミカサヤシロ(現在の春日神社)にヨツギフミを納める。
ウカヤフキアハセズが、アヒラツヤマにて神上がりする(亡くなる)。
アッシリア帝国にナケリブ王が即位。
ナケリブ王は、エデンの園にある「命の木の実」を守護する権天使ニスロクを崇拝していた、と言われている。
伝承では、後に神が使わせた天使によって、セナケリブ軍の数万人の兵士が一晩によって殲滅させられた事をきっかけとして、ニスロクは堕天したとされている。
前702年
エジプト第25王朝ネフェルカラー・シャバカが死去。
エジプト第25王朝ジェドカウラー・シャバタカが王位を継承。
マガダ国シシュナーガ朝の王シシュナーガが死去。
前701年
マガダ国シシュナーガ朝の王としてカーカヴァルナ(カーラーショーカ)が即位。
鄭の荘公が薨去し、太子忽が立って鄭君(昭公)となる。
9月、異母弟の突(とつ)の母である雍姞(ようきつ)は宋の出身であったため、宋の荘公と親交があった。
宋の荘公は鄭の祭仲が昭公を鄭君に立てたと聞くと、祭仲と公子突を召して捕え、公子突を立てるよう要求した。
祭中はやむなく承諾し、帰国するなり公子突を立てて鄭君(以降は厲公と表記)とした。
これによって昭公は鄭を出て衛に亡命した。
次の年代:
紀元前700年〜紀元前600年