前の年代:
西暦1年〜50年

西暦50年 〜 西暦100年

大和(日本)垂仁天皇から景行天皇の御代へ。伊勢斎宮群行が始まる。小碓命(日本武尊)の蝦夷討伐が始まる。
この頃、ヨーロッパ全域にローマ帝国の勢力圏があり、ブリタニア(ブリタンニア*現在のイギリス領)との関連性も記述に出てくるようになる

垂仁天皇80年/51年 : 辛亥

後漢/北匈奴が、後漢と和親して南匈奴を弱体化させるべく、使者を遣わす。しかし光武帝は和親を認めず、一方で北匈奴を討伐する策もしりぞけ、絹帛などを与えて懐柔するにとどめた。
ローマ帝国/10月24日。第11代ローマ皇帝となるドミティアヌスが生まれる。

垂仁天皇81年/52年 : 壬子

皇帝クラウディウスがクラウディア水道を完成させる。

垂仁天皇82年/53年 : 癸丑

高句麗/11月、解憂(慕本王)、いつか王に殺されると恐れていた杜魯という側近に殺される。

垂仁天皇83年/54年:甲寅

エルサレム/
使徒パウロが「コリント人への第一の手紙」「コリント人への第二の手紙」「ガラテヤ人への手紙」「フィリピ人への手紙」「フィレモンへの手紙」を記す。
10月13日。第4代ローマ皇帝クラウディウスが死去。ローマ帝国でネロが帝位に就く。当時16歳。
ネロが皇帝に即位後、母アグリッピナと側近セネカたちとの間で諍いがおき始める。
高句麗/
先代の慕本王が53年11月に臣下の杜魯に殺害されたとき、慕本王の太子の翊(よく、イク)が不肖であったために、国人が、宮(太祖大王)を迎えて王位につけた。
『魏書』高句麗伝には「朱蒙死,閭達代立。閭達死,子如栗代立。如栗死,子莫來代立。・・・莫來子孫相傳,至裔孫宮」とあり、この莫來を慕本王として、太祖大王の治世が長すぎる(93年間)こともあって、慕本王から太祖大王までの間に数代の欠落があったとする説もある。

垂仁天皇84年/55年 : 乙卯

エルサレム/
使徒パウロが「ローマ人への手紙」を記す。
ローマ帝国/
皇帝ネロが母親の干渉を疎ましく思うようになる。するとアグリッピナは、かつて自らが退けたブリタンニクスに注目するようになる。
帝位継承権を有していたブリタンニクスは、成人後、帝位継承権を行使できる立場にあった。
2月11日。ローマ帝国の帝位後継者ブリタンニクスが成人の儀式を目前にして死去。タキトゥスによればネロ皇帝が毒殺したという話を残している。

垂仁天皇85年/56年/アスス暦783年 : 丙辰

後漢/光武帝が泰山で封禅の儀を執行する。また、洛陽に教化・祭礼の施設として明堂・霊台・辟雍を設置した。
高句麗/7月、宮(太祖大王)は、東沃沮を討伐し、高句麗の領土が滄海(東海)から薩水(平安南道の清川江)に及んだ。
ローマ/ネロ皇帝と母である小アグリッピナが一触即発状態となったが、セネカやブッルスが仲裁に入りこれを鎮圧した。

垂仁天皇86年/57年 : 丁巳

大和/
倭の奴国王が後漢に朝献して、委奴国王印(金印紫綬)を授けられる。(後漢・建武中元2、丁巳;後漢書光武帝紀、同東夷伝、魏志倭人伝)
漢委奴国王印は福岡県にある志賀島で発見された。
「委奴国王」については諸説ある。従来は「倭の奴国」という国名説が強かったが、古代中国で用いられてきた「奴」の解釈ついて見直しがなされた事から、現在も議論が続いている。
後漢の初代皇帝、光武帝が死去。
ローマ/パエトゥスなる男が「ブッルスや母親の取り巻きの解放奴隷マルクス・アントニウス・パッラスが、ファウストゥス・コルネリウス・スッラ・フェリクスの皇帝擁立を謀っている」と告発したが、セネカが両名の弁護を担当し、パエトゥスは追放刑となった。これ以降、セネカやブッルスは、自らの保身につとめ始まる。
1月、後漢/光武帝が儒学の図讖を天下に宣布することを命じた。
1月、後漢/初代後漢皇帝である光武帝が死去。
2月、後漢/劉荘が明帝として即位した。年は30であった。母の陰皇后を皇太后とした。
3月、後漢/父の光武帝を原陵に埋葬し、世祖の尊廟を奉った。
夏4月、後漢/明帝は詔勅を出した。
秋9月、後漢/焼当羌が隴西に侵攻し、郡兵が戦ったが允街において敗北した。隴西の囚徒に対して罪の減免と税の免除を行った。謁者の張鴻を遣わして羌の反乱軍を允吾において攻撃させたが大敗し、張鴻は戦死した。
冬11月、後漢/中郎将の竇固を遣わし、捕虜将軍の馬武等2人の将軍を監督させて焼当羌を征伐された。
12月、後漢/明帝は詔勅を出した。

垂仁天皇87年/58年 : 戊午

ローマ/
プラエフェクトゥス・プラエトリオの階級であったルフリウス・クリスピヌスが、ネロの母小アグリッピナによって失脚させられる。
フリウス・クリスピヌスの後任に、セクストゥス・アフラニウス・ブッルスが着任した。
ポッパエアが失脚した夫フリウス・クリスピヌスを見限り、ネロ皇帝の親しい友人であり当時財務官を務めていたオト(マルクス・サルウィウス・オト)と結婚。歴史家タキトゥスによれば、ポッパエアは野心家であると指摘しており、ポッパエアはネロに近付きたいがために、オトと結婚したと言われている。結婚後まもなくして、オトを通じてポッパエアを知ったネロの愛人となり、オトはルシタニアに左遷されてしまう。
ネロが妻オクタウィアと離縁してポッパエア・サビナと結婚しようと考えるようになり、母小アグリッピナと対立する。
後漢/
遼東太守の祭肜は鮮卑を使い赤山の烏桓を攻撃し、大いに破り、その渠帥を斬った。越巂姑復夷が叛いたが、州郡はこれを討ち平定した。
春正月、後漢/明帝は公卿を率いて原陵に赴いた。
2月、大和/五十瓊敷命は大中姫命と物部十千根大連に石上神宮の神宝の管理を託す。
夏5月、後漢/太傅の鄧禹と東海王の劉彊が死去した。司空の馮魴を遣わし、節を持たせて喪事を監督させた。升龍に対し旄頭、鑾輅、龍旂を下賜した。
6月、後漢/東海恭王を葬った。
秋7月、後漢/捕虜将軍の馬武等は焼当羌と戦って、大いに破った。隴右において士卒を募り、銭三万を下賜した。
8月、後漢/山陽王の劉荊を広陵王に任じ、就国させた。

垂仁天皇88年/59年 : 己未

大和/10月、垂仁天皇が但馬にあった「天日槍が持ち込んだ神宝」を手に入れる。
ローマ/
ローマ皇帝ネロと実母小アグリッピナの対立が深まり、ネロは小アグリッピナを殺害。この時ポッパエアは、ネロにアグリッピナの殺害を後押ししたと言われている。さらにポッパエアは、プラエフェクトゥス・プラエトリオの1人ガイウス・オフォニウス・ティゲッリヌスと組んでルキウス・アンナエウス・セネカを政界を引退させた。
皇帝ネロが妻オクタウィアと離縁し、ポッパエア・サビナと結婚する。ネロとポッパエアとの間に娘が生まれるが、数ヶ月のうちに夭折する。
後漢/
初めて五郊において迎気した。少府の陰就の子の陰豊が妻の酈邑公主を殺害し、自殺させられた。
春正月、後漢/光武帝の宗祀を明堂に於いて行った。
3月、後漢/明帝は辟雍に臨み、初めて大射礼を行った。
秋9月、後漢/異母兄の沛王の劉輔、楚王の劉英、異母弟の済南王の劉康、淮陽王の劉延、甥の東海王の劉政(劉彊の子)が来朝した。
冬10月、後漢/明帝は辟雍に行幸し、初めて養老礼を行った。詔勅を出した。
中山王の劉焉が初めて就国した。西方に巡狩し、長安に行幸、高廟を祀り、十一陵に於いて有事を遂行した。館邑を歴覧し、郡県吏と面会し、労賜作楽した。
11月、後漢/使者を遣わして中牢祠において蕭何、霍光を祀った。明帝は陵園に詣で、其墓で過式した。河東に進んで行幸し、官吏に身分に応じて施しをした。その月のうちに明帝の車駕は宮中に帰還した。
12月、後漢/護羌校尉の竇林が罪に問われ獄死した。

垂仁天皇89年/60年:庚申

庚申の年となる。
ブリタンニア/
東ブリタンニア、ノーフォーク地域にあるケルト人イケニ族(Pケルト言語圏域)の国王プラスタグスが死去。
ローマ帝国ネロ皇帝が、故プラスタグス国王の共同統治者制度の意思を無視し、王国をローマ帝国に併呑し、イケニの貴族たちの土地や財産を簒奪した。タキトゥスの記述によると、王妃であったブーディカは鞭打たれ、元首のはずの娘たちは陵辱された。
これに対し、王妃ブーディカが女王として即位し、周辺諸国の部族をまとめあげ、ローマ帝国にたいして反乱を起こす事になる。
ブリタンニアの行政を任されていたローマ帝国ガイウス・スエトニウス・パウリヌス総督が軍を率いてブリタンニアの抵抗勢力が立て篭もるドルイドの要塞があった北ウェールズのモナ島鎮圧にあたっていた。この時期を狙って、イケニ族はトリノヴァンテス族など近隣の部族とともに蜂起し、ローマへの反乱を開始。反乱軍のリーダーに選ばれたブーディカは、懐に忍ばせた野ウサギを逃し、それが走り去った方向から吉凶を占う儀式を執り行い、ブリタンニアの勝利の女神アンドラステへ祈りを捧げながら進軍した。
反乱軍は、ローマの植民地とされた3つの都市、トリノヴァンテス族の首都カムロドゥヌム、ロンディニウム(現在のロンドン)、ウェルラミウムを陥落し破壊した。これにより7万とも8万とも言われる人々が惨殺された。在住していた捕虜はことごとく絞首刑・火あぶり・磔など虐殺され、あるいは女神アンドラステの神聖視される場所で、儀式に捧げる生贄か、饗宴のお飾りか、もしくはふざけた遊びのおもちゃとして弄ぶかのような様子で殺され、凄惨を極めたとある。
後漢/
明帝が北宮及諸官府を起こした。京師及郡国7つにおいて大水があった。
春正月、後漢/明帝は詔勅を出した。
2月、後漢/太尉の趙憙と司徒の李訢が免職となり、左馮翊の郭丹が司徒となり、南陽太守の虞延が太尉となった。貴人の馬氏が皇后に冊立され、皇子の劉炟が皇太子となった。施しが実行された。
夏4月、後漢/皇子の劉建を千乗王に、劉羨を広平王に封じた。
秋8月、後漢/大楽を大予楽に改めた。日食が起きた。明帝は詔勅を出した。
冬10月、後漢/光武廟において蒸祭をし、初めて『文始』、『五行』、『武徳』之舞を奏した。車駕に皇太后を従えて章陵に行幸し、旧廬を観た。
12月、後漢/自ら章陵に至った。

垂仁天皇90年/61年:辛酉

ブリタニア/ローマ帝国ガイウス・スエトニウス・パウリヌス総督が、ワトリング街道の戦いで女王ブーティカ率いる反乱軍を鎮圧。女王ブーディカは毒を服して死を選んだとも、病気でなくなり荘厳な埋葬が行なわれたとも、伝えられている。
二人の娘の消息も絶たれており、プラスタグスの血統は歴史から消える事となった。
ローマ/ネロ皇帝が解放奴隷政策を進める。
反乱軍の鎮圧後、ガイウス・スエトニウス・パウリヌス総督は、行政長官に着任したガイウス・ユリウス・アルピヌス・クラッシキアヌスより査察を受け、総督の任を罷免される。
後任のプブリウス・ペトロニウス・トゥルピリアヌスによる穏健策が取られてからは、西暦410年までローマのブリタンニア支配が続く。
大和/垂仁天皇が、田道間守(たじまもり)を常世国へ派遣。

常世国は通常は「死の国」を意味するが、ここでは「海の彼方にある異世界」という解釈で捕らえられているらしい。
日本書紀・古事記によれば、垂仁天皇は田道間守に、常世国にへ趣き、非時香菓(登岐士玖能迦玖能木実:ときじくのかくのこのみ:時によらず、いつでも輝く実。つまり橘(みかん)の事。橘の実は「子」「再生」を意味する。)を得てくる事を命じる。

ローマ/古代ローマの文人であり政治家、ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)が生まれる。
春2月、後漢/明帝は詔勅を出した。
秋9月、後漢/千乗王の劉建が死去した。
冬10月、後漢/司徒の郭丹、司空の馮魴が免職となった。河南尹の范遷が司徒に、太僕の伏恭が司空となった。
12月、後漢/陵郷侯の梁松が罪に問われ獄死した。

垂仁天皇91年/62年:壬戌

ユダヤ/
エルサレムでキリスト教エルサレム教会の初代主教ヤコブが殉教
ナザレのイエスの異父弟または従兄とされる人物、ヤコブが死去。
ローマ/
ローマのポンペイ(現在のカラブリア州)で大きな地震。
ローマ皇帝ネロから離縁させたれた最初の妻、クラウディア・オクタウィアが死去。
ローマ皇帝ネロの側近であり親衛隊長官、セクストゥス・アフラニウス・ブッルスが死去。
プラエトル(法務官職)にあった者が、宴席にてネロの悪口を言った咎で死刑され、その後、パッラスを含む多くの元老院議員が処刑された。
春2月、後漢/驃騎将軍の東平王の劉蒼が罷免され帰藩した。琅邪王の劉京が就国した。
冬10月、後漢/鄴へ行幸した。趙王の劉栩と鄴で面会した。
11月、後漢/北匈奴が五原に侵攻した。
12月、後漢/雲中に侵攻したが、南単于がこれを撃退した。

垂仁天皇92年/63年:癸亥

ローマ/ローマ皇帝クラウディウスの解放奴隷にして側近、マルクス・アントニウス・パッラスが死去。
春正月、後漢/沛王の劉輔、楚王の劉英、東平王の劉蒼、淮陽王の劉延、琅邪王の劉京、東海王の劉政、趙王の劉栩、北海王の劉興、斉王の劉石が来朝した。
2月、後漢/王雒山で宝鼎が出て、廬江太守がこれを献上した。
夏4月、後漢/明帝は詔勅を出した。
冬10月、後漢/魯国に行幸し、東海恭王の陵を祀った。沛王の劉輔、楚王の劉英、済南王の劉康、東平王の劉蒼、淮陽王の劉延、琅邪王の劉京、東海王の劉政と会見した。
12月、後漢/明帝は戻って陽城に行幸し、使者を送って中嶽を祀らせた。明帝の車駕は宮中に戻った。東平王の劉蒼、琅邪王の劉京が車駕に従い来朝し、皇太后と面会した。

垂仁天皇93年/64年:甲子

後漢/明帝が勅を発し、蔡愔、秦景をはじめとする十数人の使節団が仏教の経典を求めて、洛陽を出立する。
春正月、後漢/皇太后の陰氏が死去した。
1月18日。ローマ/ローマ大火。ネロがキリスト教を迫害。
2月、後漢/光烈皇后を葬った。
秋8月、後漢/北海王の劉興が死去した。この年、北匈奴が遣使をし和親を乞うてきた。
11月17日。ローマ/ローマ皇帝ティトゥスの娘、ユリア・フラウィアが生まれる。

垂仁天皇94年/65年:乙丑

ローマ/元老院議員ガイウス・カルプルニウス・ピソを皇帝に擁立する計画が発覚。
ピソが自殺を命じられる。またその際に、古代ローマの政治家、思想家、詩人であったルキウス・アンナエウス・セネカも計画に加担したとされ、自殺を命じられた。
ローマ皇帝ネロの2番目の妻、ポッパエア・サビナが死去。
ルフリウス・クリスピヌスがネロの暗殺計画に名を連ねたとして流罪となる。
ローマ皇帝ネロが、ドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設する。回転する床、移動する施設など、誇大妄想的な巨大宮殿を革新的な技術で建設されたものであった。
後漢/伝承の通りであれば、蔡愔、秦景らの使節団が天竺を抜け、大月氏に向かう。そこで迦葉摩騰と竺法蘭の二人の僧と出会う。
おそらくは、当時カブール(現在)もしくは、その東南東近くにあったガンダーラ(現在ガンダーラは南インドにあるがそれではない)が目的地であったと推測される。
当時は、サマルカンドとマトゥルラーをつなぐ交易路があり、ガンダーラやカブールはこの交易路上にあった。後のクシャーナ朝の主要ルートとなる。
春正月、後漢/司徒の范遷が死去した。
3月、後漢/太尉の虞延が司徒に、衛尉の趙憙が行太尉事となった。
越騎司馬の鄭衆に命じて北匈奴への報使とした。初めて度遼将軍を設置し、五原曼柏に駐屯させた。
秋、後漢/郡国14で雨水があった。
冬10月、後漢/北宮が完成した。辟雍、養三老、五更に臨んだ。詔を出し、死刑囚の死一等を免じて度遼将軍の軍営へ送り、朔方、五原の辺県に配置させた。日食が起き、明帝は詔勅を出した。北匈奴が西河諸郡を侵攻した。

垂仁天皇95年/66年/アスス暦793年:丙寅

ローマ/帝政ローマ時代の文人ペトロニウスが死去。
後漢/大有年であった。明帝が四姓小侯に学校を開設させ、『五経』の師範を設置。
春3月、後漢/明帝は郡国に詔を出し、死刑囚の罪一等を免じて五原、朔方に住まわせた。
夏4月、後漢/明帝は郡国に詔を出し、公田を貧人に下賜した。また、司隸校尉、部刺史に令を出した。

垂仁天皇96年/67年:丁卯

ローマ/
ウェスパシアヌスがユダヤ属州に派遣。
ネロ、帝国東方の軍司令官コルブロおよび彼の兄弟に自死を命じる。
ユダヤ戦争でローマ軍と戦っていたヨセフ(後の歴史家フラウィウス・ヨセフス)がウェスパシアヌスに投降。
初期キリスト教の理論家、新約聖書の著者の一人パウロが死去。(後代の伝承による)
ローマ帝国の軍人グナエウス・ドミティウス・コルブロが死去。
後漢/
洛陽に白馬寺を建立したという説話による、仏教の中国伝来の一説の年。
白馬寺の由来は、迦葉摩騰と竺法蘭の二人の僧と蔡愔、秦景をはじめとする十数人の使者が、白馬に乗り『四十二章経』という経典を携えて、都の洛陽を訪れたという説話に因んで、白馬寺と名づけられた。
サンクスリットで記載された仏教経典の漢訳がおこなわれる。
1月29日、イエス・キリストに従った使徒たちのリーダー、ペトロが死去。(後代の伝承による)
春2月、後漢/広陵王の劉荊が罪を得て自殺し、国は除かれた。
夏4月、後漢/明帝は詔勅を出した。
閏月、後漢/明帝は南方へ巡狩し、南陽に行幸し、章陵を祀った。日北へ至り、また旧宅を祀った。明帝は雅楽を楽しんだ。戻って南頓に行幸した。
冬11月、淮陽王の劉延を呼び平輿で会見し、沛王の劉輔を呼び睢陽で会見した。
12月、明帝の車駕は宮中に帰還した。

垂仁天皇97年/68年:戊辰

後漢/明帝の治世に仏教が中国大陸に伝わり、白馬寺が建立される
春正月、後漢/沛王の劉輔、楚王の劉英、済南王の劉康、東平王の劉蒼、淮陽王の劉延、中山王の劉焉、琅邪王の劉京、東海王の劉政が来朝した。
6月8日、ローマ/元老院の推薦でローマ皇帝にガルバが即位
6月9日、ローマ/第5代ローマ皇帝ネロが死去。
秋7月、後漢/司隷校尉の郭霸が罪に問われ獄死した。
8月、高句麗/曷思王の孫の都頭が、国を挙げて宮(太祖大王)の元へ投降。

垂仁天皇98年/69年:己巳

ローマ/4帝乱立の一年。
春正月、後漢/益州の徼外夷哀牢王相が内属を率いてきた。永昌郡を設置し、益州西部都尉を廃止した。
1月15日、ローマ/ローマ皇帝ガルバが殺害される。
1月15日、ローマ/オトがローマ皇帝に即位
夏4月、後漢/将作謁者の王呉が汴渠を修理し、滎陽から千乗までの海口を通じさせた。
4月15日、ローマ/ローマ皇帝オト自死
4月17日、ローマ/ローマ皇帝ウィテリウス即位
5月、後漢/明帝は天下に施しを実行し、詔勅を出した。
秋7月、後漢/司空の伏恭が罷免され、大司農の牟融が司空となった。
冬10月、後漢/司隷校尉の王康が罪に問われ獄死した。
12月22日、ローマ/ローマ皇帝ウィテリウス、ウェスパシアヌスによって殺害される。フラウィウス朝の確立。

垂仁天皇99年/70年:庚午

ローマ/ウェスパシアヌス、ローマに入る。フラウィウス朝始まる
ユダヤ/ユダヤ戦争終了。エルサレム攻囲戦で都市とエルサレム神殿が破壊される。
ローマ/コロッセオの建設が始まる(他説あり)
ローマ/ドミティアヌス、コルブロの娘と結婚
ギリシア/古代ギリシアの数学者アレクサンドリアのヘロンが死去。
大和/第11代天皇垂仁天皇が纏向宮にて崩御。(七月戊午朔なので、7月14日)
春2月、後漢/明帝は藉田を耕した。3月、河南尹の薛昭が罪を問われ獄死した。
夏4月、後漢/汴渠が成立し、明帝は滎陽に行幸し、河渠へ巡行した。明帝は詔勅を出した。河を渡り太行に登り、上党まで行幸し、明帝の車駕は宮中に帰還した。
冬10月、後漢/日食が起きた。明帝は詔勅を出した。
11月、後漢/楚王の劉英が謀反を計画し、廃立され国を除かれ、涇縣に移された、連座した者は数千人となった。この年、斉王の劉石が死去した。

景行天皇元年/71年:辛未

大和/日本書紀:元年秋七月己巳朔己卯、太子卽天皇位、因以改元。是年也、太歲辛未。
(※年月日それぞれの干支で記載がある。年は60年周期。月は5年周期だが潤月が加わるためずれていく。日もまた同じ。朔は月の一日目(朔日)の事。己卯の日であったと記されている)
景行天皇が即位。別称を、大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと)という。
垂仁天皇の第三皇子で、父帝に望むものを聞かれた際、兄の五十瓊敷入彦命が弓矢を望んだのに対し、皇位を望んでそれを許されて即位した。 七十七人の皇子女を諸国に分封し、諸国の別の祖とするなど全国的に勢力を広げ、皇后播磨稲日大郎との間に生まれた日本武尊に九州の熊襲や東国の蝦夷を鎮定させたと伝えられている。『日本書紀』、『古事記』に事跡が見えるが、その史実性には疑いがもたれる。131年、崩御。143歳といわれている。
この時、魏志倭人伝には、「其の国、本亦男子を以って王と為す。往(いまおさる)七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす、名を卑弥呼と云う」
出雲の王、須佐之男が九州地方をも征圧していたが、須佐之男の死後、入り婿の大国主が後を継いだ後も、国乱れて収まらず、卑弥呼の娘「多紀理姫」を現地妻としていた大国主も日向の地で死んだため、義母の立場にあった、卑弥呼が女王として立った事実が記されているものと解釈している。この間が約7〜80年あったと言われている。
3月12日、大和/垂仁天皇によって常世国に派遣された田道間守が、葉を取り払った枝8つと・葉のついた枝8つ(「8竿8縵」もしくは「縵8縵・矛8矛」)を持ち帰ってくる。ところが、垂仁天皇はすでに崩御していたため、縵4縵・矛4矛を分けて皇后に献上し、残りを天皇の陵に供えて泣き叫んだ。古事記によれば、田道間守はここで果てて死んだとあり、日本書紀ではここで自殺したと記載されている。
ローマ/ウェスパシアヌスとネルウァが執政官となる。
春3月、後漢/司徒の虞延が免職となり、自殺した。
夏4月、後漢/鉅鹿太守の南陽の邢穆が司徒となった。前の楚王の劉英は自殺した。
夏5月、後漢/故の広陵王の劉荊の子の劉元寿を広陵侯に封じた。初めて寿陵を作った。

景行天皇2年/72年:壬申

大和/播磨稲日大郎姫が、景行天皇の皇后となる。後に、櫛角別王、大碓命、小碓命、倭根子命、神櫛王が生まれた。
※日本書紀の原文を素読みすると、景行天皇が二年の時に、たくさんの子供が生まれたように記載されているが、もともとは語り部が伝えていた内容なので、実際生まれた年は不詳。
2月、高句麗/宮(太祖大王)は、藻那国を討伐。
ローマ/ウェスパシアヌスとティトゥスが執政官となる。
2月、大和/景行天皇が紀伊国へ行幸。屋主忍男武雄心命に紀伊の神を祀らせる。屋主忍男武雄心命の子孫が武内宿禰。
春2月、後漢/明帝は東方に巡狩した。偃師に行幸した明帝は詔勅を出した。沛王の劉輔を呼び睢陽で会見した。彭城まで行幸し、下邳に於いて自ら耕した。
3月、後漢/琅邪王の劉京を呼び良成で会見し、東平王の劉蒼を呼び陽都で会見し、広陵侯とその三人の弟を呼び魯国で会見した。東海恭王陵に詣でた。明帝は孔子宅を訪問し、仲尼及七十二弟子を祀った。親しく講堂へ幸き、皇太子、諸王に命じて経を説いた。東平に行幸した。大梁から定陶まで行幸し、定陶恭王の陵を祀った。夏四月、明帝の車駕は宮中に帰還した。信都を楽成国に、臨淮を下邳国に改めた。皇子の劉恭を鉅鹿王に、劉党を楽成王に、劉衍を下邳王に、劉暢を汝南王に、劉昞を常山王に、劉長を済陰王に封じた。
3月3日、後漢/播磨稲日大郎姫が皇后に立てられた。
冬12月、後漢/奉車都尉の竇固、駙馬都尉の耿秉を遣わし涼州に駐屯させた。

景行天皇3年/73年:癸酉

大和/景行天皇が紀伊国に行幸する。屋主忍男武雄心命に紀伊の神を祀らせる。屋主忍男武雄心命の子孫が武内宿禰。
ローマ/ドミティアヌスが執政官となる
後漢/班超が西域に出征
後漢/北匈奴が雲中を侵略してきたが、雲中太守の廉范がこれを撃破した。
春2月、後漢/太僕の祭肜を高闕に、奉車都尉の竇固を酒泉に、駙馬都尉の耿秉を居延に、騎都尉の来苗を平城に遣わし、北匈奴を征伐させた。竇固は天山において呼衍王を破り、伊吾廬城に兵を留め駐屯した。耿秉、来苗、祭肜は功が無く帰還した。
夏5月、後漢/淮陽王の劉延が謀反を計画したが発覚した。司徒の邢穆、駙馬都尉の韓光が連座し獄死した他、関係者の多くが誅殺された。日食が起きた。
6月、後漢/大司農の西河の王敏が司徒となった。
秋7月、後漢/淮陽王の劉延が阜陵王に改封された。
9月、後漢/明帝は郡国の中都官に詔令を出し、死刑囚を罪を減免して軍営に編入し、朔方、敦煌に配置した。

景行天皇4年/74年:甲戌

春正月、後漢/甘陵に於いて甘露が降った。北海王の劉睦が死去した。
2月、後漢/司徒の王敏が死去した。
2月、大和/景行天皇が美濃(現、岐阜県美濃市〜可児市と推定)へ行幸。美人と名高い弟姫を妃にしようと泳宮(くくりのみや)に滞在したが拒絶された。しかし、そのあとに姉の八坂入媛命を事を聞き妃とした。記載にある弟姫は、姉の八坂入媛命を相対した代名詞。泳宮跡地は、現在の岐阜県可児市久々利1606-4に存在している。日本書紀では、それぞれ生まれた子供が記されている。
3月、後漢/汝南太守の鮑昱が司徒に任命された。西南夷が哀牢、儋耳、僬僥、槃木、白狼、動黏諸種を前後して貢納してきた。西域諸国が子を人質に送り入侍させてきた。
秋8月、後漢/武威、張掖、酒泉、敦煌及張掖属国に命令して、囚人らの罪を一切免じて軍営に編入させた。
10月、高句麗/宮(太祖大王)は、朱那国を討伐。
11月、大和/景行天皇が纒向(まきむく:奈良県桜井市穴師)に都を移す(日代宮)。
冬11月、後漢/奉車都尉の竇固、駙馬都尉の耿秉、騎都尉の劉張を遣わして敦煌を出て昆侖塞に赴かせ、蒲類海上に於いて白山虜を撃破し、車師に侵入した。初めて西域都護、戊己校尉を設置した。この年、天水郡を改名し漢陽郡とした。

景行天皇5年/75年:乙亥

ローマ/ローマによって都市カーウェントが発見される。
ローマ/古代ローマの歴史家スエトニウスが生まれる。
春3月、後漢/明帝が詔勅を出す。
夏4月、後漢/明帝が詔勅を出す。焉耆、亀茲が西域都護の陳睦を攻撃し殺害した。北匈奴と車師後王が戊己校尉の耿恭を包囲した。
秋8月、後漢/父の明帝が死去。劉炟が19歳で即位した(章帝)。養母である馬皇后を皇太后とし、明帝を顕節陵に葬った。
冬10月、後漢/大赦を実施すると共に詔勅を出し、太尉であった趙憙を太傅とし、司空であった牟融を太尉・録尚書事とした。
11月、後漢/蜀郡太守の第五倫を司空とした。征西将軍の耿秉に命じて酒泉に駐屯させ、酒泉太守の段彭を遣わせて戊己校尉の耿恭を救わせた。この年に牛疫が発生し、また京師と三州に大きな旱があったため、詔を出し、兗、豫、徐州において施しを実行した。

景行天皇6年/76年/アスス暦803年:丙子

百済/第3代王、己婁王が即位。
1月24日、ローマ/ローマ皇帝ハドリアヌスが生まれる。
春正月、後漢/前年に起きた疫病と災害の対策の詔勅を出した。酒泉太守の段彭が車師を討ち大いに破った。戊己校尉の官を罷免した。
2月、後漢/武陵の漊中蛮が反乱を起こした。
3月、後漢/山陽と東平で地震が起きた。章帝は詔勅を出し人材を募った。
9月、後漢/永昌哀牢夷が反乱を起こした。
冬10月、後漢/武陵郡の兵士が叛蛮を討ち之を破り降参させた。
11月、後漢/阜陵王の劉延が謀反し、阜陵侯に降格された。

景行天皇7年/77年:丁丑

百済の第2代王、多婁王が死去。
春3月、後漢/章帝は詔勅を出した。伊吾廬の屯兵を取りやめた。永昌、越巂、益州の三郡の民が哀牢夷を討ち、これを破り平定した。
夏4月、後漢/章帝は詔勅を2回出した。
6月、後漢/焼当羌が反乱を起こし、金城太守の郝崇が討伐したが敗れ、羌は漢陽を侵略した。
秋8月、後漢/車騎将軍代行の馬防が派遣されこれを討ち平定した。

景行天皇8年/78年:戊寅

後漢代の政治家・科学者・文学者、張衡が生まれる。
3月、後漢/貴人であった竇氏を皇后とした。
夏4月、後漢/馬防が焼当羌を臨洮において破った。
閏月、後漢/西域仮司馬の班超が姑墨を撃ち大いに破った。
冬12月、後漢/馬防を正式に車騎将軍とした。武陵の漊中蛮が叛いた。

景行天皇9年/79年:己卯

後漢/学者、馬融が生まれる。
後漢/劉肇(第4代皇帝、和帝)が生まれる。
新羅/婆娑王が即位。
春2月、後漢/太尉の牟融が死去した。
夏4月、後漢/皇子の劉慶を皇太子とした。鉅鹿王の劉恭を江陵王に、汝南王の劉暢を梁王に、常山王の劉昞を淮陽王にそれぞれ改封し皇子の劉伉を千乗王に、劉全を平春王とした。
5月、後漢/車騎将軍の馬防が罷免され、司徒の鮑昱を太尉に任命し、南陽太守の桓虞を司徒に任命した。
6月、後漢/皇太后の馬氏が死去し、明徳皇后と諡し秋7月に葬った。
6月23日、ローマ/ローマ皇帝ウェスパシアヌスが死去。
6月24日、ローマ/ティトゥス、ローマ皇帝に即位
8月24日、ローマ/ベスビオ火山の噴火によりポンペイが埋没。午後に起きたと推定されている。ヘルクラネウムの町を溶岩や土や灰が20メートル程の厚さで覆ってしまった。
ローマ/ローマ帝国の元老院議員、博物学者「大プリニウス」の異名を持つ、ガイウス・プリニウス・セクンドゥスが死去。
9月23日、ローマ/ローマ教皇リヌスが死去。
冬10月頃、後漢/牛大疫があった。
11月、後漢/章帝は詔勅を出した。

景行天皇10年/80年:庚辰

ローマ/コロッセウムが完成。
パルティア/アルサケス朝の王ヴォロガセス2世が死去。
新羅/第4代の王、脱解尼師今が死去。
後漢〜新/後漢の政治家、武将である趙憙が死去。
春2月、後漢/日食が起き、章帝は詔勅を出した。
3月、後漢/章帝は詔勅を出した。荊、豫の諸郡の兵士が武陵漊中叛蛮を討ち破った。
夏5月、後漢/章帝は詔勅を出した。太傅の趙憙が死去した。この年に西域仮司馬の班超は疏勒を撃ち、これを破った。

景行天皇11年/81年:辛巳

劉肇(後の和帝)の母の梁貴人が、宮廷内での争いの中で章帝の皇后・竇氏によって殺される。
春2月、後漢/琅邪王の劉京が死去した。
夏5月、後漢/趙王の劉栩が死去した。
6月、後漢/太尉の鮑昱が死去した。日食があった。
秋7月、後漢/章帝が大司農の鄧彪を太尉に任命した。
9月13日、ローマ/ローマ帝国皇帝ティトゥスが死去。
9月14日、ローマ/ドミティアヌス、ローマ皇帝に即位。

景行天皇12年/82年:壬午

大和/景行天皇と播磨稲日大郎姫との間に、大碓尊、小碓尊が生まれる。生年不詳とされているが、小碓尊が熊襲討伐を行ったのが十六歳のため、換算すれば生まれたのはこの頃に当たる。小碓尊(後の日本武尊)は、亦名を日本童男(ヤマトオグナ)という。日本書紀においては、兄の大碓尊とは双子であったと記されている。古事記においては、武勇に秀でていたが気性が激しく,兄を殺害してしまったため父からは疎(うと)んじらた、という意味合いの表現がなされている。景行天皇43年(西暦113年)に亡くなったとされているため、没年は32歳であったと推定される(日本武尊の歩んだ道が、素戔嗚尊と同じ道跡を歩んでいるという説もある)。尚、日本武尊をお祀りしている神社は、滋賀県米原町の琵琶湖沿岸に位置する荒磯崎神社(現、磯崎神社)であり、日本武尊の墓所でもある。
春正月、後漢/章帝が沛王の劉輔、済南王の劉康、東平王の劉蒼、中山王の劉焉、東海王の劉政、琅邪王の劉宇が来朝した。
夏6月、後漢/章帝が皇太子の劉慶を廃立し清河王とし、代わりに皇子の劉肇(3歳)を皇太子とした。広平王の劉羨を西平王に改封した。
秋8月、後漢/章帝が先帝を祭る。
9月、後漢/章帝が冬12月にかけて巡察を実施し、河内や長安に行幸した。

景行天皇13年/83年:癸未

大和/熊襲國(現在の宮崎県)が恭順しなかったため、景行天皇が熊襲の討伐へ向かう。土蜘蛛との戦い。
天皇に恭順しなかった民を、蝦夷として征討の対象に記した記録は、この時期からと思われる(ホツマツタエでは「ハタレ」としているが、アスス暦を換算すると100万年前という記述になるため、対象外とする)。神道が明確に定められたのは仏教が伝来し延喜式が定められてからになるが、それ以前は祖神がどの存在であるかによって区別がなされていた。天津神を祖神とする天皇を祀る民とは違い、日本古来から存在した外津神や国津祇、天別津神、天甕星神を祖神とした民、あるいは異民族、当時の反天皇派の意志をもつ民、天皇に恭順しなかった民はすべて夷狄と見なされた。蝦夷や土蜘蛛もまた、そうした民のひとつである。これらの民は、ここで独自の優れた文化を持ち合わせていた事も多く、同時に夷狄として見られていた事から、後世において鬼や妖怪の類として記録されていく事になる。
大和/景行天皇が日向国の高屋宮に到着。市乾鹿文が天皇に協力して父を殺すものの、その親不孝を憎んで天皇に殺される。
ローマ/モンス・グラウピウスの戦い(84年説あり)が起こる。
春正月、後漢/東平王の劉蒼が死去した。
夏6月、後漢/北匈奴が降参した。
8月、大和/景行天皇が筑紫に行幸される。(景行天皇の西征)
9月、大和/周防国の娑麼(現在の山口県府中市)に到着。神夏磯媛という女酋が投降する。
神夏磯媛は鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折という賊に抵抗の意思があるので征伐するよう上奏した。
そこでまず麻剥に赤い服や褌、様々な珍しいものを与え、他の三人も呼びよせたところをまとめて誅殺した。
同月、筑紫(九州)に入る。豊前国の長狹県に行宮(かりみや)を設けた。そこでここを京都郡(現在の福岡県行橋市)と呼ぶ。
10月、大和/豊後国の碩田(おおきた:現在の大分県大分市)に到着。速津媛という女酋が現れる。
速津媛によると天皇に従う意思がない土蜘蛛がいて青、白、打猨、八田という。
そこで進軍をやめて來田見邑に留まり群臣と土蜘蛛を討つ計画を立てた。まず特に勇猛な兵士を選んで椿の木槌を与え、石室の青と白を稲葉の川上に追い立てて賊軍を壊滅させた。
椿の槌をつくった所を海石榴市(つばきち)といい、血が大量に流れた所を血田という。続いて打猿を討とうとしたところ、禰疑山(ねぎやま)で散々に射かけられてしまった。
一旦退却して川のほとりで占いをし、兵を整えると再び進軍。八田を禰疑野(ねぎの)で破った。
これを見た打猿は勝つ見込みがないと思い降服したが、天皇は許さず誅殺。
11月、大和/景行天皇が日向国の高屋宮(宮崎県高屋神社)に到着する。宮崎県西都市にも古墳が広がっているため、西都市が高屋宮ではないかという説がある。
日向五郡八院旧元集によれば、景行天皇は6年間この高屋宮を行宮の拠点としている。
「武内宿祢、彦火々出見命の山陵を知り、そこで御鎮座を定めた。これが村角高屋八幡宮である。」ともあるので、後に八幡神(やはたのかみ:応神天皇・比売神・神功皇后)を奉った事がうかがえる。
12月、大和/景行天皇は熊襲梟帥(くまそたける)を討つ計画を立てる。
熊襲梟帥は強大で戦えばただでは済まないことがわかっていた。
そこで熊襲梟帥の娘である市乾鹿文と市鹿文の姉妹に贈り物をして妃にし、熊襲の拠点を聞きだした上で奇襲することになった。
姉妹は策に嵌まり、姉の市乾鹿文は特に寵愛された。あるとき市乾鹿文兵は1、2人連れて熊襲梟帥のところに戻った。
そして父に酒を飲ませて泥酔させ兵に殺させた。
そこまでは考えていなかった天皇は姉の市乾鹿文に対して、親不孝を咎めて誅殺し、妹は火国造(統治者:現在の熊本県)に送り飛ばしてしまった。
冬12月、後漢/東へ巡狩を実行し、陳留、梁国、淮陽、潁陽を巡った。この年に京師と郡国に螟が発生した。

景行天皇14年/84年:甲申

大和/景行天皇が襲国(ソコク)を平定。景行天皇、熊襲國の御刀媛を妃とする。豊国別皇子が生まれる。豊国別皇子は日向国造の祖とされている。
ローマ/モンス・グラウピウスの戦い(83年説あり)が起こる。
春正月、後漢/中山王の劉焉が来朝した。日南徼外の蛮夷が生犀と白雉を献じた。済陰王の劉長が死去した。
2月、後漢/章帝は詔勅を出した。
夏4月、後漢/東平国を分割して、東平憲王(劉蒼)の子の劉尚を任城王とした。
6月、後漢/沛王の劉輔が死去。
6月11日、大和/稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと:後の成務天皇)が生まれる。
秋7月、後漢/章帝は詔勅を出した。
8月、後漢/太尉の鄧彪が罷免され、大司農の鄭弘が太尉となった。章帝は詔勅を出し、南へ巡狩した。
9月、後漢/東平王の劉忠が死去した。冬10月、章帝は江陵まで行幸し、廬江太守に命令して南嶽を祀らせ、長沙、零陵太守に命令して長沙定王、舂陵節侯、鬱林府君を祀らせた。帰還する途中、宛に立ち寄った。
11月、後漢/章帝の車駕は都に帰還した。
12月、後漢/章帝は詔勅を出した。

景行天皇15年/85年:乙酉

大和/稚足彦尊(後の成務天皇)が生まれる。
ローマ/ギリシャ人天文学者クラウディオス・プトレマイオスが生まれる。
朝鮮/鮮卑が北匈奴を破る。
匈奴/南匈奴の単于、湖邪尸逐侯是単于が死去。(是=革+是)
春正月、後漢/章帝は詔勅を出した。
2月、後漢/『四分暦』を初めて用いた。章帝は詔勅を出し、豊作を祈願した。東方へ巡狩し、定陶において章帝自ら耕作を実行した。詔勅を出した。済南へ行幸する前、再び詔勅を出した。
3月、後漢/章帝が魯国に行幸し、東海恭王の陵を祀った。闕里に於いて孔子と七十二人の弟子を祀り、施しを行った。東平に行幸し、憲王の陵を祀った。使者を遣わして定陶太后と恭王陵を祀った。東阿に行幸し、太行山に登り、天井関へ至った。
夏4月、後漢/章帝の車駕は都に帰還した。
5月、後漢/章帝は詔勅を出し、施しを実行した。廬江郡を改めて六安国を置き、江陵を再び南郡に戻した。江陵王の劉恭を六安王に改封した。
秋7月、後漢/章帝は詔勅を出した。
9月、後漢/章帝は詔勅を出した。済南王の劉康、中山王の劉焉を祭りに参加させた。
冬11月、後漢/日南に至って、初めて関梁を閉じた。

景行天皇16年/86年/アスス暦813年:丙戌

9月19日、後のローマ帝国皇帝アントニヌス・ピウスが生まれる。
後漢の政治家、儒学者、黄瓊が生まれる。
春正月、後漢/章帝は詔勅を出し、北へ巡狩する。済南王の劉康、中山王の劉焉、西平王の劉羨、六安王の劉恭、楽成王の劉党、淮陽王の劉昞、任城王の劉尚、沛王の劉定が皆従った。懐に於いて章帝は自ら耕した。
2月、後漢/章帝は常山、魏郡、清河、鉅鹿、平原、東平郡の太守と相に布告を出した。中山に行幸し、使者を遣わせて北嶽を祀った。長城を出た。元氏にもどり、光武帝と顕宗を県舍正堂に於いて祀り、明日に又顕宗を始生堂で祀り、皆で奏楽した。
3月、後漢/高邑の令に命じて光武帝を即位壇に於いて祀らせた。元氏に七年の徭役を復した。趙に行幸した。霊寿に於いて房山を祀った。章帝の車駕は都にもどった。
夏4月、後漢/太尉の鄭弘が免職となり、大司農の宋田が太尉となった。
5月、後漢/司空の第五倫が罷免され、太僕の袁安が司空となった。
秋8月、後漢/安邑に行幸し、塩池を観覧した。
9月、後漢/自ら安邑に至った。
冬10月、後漢/北海王の劉基が死去した。焼当羌が謀叛し、隴西を侵略した。この年、西域長史の班超が疏勒の王を撃ち、これを斬った。

景行天皇17年/87年:丁亥

大和/熊襲において、景行天皇が子湯県の丹裳小野で朝日を見てこの国を「日向」と名付けた。以後、熊襲國は日向國となる。
景行天皇、九州で京を思い思邦歌(クニシノビウタ)を歌う。 「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一)」
ローマ/フラウィウス朝ローマ帝国の軍人コルネリウス・フスクスが死去。
春3月、後漢/護羌校尉の傅育は叛いた羌を追撃するも戦死。
6月、後漢/司徒の桓虞が免職。司空の袁安が司徒となり、光禄勲の任隗が司空となる。
秋7月、後漢/斉王の劉晃が有罪となり、蕪湖侯に降格された。淮陽王の劉昞が死去。鮮卑が北単于を撃破し、これを斬った。焼当羌が金城に侵略し、護羌校尉の劉盱が之を討ち、その渠帥を斬った。章帝は詔勅を出した。
8月、後漢/章帝が南へ巡狩。使者を遣わして昭霊后を小黄園に於いて祀った。任城王の劉尚を呼び睢陽で会見した。梁へ行幸した。使者を遣わして沛の高原廟、豊枌楡社を祀らせた。沛へ行幸し、献王陵を祀らせ、東海王の劉政を呼び会見した。日食が起きた。
9月、後漢/章帝は彭城へ行幸し、東海王の劉政、沛王の劉定、任城王の劉尚は皆従った。寿春まで至った。章帝は詔勅を出した。また、阜陵侯の劉延を阜陵王に復帰させた。汝陰に行幸した。
冬10月、後漢/章帝の車駕は都に戻った。北匈奴の屋蘭儲らが衆を率いて降った。

景行天皇18年/88年:戊子

後漢/第3代皇帝、章帝が死去。
春正月、後漢/済南王の劉康、阜陵王の劉延、中山王の劉焉が来朝。
春2月、後漢/章帝が死去し、劉肇が9歳で和帝(第4代後漢皇帝)として即位。
3月、大和/景行天皇、日向國から大和へ帰京を開始。景行天皇、夷守(宮崎県小林市)で諸縣君の泉媛が儀式を行うのを見る。
3月、後漢/郡と国の変更がなされ、それぞれの諸王が別の封地を与えられた。和帝が幼少のため即位当初は竇太后が臨朝し、兄である竇憲らと政権を握った。
4月、大和/景行天皇が熊県(熊本県球磨郡)で弟熊を誅殺。葦北の島で水が湧く。
5月、大和/景行天皇が火の国(現、熊本県)へ移動。 高来県(長崎県諫早市)を通過。
5月、後漢/京師で旱がおきた。長楽少府の桓郁に禁中での侍講が命じられた。
6月、大和/景行天皇、玉杵名邑(熊本県玉名市)の土蜘蛛津頬(つちぐもつつら)を誅殺。阿蘇(熊本県阿蘇郡)で阿蘇津彦と阿蘇都姫に出会う。
7月、大和/景行天皇が筑紫国の御木(福岡県大牟田市)に着いて高田行宮に滞在。八女県へと移動。藤山を越えて南の粟岬を眺められる。景行天皇の山に神が居わすのかという問いに、水沼県主の猿大海が「八女津媛」という神がいると奏上。八女国と名づけられる。
8月、大和/景行天皇が的邑(いくは(村)、現在の福岡県浮羽郡)で食事。
冬10月、後漢/侍中であった竇憲を車騎将軍に任命し、北匈奴を征伐させた。安息国が使者を送ってきた。

景行天皇19年/89年:己丑

後漢/永元に改元
夏6月、後漢/竇憲は度遼将軍の鄧鴻や南匈奴の単于と協力して北匈奴を稽落山において大いに破り、北匈奴の単于を降伏し人質を得た。
9月、後漢/竇憲は大将軍に任命され、中郎将の劉尚が後任の車騎将軍となった。
9月、大和/景行天皇、日向國から大和へ帰京。

景行天皇20年/90年:庚寅

景行天皇、おそらくは倭姫命によって、五百野皇女に天照大神を祀らせる。 伊勢斎宮群行の始まり。
倭姫命世記:倭姫命、「歳既に老いぬ、仕ふること能はず、吾足りぬ」と宣ひて、斎内親王に仕奉るべき物部八十氏の人々を定め給ひて、十二司寮官等をば五百野皇女久須姫命(いほののひめみこくすひめのみこと)に移し奉る。
春二月朔日(現在の3月半ば。御神事としては3月19日に定着)、五百野皇女を遣して、御杖代とて、多気宮を造り奉りて、斎ひ慎しみ侍らしめ給ひき。伊勢斎宮群行の始、是なり。ここに倭姫命、宇治の機殿の礒宮に坐し給へり。日神を祀奉ること倦きことなし。
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倭姫命は歳老いた自らに代わり、斎内親王を継承し仕奉るための皇女を卜定にて選出する事を決める。選出された内親王または王女は当時の宮中から伊勢神宮に出仕し、初斎院に入る事となる。この時、諸々の仕えし氏族たちがともに行群する。これが伊勢斎宮群行となる。
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春2月、後漢/西河と上郡の属国都尉の官が再び設置された。
夏5月、後漢/諸王の封地が変更となった。また、北匈奴に副校尉の閻槃が追討に赴いた。月氏(クシャーナ朝)が西域長史の班超を攻撃したが、班超はこれを撃退した。
秋7月、後漢/竇憲は涼州に出兵した。
9月、後漢/北匈奴が使者を送ってきた。
冬10月、後漢/行中郎将の班固が南匈奴の単于に命令を報じ、河雲北において北匈奴が大いに破られた。

景行天皇21年/91年:辛卯

後漢/班超、西域都護となり西域50ヶ国を平定
ローマ/ローマ教皇アナクレトゥスが死去。
春正月に和帝は元服した。
2月、後漢/竇憲は左校尉の耿夔を遣わし、金微山において北匈奴の単于を包囲しこれを大いに破り、単于の母の閼氏を捕虜とした。
冬10月、後漢/和帝は長安に行幸した。
12月、後漢/西域都護、騎都尉、戊己校尉の官職を復活させた。

この代に、日本武尊が日本各地を征伐する。
異称を、小碓命(オウスノミコト)、倭建命(ヤマトタケルノミコト)、倭男具那尊(ヤマトオグナノミコト)、日本童男命(ヤマトオグナノミコト)という。
日本武尊は第12代景行天皇の子として誕生した。幼名を小碓命(おうすのみこと)といい,兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われている。
武勇に秀でていたが気性が激しく,兄を殺害してしまったため父からは疎(うと)んじられていた。
ある日,景行天皇の宮(日代宮:ひしろのみや?奈良県桜井市穴師)に呼ばれた大碓命は父から美濃の国にいる兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)の姉妹を召しつれてくるように言われる。
兵を連れて美濃に出かけた大碓命は,二人があまりに美しい娘たちだったので自分の下に置くことと決め,父の前には別の娘を差し出してごまかすことにした。しかし,このことが父に知られることとなり,大碓命は父の前に顔を出しづらくなってしまう。
そのため朝夕の食事にも同席せず,大事な儀式に出ないことで父を怒らせてしまった。そこで,父は弟の小碓命(日本武尊)に食事の席に出るように諭してくるように命じた。小碓命は早々に兄に会い,教え諭した。
しかし,それでも大碓命が顔を出さないので,父が小碓命にどのように諭したのかをたずねたところ,「朝,兄が厠(かわや:便所)に入ったとき,手足をもぎ取り,体を薦(こも:=「菰」 わらを編んで作ったむしろ)に包んで投げ捨てました。」と答えた。  
小碓命が16才のとき,父景行天皇は九州の熊襲(くまそ)を平定するように命じた。熊襲建(くまそたける)兄弟は武勇に秀でていたが,大王の命に従わおうとしないので,征伐することになった。
九州の熊襲建は大きな家を新築したばかりで,そこでは祝いの宴が催されていた。小碓命は少女のように髪を結い,叔母(倭比売)からもらった小袖を着て宴に紛れ込んだ。酒を飲んで上機嫌になっている兄弟を見ると,その前に進み出て目にとまるような仕草をした。
色白で美しい小碓命に熊襲建の兄が声をかけてそばに座らせた。そして,兄が小碓命を自分の膝の上に抱きかかえようとしたとき,小碓命はここぞどかりに持っていた短刀で兄を一気に斬り殺してしまった。
それを見て外に走って出ようとした熊襲建の弟を追い,背中から刀をさしたところ,弟は自分たち兄弟より強い者は西方にはいないが倭にはいたんだと知り,自分たちの「建」の名をもらってほしいと願う。
そして,小碓命を倭建命(やまとたけるのみこと)と称えることにすると言って息をひきとった。小碓命はこれより倭建命(日本武尊)と名乗ることにした。(「建」は勇敢な者という意味を持つ)  
奈良にある宮に戻る途中も,山の神,川の神,河口の神などの大王に従わない者たちを征伐した。出雲の国の出雲建(いずもたける)を征伐するときも頭を使って勝利し,国を平定した。
宮に戻った日本武尊は羽曳野で一人の娘と出会った。名は弟橘比売(おとたちばなひめ)。やがて二人は結ばれた。
日本武尊は休む間もなく次は東国の平定へと向かわねばならなかった。父は,東国の12か国(伊勢:いせ,尾張:おわり,三河:みかわ,遠江:とおとうみ,駿河:するが,甲斐:かい,伊豆:いず,相模:さがみ,武蔵:むさし,総:ふさ,常陸:ひたち,陸奥:みちのく)が従わないので平定するよう倭建命に命じたのだった。
出発前,日本武尊は伊勢にいる叔母の倭比売(やまとひめ:景行天皇の同母妹)から須佐之男命(すさのおのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上した草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を受け取った。 尾張に入ると豪族の娘の美夜受比売(みやずひめ)と出会い,東国の平定後に結婚すると約束した。
美夜受比売の兄の建稲種命(たけいなだねのみこと)は尾張の水軍を率いており,副将軍として東国の平定に出かけることとなった。
相模の国に入る前で妃の弟橘比売(おとたちばなひめ)が合流した。
土地の役人が日本武尊を迎え,草原の神が従わないから成敗してほしいと,沼に案内した。
しかし,それは罠であった。いつの間にか草原に火がつけられ炎に囲まれてしまった。弟橘比売とともに焼かれてしまうところだったが,持っていた天叢雲(あめのむらくも)の剣でまわりの草を刈り,叔母にもらって持っていた火打ち石で向かい火をたいて火の向きを変えた。
このとき風向きも味方した。日本武尊は罠に陥れようとした者たちを斬り殺して焼いた。この地が静岡県の静岡市(旧清水市か焼津市)ではないかと言われている。
天叢雲(あめのむらくも)の剣によって難を逃れた日本武尊はこの剣を「草薙(くさなぎ)の剣」と改名した。
「草薙の剣」は三種の神器の一つであり,名古屋市の熱田神宮に祀られている。静岡県静岡市(旧清水市)にある草薙神社の由緒書きには「草薙の剣」が神剣として草薙神社に祀られているとある。
この草原の名を「草薙」として現在も地名として残っている。
また,日本武尊は小高い丘に登り周りの平原を見渡した。この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けた。
走水(はしりみず)の海は三浦半島沖と房総半島にはさまれたあたりの海をさすが,船出をした日本武尊たちを嵐(あらし)が襲(おそ)った。黒い雲が巻き起こり波が船を襲った。
雷鳴がとどろき,激しい雨と風に船なすすべもなかった。弟橘比売は「海神の祟(たた)り」だと言った。そして,その怒りを静めようと海に身を投げてしまった。
やがて海は静まり,日本武尊たちは上総(かずさ:千葉県)に渡ることができた。海岸で日本武尊はクシを見つけた。それが弟橘比売のものとわかると悲しみがこみ上げてきた。
こうして東国の神々を平定し,日本武尊たちは帰途についた。甲斐,信濃長野,美濃大井,釜戸,池田から尾張の国境,内津(うつつ)峠に入った日本武尊は早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から,甲斐での戦いの後,東海道を通っていたはずの建稲種命(たけいなたのみこと)が駿河の海で水死したことを聞いた。
日本武尊は「ああ現哉(うつつがな)々々」と嘆き悲しみ建稲種命の霊を祭った。これが内々(うつつ)神社の始まりで,実際に祭った場所は奥の院であったとされている。(春日井市教育委員会案内板より)
この後,日本武尊美夜受比売と再会し結婚した。 尾張ではまだしなければならないことがあった。それは伊吹山の神を征伐することだった 。日本武尊は素手で戦うからと草薙の剣を美夜受比売に預けて出かけることにした。
伊吹山を登り始めてしばらくすると,白く大きなイノシシが現れた。山の神の使いが変身しているに違いないから大したことはないと先に進んでいった。
ところがこのイノシシが山の神自身が変身していたのだった。山の神は日本武尊たち一行に大氷雨を降らせた。日本武尊たちは大きな痛手を被り,日本武尊自身も病にかかり伊吹山を下りた。
伊吹山を下り,毒気にあたって命からがらにこの泉にたどり着いた日本武尊は清水を飲んで体を休めた。ここの清水の効果は大きく,高熱がさめたという話が伝わっている。
滋賀県米原町醒ヶ井に「居醒の清水」がある。昔は中山道を往来した人たちの休憩所でもあった。
日本武尊が傷をいやしたことから「居醒の清水」と呼ばれ,醒井(さめがい)という地名もこの話が元になったと言われている。
伊吹山での戦いの後,疲れ果ててしまった日本武尊は鈴鹿の山を越え,現在の三重県四日市市から鈴鹿市の国道1号にほぼ沿った道を杖をつきながら歩いた。
能褒野(のぼの)に向かう途中,だんだん弱ってきた日本武尊が「わが足三重の匂(まか)りなして,いと疲れたり」と語ったことからこの地を三重と呼んだ。
やっとのおもいで能褒野にたどり着いた日本武尊はここで力尽きた。
「やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣  山ごもれる やまとし うるわし」
この知らせは宮にいる妃たちにも届いた。
そして,能褒野に陵を造った。みなが嘆き悲しんでいると陵から一羽の白鳥が空へ舞い上がり,倭の方へ飛んでいった。
この白鳥が舞い降りたとする伝説地の一つが琴弾原(奈良県御所市)で白鳥陵がある。 再び白鳥は空へと舞い上がる。
日本武尊の生涯については、記紀で記されているのはこの通りであるが諸説あり、はっきりとした事は不明である。
景行天皇43年(西暦114年)に亡くなったとされているため、没年は39歳であったと推定される。 (日本武尊の歩んだ道が、素戔嗚尊と同じ道跡を歩んでいるという説もある。)
尚、日本武尊をお祀りしている神社は、滋賀県米原町の琵琶湖沿岸に位置する荒磯崎神社(現、磯崎神社)であり、日本武尊の墓所でもある。(伊雑宮口頭伝)

景行天皇22年/92年:壬辰

外戚の主導者、竇憲が死去。
漢書の著者の一人、班固が死去。
春正月、後漢/北匈奴において政変が起き、新たに立った単于が降伏を申し出てきた。左校尉の耿夔が出向き璽綬を受け取った。
3月、後漢/司徒の袁安が死去し、太常の丁鴻が司徒となった。
夏4月、後漢/竇憲が京師に帰還した。
6月、後漢/日食と地震の災害が起きた。竇憲は外戚であり、元々権勢家であった上、軍功を立てたことから増長するようになっていた。和帝はこれを憎み、竇憲の一党を排除しようとし、宦官の鄭衆らと策をめぐらした。和帝は詔勅を出して竇憲に謀反の罪があるとし、その与党である射声校尉の郭璜とその子である侍中の郭挙、衛尉である鄧畳とその弟である歩兵校尉の鄧磊を捕らえ、みな獄死させた。さらに謁者僕射を使者におくり大将軍の印綬を没収し、竇憲とその弟の竇篤、竇景を封国に赴かせ、そこで自殺させた。
秋7月、太尉の宋由が竇憲に与したとして自殺させられた。
8月、後漢/司空の任隗が死去し、大司農の尹睦が太尉・録尚書事となった。
冬10月、後漢/宗正の劉方が司空となった。
12月、後漢/武陵と零陵の漊中蛮が反乱を起こし、焼当羌が金城に侵攻した。

景行天皇23年/93年:癸巳

8月23日、ローマ帝国ブリタニア総督グナエウス・ユリウス・アグリコラが死去。
二月、倭姫命、宮人及物部八十氏等を召し集ひて、宣はく、
「神主部・物忌等諸、聞け。吾久代、太神託して宣ひましましき。
『心神は則ち天地の本基、身体は則ち五行の化生なり、肆に元を元とて元初に入り、本を本とて本心に任せよ。
神は垂るるに祈躊を以ちて先と為す。冥は加ふるに正直を以ちて本と為せり。
夫、尊天事地、崇神敬祖、則、不絶宗廟、経綸天業、また屏仏法息、神祇を再拝して奉れ。
日月四洲を廻り、六合を照すと雖ど、須く正直の頂を照すべし』
と、詔命ふこと明らけし。
己専如在礼、朝廷を祈奉らば、天下泰平して、四民安然ならむ」と、布告訖りて、自ら尾上山峯に退りて石隠り坐しぬ。
春2月、後漢/太傅の鄧彪が死去した。匈奴の単于於除鞬が叛いたが、中郎将の任尚が派遣されこれを討滅した。
冬10月、後漢/太尉の尹睦が死去した。
11月、後漢/太僕の張酺が太尉となった。この年には武陵郡の蛮族の反乱は郡により鎮圧された。また、護羌校尉の貫友が焼当羌を討ち追い払った。また、南匈奴の単于が反乱を起こし敗れて斬られた。

景行天皇24年/94年:甲午

後漢/ 班超が西域諸国を制圧。
後の第6代皇帝、安帝が生まれる。
春正月、後漢/永昌徼外の夷が使者を送り犀牛、大象を献上してきた。司徒の丁鴻が死去した。
2月、後漢/三河、兗、冀、青州貧民に食糧が貸し与えられた。許陽侯の馬光が自殺した。司空の劉方が司徒に、太常の張奮が司空となった。
夏4月、後漢/蜀郡徼外の羌が使者を送ってきた。
秋7月、後漢/西域都護の班超は焉耆、尉犁を大いに破り、その王を斬り、西域の多くの国を降伏させた。南匈奴の単于が叛いて胡亡出塞。
9月、後漢/光禄勲の鄧鴻が車騎将軍の代行に任命され、越騎校尉の馮柱、度遼将軍代行の朱徽、使匈奴中郎将の杜崇を送り南匈奴を討たせた。
冬11月、後漢/護烏桓校尉の任尚が烏桓と鮮卑を率いて逢侯を大いに破り、馮柱は追撃を加えて再びこれを破った。武陵の漊中蛮が反乱を起こし郡により平定された。

95年(景行天皇25年):乙未

景行天皇が、武内宿禰に北陸・東方諸国を視察させる。
北陸(北陸道)および東(東海道、東山道)の国々の地形、また百姓の様子を見させた。
福島・岩沼沖で地震発生の可能性。アウターライズ地震で、貞観地震や東北地方太平洋沖地震時を超える規模の「東北太平洋沿岸津波」が発生したと推定されている。歴史研究家の飯沼勇義が提唱。
春正月、後漢/鄧鴻、朱徽、杜崇らは皆獄に下され死去した。
夏4月、後漢/日食がおきた。和帝は天災が続くことを憂えて公卿を引見して意見を募った。
秋7月、後漢/易陽で地裂がおきた。
9月、後漢/京師で地震があった。

景行天皇26年/96年/アスス暦823年:丙申

古代ローマで五賢帝時代始まる。
春2月、後漢/貴人の陰氏を皇后に立てた。国内の災害はやまず、対策に追われた。南匈奴が反逆した。
秋7月、後漢/度遼将軍代行の龐奮と、越騎校尉の馮柱が軍を引き手南匈奴の反乱を鎮めた。車師後王が叛き、車師前王を攻撃した。
9月、後漢/京師で蝗が発生した。広陽郡が再び設置された。
9月18日、ローマ/ローマ帝国の第11代皇帝ドミティアヌスが死去。
冬10月、後漢/北海王の劉威が罪を得て自殺した。
12月、後漢/南宮宣室殿で火災があった。

???年

古事記:景行天皇についての書記 ---- 三野国造の祖、神大根王の娘、兄比賣と弟比賣の二人がとても美しいと聞いて、大碓命を遣わし、この二人を召し上げようとした。
ところが遣わされた大碓命は、そのまま天皇のもとに送らず、自分でこの二人の姫と交わり、他の女を姫に仕立てて、「これがその兄比賣と弟比賣です」と言って天皇に奉った。
だが天皇は差し出された女が他の女だと気づき、何度も見直し、女を召しもせず、思いに沈んだ。
この大碓命が兄比賣に生ませた子は押黒之兄日子王(三野の宇泥須和氣の祖)、また弟比賣に生ませた子は押黒弟日子王(牟宜都君らの祖)である。
この御世に田部を定め、東の淡(安房)の水門を定めた。また膳部(かしわで)の大伴部を定め、倭の屯倉(みやけ)を定めた。また坂手池を作って、その堤に竹を植えさせた。
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古事記にある三野国とは美濃の事。(岐阜県美濃市)
日本書記に登場する八坂入媛命と弟姫は、崇神天皇の第二皇子である八尺入日子命の娘。
古事記にある神大根王(八瓜入日子王)は、開花天皇の第三皇子である彦坐王(ひこいますのみこ)と天之御影神の女(巫女)である息長水依比売命(おきながのみずよりひめのみこと)との間に生まれた子である。
こちらも「兄比賣(えひめ)」と「弟比賣(おとひめ)」という代名詞としての記載になっているが、八尺入日子命と八瓜入日子王は、全くの別人と推定される。

景行天皇27年/97年:丁酉

日本書紀:景行天皇、日本武尊を遣わして熊襲討征をおこなう。(日本武尊)十六の歳。
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古事記:天皇は小碓命に「どうしてお前の兄は朝夕の大御食に出席しないのか。お前が行って、出てくるように教えてやれ」と言う。
ところがその後五日も経つのに、まだ出て来ない。
天皇はまた小碓命に「どうしてお前の兄はいつまでも出て来ないのか。まだ説得しに行っていないのか」と尋ねた。
小碓命は「もう言いました」と答えた。
「どんな風に説得したのだ」と重ねて尋ねる。
小碓命は、景行天皇にたいして「朝,兄が厠(かわや:便所)に入ったとき、兄を捕まえ押し潰し、手足をもいで、薦(こも)に包み投げ捨てた」と答える。
天皇は小碓命の猛烈で荒々しい心を知り、恐ろしく思った。
九州の熊襲建兄弟(2人)の討伐を命じられる。
わずかな従者も与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭比売命が斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。
このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
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諸説の多くは「父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令(原文では「泥疑(ねぐ)す」という言葉)の解釈の違いから、小碓命は兄を殺害した」という説が有力。
泥疑(ねぐ)は、この記載では「お願いする:説得と同義」の意味。おそらくは「ねぐ」という発音に対して、編纂者が、別の意味を含ませるため「泥疑」という漢字を当てたと推定される。
古語で使用される「ねぐ」は「和ませる」という意味であり「神に祈請を行う者、祭祀に専従する者」という役割の意味が付加され「ねぎ(禰宜)」となった。
しかし、古事記原文には、殺めたという記載はなく、あくまでも父である景行天皇の問い質しに対しての返答という記載になっている。
解釈の違いというよりも結果がわかっていて行ったという見方もできる。
また、一方では、この話自体が時系列に矛盾している事もあり、当時の流行話などが混合して伝承化してしまったのではないか、という説もある。
実際のところ、日本書紀では、大碓尊が東征の話から草むらへ逃げたというくだりがあるため、大碓尊は存命している記載となる。また、愛知県豊田市にある猿投神社では、景行天皇即位52年に亡くなったという社伝がある。
後漢/
甘英が班超により大秦国(ローマ帝国)へ派遣される。
春正月、後漢/永昌徼外の蛮夷と撣国が奉貢してきた。
2月、大和/武内宿禰が帰京。蝦夷の地に豊かな土地があることが判明。武内宿禰は、東の夷の中に日高見国がある事、その国の人は男も女も、ともに髪を結い、背も高くて、人となりは勇ましい事、それらの人たちを蝦夷と言う事、土地は広大で肥沃であるため、討って出る事を進言する。
3月、後漢/隴西で地震があった。西域長史の王林が車師後王を撃ち、これを斬った。
6月、後漢/蝗と旱があったため、和帝は詔勅を出して被害の救済を行った。
秋7月、後漢/蝗蟲が京師を飛び過ぎ去った。
8月、大和/熊襲(クマソ)が再度反乱を起こす。
8月、後漢/鮮卑が肥如に侵攻し、遼東太守の祭参が獄に下され死去した。
?月、大和/景行天皇、小碓尊に熊襲討伐を命じる。
閏8月、後漢/皇太后の竇氏が死去し、章徳皇后とされた。焼当羌が隴西に侵略し、長吏を殺害したため、征西将軍代行の劉尚と越騎校尉の趙世らがこれを討ち破った。
9月、後漢/司徒の劉方が免職となり、自殺した。和帝の生母の梁貴人に恭懐皇太后が追尊された。
10月、大和/小碓尊が熊襲(クマソ)討伐に向かう。
冬10月、後漢/恭懐皇太后を西陵に改葬された。
11月、後漢/光禄勲である河南の呂蓋が司徒に任命された。
12月、大和/小碓尊が首長の川上梟帥(カワカミノタケル)を討つ。この時、川上梟帥より「タケル」の名を授かり、日本武尊(ヤマトタケル)の異称となる。古事記によれば、小碓尊(倭健命)は熊襲討伐の帰途、出雲に入った。出雲の首長である出雲健(イズモタケル)討伐のため、まずは出雲健と親しくなる。そして密かに赤檮(イチイ)の木から木刀を作り偽の佩刀とし、出雲建と肥河(斐伊川)で水浴した際、先に川から上がって出雲建の刀を身に着けて刀の交換を提案する。遅れて川から上がった出雲建は偽の刀を身につけたが、刀を抜くことが出来ず、倭建命に討たれる事となった。そして倭建命は次の歌を詠んだ。「やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 黒葛(つづら)多纏(さはま)き さ身無しにあはれ」
12月、後漢/司空の張奮が罷免となり、太僕の韓棱が司空となった。若盧獄の官を再び設置した。

景行天皇28年/98年:戊戌

大和/
小碓尊が熊襲討伐を報告する。
二十八年の春二月乙丑の朔の日に、日本武尊は熊襲を平定した様子を奏上して申すには、「私は、天皇の神霊のお陰で、一度の挙兵で、刃向かう熊襲の魁帥者を殺して、ことごとくその国を平定しました。これで西の国は鎮まりました。百姓も無事です。ただ、吉備の穴済の神と難波の柏済の神だけが全てを傷付ける意志があり毒気を放って、道行く人々を苦しめました。そして悪人の集まる場所となっていました。それで、ことごとく悪しき神を殺し、そして水陸の道を開きました。」と申した。天皇は、ここに日本武の功績を褒められて、特にかわいがられた。

倭姫命世記によればこの年の10月、日本武尊(小碓尊)が東征のために伊勢神宮を発ったとある。その際に、倭姫命は叢雲剱を日本武尊に授けた。
日本書紀によれば、上記の出来事は景行天皇即位40年(110年)にあった事とされている。
ただ、小碓尊が熊襲討伐から間もなく、東征に
ローマ/タキトゥスが『ゲルマニア』を編纂(他説あり)
1月27日、ローマ/ローマ皇帝ネルウァが死去。
1月28日、ローマ/ローマ帝国皇帝トラヤヌスが即位。
2月、大和/日本武尊は熊襲を平定した様子を景行天皇に奏上する。
「私は天皇の神霊のお陰で、一度の挙兵で刃向かう熊襲の魁帥者を殺して、悉く其の国を平定し、西の国は鎮まりました。百姓も無事です。ただ、吉備の穴済の神と難波の柏済の神だけが全ての者を傷付ける意志があり、毒気を放って道行く人々を苦しめました。故に悪人の集う場所となっていました。そのため、悉く悪しき神を殺し、水陸の道を開きました。」
景行天皇は、日本武尊の功績を褒められ、特にかわいがられた。
倭姫命世記:春二月(3月半ば)、暴神多に起りて、東国安からず。
春3月、後漢/和帝は政治についての詔勅を出した。
夏5月、後漢/京師において大水があった。
秋7月、後漢/司空の韓棱が死去した。
8月、後漢/太常の泰山の巣堪が司空となった。
9月、後漢/廩犧の官を再び設置した。
冬10月、後漢/五州において雨水があった。
12月、後漢/焼当羌の迷唐らが貢物を送ってきた。

景行天皇29年/99年:己亥

春2月、後漢/各地の災害対策として各地の郡国に使者を送り、刑罰を緩め、税を免じた。
夏4月、後漢/大赦を行った。右校尉の官を再び設置した。
秋7月、後漢/和帝は再び詔勅を出した。

景行天皇30年/100年:庚子

日本で石器が消滅し、鉄器が普及する。
ペルー/モチェ文明が始まる。700年頃まで続く。後に神への生け贄信仰が始まる。
中国最古の字典「説文解字」が完成。
キリスト教神学者ユスティノスが生まれる(他説あり)。
古代イスラエルの著述家フラウィウス・ヨセフスが死去。
ティオティワカンの都市設計が行われる。「月のピラミッド」「太陽のピラミッド」「死者の通り」が建設される。
春2月、後漢/旄牛徼外の白狼、貗薄夷が内属した。災害対策の詔が再び出た。
3月、後漢/和帝は再び詔勅を出した。
夏4月、後漢/日南で象林蛮夷が叛き、郡の兵士がこれを討ち破った。
閏3月、後漢/敦煌、張掖、五原民の貧者に穀を貸し振舞った。秭帰山が崩れた。
6月、後漢/舞陽で大水があり、被災者への救済がなされた。
秋7月、後漢/日食が起きた。
9月、後漢/太尉の張酺が免職となり、大司農の張禹が太尉となった。
冬11月、後漢/西域の蒙奇、兜勒の二国が使いを送ってきたため、その王に金印紫綬を与えた。この年に、焼当羌が再び叛いた。

次の年代:
西暦100年〜西暦150年