前の年代:
紀元前50年〜紀元前1年

西暦1年 〜 西暦50年

歴史の「0(ゼロ)地点」/グレゴリオ暦では、1年から始まる。
西暦1年の前年は、紀元前1年とされ、0年は存在しない。
ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが、イエスキリスト誕生から翌年を紀元1年とした。
西暦は、6世紀にローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスによって算出されているため、この時点では、まだ各国が独自の暦を基準に生活していたものと考えられる。また、現在の西暦が世界中に普及し始めたのは、15世紀以上も後の事である。
当時、西暦を示す言葉は「Anno Domini(アンノ=ドミニ)」ラテン語で「主の年」と提唱された。これは神と神の子イエス=キリストが顕現した事を示している。
もともとは「主」の意味は「創造主=神」であったが「主」の意味が「イエス=キリスト」を示す言葉に変化して以降、少なくとも英語が確率された後世において、イエス=キリストが顕現する前の年は「Before Christ」と呼称されるようになる。
この事から、年代表記は、「A.D.= Anno Domini」「B.C. = Before Christ」として普及する。
日本語では「紀元」という言葉を用い、そこに派生して「西暦」「紀元前」「暦」といった思考性を持っているため、概念的に宗教性を持っていないところからとくに大きな問題は発生していないが、ラテン語圏やアラビア語圏など、宗教性と思考や言語、概念が密接に関与する文化圏では、たびたび大きな問題となる事が多くあった。 そこで、2000年代に至っては「共通紀元」という新しい概念が生まれ、「C.E. = Common Era」「B.C.E. = Before Common Era」という略称語を使うようになっている。 この年代において、ローマ皇帝が歴史に登場し、イスラエルでは、ナザレのイエスが活躍し処刑され、復活の日以降より、イエス=キリストとして伝承される。
ニビルが太陽系に最も遠のきつつ、地球に干渉。

垂仁天皇30年/西暦1年/アスス暦728年:辛酉

日本/垂仁天皇が、五十瓊敷命・大足彥尊をよび、皇太子を決める。
中国/『漢書』地理志によると、この頃の倭は、百余国に分かれており、その一部は前漢の楽浪郡に朝献をするとある。
中国/前漢の元号が元始に改元される。
中国/孔子に最初の諡号「褒成宣尼公」が贈られる。
メキシコ/この前後の年代に、オルメカ文明が滅亡。オルメカ文明の後期は闘争を好み、捕虜を捕まえては拷問し、次々に神の生け贄としたと判明している。
ペルーでナスカ文化がおこる。600年頃まで続く。
チチカカ湖畔でティワナク文化がおこる。900年頃まで続く。この頃から発生した文化は後にプレ・インカ文化として定義され、750年〜1100年頃で最盛期を迎える。
ティワナク文化では、プマ・プンク遺跡が最も奇妙で有名である。※プマ・プンク遺跡の発生期限説は前1万3000年〜前50年頃と幅が広い。遺跡の構築方法が現代の技術では未だに未解明のままである。最近の学説では、遺跡自体が洪水の災害で崩壊したという説がある。
ローマで、ミトラ神の信仰が盛んになる。(例えば、12世紀に建立されたサン・クレメンテ教会は、ミトラの神殿の上に建設されている。)

垂仁天皇31年/2年/アスス暦729年:壬戌

中国/仏教が中国に伝来する。
中東/ローマ帝国とアルサケス朝パルティアで、第3次パルティア戦争が勃発。
初代ローマ皇帝アウグストゥス、元老院より「国家の父(pater patriae)」の称号が贈られた。
アウグストゥスは権威を確立し、権力が磐石になると、後継者問題に取り組んだ。 その際アウグストゥスは自分の血筋にこだわっていたとされ、妻リウィアの前夫との子という血のつながりはないが近い位置にあり、能力的には卓越していたティベリウスが「最後の保険」的な扱いをされ続けた末に、「正統な後継者」ゲルマニクスの中継ぎとして後を継ぐことになる。
当初、姉オクタウィアの息子マルケッルスに目をつけ、前妻との間にもうけた一人娘のユリアを嫁がせた。
しかし、紀元前23年に彼が死亡すると、ユリアを腹心アグリッパと再婚させた。この結婚は多くの孫をアウグストゥスにもたらした。 そのうちガイウス・カエサル、ルキウス・カエサルの2人を養子とし後継者候補とした。しかし、この2人も夭折した。
匈奴/
車師後王の姑句・去胡来王の唐兜が西域都護と戊己校尉の仕打ちを怨み、妻子人民を率いて匈奴に亡命してきたので、烏珠留若鞮単于は彼らを受け入れ、左谷蠡王の地に住まわした。烏珠留若鞮単于はこの事を漢に報告した。そこで漢は中郎将の韓隆・王昌・副校尉の甄阜・侍中謁者の帛敞・長水校尉の王歙を匈奴に派遣して「西域は漢に内属しているから受け入れてはならない」と伝えさせた。しかし烏珠留若鞮単于は「外国だからいいのではないか?」と意見したが、漢の使者たちが「漢の恩義を忘れたのか」と詰め寄ると、烏珠留若鞮単于は自分の頭を叩いて謝罪した。烏珠留若鞮単于は2人の王を護送した際、2人の赦免を請うたが、時の権力者である新都侯の王莽は車師後王と去胡来王を見せしめとして誅殺させた。加えて王莽は、不受の4条を取り決めた。
また、王莽が中国では2文字の名を1文字に改めるよう奏上したので、烏珠留若鞮単于にもそのことが伝えられ、烏珠留若鞮単于は本名である“嚢知牙斯”を改めて“知”と称すようになった。さらに、今まで烏桓から貢納されてきた皮布税を王莽によって停止させられた。これによって匈奴と烏桓の間で争いが起き、烏珠留若鞮単于は左賢王に命じて烏桓に侵攻させ、多くの烏桓人を殺させた。

垂仁天皇32年/3年/アスス暦730年:癸亥

日本/垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命が崩御。この葬儀の時、襲髄命(かねすねのみこと)がそれまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出した。 土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった。
西郷信綱氏の「ノミノスクネ考」によれば、埴輪創出についての考古学的な知見からは、記紀が語る上述の伝説は史実ではないとされ、こうした伝説も土師氏と葬送儀礼との関係から生まれたものであろうとする説がある。 その説によると、まずその名前は、葬送儀礼の一環としての古墳の築営に際して、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定ということが考えられ、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」という称が考案されたのではないか、というものであるが、この説からすると、 襲髄命が「野見宿禰(のみのすくね)命」の称号を賜ったのは、この葬儀の後という事になる。
野見宿禰は晩年、播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬されたという伝承が『播磨国風土記』に記載されている。
朝鮮/高句麗の瑠璃明王、卒本城から丸都城に遷都。
ローマ/パウロが誕生する。キリスト教の伝道者、『新約聖書』の著者の一人(+ 67年頃)

垂仁天皇33年/4年/アスス暦731年:甲子

ローマ帝国/
ガイウス・カエサルが没したため、6月27日に、初代ローマ皇帝アウグストゥスはユリアとアグリッパの末子アグリッパ・ポストゥムスと、ティベリウスを養子とした。 同時にティベリウスに甥ゲルマニクス(アウグストゥスと血が繋がる)を養子とさせ、ティベリウスの次まで定めさせた。 後に、アグリッパ・ポストゥムスは粗野で放蕩な性格から追放され、軍事・政治ともに実績があるティベリウスが明確に後継者とされた。 それでも死亡の直前にアグリッパ・ポストゥムスを極秘訪問したという。
セクストゥス・アエリウス・カトゥス、ガイウス・センティウス・サトゥルニヌスが執政官に就任。
古代ローマの著述家コルメラが誕生。
朝鮮/南解次次雄、新羅の第2代国王に即位。
中東/パルティアの皇帝フラーテス5世と共同統治者の皇妃ムサ、廃位・殺害される。6年にオロデス3世が帝位に即く。

垂仁天皇34年/5年/アスス暦732年:乙丑

垂仁天皇が山背苅幡戸邊を娶る。亀と白い石の物語。
ローマ帝国/ティベリウス、低地ゲルマニア属州を制圧。
ローマ皇帝ティベリウスの孫娘、リウィア・ユリアが生まれる。 古代ローマの弁論家・詩人・歴史家、ガイウス・アシニウス・ポッリオが死去。
中国・前漢/
王莽が平帝を殺害。九錫を授けられる。
劉歆、三統暦を作る。
前漢最後の皇太子、孺子嬰が生まれる。
後漢の光武帝の皇妃、陰麗華が生まれる。
前漢の太師、孔光が死去。
前漢の第13代皇帝、平帝が死去。
エジプト/ヌミディア王ユバ2世とクレオパトラ・セレネの娘、ドルシッラが生まれる。

垂仁天皇35年/6年/アスス暦733年:丙寅

日本/高石池と茅渟池と狹城池と迹見池と800の水路を作る。
ローマ帝国/
マルクス・アエミリウス・レピドゥス、ルキウス・アッルンティウスが執政官に就任。
ユダヤの王ヘロデ・アルケラオスが廃位となり、ユダヤとモエシア、ローマ帝国の属州となる。
プブリウス・スルピキウス・クィリニウスがシリヤの総督に就任し、人口調査をおこなった。ルカの複音書に記載がある人口調査とは別の事案。
ティベリウス、カルヌントゥム(英)を、マルコマンニ人(:当時のイングランド)のマロボドゥス王に対する拠点とする。 ティベリウス麾下の第20ウァレリア・ウィクトリクス軍団(英)、マルコマンニと戦う。 ヴィースバーデンに要塞が築かれ、街の起源となる。
シリア属州総督プブリウス・スルピキウス・クィリニヌス、人口調査を行なう(フラウィウス・ヨセフスの記録による)。
ゲルマニクスの息子でティベリウスの後継者候補、ネロ・カエサルが生まれる。
エジプト/クレオパトラ7世とマルクス・アントニウスの娘、クレオパトラ・セレネが死去。
中国・前漢/
14歳になった平帝が死去。
王莽、孺子嬰を皇太子に立て、みずから「摂皇帝(皇帝代行)」となる。

垂仁天皇36年/7年:丁卯

ローマ帝国/
パンノニア属州とダルマチア属州でイリュリア人がローマ帝国に対する反乱を起こす(9年にティベリウスとゲルマニクスによって平定される)。
ストラボン、『地理学』(Geographia)を執筆(18年頃執筆の説あり)。
ローマ皇帝アウグストゥス、ヘロデ大王の子でユダヤ属州総督のアルケラオスを解任。
プブリウス・クインクティリウス・ウァルス、ゲルマニア(中央ヨーロッパ)属州総督に指名される。
アブガルス5世、オスロエネ王を廃位される。
中東/ヴォノネス1世、パルティア皇帝に即位。
ゲルマニクスの息子、ティベリウスの後継者候補、ドルスス・カエサルが生まれる。
ローマ帝国の軍人、グナエウス・ドミティウス・コルブロが生まれる。
ストア派の哲学者、アテノドロスが死去。

垂仁天皇37年/8年:戊辰

日本/垂仁天皇が、大足彦忍代別尊に皇太子を任命する。
中国/
王莽により前漢滅亡。新が建てられる。
前漢から簒奪して皇帝位についた王莽は儒教において理想とされる周代の政治へと復古すると称して井田法を真似して全国の田地を全て国有にすることを決めた。また貨幣を新たに改鋳するなどの政策を打ち出した。しかしこれらの政策は当時の現実を無視したものであり、貨幣の度重なる改鋳は経済を混乱させ、地方に広い土地を所有する豪族たちの利益を損ない、大きな反発を受けた。
また外交政策でも過度の中華思想から匈奴や高句麗に渡していた王号を取り上げて、「降奴服于」「下句麗侯」などと言う称号を押し付けて、彼らの怒りを買い、離反を招いた。
ローマ帝国/
オウィディウス、アウグストゥスによって黒海沿岸のトミスへ追放される。
小ユリア、トゥリメルス島に追放される。
中東/ヴォノネス1世、パルティア皇帝に即位。
古代ローマの軍人、マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌスが死去。

垂仁天皇38年/9年:己巳

中国/
1月10日(初始元年11月25日) - 王莽が新を建国、前漢が滅亡。
王莽、宝貨を定め、契刀・錯刀・五銖銭の使用を禁ずる。
王莽は五威将の王駿と甄阜・王颯・陳饒・帛敞・丁業の6人を匈奴へ派遣し、単于が持っている古い印綬と新しい印綬を取り換えさせた。その後、烏珠留若鞮単于はもとの印綬がほしいと言ったが、すでに砕かれており、戻ってくることはなかった。
烏珠留若鞮単于は一連の王莽による政策に不満を感じるようになっていった。
ローマ帝国/
イリュリクム属州での反乱が鎮圧される。
トイトブルクの戦いが起こる。プブリウス・クインクティリウス・ウァルス率いるローマ軍はアルミニウス率いるゲルマン人に大敗し、ローマ帝国はライン川以北の属州化を断念。
トイトブルクの戦いで壊滅した第17、第18、第19軍団に代わって第2、第13、第20軍団がゲルマニアに派遣される。
11月17日、フラウィウス朝のローマ皇帝、ウェスパシアヌスが生まれる。
古代ローマの軍人、プブリウス・クインクティリウス・ウァルスがトイトブルクの戦いで敗死。

垂仁天皇39年/10年:庚午

日本/10月 五十瓊敷命が剣千口を石上神宮に奉納する。物部氏の始まり。
ローマ帝国/
ローマ帝国のイリュリクム属州領域はパンノニア属州とダルマチア属州に分割される。
プブリウス・コルネリウス・ドラベッラとガイウス・ユニウス・シラヌス、執政官となる。またクィントゥス・ユニウス・ブラエススが補充執政官となる。
古代ギリシアの工学者・数学者、アレクサンドリアのヘロンが生まれる。
古代ローマの法学者、マルクス・アンティスティウス・ラベオが死去。
中国/
新で銅貨(6)、金貨(1)、銀貨(2)、亀貨(4)、貝貨(5)、布貨(10)からなる6系統28種類の貨幣制度が施行。
匈奴/
烏珠留若鞮単于は、西域都護に殺された車師後王須置離の兄である狐蘭支が民衆2千余人を率い、国を挙げて匈奴に亡命してきたとき、条約を無視してこれを受け入れた。そして狐蘭支は匈奴と共に新へ入寇し、車師を撃って西域都護と司馬に怪我を負わせた。時に戊己校尉史の陳良・終帯・司馬丞の韓玄・右曲侯任商らは西域の反乱を見て、戊己校尉の刁護を殺し、匈奴に投降した。韓玄と任商は南将軍所に留まり、陳良と終帯は単于庭に至り、烏珠留若鞮単于より烏桓都将軍に任ぜられた。烏珠留若鞮単于は2人を単于庭(首都)に留め、何度か飲食を与えた。

垂仁天皇40年/11年:辛未

古代ローマの法学者、マルクス・アンティスティウス・ラベオが死去。
匈奴/
西域都護の但欽は上書して「匈奴南将軍の右伊秩訾王が人衆を率い、諸国を寇撃しようと企んでいる」と報告した。そこで王莽は匈奴で15人の単于を分立させようと考え、中郎将の藺苞、副校尉の戴級に兵1万騎を率いさせ、多くの珍宝でもって雲中塞下に至り、呼韓邪単于の諸子を招き寄せた。やって来たのは右犁汗王の咸とその子の登と助の3人で、使者はとりあえず咸を拝して孝単于とし、助を拝して順単于とした。そして助と登を長安に連れ帰った。この事を聞いた烏珠留若鞮単于はついに激怒し、左骨都侯で右伊秩訾王の呼盧訾・左賢王の楽らに兵を率いさせ、雲中に侵入して大いに吏民を殺させた。ここにおいて、呼韓邪単于以来続いた中国との和平は決裂。この後、匈奴はしばしば新の辺境に侵入し、殺略を行うようになった。王莽の蛮族視政策は西域にも及んだため、西域諸国は中国との関係を絶って、匈奴に従属する道を選んだ。
後に助が病死したので、王莽は助に代わって登を順単于とした。厭難将軍の陳欽、震狄将軍の王巡は雲中の葛邪塞に駐屯した。この頃、匈奴が何度か辺寇をなし、将率吏士を殺し、人民を略奪し、畜産を略奪していったので、陳欽らは捕虜を捕まえて験問したところ、誰もが孝単于咸の子である角が何度か寇をなしたと言った。

垂仁天皇41年/12年:壬申

ローマ帝国/
アンニウス・ルフス、ユダヤ属州総督に指名される。
オウィディウス、流刑先の黒海沿岸で、『祭暦』を執筆。
ゲルマニクスと ガイウス・フォンテイウス・カピト、ローマの執政官となる。
キリニウス、ティベリウスの相談役となるためユダヤ属州から戻る。
8月31日、ローマ皇帝、 ローマ帝国軍人である大ドルススの息子にしてクラウディウスの兄ゲルマ二クスと、大アグリッピナとの間に、3番目の子カリグラ(後の第3代ローマ皇帝。カリギュラとも)が生まれる。
匈奴/
王莽は匈奴の謀反に対する対応として諸蛮夷と会し、咸の子の登を長安の市で斬った。

垂仁天皇42年/13年:癸酉

ウクライナ/アブガルス5世、オスロエネ(エデッサ)王に復位。
ローマ帝国/ティベリウス、ゲルマニアからローマに凱旋。
元帝(劉爽)の皇后、王政君が死去。
匈奴/
烏珠留若鞮単于が死去。
匈奴は右骨都侯の須卜当を大臣に起用した。その妻である伊墨居次の云は以前から中国と和親を欲しており、もともと咸とは親しかったので、孝単于の咸を立てて烏累若鞮単于とした。烏累若鞮単于は即位すると、烏珠留若鞮単于の子の蘇屠胡本を左賢王とし、弟の輿を左谷蠡王とし、異母弟の盧渾(屠耆閼氏の子)を右賢王とした。伊墨居次の云と須卜当は烏累若鞮単于に和親を勧める。

垂仁天皇43年/14年:甲戌

ローマ帝国/
初代ローマ皇帝アウグストゥスが、三度目の国勢調査をおこなう。(『業績録』)
8月19日、皇帝アウグストゥスが急に体調不良になり、ナポリはポンペイ近郊のノラの町で肺炎が原因で76歳で死去したと後のスエトニウスが書いた皇帝伝に記録されている。
最期の言葉は「この悲劇の世界で私は喜劇を演じきった。だから私を喝采で送ってくれ」であった。
遺灰はローマ市内のアウグストゥス廟に葬られ、神格化された後にカレンダーのAugustus = August つまり8月と記された。
そして暗殺されたユリウス・カエサルつまりJulius = July には7月が神格化されカレンダーに記されたことは有名な話である。
カレンダーに記されている1月から8月までの名前は全て神として古代に崇められた人物の名である。
1月 = January  / ローマ神話:入り口と扉の神ヤヌス(Janus)
2月 = February  / ローマ神話:死と純化の神フェブルウス (Februus)
3月 = March  / ローマ神話:戦いの神マルス (Mars)
4月 = April  / ローマ神話:愛と美の女神Aprodite アプロディーテ(ラテン語のaperire)
5月 = May  / ローマ神話:豊穣を司る女神マイア (Maia)
6月 = June  / ローマ神話:ユピテル(ジュピター)の妻ユノ(ジュノー):結婚と豊穣・女性を守護女神ユノ(Juno)
7月 = July  / ユリウス・カエサル(Julius Caesar :シーザリオン)
8月 = August  / Augustus 初代ローマ皇帝アウグストゥス
9月 = septembre  / ローマ暦:7番目の月
10月 = octobre / ローマ暦:8番目の月
11月 = novembre  / ローマ暦:9番目の月
12月 = decembre  / ローマ暦:10番目の月
ローマの政治家・軍人、アウグストゥスの後継者候補の一人、アグリッパ・ポストゥムスが死去。
ゲルマニクス、元老院によってゲルマニア総督に任命される。
アウグストゥスの娘、大ユリアが死去。
アウグストゥスの死去を受け、ティベリウスがローマ帝国の第2代皇帝に即位。
ティベリウス帝即位にあたって、ゲルマニアに駐留していた軍団がゲルマニクスの即位を求めて反乱を起こすが、ゲルマニクスはティベリウスの即位を承認した。
戦地となったゲルマニアには、まだ2歳頃の幼いカリグラが同行した。以後、カリグラは戦地で育った経緯を持つ。
パンノニアに駐留していた軍団が待遇改善を求めて反乱を起こす。
東アジア/
新/元号が天鳳に改められる。
『三国史記 新羅本紀』によれば、この年倭人が兵船百余隻で新羅の海辺に侵入した。
山東の琅邪郡で呂母という老女が県令に殺害された息子の仇を撃つために私財を投じて数千の徒党を集め、反乱を起こした。
呂母は県令を殺害した後に死去。しかし、集まった軍勢は、琅邪郡の法が過酷であり賦税が重いことを理由に解散しなかった。
匈奴/
伊墨居次と須卜当が和親侯の王歙と会見したいと申し出たので、王莽は王歙と王颯を匈奴へ派遣し、黄金衣被繒帛を賜い、侍子の登が健在であると嘘をつき、以前匈奴へ寝返った陳良と終帯らの返還を求めた。烏累若鞮単于は陳良ら31名を捕えて、右厨唯姑夕王の富ら40人に王歙・王颯を送らせた。さっそく王莽は焚如の刑を作り、陳良らを焼殺した。その後、烏累若鞮単于は子の登が王莽によって殺されていたことを知り、激怒して侵入略奪を絶えず行った。

垂仁天皇44年/15年:乙亥

ローマ帝国/
エモナの町が建設される。
9月24日、ローマ皇帝、ウィテリウスが生まれる。
11月6日 、ローマ皇帝ネロの母、小アグリッピナが生まれる。
東アジア/前漢末期から新代にかけての武将、孫建子夏が生まれる。(生年不詳)
匈奴/
5月、王莽はふたたび王歙に五威将の王咸と伏黯・丁業ら6人を率いさせ、右廚唯姑夕王を送らせ、侍子の登及び諸貴人従者の喪を奉じて塞下に至った。烏累若鞮単于は伊墨居次云と須卜当との子である大且渠の須卜奢らに塞まで出迎えさせた。王歙らは匈奴の国号と単于号を改めるよう説得し、匈奴を“恭奴”と改名し、単于を“善于”と改名させ、印綬を賜った。そして、骨都侯の須卜当を封じて後安公とし、須卜当の子の須卜奢を後安侯とした。烏累若鞮単于は王莽の金幣を貪る一方、寇盗も従来通り行った。

垂仁天皇45年/16年/アスス暦743年:丙子

9月16日 、ローマ皇帝カリグラ、小アグリッピナの妹、ドルシッラが生まれる。

垂仁天皇46年/17年/丁丑

東アジア/
各地に農民反乱が続出する。その嚆矢となったのが瑯邪郡海曲県(現在の山東省青島の近く)の呂母と呼ばれる老婆である。彼女の息子は県庁に勤めていたが、些細なことで県宰(県長官)により捕らえられて死刑に処された。
これを恨んだ呂母は金を使って人を集めて、海上にて集結し県宰を襲って殺した。本懐を遂げた呂母は没するが、一度集められた雑軍たちは解散するわけにはいかず、樊崇と言った者たちを首領として山東各地の流民たちを吸収して赤眉軍となる。この集団は敵と味方の区別のために眉毛に赤い染料を塗ったことからこの名前がある。
一方、呂母の乱の少し後に王匡・王鳳と言ったものたちが緑林山(湖北省当陽県)を根拠として農民を吸収して反乱軍を指揮した。こちらは緑林軍と呼ばれる。
ローマ帝国/
古代ローマの詩人、オウィディウスが死去。
古代ローマの歴史家、ティトゥス・リウィウスが死去。

垂仁天皇47年/18年:戊寅

新/赤眉の乱が起こる。
山東にて琅邪郡の樊崇が反乱のた目に兵を挙げると、同じく琅邪郡で集まっていた徒党が合流し一大勢力となる。この軍は敵味方の識別に眉を赤く塗ったので赤眉軍と称ぶ。
また、同時期に王匡が貧民を集結し緑林山を拠点に叛乱を起こす。こちらは緑林軍と称ばれた。
赤眉軍が泰山郡を襲った際に、劉盆子は2人の兄と共に赤眉軍に捕らわれた。その後、赤眉軍で牛の世話を仕事とし「牛吏」と呼ばれた。劉盆子は25年において漢皇帝として擁立される。
匈奴/
烏累若鞮単于が死去。弟である左賢王の輿が立ち、呼都而尸道皋若鞮単于となる。
呼都而尸道皋若鞮単于は即位するなり異母弟である右谷蠡王の伊屠知牙師を殺し、子の烏達鞮侯を左賢王に任命した。また、大且渠・後安公の須卜奢と醯櫝王を長安に派遣して奉献させた。その帰りに王莽は和親侯の王歙をつけてやり、塞下に至った所で、須卜奢の両親である須卜当と伊墨居次を脅迫して長安まで連れて来させようとした。そのとき須卜奢は匈奴に逃げ帰ることができたが、父の須卜当が長安まで連れて行かれ、王莽によって須卜単于にされてしまう。これを聞いた呼都而尸道皋若鞮単于は激怒して新の北辺に侵入し、略奪を行った。
須卜単于が病死すると、王莽は自分の娘である陸逯任を須卜奢に娶らせた。

垂仁天皇48年/19年:己卯

10月10日、ローマ帝国の軍司令官、第2代皇帝ティベリウスの甥、ゲルマニクスが死去。
歴史家スエトニウスは、ゲルマニクスを政敵とみなしていたティベリウスが、シリア属州総督ピソに命じてゲルマニクスに毒を盛ったのだと主張(現在ではマラリアによる病死が定説)している。
息子カリグラは、母アグリッピナの元で暮らす事となったが、アグリッピナはティベリウス帝との関係が悪化したためローマから追放された。
またティベリウス帝は、アグリッピナの新しい夫となる人物が自分の地位を脅かす存在となることを恐れ、アグリッピナが再婚することを禁じた。

垂仁天皇49年/20年:庚辰

ローマ皇帝クラウディウスの妻、メッサリナが生まれる。
クラウディウス朝の元老院議員、グナエウス・カルプルニウス・ピソ、ユリウスが死去。
ローマ帝国2代皇帝ティベリウスの最初の妻、ウィプサニアが死去。

垂仁天皇51年/22年:壬午

新/冬、劉秀の兄の劉縯(りゅうえん)が挙兵する。最初は思うように兵が集まらずに苦しんでいたが、慎重な性格と評判であった劉秀が参加すると、劉秀の判断を信じ叛乱に参加する者が増えるようになった。この反乱軍は舂陵軍と称されている。
まもなく緑林軍は疫病が蔓延したために、南陽を拠点として新市軍と、南郡を拠点とする下江軍に分裂した。
新市軍は南陽の豪族の平林軍(この軍には劉秀の本家筋に当たる劉玄が加わっていた)や劉縯の舂陵軍と連合した。後にこの連合軍が下江軍を再度吸収、劉縯が淯陽で官軍を打ち破った。
連合軍が南陽宛城を包囲した後、緑林軍内では、新皇帝を擁立すべく新市・平林軍の部将らが協議を行った。劉縯擁立の動きもあったが、実績のある有能な人物を擁立すると自らの勢力が弱体化することを恐れた新市・平林軍の部将らはこれを却下し、凡庸な人物と見做されていた劉玄が更始帝として擁立されることとなった。これ以後の劉玄は更始帝と呼ばれる。
また、同時期に隗囂(かいごう:後に蜀の朔寧王となる)が、王莽が赦令を下す使者72人の一人として長安を出発した。劉歆が叛乱の露呈によって自殺した後、隗囂は郷里に帰った。更始帝(劉玄)が即位し、王莽が敗北したと聞いて、叔父の隗崔・兄の隗義が、上邽の楊広や冀県の周宗と共謀してこれに呼応しようとした。隗囂は「兵は凶事」として諫止したが、隗崔らは聞き入れず、平襄を攻撃し、鎮戎の大尹(新制における天水郡の太守)を討ち取っている。

垂仁天皇52年/23年:癸未

新/
正月、連合軍は新の太守・都尉である甄阜、梁丘賜を打ち破り、この時点で劉玄は更始将軍を自称した。
西州では、隗囂の声望が高く、また経書を良く読むことから、隗崔と楊広はこれを上将軍として推戴した。隗囂は辞退を繰り返した後に、遂にこれを受諾している。頭領となった隗囂は、扶風平陵県出身の方望を軍師として招聘した。方望は、漢室復興の大義を示すため「神道設教」を行うことを進言する。隗囂もこれを容れて邑に東面して廟を建て、高祖(劉邦)・太宗(文帝)・世宗(武帝)を祀るなどしている。これに伴い、隗囂は元号を漢復に改めた。
2月、実績のある有能な劉縯を擁立すると自らの勢力が弱体化することを恐れた新市・平林軍の部将らにより、平林軍出身の劉玄が更始帝として擁立され、更始の元号を建てた。
夏、更始帝討伐を計画した王莽は洛陽から100万と号する(戦闘兵42万、残りは輸送兵)軍を出発させた。
しかし王莽は軍事の知識・経験に乏しく、政府軍に63派の兵法家を同行させ、猛獣を引き連れるなどの常識外れの編成を行った。
昆陽の戦いがおこる。
政府軍は劉秀が拠点としていた昆陽城を包囲・攻撃した。劉秀は夜陰に乗じ僅か13騎で昆陽城を脱出、近県3千の兵を集め、昆陽包囲軍と対決する。政府軍は総大将が数千を率いて迎撃したが、劉秀やその部下の奮闘により大敗を喫した。
この時、劉縯が宛城を落城。更始帝は劉縯によって降された宛城に入り、宗室諸将に対する冊封を行った。

6月、昆陽の勝利で劉縯・劉秀兄弟の名声は高まったため、その名声を恐れた更始帝は両者への牽制を始める。
劉玄即位に反対していた劉縯の部下が、更始帝から官位が授けられた際に固辞したため、更始帝はこれを反逆として誅殺しようとした。この時、劉縯は部下を擁護したため、更始帝はこれを口実として劉縯をも殺害した。この事件に際し劉秀は宛城に到着すると、更始帝に兄の非礼を謝罪し、また周囲が劉縯の弔問に訪問しても事件については一切語らなかった。
昆陽・宛県での結果を知ってそれまで傍観していた地方の豪族が次々と更始軍に合流し、更始軍は短期間で一大勢力と成長した。
更始帝は王匡を派遣して洛陽を、申屠建・李松を派遣して武関を攻め長安を目指し、一方汝南で天子を称した劉望には劉賜を派遣した。新朝の滅亡を実感した地方勢力は王莽の派遣した牧守を殺害し、更始の元号を使用するようになった。
7月、隗囂が漢室復興の檄を各郡国に発した。そして隗囂は、10万の大軍をもって周辺地域へ出撃し、雍州牧陳慶・安定大尹王向(王莽の従弟で王譚の子)を攻め滅ぼした。
9月、王莽は臣下にも背かれ、長安城には更始帝の軍勢が入城した。
10月、劉信が劉望を破り、更始帝は関中より洛陽遷都を行った。これにより新が滅亡する。
王莽はその混乱の中で杜呉という商人に殺された。王莽の首級は更始帝の居城宛にて晒され、身体は功を得ようとする多くの者によって八つ裂きにされた。
10月6日。中国新の皇帝、王莽が死去。
更始帝軍は洛陽と長安(当時は常安)を陥落させ、更始帝は洛陽、長安(当時は常安)へ遷都する。
この時、隗囂が周辺地域の制圧を進め、隴西・武都・金城・武威・張掖・酒泉・敦煌の各郡が、隗囂の支配地域となる。
洛陽が都城とされていた時まで、劉秀は更始帝と側近たちに昆陽での戦功と劉縯の弟であることから危険視され、中央から出ることが出来なかったが、河北へ派遣する適当な武将がおらず、大司徒劉賜が「諸家の子独り文叔有って用いるべし」と推挙したために赴任を命ぜられた。これによって劉秀への監視が解かれ、長安に遷都した更始帝の朝政が乱れ民心を失うことで、劉秀に自立の機会が与えられることとなった。
冬、劉秀は河北へと向かう。河北で劉秀が邯鄲を離れ北上した際、邯鄲で王郎が漢の成帝の落胤であると称し劉林や李育らと挙兵、劉秀の首に10万戸の賞金を掛けて捕えようとした。そのため劉秀は鄧禹、王覇、馮異ら僅かな部下を率いて河北を転戦することとなった。それは厳しい行軍となり極寒の中馮異が薪を集め鄧禹がたき火をし豆粥や麦飯で寒さと飢えをしのぐ状態であったと伝えられている。
【雲台二十八将】
光武帝の天下統一を助けた28人の功臣。元は後漢成立前期において、劉秀の元に集った諸将の事を意味している(鄧禹、呉漢、賈復、耿弇、寇恂、岑彭、馮異、朱祜、祭遵、景丹、蓋延、銚期、耿純、臧宮、馬武、劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂、傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、萬脩、邳彤、劉植の28人)。後の明帝において、二十八星宿と結びつけられ、守護神将として祀られる事になる。
「後漢書二十八将伝論」に伝えられる。
ローマ帝国/
ストラボンが「Geographica」を発刊。
古代ローマの博物学者、政治家、軍人、ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)が生まれる。
9月14日。第2代ローマ皇帝ティベリウスの息子、小ドルススが死去。
マウレタニア王、ユバ2世が死去。

垂仁天皇53年/24年:甲申

劉秀は王郎を拒否し劉秀の庇護を求める信都郡の太守任光とその配下の李忠と萬脩、和成郡の太守邳彤らが劉秀を迎え入れ、地方豪族の劉植、耿純が陣営に加わる。(任光、李忠、萬脩、邳彤、劉植、耿純は、後世に雲台二十八将として名を連ねる事になる)
劉秀は王郎の配下で10余万の兵を持っていた真定王劉楊(『漢書』に拠る。『後漢書』は、「劉揚」に作る)への工作を開始し、劉楊の妹が豪族の郭昌に嫁いで産んだ娘、すなわち劉楊の姪の郭聖通(のちの郭皇后)を劉秀が娶ることで、劉楊を更始帝陣営に組込むことに成功した。
こうして王郎と対峙する中、精鋭の烏桓突騎を擁する漁陽郡と上谷郡が劉秀側につき、後世の雲台二十八将とされる呉漢、蓋延、王梁(以上漁陽)、景丹、寇恂、耿弇(以上上谷)らを派遣して劉秀と合流した。
2月、更始帝が長安に入城した。
長安に入った更始帝軍は一気に堕落して、財宝をかき集めて日夜宴会を開き、政治はまったく省みることが無かった。即位の朝政を岳父の趙萌に一任してその専権を放任した。
長安の更始帝から隗囂・隗崔・隗義を招聘する使者が派遣され、方望の諫止を聞かず、隗囂らは長安へ向かった。このため方望は、手紙を残して隗囂から去った。長安入りした隗囂は、更始帝から右将軍に任命された。
劉秀が王郎軍を撃破していく。夏には邯鄲を陥落させ、王郎は逃走中に斬死する。
劉秀の勢力を恐れた更始帝は、劉秀を蕭王とし兵を解散させて長安に呼び戻そうとしたが、劉秀は河北の平定が完了していないとこれを拒否し、自立する道を選択した。
赤眉軍が関中に入ると隗崔と隗義が反逆して故郷に戻ろうとしたが、隗囂は自ら更始帝にこのことを告げ、隗崔と隗義は誅殺される。一方、隗囂は更始帝からその忠義を賞賛され、御史大夫に任命された。
冬、更始帝は中郎将・帰徳侯の王颯・大司馬護軍の陳遵を匈奴に派遣し、呼都而尸道皋若鞮単于に以前と同じ璽綬を授け、王侯以下にも印綬を授けた。ところが呼都而尸道皋若鞮単于は驕り高ぶって、漢が復興したのは自分のおかげだと言い始めた。

垂仁天皇54年/25年:乙酉

後漢/
劉秀が銅馬軍なる地方勢力軍を下し、その兵力を旗下に入れた劉秀軍は数十万を越える勢力となった。
劉秀が河北を平定した。
河内の実力者となった劉秀は部下により皇帝即位を上奏された。幽州からの凱旋途中において2度までは固辞したが、3度目の要請には「之を思わん」と返答、『赤伏符』という讖文を奏上された4度目の要請で即位を受諾した。
春、関中に侵攻した赤眉軍は、更始帝の兵を各所で破り、華陰(弘農郡)に至った。ここで従軍していた巫が神懸かりして劉氏宗族を天子に立てよと語ったので、更始帝に殺された方望の弟の方陽は軍の正統性を確保するためにも劉氏宗族に連なる者を擁立することを勧めた。樊崇ら赤眉軍諸将は協議して、信奉していた城陽景王に一番血筋が近い者3人から籤で選ぶことにした。年齢順で籤を引いた結果、最後に引いた15歳の劉盆子が当たり籤を得た。この時劉盆子はざんばら髪に裸足で破れた衣服という姿だったが、諸将が急に自分に平伏するのを見て驚き恐れて泣きそうになった。そのうえ兄から「その籤は皇帝の証だから大事にしろよ」と言われると気が動転し、籤を噛んでへし折り牧童頭のところに逃げ帰ったという。
6月、劉玄が光武帝として即位。洛陽を都城とし、元号を建武とした。(初代後漢皇帝)
6月、赤眉軍は劉盆子を皇帝に擁立し、建世元年と建元した。
赤眉軍が西へ向けて進軍し、光武帝が即位したと聞いた隗囂は、政事を劉氏の元老格である国三老劉良に委ねるよう更始帝に進言したが、聞き入れられなかった。
赤眉軍が長安に迫った際に、張卬、廖湛、胡殷、申屠建と隗囂は謀議し、更始帝を脅して南陽に還ることを謀る。これが更始帝の耳に入り、5人は召される事となった。隗囂は事が漏れたと悟って館に篭り、召された4人のうち3人は異常に気付き脱出し、それでも残った申屠建は斬られた。隗囂は更始帝の命を受けた執金吾鄧曄に屋敷を囲まれたが、辛うじて長安を脱出し天水に逃走した。残り3人(三王:淮陽王張卬、穣王廖湛、隨王胡殷)は長安で謀反を起こした。そして逆に、更始帝(劉玄)を臣(王匡、陳牧、成丹、李松、趙萌ら)共々長安から逃走させた。
新豊に逃げた劉玄は次第に疑心暗鬼へと陥り王匡、陳牧、成丹をも逆臣と疑い、陳牧と成丹を斬り、逃げた王匡は長安の張卬らと連合した。更始帝と李松・趙萌は長安を襲い、再び長安へ戻る事となった。一方で、王匡・張卬らは脱出して赤眉軍に入った。
隗囂は、天水へ帰還すると西州上将軍を自称する。
9月、赤眉軍が長安に侵入すると、更始帝はまたも長安を脱出する羽目になり、一騎だけで高陵に逃れた。赤眉軍は、更始帝に反逆した張卬らの手引きにより、長安を攻め落とし、更始帝を降伏させて璽綬を入手し、その政権を滅ぼした。しかし樊崇らの支配は乱脈の限りで、長安やその周辺で略奪狼藉を繰り返した。建世帝はどうすることもできず、ただ宮中で泣くのみだった。
更始政権が滅亡すると、三輔の多くの士大夫は隗囂を頼って来た。すなわち隗囂の下には、谷恭・范逡・王元・王遵などの多くの名士が参集し、隗囂の声望は山東にまで聞こえたという。また、河西に割拠していた竇融らにも将軍印を授与し、これを傘下に加えた。
10月、劉玄は降伏すれば長沙王に封じるという赤眉軍に投降し、璽綬を赤眉軍が擁立した皇帝劉盆子に譲った。赤眉の総帥樊崇らは劉玄の殺害を企てていたが、劉盆子の兄劉恭が命乞いをして畏威侯に、さらに長沙王に封じられた。
12月、劉玄による後難を恐れた降将の張卬が、赤眉軍の武将謝禄を唆し、劉玄は謝禄に殺害された。その屍は劉恭が収容した。

垂仁天皇55年/26年/アスス暦753年:丙戌

ナザレのイエスが、バプテスマの聖ヨハネの弟子となる。
「マルコによる福音書」によれば、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けるところが描写されている。
漢/
元日の宴会の場で、状況を見かねた長兄の劉恭が「劉盆子を庶人に戻して他に賢人を皇帝に立ててほしい」と訴えたが、赤眉軍諸将は「お前が口を出すべきことか」と取り合おうとしなかった。すると建世帝は玉座から降りて皇帝の印綬を外しその場にひざまずくと、「今の我々は盗賊同然だ。皆から見放されている。私が皇帝の器でないのが悪いのだから、どうか他の賢聖を立てて私の一身を守らせてくれ。赤眉軍が敗れたら、諸君はどうせ私を殺して責任を取らせるつもりなのだろう。どうか私をかわいそうと思ってくれ」と泣きじゃくった。諸将もこれには困惑し「分かりました、もう好き勝手はしませんから」と口々になだめ、建世帝を抱え上げて玉座に戻し印綬をかけた。しかし建世帝はなおも泣き続けた。
春、赤眉軍は糧食が尽きた長安を捨てて西進する。漢の大司徒鄧禹の部将の馮愔が鄧禹に反逆し、天水へ向ったが、隗囂はこれを高平(安定郡)で撃破した。大雪に遭い多くの死傷者を出して、赤眉軍は結果的に東に還ることとなった。
これにより鄧禹は、隗囂に符節を与え、西州大将軍に任命し、涼州朔方郡の事務について専権を授与した。長安を占領していた赤眉軍が西進してくると、隗囂は部将の楊広を派遣してこれを撃破する。

垂仁天皇56年/27年:丁亥

ローマ帝国/ローマ皇帝ティベリウス、カプリ島に隠遁、ローマの統率をセイヤヌスに一任する。
福音書に記録されている祭典の回数等から、ナザレのイエスがこの頃より宣教を行ったと考えられる。場所はおもにガリラヤ湖周辺でおこなわれていた。
ガリラヤ湖の北西岸には、ミグダル・ヌナヤ(魚の塔)=マグダラ(現ミグダル)という都市が存在しており、ローマの属州時代以前においては王国であったと思われる。
一説によれば、マグダラのマリアは、ミグダル・ヌナヤの女王であった。
後漢/
光武帝(劉秀)の派遣した大司徒鄧禹・征西大将軍馮異は東帰する赤眉軍を待ち受けて赤眉軍攻撃を行う。
一旦は敗北した馮異は、その敗れた軍を立て直して赤眉軍を撃破、西への退路を絶ち、東の宜陽で待ち構えていた光武帝軍は戦うことなく、兵糧の尽きた赤眉軍を下して配下に入れた。光武帝は劉盆子を憐れんで多くの恩賜を与え、叔父の趙王劉良の郎中にとり立てた。その後、劉盆子は失明するが、不自由なく余生を送れるようにと光武帝から滎陽(現在の河南省滎陽市)に領地を与えられている。
完全に群を抜いた勢力となった光武帝は河南の劉永・安徽の李憲・山東の張歩と言った群雄勢力を制圧。
隗囂が光武帝に書簡を奉呈したところ、光武帝は、隗囂を字で呼び、対等の国君に対する儀礼をもって応じるという破格の厚遇で、これに報いた。同年、蜀の公孫述の支援を受けた呂鮪が三輔へ進攻してくると、隗囂は征西大将軍馮異と協力して呂鮪を撃破し、光武帝から更なる礼遇が加えられている。また、公孫述が隗囂に大司空扶安王の印綬を授けてこれを取り込もうとすると、隗囂はその使者を斬り、公孫述の軍を度々撃破した。これにより、しばらくは公孫述も出兵しようとしなくなっている。

垂仁天皇57年/28年:戊子

ローマ/マルクス・ウィプサニウス・アグリッパの娘、ユリアが死去。
ユダヤ教サドカイ派が、聖ヨハネを捕え処刑する。
ナザレのイエスの元に弟子が集まり始める。彼らはイエスをキリスト(救世主:メシアもしくはメサイヤ)と呼ぶようになる。
ただし、人々を救済する者としてではなく、パレスチナの地からローマを追い払い、ユダヤの独立をとりもどす指導者=救世主という意味で用いられた。
ユダヤ教サドカイ派やパリサイ派から、ナザレのイエスとその集団がユダヤ独立運動家の集団として危険視されるようになる。
後漢/後漢の第2代皇帝、明帝が生まれる。
後漢/光武帝が蜀の公孫述の攻略を隗囂に持ちかけると、隗囂の態度は消極的であった。隗囂は本心では天下統一を望まず、光武帝と公孫述の両雄を並存させ、漁夫の利を得ることを願っていたためである。光武帝もその意図を見抜いたため、次第に隗囂を冷遇し、対等の国君の礼から、通常の君臣の礼へと格下げする。また、隗囂と仲が良かった来歙・馬援から来朝の呼びかけもあり、子の隗恂を人質として光武帝の下に送っているが、それでも隗囂は腹心である王元などの勧めもあって、次第に自立の動きを模索するようになった。

垂仁天皇58年/29年:己丑

ローマ/ ゲルマ二クスの長子にしてカリグラの兄である、ネロ・カエサルが反逆罪容疑で追放処分となる。
カリグラが、初代ローマ皇帝アウグストゥスの妻にして2代ローマ皇帝ティベリウスの母であるリウィアの元へ送られて生活する。
のちにリウィアが死去。リウィアの死去後、カリグラは祖母(ゲルマニクスの母)小アントニアの元へ送られて生活する。
ティベリウス帝が、公の場でネロ・カエサルと大アグリッピナを攻撃し、ネロはポンティア島に、アグリッピナはパンダテリア島に流された。
カリグラの次兄ドルスス・カエサルがアエミリア・レピダと結婚するが、セイヤヌスが罠にかけられ、反逆罪容疑で収監される。
後漢/光武帝が、洛陽に太学を設けて儒学を講じさせ、14名の五経博士を設ける。また、各地に私学が設けられ、当地の学者が門弟を集めて経書を講義するようになった。官吏登用制度たる郷挙里選においては孝行・廉潔を旨とする孝廉の科目が重視された。

垂仁天皇59年/30年:庚寅

後漢/光武帝が山東を平定した。
後漢/公孫述が荊州南郡へ進攻。光武帝は隗囂に蜀進攻を命じたが、隗囂は様々な理由をあげてこれを受け容れなかった。ついに光武帝は隗囂に示威行動で臨み、自ら長安に移り、建威大将軍耿弇ら7人の将軍に隴西経由による蜀侵攻を行わせる。しかし、隗囂は光武帝からの蜀征伐参加の要請を拒絶し、光武帝に叛旗を翻した。緒戦は隗囂が耿弇らを撃退したが、続く部将の王元・行巡による三輔攻撃は失敗に終わる。
後漢/光武帝が匈奴と和親を図るために、帰徳侯の劉颯を匈奴に派遣し、匈奴も後漢へ遣使を送って朝貢した。光武帝はまた中郎将の韓統に黄金・財物を持たせて単于に贈るとともに、旧和親関係を復活させた。しかし呼都而尸道皋若鞮単于は傲慢になっており、自らを冒頓単于になぞらえ、漢の使者に対して無礼な態度をとった。
後漢/光武帝が楽浪郡の自立勢力を討ち、楽浪郡全域を接収。郡県制による直接支配をおこなう一方、半島東方の首長を県侯に封じたり半島南部からの入貢者を容れて楽浪郡に属させるなど、直轄することを放棄した地域では間接支配をおこなった。「三国史記」においては、光武帝が楽浪郡を接収した記載はなく、支配者が王調から崔理に代わっただけで、引き続き楽浪郡は独立していて「楽浪国」となったと記載されている。
ローマ/
ナザレのイエスによる宣教活動が、大規模なものになったため、サンヘドリン(ローマ帝国支配下のユダヤにおける最高裁判権を持った宗教的・政治的自治組織)が、ナザレのイエスの逮捕に踏み切った。
福音書によれば、サンヘドリン(最高法院)のメンバーがイスカリオテのユダを買収しイエスを捕縛したが、イエスになんら罪を見出せなかったため、偽りの証人をたてて、神への冒涜の咎で死刑を宣告し、ローマ総督ポンティウス・ピラトゥスに引き渡したとされている。
ローマ帝国/イスラエル/パレスティナでナザレのイエスが処刑される。
史実は不明だが「イエスの復活」の奇跡がおこり、ここから「イエスはキリストだ」とする集団が発生した。
ここでいう「キリスト」は、先のユダヤ独立の指導者としての意味合いではなく、人々を救済する者=救世主の意味合いに変わった。キリスト教が成立する。
ナザレのイエスの足取りは、復活の奇跡以降、途絶える事となる。キリスト教会では昇天=アセンションしたという話で終わっている。
一方で、イエス=キリストは復活の奇跡以降も存命しており、エルサレム〜トルコ間の地域で目撃されたという伝承も残っている。
一説によれば、25-86年の間、イスラエルよりイエスキリストが十支族(秦氏)と共に陸奥の地に到来。そのまま生涯を終える。(現、八戸郡新郷村の民話)
これには諸説あり。尚、現在、日本に伝わっているキリスト教の教えは新約聖書、旧約聖書の一文のみであり、復活祭以後の教えにふまえられているこの説は伝わってはいない。キリスト教カトリック派、プロテスタント派もこの説を黒聖書(アポクリファ)、つまり異端として否定している。   ↓
イエスキリストが十字架刑によって処刑される。
イエスキリストの復活。
日本に到来後、「日周りの法(太陽の法)」を習得。
十二支族がこれをイスラエル(カナン)に持ち帰り、それぞれで法を分割して秘密裏に伝える。
一部は、バチカンにて、厳重に保護されるが、その法は「神人合一の法」である事が、後に判明。
  ↓
2017年3月30日に、英国の歴史家で聖書研究者のラルフ・エリス氏が約30年にわたって続いた研究結果により、
エリス氏は、1世紀半ばに現在のトルコ南東部にあったオスロエネ王国(エデッサ)を統治していたマヌ王とイエス・キリストは同一人物であるとの結論に達した。
エリス氏はマヌ王とキリストの伝記を研究し、2人の間に一致や共通点があることを発見、これは偶然ではないとの見方を示している。
エリス氏は、同じ人物が後に「イザス・マヌ王」と「イエス・エマニュエル」という名で有名になったとの考えを示している。
ローマ皇帝ネロの2番目の妻、ポッパエア・サビナが生まれる。
カリグラの次兄ドルスス・カエサルが、カプリ島からローマへ送られ、パラティヌスの宮殿に幽閉され兵の監視下に置かれた。
セイヤヌスが有力元老院議員であったガイウス・アシニウス・ガッルスを投獄した。
カリグラの長兄ネロ・カエサルも飢餓もしくは自殺により客死する。
カリグラと3人の姉妹ユリア・リウィッラ、ドルシッラ、小アグリッピナが軍によって軟禁される。

垂仁天皇60年/31年:辛卯

エルサレム/
ユダヤ教ファリサイ派に属していたパウロ(サウロ)が、エルサレムでの高名なラビであるガマリエル1世のもとで学んでいた時、キリスト教徒たちと出会う。熱心なユダヤ教徒の立場だった事から「イエスはキリストだ」とする集団を根絶しようとし、信者を取り締まっては牢に入れた。
ローマ/
カリグラと3人の姉妹ユリア・リウィッラ、ドルシッラ、小アグリッピナが、カプリ島に隠遁しているティベリウス帝に引き取られ、そこでティベリウス帝の個人的庇護を受けながら6年間生活することとなる。
10月17日。元老院にてセイヤヌスが弾劾される。
10月18日。古代ローマの親衛隊長官、セイヤヌスが死去。かつて小ドルススの妻であり、後にセイヤヌスの愛人となったリウィッラも死去。
後漢/
隗囂と光武帝の最後の和平交渉が決裂。隗囂は公孫述に服従の使者を送り、朔寧王に封じられた。しかし、その一方で、光武帝への傾斜を強めていた河西の竇融らは、隗囂から授与されていた将軍印を破棄するなどして、隗囂陣営から離脱していく。馬援・来歙が、隗囂軍を次々と切り崩した。政略によって隗囂の腹心の王遵や第一城(安定郡高平県)を守備する高峻らを引き抜いて行った。
後漢/
光武帝が統治機構の整備として、地方常備軍である材官・騎士などを廃止して労働力の民間への転換を行った。混乱期の将軍も多くが解任され、小規模な常備軍を準備するに留め、財政負担の軽減を図った。財政機関の再編成としては、前漢では帝室財政を所管していた少府の管掌を国家財政の機関たる大司農に移し、帝室財政を国家財政に包含させ、前漢では大司農に直属していた国家財政の重要な機関である塩官・鉄官を在地の郡県に属させる等を行う。
後漢/売人法を公布し、人身売買を規制。

垂仁天皇61年/32年:壬辰

後漢/漢書の著者の一人、班固が生まれる。
後漢/後漢の武将であり班固の弟、班超が生まれる。(両者は双子か?)
後漢/高句麗が朝貢する。王莽が侯に格下げしていたが、これ以降、前漢末以来の王号が復活する。
4月25日。ローマ/ローマ皇帝、オトが生まれる。
春、後漢/漢軍の馬援・来歙らが略陽(天水郡)を奇襲、占領。光武帝が親征すると、河西の竇融・梁統らが軍を率いてこれに合流し、王遵が元の同僚の牛邯を投降させた。これらをきっかけに、さらに隗囂配下の13人の大将、16県、10数万人の兵士が尽く投降した。隗囂は光武帝の降伏勧告を拒否し、故に人質となっていた隗恂を殺させることになるも、抗戦した。しかしその後も、呉漢・岑彭・耿弇ら漢軍に攻められ、隗囂は西城(隴西郡)に追い込まれる。包囲されること3カ月ほど、王元が引き連れてきた公孫述の救援軍が至り、隗囂は包囲を脱して冀県へ退却することができた。さらに、漢軍が兵糧不足から退却したために九死に一生を得、安定・北地・天水・隴西の各郡も一応、再び隗囂に帰順した。

垂仁天皇62年/33年:癸巳

10月18日、ローマ/初代ローマ皇帝アウグストゥスの孫娘、大アグリッピナが死去。
春、後漢/光武帝が隴西を攻略。隗囂が病の上に飢えて、城外で乾燥食糧(原文「糗糒」)を食すると、憤怒の余り死去。
匈奴がしばしば後漢の北辺を侵すので、光武帝は大司馬の呉漢らを派遣してこれを撃った。しかし、年を重ねても成功せず、匈奴は次第に強盛となり、侵入・略奪は日に日に激しくなっていった。

垂仁天皇63年/34年:甲午

シリア/
パウロ(サウロ)がダマスコ(現ダマスカス)にて、ナザレのイエスの声を聞き、使徒になった。
使徒行伝では以下の内容が記載されている。
パウロ(サウロ)がダマスコ(現ダマスカス)にて、ナザレのイエスの声を聞き、その直後視力を失う。
その後、アナニアというキリスト教徒に出会う。ある時、アナニアが神のお告げをきき、サウロのために祈りを捧げる。
すると、サウロの目から鱗のようなものが落ちて、サウロは視力を取り戻した。
これらの出来事により、パウロはキリスト教に改宗し、使徒となる。
しかし、パウロはこれまでにキリスト教迫害の立場にいた事もあり、改宗直後はユダヤ人たちから何度も激しく拒絶され命を狙われた。
後漢/隗囂の子である隗純が光武帝に降伏。

垂仁天皇64年/35年:乙未

ローマ帝国/11月8日。ローマ皇帝ネルウァが生まれる。
後漢/西方より羌族を侵攻してくる。光武帝は馬援に撃たせ、降伏した者を天水・隴西・右扶風の内郡に移住させて郡県の管轄下に置いた。
後漢/光武帝が「天地之性、人為貴。(この世界においては、人であることが尊い)」で始まる詔を発し、奴婢と良民の刑法上の平等を宣言する。

垂仁天皇65年/36年/アスス暦763年:丙申

ペルセウス座流星群が初めて観測された。
ローマ帝国/ポンティウス・ピラトゥスがユダヤ総督を罷免される。
後漢/光武帝が蜀の公孫述を滅ぼす。これにより、中国統一となる。
後漢/光武帝が、三公(大司徒・大司空・大司馬)らが毎年一定数の孝廉を推挙するよう、規定を行う。

垂仁天皇66年/37年:丁酉

ローマ帝国/ 3月16日、ローマ皇帝ティベリウスが死去。
ローマ皇帝として、カリグラが即位。
クラウディウス(後の4代皇帝)がカリグラと共にコンスルに就任、同時に元老院議員に加えられる。
パルティアとローマが和睦する。
後漢/光武帝、蜀の公孫述を滅ぼして全国を統一した。
後漢/光武帝が統治機構の整備として、王莽が廃した前漢の諸侯王を列侯に格下げした。(その後に光武帝期に諸侯王とされたのは、光武帝の同族たる南陽舂陵の劉氏一族と皇子たちのみ)
匈奴が河東に侵入し、後漢の州郡はこれを食い止めることができなかった。
後漢/略人法を公布し、人身売買を規制。
高句麗/高句麗が楽浪国を滅ぼして併合する。

垂仁天皇67年/38年:戊戌

ローマ帝国/ 皇帝カリグラがクラウディア水道の建設を始める。
クラウディウスとメッサリナ(20歳未満)が結婚。
ティベリウス・ゲメッルスが死去。(諸説有り)

垂仁天皇68年/39年:己亥

後漢/耕地面積と戸籍との全国調査を施行し、人民支配の基礎を固め、国家財政を確立した。この耕地・戸籍調査の際には首都のある河南郡や皇帝の郷里である南陽郡で不正申告がおこなわれた。この調査に不満を抱いた地方豪族が農民を糾合して反乱をおこすこともあった。
12月30日、ローマ/ローマ皇帝ティトゥスが生まれる。

垂仁天皇69年/40年:庚子

ベトナム/徴側・徴弐(チュン)姉妹が後漢に対して反乱を起こす(- 43年)。ベトナムは後漢からの独立をはたす。
ローマ/
7月13日。後のローマ帝国ブリタニア総督、グナエウス・ユリウス・アグリコラが生まれる。
クラウディウス帝とメッサリナの間に、クラウディア(クローディア)・オクタウィアが生まれる。オクタウィアは、ローマ皇帝ネロの最初の妻となる。
ローマ皇帝ネロの実父、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスが死去。
後漢/光武帝の子のうち、皇太子劉彊を除く九国公は爵を進めて王とされ、劉陽が東海公に封じられる。
後漢/交阯(現べとなむ北部にあった国)で徴姉妹の反乱がおこる。光武帝は馬援を派遣してこれを鎮圧。馬援は武力行使の一方で城郭の修復や灌漑用水の整備による農業の振興などをおこない、また当地の慣習法を漢法に優先させるなどし、郡県制の整備にあたって現地の習俗を尊重した。
後漢/貨幣制度の見直しが行われる。王莽が発行した貨幣は廃止され、前漢武帝以来の五銖銭を再開させた。

???年

ナザレのイエスの母マリアが使徒ヨハネとともに晩年、小アジアのエフェソスで余生を送ったと伝えられる。
現トルコの小村アヤソルクに、マリアが晩年を過ごしたといわれる地に『聖母マリアの家』という礼拝堂が建てられている。

垂仁天皇70年/41年:辛丑

1月24日。第3代ローマ皇帝カリグラ、親衛隊により暗殺。
ローマには一時的に空位の状態が発生した。
元老院にはこの機に乗じて共和政の復活を目論む者もいたが、共和政が復活すると職を失うことになるプラエトリアニが、カリグラの崩御から24時間足らずでクラウディウス(当時50歳)を皇帝に擁立。
第4代ローマ皇帝クラウディウス即位。先帝カリグラが崩壊させたローマの財政を立て直した。
「国家反逆罪法」による処罰を廃止する。
2月12日。第4代ローマ皇帝クラウディウスと3番目の妻であるメッサリナとの間に、ブリタンニクスが生まれる。
後の皇妃メッサリナの評価は非常に低いものとして、伝わっている。
彼女と同年齢の女性はもちろんこの時代、客を誘っての会食、宴席を楽しんでいたが、メッサリナは愚かにもこの種の他人の交わりが度を越して、自分の性欲を満たすほどにまでに及んだ、と強調して述べている。よく後世に伝わっていることでは、メッサリナはローマの下賤な売春宿にスキッラという名前で一晩中男たちと交わり続け、ある時には夜明けまでに25人もの男を相手にしてもまだ物足りなかった、すなわちメッサリナは疲れてはいたが、満たされてはいなかったらしい。
また彼女はクラウディウスをそそのかし、彼女を不快にさせた者や彼女の敵対者を処刑させたりもした。強欲さ、冷酷さの代名詞として彼女の名「メッサリナ」が使われたと言う。
後漢/郭皇后がそのわがままな性格から光武帝に疎まれるようになり、皇后を廃されて中山太后とされ、陰貴人が皇后となる。

垂仁天皇71年/42年:壬寅

3月3日。韓国(朝鮮)の金官伽耶の太祖、首露王が生まれる。(人+耶)
※金官伽耶は、伽耶(から)国の事。ゆくゆくは「韓」へと変化していく。

垂仁天皇72年/43年:癸卯

4代ローマ皇帝クラウディウス帝が、ブリテン島(現在のイギリス)遠征し南部を制圧。
ノーフォーク地域にあるケルト人イケニ族の国王プラスタグスが敗戦。クラウディウス帝は属州ブリタンニアを建国した。
以降370年もの間でローマの支配が続き、ケルト人の文化が次第にローマ化していく。
後漢/劉陽にとって異母兄である劉彊は母郭皇后が廃されたため、つねづね皇太子を辞したいと願い出ていた事から、光武帝はついに許し、皇太子は東海王となり、代わって劉陽が皇太子に立てられることになり、同時に諱を陽から荘に改めるように命じられた。博士の桓栄に師事し、『尚書』を学習した。

垂仁天皇73年/44年:甲辰

後漢/後漢が高句麗に対して、水軍をを派兵してかつての楽浪郡の領土を奪還、楽浪郡を再建した。
匈奴/匈奴が上党・扶風・天水に侵入した。
ローマ/
皇帝クラウディウスがブリタンニアから帰国し、凱旋式を挙行する。
ポッパエア・サビナがルフリウス・クリスピヌスと結婚する。
10月、高句麗/大武神王が死去。
太子の解憂(次代の慕本王)が幼少だったために、大武神王の弟である国人(閔中王:びんちゅうおう)が即位。
『三国史記』高句麗本紀では先代の大武神王の弟、『三国遺事』王暦では大武神王の子とする。
11月、高句麗/閔中王が即位直後に大赦を行なう。

垂仁天皇74年/45年:乙巳

インド/クシャーナ朝が建国。
匈奴/匈奴が上谷・中山に侵入し、殺略をおこなった。

垂仁天皇75年/46年/アスス暦773年:丙午

匈奴/呼都而尸道皋若鞮単于が死去。子の左賢王の烏達鞮侯が立ったが、まもなく死去。その弟の左賢王の蒲奴が単于となった。

垂仁天皇76年/47年:丁未

ヤコブス・デ・ウォラギネ著の「黄金伝説」に記されている、聖女マルタについての伝説。
キリスト教布教のためにサント=マリー=ド=ラ=メールからやってきた聖女マルタ(聖母マリアの姉?)がネルルク(黒い森:ブーシュ=デュ=ローヌ地方(フランスの最南端)辺り)の村を訪問。
この時、怪物タラスクの話を聞いた。
古よりこの土地に人食いの怪物あり。硬い甲羅に鋭い背鰭と山猫のような身体で、6本の肢をもち、ワニのような顎をもつ姿をしている。毒息を吐き、灼熱の糞をまき散らす邪悪な竜の眷属で、性質は獰猛。人を喰らい、特に子供を好む。
聖女マルタは、これを鎮めるべく森に入る。
聖女マルタの目前に怪物タラスクが現れるも、聖女マルタは臆することなく一心に祈りを唱え聖水を振りかけ、タラスクを沈黙させた。
聖女マルタは怪物タラスクを鎖に繋なぎ、これを手なずけた。
聖女マルタが怪物タラスクを連れて村に戻ると、長年苦しめられてきた多くの村人たちは、怪物タラスクを決して許すことなく石飛礫でもって怪物タラスクを撃ち殺した。
この伝承を持つ、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ではタラスクの名にちなんで、タラスコンという街名となり、今に残っている。
ローヌ川対岸にあるオクシタニー地域圏のボーケールとは、古くから土地と水利を巡って争いが絶えなかった歴史的経緯をもっていて、交流に乏しいと言われている。

垂仁天皇77年/48年:戊申

後漢/匈奴が南北に分裂し、南匈奴が後漢に服従。この分裂により烏桓・鮮卑は匈奴から離脱。
後漢の武将、朱姑が死去。(姑;衣+古)
ローマ帝国/
皇帝クラウディウスが国勢調査をおこなう。
皇妃メッサリナが元老院議員のガイウス・シリウスと結託してクラウディウスを殺害を計画、そしてシリウスと結婚する。
メッサリナはほとんどの元老院議員が自分の側に廻ると確信していたが、計画はクラウディウスの側近ナルキッススの耳に入り、シリウスとその取り巻きは即刻処刑される。
皇妃メッサリナがローマ皇帝クラウディウスによって自死を命ぜられる。
メッサリナはクラウディウスから自殺する猶予を与えられたが、自分で死ぬことができず、命を受けた者によって殺される。
金官伽耶/インドの阿踰陀国の許黄玉王女が、首露王の王后となる。
高句麗/高句麗の王、閔中王が死去。

垂仁天皇78年/49年 : 己酉

ローマ帝国/ローマ皇帝クラウディウスが姪である小アグリッピナと結婚。小アグリッピナは先帝カリグラの妹であるが、権力のためだけにクラウディウス帝に近づき、法律で許可されていなかったはずの叔姪婚を行ったとされている。
後漢/後漢の武将、馬援が死去。
後漢/光武帝が烏桓の酋長を侯王に封じ、鮮卑の朝貢も受ける事にした。
高句麗/大武神王の嫡子である解憂が、慕本王として王位に就く。
2月、将軍を派遣して後漢の北平・漁陽・上谷・太原を襲撃させたが、遼東太守の蔡形は恩義と信義とをもって対応したので、両国間の関係は和親に戻った。『後漢書』祭肜伝に拠れば、匈奴対策として鮮卑などを懐柔しようとした祭肜が鮮卑の朝貢に対して何倍もの下賜品を与えたことを伝え聞いた高句麗が、それまで敵対していたにもかかわらず後漢の遼東へと朝貢を行ったという記事があり、符合している。
8月、慕本王が高句麗で飢饉が発生。国内の飢えた民に施した。
後に慕本王は、人の上に座ったり人を枕にするなどして揺れ動いたものは容赦なく殺し、諫言する臣は弓で射殺すなど、暴虐の王と化した。

垂仁天皇79年/50年 : 庚戌

エルサレム/使徒パウロが「テサロニケ人への第一の手紙」を記す。
ローマ/この頃、ローマ人からは鉛中毒が多く発生した痕跡が多数発見されている。サパと呼ばれる酢酸鉛を主成分とした甘味料が多く摂取されていた事や、ワインの製造器具から醸造過程で多くの鉛が混入してローマ人の健康を蝕んだ可能性が指摘されている。
2月25日。ローマ皇帝クラウディウスがネロを養子とし帝位継承者とする。小アグリッピナとの血縁関係はない。
後漢/後漢の武将、堅鐔が死去。

次の年代:
西暦50年〜西暦100年