前の年代:
紀元前100年〜紀元前50年

紀元前50年 〜 紀元前1年

イエスが生まれる。ローマ帝国が成立し、初代ローマ皇帝が立てられる。日本では伊勢神宮が建立される

崇神天皇48年(前50年):辛未

カエサルがファルサロスの戦いでポンペイウスを破る。古代ローマの主導権を得る。
前漢/宣帝が死去。
匈奴/郅支単于この年にも遣使朝献した。しかし、いずれも呼韓邪単于よりも低い待遇であった。

崇神天皇49年/前49年:壬申

前漢/嫡男の劉奭が元帝(第10代皇帝)として即位する。
元帝は現実的な法家主義者だった宣帝と異なり、儒教を重視した政策を実施した。
皇太子時代の学師であった蕭望之ら儒者を登用した。
匈奴/
郅支単于は、南下した呼韓邪単于がすぐに戻ることはあるまいと考え、右地(西部)に進軍したところ、屠耆単于の小弟である伊利目単于と遭遇し、戦闘となり、伊利目単于を殺し、その兵5万余人を併合した。郅支単于は呼韓邪単于が漢に擁護されたと知ると、そのまま右地に留まった。しかし、このままでは自立不可能と考えた郅支単于は、西の烏孫に助力を求めようと、使者を小昆弥(烏孫の君主号)の烏就屠のもとへ送った。烏就屠は呼韓邪単于が漢に擁護されている半面、郅支単于が民信をなくしているのを見ると、郅支単于の使者を殺し、その頭を西域都護治所に送りつけ、8千騎を発して郅支単于を迎え撃った。郅支単于は隊伍を指揮し、逆に烏孫を撃破し、これに乗じて北の烏掲を撃って降し、その兵を使ってさらに西の堅昆を破り、北の丁令を降して烏掲・堅昆・丁令の三国を併合した。その後も何度か烏孫に兵を派遣して、勝利し続けたので、郅支単于は堅昆の地に都を遷した。

崇神天皇51年/前47年:甲戌

豊鋤入姫命、木乃国奈久佐浜宮(名草浜宮)に遷り、三年間奉斎。この時、紀国造は、舎人 紀麻呂、良き地口・御田を進った。
トゥリヌスが、神祇官に任命される。
クレオパトラ7世がエジプトの主権を握る。

崇神天皇52年/前46年:乙亥

ローマにおいて1年が445日存在する(翌年にローマ暦に代わってユリウス暦が導入されるための移行措置で、歴史上もっとも1年の日数(暦年)が多かった年とされている)。
トゥリヌスが大叔父カエサルがウェヌス神殿を建造した記念として、ギリシアの古代オリンピックに参加させられる。
カエサルがヒスパニアに遠征する。ムンダの戦いでカエサル軍が勝利する。
この時、トゥリヌスも遠征に従軍するためヒスパニアに向かおうとするも、出立直前に病に倒れる。
トゥリヌスが病から復帰後、遅れて遠征に向かうが、旅中で船が難破し、カサエルの敵勢力軍の直中に漂流する。
この時トゥリヌスは、ともに生き残った少数の兵とともに敵陣を横断して、味方陣営に加わった。
この出来事からカサエルは、後継者をトゥリヌスとしたという説がある。
前漢/
蕭望之ら儒者が宣帝の代から側近として重用されていた宦官である弘恭、石顕と対立し失脚。以後、元帝の治世は宦官により専断されることとなった。

崇神天皇53年/前45年:丙子

ユリウス暦が実施される。
太陽暦の一種。ユリウス・カエサルによって制定されたという。
1年を原則として365日とし、4年に1度の閏年に、2月に1日を加えて366日とする。 正確な一太陽年とは、4年に約44分の誤差がある。
1582年2月24日にグレゴリオ暦が発布され、同年10月4日(木曜)の翌日を10月15日(金曜)とされてからは、徐々に取って代わられた。
暦の切り替えはキリスト教圏でもばらつきがあり、ロシアは共産主義革命まではユリウス暦が採用されていた。 現在でも東方正教会ではユリウス暦を用いて祭礼を行なっている。ただしこれは、ユダヤ教の祭日が決まったあとでキリスト教の祭日を決定するという初期のキリスト教の祭日決定法に従うためで、東方正教会がグレゴリオ暦を導入していないわけではない。(ユダヤ教は1年の長さがユリウス暦とほぼ同じユダヤ暦を基準にして祭日を決定するため、東方正教会では、完全にグレゴリオ暦に移行できないだけである)
ローマ帝国でパルティア遠征が計画される。司令官にはトゥリヌスが任命される。
トゥリヌスが、生涯の盟友となるマルクス・ウィプサニウス・アグリッパと出会う。アグリッパの存在は、トゥリヌスの虚弱体質で軍才もないという弱点を補う形となった。

崇神天皇54年/前44年:丁丑

地球上空にニビルを観測する事が出来た言われている。
日本/
豊鋤入姫命、吉備国名方浜宮に遷り、四年間奉斎。この時、吉備国造は、采女 吉備都比売、地口・御田を進った。
匈奴/
郅支単于は漢が呼韓邪単于を擁護することを怨み、遣使を送って上書し、侍子を求めた。
3月15日、ローマ/カエサルがマルクス・ユニウス・ブルトゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスらに暗殺される。
この時はカエサルの指示からトゥリヌスはギリシア西海岸にて遊学中であったが、急遽ローマへ帰還する。
その途中ローマ南部イタリアブルンディシウム近郊のリピアエにて、カエサルが自分を後継者に指名していた事を知る。
これにより、わずか18歳の無名な青年に過ぎなかったトゥリヌスは、一躍有名になった。
そして以後ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスを名乗る。
ブルンディシウムでカエサル配下の軍団兵たちより温かい歓迎を受けたオクタウィアヌスはカエサルの側近たちの協力も得、カエサルの遺志であるパルティアとの戦争を遂行するためカエサルが集めた公的資金を要求。
70万セステルティウスもの資金がブルンディシウムに集められた。
そして元老院の査察のもとその資金で軍団を編成、東方に派遣したとされているが、実情はアントニウスを中心とする元老院の反オクタウィアヌス派に対抗するための軍団を編成していた。
そして、また彼は権限なしで東方の属州からローマにわたるはずの税収を収用した。
5月6日、ローマ/オクタウィアヌスがローマに戻った時点で、この年カエサルとともに執政官であったマルクス・アントニウスとカエサルを殺した元老院派との間で既に不戦条約が結ばれていた。
カエサル暗殺の首謀者は各自恩赦により3月17日付で国外に退去、マルクス・ブルトゥスとカッシウスはギリシアに赴任し、デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスはガリア・キサルピナ属州(現・北イタリアの一部、当時は本土イタリアの内と考えられていなかった)を支配下に抑えていた。
ローマに戻ったオクタウィアヌスは、軍団兵の支持厚い名将、民衆派の政治家として人気の高かったカエサルの葬儀を執り行った。
カエサルの財産の4分の3を相続するはずだったオクタウィアヌスだが、下記のようにアントニウスの妨害にあってそれを入手出来ないでいた。
しかし借金などの金策に努めてカエサル配下の軍団に給与を支払い、ローマ市民にも遺言に従って一時金を支給するなどして、支持を取り付けた。
次第に頭角を現すオクタウィアヌスに対して、カエサルの死後、単独の執政官として事実上権力を掌握していたアントニウスは危機感を募らせる。
当時アントニウスはカエサルの公的遺産を着服していたため、これを譲り渡すようオクタウィアヌスが説得した。
アントニウスはこれを拒否し、オクタウィアヌスは説得には失敗するものも、多数のカエサル支持者から同情を買うこととなった。
9月、ローマ/アントニウスと対立していたキケロがオクタウィアヌスと接近し、協力するようになる。
オクタウィアヌスはキケロら元老院派と手を組んでアントニウスを論難、アントニウスは元老院の脅威となっていると弾劾した。
次第にアントニウスは元老院で孤立してゆき、さらに1年間である執政官の任期も迫ってきたため窮地に陥った。
この窮地に対してアントニウスは防衛策を打つ。
彼は執政官の任期が切れる前に、自分の身柄を保護する場所として属州ガリア・キサルピナに注目した。
この属州は、上述のとおり当時デキムス・ブルトゥスが統治していたが、彼に代わり自らの統治を認める法案を元老院で成立させる。
この間オクタウィアヌスはカエサルの古参兵を招集し自らの軍隊を着々と編成、加えて10月28日にアントニウス配下の2個軍団も指揮下に入れる。
12月、前漢/漢は衛司馬の谷吉を使者として送ったが、郅支単于に殺されてしまった。そこで元帝は呼韓邪単于を呼び出し、谷吉を殺した郅支単于を討つよう叱責。
12月31日、ローマ/執政官の任期を終えたアントニウスは、翌紀元前43年1月1日ガリア・キサルピナへと逃れた。
ガリア・キサルピナの委譲を拒否するデキムス・ブルトゥスはムティナ(現:モデナ)でアントニウス軍に包囲されていた。元老院は争う両者を止めようとするも失敗。自らの軍を持たない元老院に代わってオクタウィアヌスがこの状況を活用しようとする。
この時点でオクタウィアヌスが自ら配下の軍団を持っていることは周知の事実であり、血統的に元老院の新参者であるオクタウィアヌスの弱点を突くアントニウス派の攻撃を、キケロが弁舌で擁護していた。

崇神天皇55年/前43年:戊寅

ローマ/
アントニウス、レピドゥス、オクタウィアヌスが第二回三頭政治を開始。
匈奴/
呼韓邪単于が、漢より郅支単于を討つように命じられ、モンゴル高原の単于庭へ帰る事となる。
使者を殺してしまった郅支単于は、漢を味方につけた呼韓邪単于の襲撃を恐れ、さらに遠くへ逃げようと考えていたところ、西の康居から同盟話が舞い込んできた。烏孫の度重なる侵寇に苦しんでいた康居王が、烏孫の旧主であった匈奴の単于を招いて烏孫に対抗させようと、使者を堅昆の地にいる郅支単于のもとに派遣したのである。郅支単于は大いに悦び、西へ移動したが、その道中で大寒波に遭い、多くの民衆が凍死し、康居にたどり着けたのはわずか3千人となった。とりあえず同盟は成立し、康居王は娘を郅支単于に娶らせ、郅支単于もまた娘を康居王に娶らせた。
康居は郅支単于の名前を使って諸国に威勢を示そうとし、郅支単于は康居の兵を借りて烏孫を攻撃した。郅支単于の軍は烏孫の赤谷城にまで侵入し、人民を殺略して家畜を奪い去った。これによって郅支単于はおごり高ぶるようになり、次第に康居王が礼を尽くさなくなったと感じると、娶った康居王の娘や貴人、人民数百人を殺し、死体をバラバラにして都頼水(タラス川)に棄てた。さらに郅支単于は人民を徴収して都頼水のほとりに城を造らせた。この工事に毎日500人を使い、2年かけて築城したという。また、周辺国である大宛国や闔蘇国(奄蔡国)などに貢物を要求し、納税させた。
1月1日、ローマ/元老院はオクタウィアヌスを元老院議員に任命、そして彼にインペリウムを与えた。
この年の執政官であるヒルティウスとパンサとともにアントニウスが行っている包囲攻撃を中止させようと試みるが、両執政官はアントニウスとの戦いで戦死した(ムティナの戦い)。
元老院は台頭するオクタウィアヌスを恐れてデキムス・ブルトゥスに近づき、上記の両執政官が率いた軍団の指揮権を委ねることを決議した。
これに反発したオクタウィアヌスは前線から撤退、ポー川流域に留まり、それ以上のアントニウスへの攻撃要請を拒否した。
6月、ローマ/オクタウィアヌス配下のケントゥリオがローマに赴き、ヒルティウスとパンサが有していたこの年の執政官特権を委託するよう要請、またアントニウスを「国家の敵」として断罪することを破棄するよう要請した。
元老院がこれを拒否すると、オクタウィアヌスは8個軍団を率いてローマに進軍する。
8月19日、ローマ/さしたる抵抗なくローマに入城した彼は、親戚であるクィントゥス・ペディウスとともに改めて執政官に選ばれる。一方でアントニウスは、同僚でカエサル支持派でもあったマルクス・アエミリウス・レピドゥスと連合して元老院と対峙した。
ここで、内心はカエサルの後継者として帝政(元首政)を目指すオクタウィアヌスは、彼らとの妥協を模索した。
10月、ローマ/ボローニャにおいてオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる会談により第二回三頭政治が成立した。
この同盟関係は密約であったカエサル、ポンペイウス、クラッススが結んだ第一回三頭政治と異なり、公然としたものであった。
彼らは国家再建三人委員会に就任し、カエサル暗殺者逮捕を名目に元老院派の排除に乗り出した。
この際、かつてのルキウス・コルネリウス・スッラのように、作成された名簿に基づいて元老院派と目された元老院議員約300人、騎士身分約2000人が殺害、財産が没収されたといわれる。
粛清リストにキケロの名があったため、盟友であったオクタウィアヌスは粛清の実行をためらっていたが、アントニウスのキケロに対する憎悪は激しく、この大量粛清は非情に断行され、キケロも殺害された。
こうして元老院派は、ギリシアで兵を集めていたマルクス・ブルトゥスとカッシウスを残すのみとなった。
ローマ帝国がブリテン島に侵攻し、各地を支配する。

崇神天皇56年/前42年:己卯

1月1日、元老院はカエサルの神格化を決定、「神君ユリウス(Divus Julius)」となる。
これによりオクタウィアヌスは自らを「神君の息子」とし、元老院での影響を強めた。
一方アントニウスは、オクタウィアヌスの影響を恐れカエサルの神格化に反対したが、このためにローマ市民やカエサル配下の退役兵からの支持を失うことになった。
今や同盟関係となったオクタウィアヌスはアントニウスとともに28個もの軍団を率いてマケドニア属州に進攻、親友であり側近のアグリッパと共に転戦した。
最終的にギリシアのフィリッピの戦いでブルトゥス、カッシウスらに勝利し、敗れた2人は自害した。
この戦いではオクタウィアヌス自身は軍を指揮せず、配下のアグリッパに指揮を託していた。
このオクタウィアヌスの態度をアントニウスは臆病者となじり、この戦いの真の勝利は自分の功績だと主張したという。
オクタウィアヌスがアグリッパと並ぶ片腕であるガイウス・マエケナスを見出したのはこの時期であったとされる。
軍事のアグリッパに対し、マエケナスは内乱期の外交交渉に活躍した。
しかもその役目を十全に果たすために自らのキャリアを犠牲にして、オクタウィアヌスの私設顧問のような形をとった。
内乱終結後は文化振興に従事して「メセナ」の語源となった。
戦後、再び三頭政治内で三者の支配地域の取り決めが行われ、アントニウスはガリア・キサルピナからエジプトへ移った。ここでカエサルの愛人であったプトレマイオス朝女王クレオパトラ7世とその息子カエサリオンと出会う。
また、アントニウスはエジプト滞在中にクレオパトラと関係を深め、後に2人の間にはアレクサンデル・ヘリオス、クレオパトラ・セレネ、プトレマイオス・ピラデルプスが生まれる。
レピドゥスはアフリカへと赴任する。そしてイタリア本国に留まる事になったオクタウィアヌスだったが、迅速に解決すべき問題に迫られる。
すなわち軍団兵たちの戦後処理の処遇で、フィリッピの戦いで味方として戦った兵士だけでなく敵兵も軍役の義務の対価として土地の要求をしていた。
もし譲歩せねばこれらイタリア在住の兵士は敵方に寝返りかねない。
しかし内紛では兵士に配るだけの新たな土地もあるわけがなく、既存のローマ市民の自治体に強引な割り込みをしなくてはならない。
兵士を取るか、市民を取るか、苦渋の選択でオクタウィアヌスは兵士の側に立ち、強引に地方共同体に退役兵の入植を行った。
しかしながらこの戦後処理は十分とは言えず、兵士の中には不満が残った。
これを元老院と結託したルキウス・アントニウス(マルクス・アントニウスの弟)に攻撃の隙ととらえてしまう。

崇神天皇57年/前41年:アスス暦687年:庚辰

ルキウス・アントニウスと手を組んだフルウィラはイタリア本国在住の兵士と結託、8個軍団を編成しオクタウィアヌスへ攻撃をしかけようとする。
しかし彼らの兵士の給付金は三頭政治の3人の管轄である以上、この武装蜂起自体がリスクの高い賭けであった。
ルキウス側はすぐに資金が困難となり、即座にペルシア(現:ペルージャ)でオクタウィアヌスに包囲される。

崇神天皇58年/前40年:辛巳

倭姫命世記:豊鋤入姫命、倭弥和乃御室嶺上宮(美和之御諸宮)に遷り、二年間奉斎。
この時、豊鋤入姫命は、「吾、日足りぬ」といひ、姪の倭比売命に事を預け、御杖代と定めた。
これより倭姫命が、天照大神を奉戴して行幸した〔相殿神は天児屋命 太玉命。御戸開闢神は天手力男神 拷幡姫命。御門神は 豊石窓 櫛石窓命。並びに五部伴神、相副って仕へ奉る〕。
アントニウスはルキウスの反乱に呼応してエジプトからイタリアへ遠征、ブルンディシウムを包囲する。
しかしこのような内紛はオクタウィアヌス、アントニウス双方の兵士にも耐えがたく、カエサル配下であったケントゥリオたちは相次ぐ戦争への従軍を拒否した。
ルキウス・アントニウスが降伏、フルウィラは東方へと亡命した。
この敵対行動をオクタウィアヌスは許さず、ルキウスと結託した元老院議員と騎士階級300人を処刑した。
この処刑は汚点となり、後の詩人セクストゥス・プロペルティウスに批判されている。
また先の武装蜂起を起こした1人であったフルウィラは同年死去.
妻の死を見取れなかったアントニウスは落胆したこともあり、秋になると2人は再び盟約を結んだ(ペルシアの戦い)。
この盟約でそれぞれの支配地域が再確認され、アントニウスは東方の属州、レピドゥスは北アフリカ、そしてオクタウィアヌスはイタリア半島以西となった。
先の紛争では困難な状況に陥ったオクタウィアヌスであったが、別の視点から見ればイタリア半島は兵の募集が容易で、東方にいるアントニウスの方が不利であった。
さらにオクタウィアヌスは盟約を確固とするために姉である小オクタウィアと妻を失ったばかりのアントニウスを結婚させた。
後にこの2人の間には大アントニアと小アントニアが生まれる。
オクタウィアヌスはセクストゥス・ポンペイウスの親族スクリボニアと再婚した。
しかし後にスクリボニアの性格に耐えきれず、またセクストゥスとの間が険悪化。

崇神天皇59年/前39年:壬午

オクタウィアヌス、セクストゥスとの間が険悪化したため、唯一の実子であるユリアが誕生すると同時に離婚。

崇神天皇60年/前38年:癸未

倭姫命世記:大和国宇多秋宮(宇太阿貴宮)に遷り、四年間奉斎。この時、倭国造は、采女 香刀比売、地口・御田を進った。大神が倭姫命の夢に現はれ「高天の原に坐して吾が見し国に、吾を坐せ奉れ」と諭し教へた。倭姫命はここより東に向って乞ひ、うけひして言ふに、「我が心ざして往く処、吉きこと有れば、未嫁夫童女に相(逢)へ」と祈祷して幸行した。
すると佐々波多が門(菟田筏幡)に、童女が現はれ参上したので、「汝は誰そ」と問ふと、「やつかれは天見通命の孫、八佐加支刀部〔一名は伊己呂比命〕が児、宇太乃大称奈」と申上げた。
また「御共に従ひて仕へ奉らむや」と問へば「仕へ奉らむ」と申上げた。そして御共に従って仕へ奉る童女を大物忌と定めて、天の磐戸の鑰を領け賜はって、黒き心を無くして、丹き心を以ちて、清潔く斎慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に帰り右に廻る事も万事違ふ事なくして、太神に仕へ奉った。元(はじめ)を元とし、本を本にする所縁である。また弟大荒命も同じく仕へ奉った。宇多秋宮より幸行して、佐々波多宮に坐した。

第12代天穂日命/第11代出雲國造の阿多命(出雲振根)が出雲国を不在中、大和政権の使者であり吉備津彦の臣である武諸隅(たけもろすみ)が諸国平定のため、出雲国を訪れる。
この時、代わりに出雲振根の弟である飯入根が名代として対応した。武諸隅は、大和政権に与する証を納める事を申し出たため、飯入根が出雲國の神宝である「武日照命従天将来神宝(たけひなてるのみことのあめよりもちきたれるかむたから)」を独断で献上した。この献上には、飯入根の弟である甘美韓日狭と、飯入根の子である鵜濡渟(宇迦都久怒命)が携わった。
出雲振根はこの件に関して立腹し、弟の飯入根を責めた。彼の忿怒は年月を経ても収まることはなく、水浴びをすると弟を騙し、弟の大刀を自分が作成した木刀にすり替え騙し討ちをした。結果として飯入根は兄の出雲振根に殺害された。
この件に関して、甘美韓日狭と鵜濡渟が朝廷に参上して、つまびらかにその時の状況を報告する。
崇神天皇は、吉備津彦と武諸隅を出雲國に派遣して、出雲振根を誅殺した。
鵜濡渟を第12代出雲國造として任命した。(『国造本紀』では鵜濡渟を氏祖命(初代出雲国造)としている)
出雲振根から甘美韓日狭へ兄弟の続柄で出雲國造が継承されるのではなく、子孫(鵜濡渟)へと出雲國造を継承された。
出雲臣ではしばらく出雲大神を祭らぬ状態が続いた。この事は、紀元前7年頃での出雲大神の祟りよる誉津別命の障りに関与している可能性がある。

オクタウィアヌスが健康で聡明なリウィア・ドルシラと再々婚。
これは恋愛結婚あるいは略奪婚といわれ、オクタウィアヌスは彼女の夫ティベリウス・クラウディウス・ネロに直談判をして離婚させリウィアを娶ったとされる。
またリウィアは連れ子ティベリウスの他に夫の子を妊娠中であったため、1月14日に大ドルススを出産した後に夫と離婚し、1月17日に結婚式を挙げた。
三頭政治が成立し、中央の元老院派が根絶やしになった後も地方では元老院派が残っていた。
その最たるものはポンペイウスの次男セクストゥス・ポンペイウスで、カエサル派で統一された三頭とは本来敵対関係にあるはずだが、当初オクタウィアヌスとアントニウスは競ってこのポンペイウスの次男と同盟を結ぼうとしていた。
当初オクタウィアヌスはセクストゥクスと和議、サルディニア島、コルシカ、シチリア、ペロポンネソス半島の領有権を認め、さらに紀元前35年の執政官になることも確約していた。
しかしセクストゥスがイタリア半島への小麦の運搬船を妨害し始め、イタリア半島の食糧供給が悪化する。
自らを「ネプトゥヌスの息子(Neptuni Fillius)」と呼び、地中海の制海権を脅かすセクストゥスをオクタウィアヌスは看過できず、両者の関係は悪化した。
オクタウィアヌスはセクストゥスとの戦争をはじめるためにアントニウスへ援助を要請、アントニウスはこれを承諾した。
アントニウスが政敵であるオクタウィアヌスに力を貸したのは彼自身の野心、すなわちカエサルが実現できずに終わったパルティア遠征を達成するために貸しを作りたかったからであった。
カルラエの戦いでクラッススが破れ、屈辱的な敗北のままでいるローマにとって、パルティアへの勝利は市民や軍人の支持を得るには格好の事業であった。

崇神天皇61年/前37年:甲申

高句麗が建国。 ローマ/ 三頭が再び集まり、三頭政治の5年間延長を決定。
アントニウスはオクタウィアヌスに120隻の軍船を、オクタウィアヌスはアントニウスに2万の軍団兵を相互に提供することを約束した。
アントニウスはオクタウィアヌスに約束した軍船を送った。
イスラエル/ ヘロデ大王がユダヤ王となる(- 紀元前4年)

崇神天皇62年/前36年:乙酉

メソアメリカ最古とされる長期暦の日付がメキシコ・チアパス州、チャパ・デ・コルソの石碑2号に刻まれる。
ローマ/
9月3日、ナウロクス沖の海戦でセクストゥス・ポンペイウスはアグリッパ率いるオクタウィアヌス軍に敗北する。
そしてオクタウィアヌスとレピドゥスはシチリア島に上陸。セクストゥスは逃亡を図る。
匈奴/
冬、郅支単于は康居王と結んでいたが西域都護甘延寿と副校尉陳湯により攻め滅ぼされた。
漢軍は郅支単于を斬首し、閼氏(えんし:単于の妻)や太子など1518人を殺し、145人を生け捕ると、1000人あまりが投降した。
呼韓邪単于は喜ぶと共に漢を恐れ、再度の入朝を願い出る。

崇神天皇63年/前35年:丙戌

セクストゥス、アントニウス派の手の者に捕まり処刑。
シチリア島を占拠したオクタウィアヌスとレピドゥスはポンペイウス派の残存勢力を一掃した。
レピドゥスはオクタウィアヌスを放逐しシチリア島を独占するつもりでいたが、しかしここでレピドゥスの部下がオクタウィアヌスに買収されて寝返った。
孤立したレピドゥスはオクタウィアヌスに降伏、終身職たる最高神祇官職の保持は許されたが、これにより三頭政治の一角が失脚した。
オクタウィアヌスはローマ人の権利を確約、今度は退役兵をイタリア半島外へと入植させ、ポンペイウスの軍に参加した持ち主が帰参した後もそのままポンペイウスのもとに留まっていた奴隷を元の持ち主に返還させた。
こうして共和政ローマは東のアントニウス、西のオクタウィアヌスと2分され、カエサル暗殺時に18歳だった無名の青年はローマの半分を支配する人物となっていた。
アントニウスは念願のパルティア遠征を実行に移す。
しかし結果は惨敗、エジプトに戻った司令官としての彼のイメージは大きく損なわれた。
また前述のようにオクタウィアヌスの支援は2000人に過ぎなかった。
クレオパトラは彼の軍隊を再建できるほどの財力を持っており、これを好機として、クレオパトラと親密であったアントニウスは妻オクタウィアを一方的に離縁する。
しかしこの一件は、オクタウィアヌスにアントニウス攻撃の格好の口実を与えてしまう。
オクタウィアヌスはアントニウスを弾劾した。
アントニウスはエジプト人と公式に結婚し、ローマ人の妻である姉を見捨て、ローマ人以下になったと演説。
アントニウスがローマ人としての振る舞いを正さない限り、このローマの内乱は終わらないと非難した。
しかしアントニウスはこれを拒絶、それどころかローマ人の神経を逆なでするようなことを繰り返す。

崇神天皇64年/前34年:丁亥

倭姫命世記:倭比売命、伊賀国隠市守宮に遷幸した。二年間奉斎〔伊賀国は、後に天武天皇の庚辰歳七月に伊勢国の四郡を割いて彼国を立てた〕。
アントニウス配下のローマ軍がアルメニア王国を攻撃、国王アルタウァスデス2世を捕虜とした。
アントニウスはアルメニア遠征の成功によりアレキサンドリアで凱旋式を行ったが、彼はクレオパトラとの実子アレクサンデル・ヘリオスを王に据えたほか、妻となったクレオパトラにエジプト女王の称号を授けるなどした。
オクタウィアヌスはこれを政治的に利用して、アントニウスはローマ人をないがしろにすると民衆および元老院を扇動。アントニウスをローマ社会から孤立させることに成功する。

崇神天皇65年/前33年:戊子

ローマ/ 1 月1日、この年の執政官となったオクタウィアヌスは元老院にてアントニウスとクレオパトラへの宣戦布告の決議案を提出する。
しかし一部の元老院議員は彼が行ってきたアントニウス非難を政治的なプロパガンダとしか見ておらず、アントニウスの告発の根拠を求める。
これに応じたオクタウィアヌスはウェスタの巫女からアントニウスの遺書を奪い、その封印を開いた。
アントニウスの遺書には、ローマの征服した地域はアントニウスの子に受け継がれるべきこと、アントニウスの墓はエジプトのアレクサンドリアに立てられ、クレオパトラと共に葬られるべきことが書かれていた。
これを受けて元老院もアントニウスを見限る。
前漢/元帝が死去。
嫡男の太孫が成帝(第11代皇帝)として即位する。
宣帝以来中書を担当し政治に多大な影響を及ぼしてきた宦官勢力の弱体化には成功したが、それに代わり外戚勢力、殊に生母の孝元皇太后(王政君)の実家の王氏一族が深く朝政に関与し、のちの王莽による簒奪の要因となる。
匈奴/
入朝を許された匈奴の呼韓邪単于が入朝する。
呼韓邪単于は漢の婿となることを願い、元帝は後宮の女性王昭君を閼氏(えんし)として賜った。また、呼韓邪単于は漢が北辺の防備を撤廃することを建策したが、これは却下された。
王昭君が匈奴の呼韓邪単于に嫁ぐ。
「王昭君」
王昭君は絶世の美女とされており、雅楽の演目としても伝わっている。
匈奴の呼韓邪単于が入朝し、漢の婿となることを求めたところ、宮女の中から王昭君が選ばれた。
王昭君は、呼韓邪単于の妻として、寧胡閼氏と号し、一男伊屠智牙師を儲けた。伊屠智牙師は、右日逐王となった。
その後、呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣に倣い、義理の息子に当たる復株累若鞮単于の妻になって、二女を儲けた。
この再嫁について、『後漢書』は、王昭君は帰国の求めがあったが、前漢の成帝は、「従胡俗」と命じたと伝える。

崇神天皇66年/前32年:己丑

倭姫命世記:倭比売命、同国の穴穂宮に遷り、四年間奉斎。伊賀国造は、箆山(みふぢ)葛(くろかづら)山戸(やまのへ)、並びに地口・御田を進った。鮎(細鱗魚)取る淵・梁作る瀬など、朝御饌・夕御饌を供へ進った。
年末、オクタウィアヌスはクレオパトラのプトレマイオス朝に宣戦布告。
オルメカの祭祀センター、トレス=サポーテスの石碑Cの日付。

崇神天皇67年/前31年:アスス暦697年:庚寅

アクティウムの海戦でオクタウィアヌスがアントニウス・クレオパトラ連合軍を破る。
9月2日、オクタウィアヌスとアグリッパ率いる海軍は、有利に戦っていたアントニウスとクレオパトラの連合軍に苦戦を強いられていたが、戦場から突然クレオパトラがエジプトに逃げ去り、その後を追ったアントニウス軍は司令官を失い指揮が乱れた。
その結果オクタウィアヌスとアグリッパ率いる海軍はアクティウムの海戦で勝利した。
アントニウスとクレオパトラはエジプトのアレクサンドリアへ逃れるも、その後をオクタウィアヌスに追撃されアントニウスはアレキサンドリアで自害するに至った。
その直後にクレオパトラも自害したためにここにプトレマイオス朝は滅亡した。
この際、オクタウィアヌスは多数の財宝を得て、内戦終結に伴う兵士の退職金に充てたと思われる。
カエサルの実子を名乗るカエサリオンは殺されたが、その他のアントニウスの遺児たちはオクタウィアの下で親族扱いで養育された(カリグラ、クラウディウス、ネロらはその血筋である)。
こうして、1世紀に及ぶ内戦の時代は終結した。
匈奴/
呼韓邪単于は臨終の際、第1閼氏(顓渠閼氏)の子である且莫車を立てようと考えていたが、顓渠閼氏が「且莫車はまだ若く、民衆が附かないので、国を危ぶむ恐れがある」と言い、妹である大閼氏の子の雕陶莫皋を立てようと提案した。しかし、大閼氏は「若くとも大臣と協力していけば大丈夫であり、それよりも第一夫人の子を廃し、第二夫人の子を立てる方が後々不安です」と反論し、意見が分かれた。
その後、呼韓邪単于が死去。
顓渠閼氏の意見が採用され、雕陶莫皋が立って復株累若鞮単于となった。これ以降、単于位は弟に継がせることを規則とした。
子の雕陶莫皋が復株累若鞮単于として即位。
復株累若鞮単于は子である右致盧児王の醯諧屠奴侯を漢に入侍させ、次弟の且麋胥を左賢王とし、三弟の且莫車を左谷蠡王とし、四弟の嚢知牙斯を右賢王とした。また、復株累若鞮単于はレビラト婚によって王昭君を娶り、須卜居次と当于居次の2女を生んだ。

崇神天皇68年/前30年:辛卯

120歳で崩御(『古事記』では168歳)。崇神天皇を持って初代天皇とする説や崇神天皇と神武天皇を同一人物と見る説がある。また、葛城王朝から三輪王朝への王朝交代説もある。

垂仁天皇元年/前29年:壬辰

日本書紀に「元年春正月丁丑朔戊寅、皇太子卽天皇位。冬十月癸卯朔癸丑、葬御間城天皇於山邊道上陵。十一月壬申朔癸酉、尊皇后曰皇太后。是年也、太歲壬辰」とある。
異称を、活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと)という。
『日本書紀』、『古事記』に事跡が見えるが、その史実性には疑いがもたれる。
殉死を廃止した天皇。伊勢神宮を創始したことでも知られる。仮に年代が正しければ、3番目に長生きした天皇である。記紀に拠れば、崇神天皇の子であり、景行天皇や倭媛(やまとひめ)の父であり、景行の子である日本武尊(やまとたけるのみこと)の祖父に当たる。
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イクメイリビコイサチ命は、師木の玉垣宮において、天下を治めた。
この天皇が、サホビコ命の妹、サハヂヒメ命を妻として生んだ御子は、ホムツワケ命である。一柱。
また、タニハノヒコタタスミチノウシ王の娘、ヒバスヒメ命を妻として生んだ御子は、イニシキノイリヒコ命、次にオホタラシヒコオシロワケ命、次にオホナカツヒコ命、次にヤマトヒメ命、次にワカキイリヒコ命である。五柱。
また、そのヒバスヒメ命の妹、ヌバタノイリビメ命を妻として生んだ御子は、ヌタラシワケ命、次にイガタラシヒコ命である。二柱。
また、そのヌバタノイリビメ命の妹、アザミノイリビメ命を妻として生んだ御子は、イコバヤワケ命、次にアザミツヒメ命である。二柱。
また、オホツツキタリネ王の娘、カグヤヒメ命を妻として生んだ御子は、ヲザベ王である。一柱。
また、山代のオホクニノフチの娘、カリハタトベを妻として生んだ御子は、オチワケ王、次にイカタラシヒコ王、次にイトシワケ王である。また、そのオホクニノフチの娘、オトカリハタトベを妻として生んだ御子は、イハツクワケ王、次にイハツクビメ命、またの名はフタヂノイリビメ命である。二柱。
全てこの天皇の御子たちは十六王である。男王十三、女王三である。
そして、オホタラシヒコオシロワケ命が、天下を治めることになった。身の丈は一丈二寸、脛の長さは四尺一寸である。
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次に、イニシキノイリヒコ命は、血沼池を作り、また狭山池を作り、また日下の高津池を作った。
また、鳥取の河上宮において、太刀一千本を作らせ、これを石上神宮に奉納して、そのままその宮において河上部を定めた。次に、オホナカツヒコ命は、山辺之別、三枝之別、稲木之別、阿太之別、尾張の三野別、吉備の石无別、許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟礼之別等の祖である。
次に、ヤマトヒメ命は、伊勢大神宮を斎き祭った。次に、イコバヤワケ命は、沙本の穴太部之別の祖である。次に、アザミツヒメ命は、イナセビコ王に嫁いだ。
次に、オチワケ王は、小月之山君、三川之衣君の祖である。次に、イカタラシヒコ王は、春日山君、高志池君、春日部君の祖である。
次に、イトシワケ王は、子が無かったので、子代として伊登志部を定めた。次に、イハツクワケ王は、羽咋君、三尾君の祖である。次に、フタヂノイリビメ命は、ヤマトタケル命の妃となった。
イニシキノイリヒコ命が、太刀一千本を作らせて石上神宮に奉納したという伝承は、日本書紀にも見られるものであり、そこでは、奉納した後にその神宝を管理したと記されている。
石上神宮が霊剣フツノミタマを御神体とすることは、神武天皇の段において記されていたが、これは石上神宮が、奈良時代から平安時代にかけて、朝廷の武器庫としての様相を呈していたことを示すものとされる。
ヤマトヒメ命が伊勢神宮を斎き祭ったというのは、崇神天皇の系譜において、トヨスキイリヒメ命が伊勢神宮を斎き祭ったとするのと同様に、斎宮になったとするものである。
日本書紀では、ヤマトヒメ命は、天照大御神の神霊を奉じて、その鎮め祭るところを求めて、大和の宇陀、近江、美濃を経て伊勢国に至ったと記されているが、伊勢神宮が皇室と関係の深い神として祭られるようになったのは六世紀頃からとされ、また皇室の氏神を祭る神社となったのは、壬申の乱以後であるとも推定されていることから、こうした記事は、かなり後の時代において考えられ付加されたものであると考えられている。
ローマ/
ローマに凱旋したオクタウィアヌスは元老院のプリンケプスとなった。
プリンケプスとは、元老院内での第一人者を表す称号であり、かつてはクィントゥス・ファビウス・マクシムスやスキピオ・アフリカヌスがそうであった。
帝政下では全てのローマ市民の中で第1の地位を占める「元首=皇帝」を指すようになった。
こうしてオクタウィアヌスは、カエサルを暗殺した共和主義者を滅ぼし、アントニウスらとの権力闘争を勝ち抜いて、彼の権力を妨げる勢力を全て排除することに成功した。
時間はかかったものの、オクタウィアヌスは地中海世界を統一し、カエサルの後継者に相応しいことを実力で証明した。
同時にそれは、殺害されることによる事業の中断を回避しつつ、カエサルの意図に沿って帝政を構築するという新たな長い戦いの始まりでもあり、下記のようにオクタウィアヌスはこの戦いでも勝利を収める。
軍事的な実績があり親戚でもあったアントニウスや、実子とされるカエサリオンではなく、18歳の無名の若者であった彼を後継者に指名したカエサルの人選は正に特筆ものであった。

垂仁天皇2年/前28年:癸巳

彦坐王(ひこいますおう)の娘である狭穂姫命が、垂仁天皇の皇后として立后される。
倭比売命、伊賀国敢都美恵宮(あへとみゑのみや)に遷り、二年間奉斎。
匈奴/
1月、復株累若鞮単于は右皋林王の伊邪莫演らを漢に遣わして奉献させた。

垂仁天皇3年/前27年:甲午

新羅の王子である天日槍が来日。神宝を持ち込んだ?

ここで言う新羅は、天武天皇代の名称が宛てがわれている。おそらくは大加羅國が正しい。また、垂仁天皇が田道間守を派遣したのは常世国であり、神功皇后の神託にてようやく新羅の国名が示されている事を整理すると、ここでの天日槍の立場は「常世国からの使者』という解釈となり、垂仁天皇に「非時香菓」の事を教えたのも天日槍という可能性がある。

1月13日、突如オクタウィアヌスは元老院で、全特権を返上し共和制への復帰を宣言する演説を行った。
元老院は驚喜したが、実際にはこのとき放棄した特権とは三頭政治権などの内戦時の非常大権であった。
これらはすでに有名無実化しているものばかりであり、首都ローマおよびイタリア、つまり本国を直接支配する執政官職は放棄しなかった。
しかしそれに気付く者もなく驚喜する元老院はまた、平和が回復するまで属州の防衛も依頼する。
これに対しオクタウィアヌスは比較的安全な地域と軍団駐屯の必要のある国境地域とに分け、前者を元老院が総督を選出できる元老院属州、後者を軍団総司令官であるオクタウィアヌス自身が総督兼軍団指揮官の任命権を持つ皇帝属州とする逆提案で返す。
厄介な地域はオクタウィアヌスが引き受けてくれる分、公職キャリアの終着点とも言える属州総督を大過なくこなせるということで元老院は更に驚喜した。
そしてその骨が折れる軍団指揮と属州統治を行うためにプロコンスル命令権(インペリウム・プロコンスラレ)を元老院から取り付けて、正式な法的根拠とした。
この結果、ローマ全軍の一元管理が可能となり、オクタウィアヌスは名実共に「インペラトル」となった。
共和制復帰宣言からわずか3日後の1月16日、かつてユリウス・カエサルの副官であったルキウス・ムナティウス・プランクスが、オクタウィアヌスに「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を贈ることを提案し、元老院は満場一致で国の全権を掌握するよう懇請した。
オクタウィアヌスは数度に渡り辞退した上でこれを承諾し、この日以降正式にインペラトル・カエサル・アウグストゥス(Imperator Caesar Augustus)と名乗るようになった。
慎重なアウグストゥスことオクタウィアヌスは、すでに政敵がいないにもかかわらず、一度権力を返還し、元老院によって再び譲渡されるという形式をとったのである。
これにより共和制は、元老院議員達には気付かれないうちに(オクタウィアヌスが巧妙に偽装しつつ)終焉し、ローマは帝政へと移行した。
初代ローマ皇帝アウグストゥスの誕生である。なお、アウグストゥスに始まる帝政ローマの前期の政治体制は、後期帝政(ドミナートゥス)と区別して「元首政」と呼ばれている。
アウグストゥスの創始した帝政(元首政)はカエサルのような非常大権の獲得といったイレギュラーなものではなく、あくまでも従来から存在するレギュラーな公職、つまり執政官職とプロコンスル職を兼任するといったものであった。
すなわち臨時職として位置づけられすでに廃止されていた独裁官の官職を復活させるような直接的な事はせず、また共和制の枠を超える新たな地位を創設することも行わなかったのである。
アウグストゥス自身、「私は権威において万人に勝ろうと、権力の点では同僚であった政務官よりすぐれた何かを持つことはない」(『神君アウグストゥスの業績録』34)と述べている。
しかし、この執政官職やプロコンスル職の兼任こそがローマ帝国全土を支配する政治的・軍事的根拠となり、あわせて「アウグストゥス」の尊称授与といった権威が備わったため、この紀元前27年の取り決めこそアウグストゥスにとってローマ皇帝権力が確立する「第一段階」となったのである。
このようなことから、紀元前27年にアウグストゥスが初代ローマ皇帝に就任したと後世いわれるようになったのである。
また、元老院と同じ立法権を持った元首顧問会(実質上の内閣)を作り、その中に元老院議員を多く加えたほか、途中からは執政官職の独占をやめるなど元老院を重視する(少なくともそのように見せかけた)政策も多く立案し実行に移した。
しかし表面上はともかく実質的には、アウグストゥスは唯一のローマの統治者であり続けた。
そして彼の後継者達もアウグストゥスの称号を名乗り続ける事により、帝政は既成事実化していく。
アウグストゥスは、インペラトルやカエサル、下記の護民官職権などと共にローマ皇帝を示す称号の一つになっていった。
初代ローマ皇帝アウグストゥスは、紀元前27年秋から紀元前24年にかけて西方の再編に着手する。『業績録』によれば、最初の国勢調査をこの年に行った。

当時のローマは、すでに中国諸国とも交易がおこなわれていた。
また、中国の秦国での中華思想同様に、ローマこそが世界の中心であり、ローマ市民こそが世界で最も尊い人種として考えていた。
そのため、ローマを中心として世界を3つの属州(ヨーロッパ/アジア/アフリカ)として定義し、それぞれに総督を配置する事で世界を統率しているものとして捉えていたらしい。
匈奴/
復株累若鞮単于が入朝請願の上書を行う。

垂仁天皇4年/前26年:乙未

狹穗彦王の謀反の計画を企てる。
倭姫命世記:倭比売命、淡海国甲賀の日雲宮に遷り、四年間奉斎。
この時、淡海国造は、地口・御田を進った。日雲宮の場所は、現在の滋賀県信楽町にあったとされ、後世に日雲神社が創建される。

垂仁天皇5年/前25年:丙申

狭穂彦王が妹の狭穂姫命に天皇暗殺を試みさせるが、狭穂姫命は枕元の垂仁天皇を殺害する事ができず失敗する。
狭穂姫命は事の次第を垂仁天皇に述べて、兄の狭穂彦王の元へ逃れた。
この時、狭穂姫命にはすでに垂仁天皇の子息を身ごもっており、狭穂姫命は稲城で子(誉津別命)を出産された。
垂仁天皇は狭穂姫命を深く愛でていた事と、狭穂姫命も己が子を巻き込んだ事を忍びなく思い、垂仁天皇に誉津別命を引き取ってもらう事を約束させた。
((日本書紀では反乱以前にすでに生まれていたと記載があり、狭穂彦王の元へ連れ去った。)
10月、豊城入彦命の子である八綱田(やつなた)が狭穂彦王の反乱の際に将軍に任じらる。
狭穂彦王の築いた稲城の攻撃を命じられた。八綱田は稲城に火をかけて焼き払い、狭穂彦王を自殺に追い込んだ。
この時、垂仁天皇は子(誉津別命)を連れて現れた狭穂姫命を火中から奪還しようとするが、誉津別命を引き取る事ができたものの、掴んだ袖もすぐに破け、狭穂姫命を保護する事は叶わなかった。
八綱田は反乱の鎮圧に成功し、その功から「倭日向武日向彦八綱田」の号が授けられた。
垂仁天皇はこの事件にて、誉津別命を無事に引き取る事ができ、たいそう愛でたとの事。
しかし誉津別命は七歳となるまで、言葉を発する事ができなかった。
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稲城(いなぎ)とは、現在の東京都多摩地域南部にある稲城市の事。
前漢/元帝の次男である劉康と丁姫の間に、劉欣(後の哀帝)が生まれる。
匈奴/
復株累若鞮単于が漢に入朝。漢は錦繍繒帛2万匹、絮2万斤を賜った。

垂仁天皇6年/前24年:丁酉

倭姫命世記:伊賀国敢都美恵宮に遷り、二年間奉斎。

垂仁天皇7年/前23年:戊戌

御前仕合が執り行われる。(日本で最古に記録される御前仕合)
これは、垂仁天皇による日本の諸国の隷属維持のための政策のひとつであると思われる。表向きは諸国の国造から天下一と思われる力士(武人)を推薦させ、天下一を競わせる興業としつつ、実際には武力を大和朝廷に集め、士官させる事で朝廷の兵力強化を図りつつ諸国の武力を削いで隷属強化を狙ったものと考えられる。
第13代出雲國造/襲髄命(かねすねのみこと)が、大和國に出向する。
襲髄命と、当麻の地を治めていた当麻蹶速(たいまのけはや)と力比べを行う。結果として、襲髄命が当麻蹶速の腰骨を蹴り折って勝利した。この時の決まり手が四股の起源として伝えられる。
垂仁天皇は、襲髄命に当麻の地(河内国。石津神社の伝承から、当時の住居は現在の堺区)を与え、襲髄命は以後に天皇に仕えた。
西暦3年において、野見宿禰の称号を天皇より賜る。
現櫻井市にも出雲村があるため、襲髄命が垂仁天皇に仕えた後に出雲村を造ったのではないかと思われる。出雲国では襲髄命が野見宿禰となった事が知らされるので、出雲国の出身説、奈良県出雲村の出身説はどちらも正しい事になる。
後に襲髄命が野見宿禰を賜り名乗る事となった時、襲髄命の縁者および襲髄命に仕えていた者たちも、土師臣(はじのおみ)の役職を賜る。土師(はじ)氏→菅原氏→五条氏(※平安時代において相撲司家となる)
順当に行けば、次代の出雲國造は、襲髄命の子である阿陀勝(若葉足尼)が継承するが、その記録はない。

初代ローマ皇帝アウグストゥス、ローマに帰還。
連続して就任していた執政官を辞任する代わりに、1年限りの護民官職権取得という「ささやかな願い」を了承される。
これにより、身体の不可侵性(それを持ちつつも暗殺されたカエサルを鑑み、備えは決して怠らなかった)と法案に対する拒否権等は彼のみが保有する状態となるが、「共和制の象徴たる執政官席が自分たちのもとに帰ってきた」ことに狂喜する元老院はそこまで考えが及ばない。
そしてこの議決には「異議がない限り、アウグストゥスの護民官職権は自動的に更新されうる」というさりげなくも重要な付帯条項があった。
アウグストゥスに異議を唱えられる者などいようはずもなく、アウグストゥスは終生この職権を保持した。
さらに、プロコンスル命令権が上級プロコンスル命令権(インペリウム・プロコンスラレ・マイウス)に強化され、元老院属州においても権限施行が可能となった。
これによって議員達に気付かれることもなく「皇帝」の地位を完全に確立した。これが皇帝権力確立の「第二段階」である。

垂仁天皇8年/前22年:己亥

倭姫命世記:倭比売命、淡海国坂田宮に遷幸し、二年間奉斎。
この時、坂田君等は、地口・御田を進った。坂田宮の場所は、現在の滋賀県米原市宇賀野にあったとされ、後世に坂田神明宮が創建される。
初代ローマ皇帝アウグストゥス、東方の再編に着手。

垂仁天皇10年/前20年:辛丑

倭姫命世記:倭比売命、美濃国伊久良河宮に遷幸し、四年間奉斎。
次に、尾張国中嶋宮に遷座し、倭姫命は国寿きされた。この時、美濃国造等は、舎人 市主、地口・御田を進り、御船一隻を進った。
同じく美濃県主は、角鏑を作り、御船二隻を進るに、「捧ぐ船は天の曾己立、抱く船は、天の御都張」と申上げて進った。
また、采女忍比売、また地口・御田を進った。忍比売の子がうけ継いで天の平瓮八十枚を作って進った。
匈奴/
復株累若鞮単于が死去。
規則により弟の左賢王且麋胥が立ち、捜諧若鞮単于となる。
捜諧若鞮単于は子の左祝都韓王である朐留斯侯を漢に遣わして入侍させ、弟の且莫車を左賢王とした。

垂仁天皇11年/前19年:壬寅

初代ローマ皇帝アウグストゥス、帰還し執政官命令権(インペリウム・コンスラレ)を得る。
ローマの詩人/ウェルギリウス死去。

垂仁天皇12年/前18年:癸卯

初代ローマ皇帝アウグストゥス、ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法、ユリウス正式婚姻法を制定し秩序の安定化と道徳の確立を試みる。

垂仁天皇13年/前17年:甲辰

地球上空にニビルを観測する事が出来た言われている。

垂仁天皇14年/前16年:乙巳

倭姫命世記:倭比売命、伊勢国桑名野代宮に遷幸して、四年間奉斎。
この時、国造大若子命〔一名大幡主命〕が現はれ参上して御共に仕へ奉ったので、国内の風俗を奏上させた。
国造建日方命が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと「神風の伊勢国」と申上げ、舎人弟 伊尓方命、また地口・神田・神戸を進った。若子命は、舎人弟 乙若子命を進った。
次に、川俣県造の祖の大比古命が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと「味酒鈴鹿国、忍山」と申上げた。
そして神宮を造り奉って幸行せしめた。また神田・神戸を進った。
次に、阿野県造の祖の真桑枝大命に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「草蔭阿野国」と申上げて、神田・神戸を進った。
次に、市師(一志)県造の祖の建呰古命に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「害行阿佐賀国」と申上げて、神戸・神田を進った。
野代宮とは、三重県桑名市多度町下野代にある野志理神社の事。
前漢/王莽が、新都侯に封ぜられる。

垂仁天皇18年/前12年:己酉

大和/大足彦忍代別尊(景行天皇)が生まれる。
倭姫命世記:倭比売命、阿佐加の藤方片樋宮に遷坐し、四年間奉斎。
この時、阿佐加の嶺に坐していつ速ふる神は、百人往く人を五十人取り殺し、四十人往く人を二十人取り殺した。
かく、いつ速ふる時に、倭比売命は、朝廷に大若子を進上して、その神の事を奏上すると、(天皇は)「種々の大手津物を彼の神に進り、柔はししづめ平げ奉れ」と詔して、遣はし下された。
そこで、阿佐加の山嶺に社を作り定めて、その神を柔はししづめ上げ奉り、労ぎ祀った。神は「うれし」と詔ったので、そこを名づけて「宇礼志」といふ。
その地を渡り坐す時に、阿佐加の加多なる多気連等の祖、宇加乃日子の子、吉志比女、次に吉彦の二人が現はれ参上したので、「汝らがあさる物は何そ」と問へば、「皇太神の御贄のはやし奉り上げむと、きさ(赤貝)をあさる」と申上げた。「白すこと恐し」と詔して、そのきさを太神の御贄に進らせて、佐々牟の木枝を割き取りて、生燧きに うけ燧きらせると、その火燧り出でて、采女忍比売が作った天の平瓮八十枚を、伊波比戸に仕へ奉った。吉志比女は、地口・御田・麻園を進った。
一書に曰く、天照太神、美濃国より廻り、安濃藤方片樋宮に到りて座す。
時に安佐賀山に荒神有り、百往く人は五十人亡し、四十往ひ人は二十人亡す。
茲に因り、倭姫命、度会郡宇遅村五十鈴川上の宮に入坐さず、藤方片樋宮に奉斎す。時に安佐賀荒悪神の為行を、倭姫命は、中臣大鹿嶋命・伊勢大若子命・忌部玉櫛命を遣して天皇に奏聞し、天皇詔す。
「其の国は、大若子命の先祖天日別命の平げし山なり。大若子命、其の神を祭り平げ、倭姫命を五十鈴宮に入り奉らしめよ。即ち種々の幣を賜ひて大若子命を返遣して其の神を祭らしむ。已に保く平げ、即ち社を安佐駕に定め、以ちて祭る。而後、倭姫命即ち入坐すこと得。但し其の渡物は敢へて返取らず。」
初代ローマ皇帝アウグストゥスの腹心アグリッパが死去。
プブリウス・スルピキウス・クィリニウスが、皇帝アウグストゥスの命で、ローマ市のコンスルに就任する。
匈奴/
捜諧若鞮単于が明年に入朝するという手続きをしたが、この年に病死。
そこで弟の左賢王且莫車が立ち、車牙若鞮単于として即位。
車牙若鞮単于は子の右於駼仇撣王である烏夷当を漢に遣わして入侍させ、弟の嚢知牙斯を左賢王に任命した。

垂仁天皇19年/前11年:アスス暦717年:庚戌

ローマ市のコンスルであるプブリウス・スルピキウス・クィリニウスが、ガラテヤの南境の山地部族ホモナデンセス家との戦いにてローマ軍を指揮して勝利を収め、凱旋将軍顕章を授かる。

垂仁天皇20年/前10年:辛亥

ローマ/ローマ帝国の軍人にして政治家大ドルススと、ユリウス・クラウディア王朝の血統である小アントニアとの間に、ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルススが生まれる。後の第代目ローマ皇帝となる。

垂仁天皇21年/前9年:壬子

ローマ帝国/ サトゥルニウスがシリアの提督に就任する。紀元6年までシリアでの人口調査の任務で住民登録をおこなう。ルカの複音書では、クレニオ(プブリウス・スルピキウス・クィリニウス)となっているが、記録と矛盾があると指摘されている。

垂仁天皇22年/前8年:癸丑

倭姫命世記:倭比売命、飯野の高宮に遷り、四年間奉斎。
この時、飯高県造の祖の乙加豆知命に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「いすひ 飯高国」と申上げて、神田・神戸を進った。倭姫命は「飯高しと白すこと貴し」と悦ばれた。
次に、佐奈(佐那)県造の祖の弥志呂宿祢命に、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「こもりく 志多備の国、まくさむ 毛佐向国(草向ふ国)」と申上げて、神田・神戸を進った。
また大若子命に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「百張蘇我の国、五百枝刺竹田の国」と申上げた。その処に(倭姫の)御櫛が落ちたので、その地を櫛田と名づけ、櫛田社を定められた。
ここから御船に乗って幸行し、河後の江に到ると、魚が自然と寄り集って、御船に参ゐ乗った。倭姫命は、それを見て悦ばれ、魚見社を定められた。
さらに幸行すると、御饗を奉れる神が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「白浜 真名胡国」と申上げた。その所に兵名胡神社を定められた。
また乙若子命は、麻神・草霊等を倭姫命に進って、祓へとした。陪従の人に及ぶまで弓剱を留めて、兵と共に飯野高丘に入り座して、遂に五十鈴宮に向ふを得た。爾来、天皇の太子、斎宮、駅使・国司人等に至るまで、川辺で祓へをし、鈴声を止む。その儀の所縁である。
さらに幸行して、佐々牟江に御船を泊め、そこに佐々牟江宮を造って遷座し、大若子命は「白鳥の真野国」と国寿き申上げた。そこに佐々牟江社を定められた。
そこから幸行する間に、風浪は無く、海潮は大淀に淀んで御船が幸行できたので、倭姫命は、悦ばれて、その浜に大与度社を定められた。
〔天照太神、倭姫命に教へてのたまふに「これ、神風の伊勢国は、即ち常世の浪の重浪(しきなみ)帰す国なり、傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり、この国に居らむと欲ふ」と。太神の教への随に、宮祠を伊勢国に立て、斎宮を五十鈴川上に興された。これを礒宮といふ。天照太神の始めて天より降りし処なり〕。
初代ローマ皇帝アウグストゥスの腹心マエケナスが死去。
初代ローマ皇帝アウグストゥスが、二度目の国勢調査をおこなう。(『業績録』)
前漢/
傅氏(元帝の昭儀)と生母の丁氏が孝成皇后に賄賂を贈り、劉欣が18歳の時に伯父・成帝の皇太子となる。
匈奴/
車牙若鞮単于が死去。左賢王の嚢知牙斯が立って烏珠留若鞮単于として即位。
烏珠留若鞮単于は弟の楽を左賢王に任命し、第5閼氏の子の輿を右賢王に任命した。また、子の右股奴王である烏鞮牙斯を漢に遣わして入侍させた。漢は中郎将の夏侯藩・副校尉の韓容を匈奴に派遣した。

前7-4年

ナザレのイエス(?)生誕。と言われている。

垂仁天皇23年/前7年:甲寅

垂仁天皇は、誉津別命が18歳となっても未だに言葉を発する事ができない事に悩んでいた。
【日本書紀】
ある時、誉津別命は鵠(くぐり:現在の白鳥の事)を見て「あれば何?」と初めて言葉を発した。垂仁天皇はたいそう喜び、鵠を捕まえる事を命じた。
湯河板挙(鳥取造の祖にあたる人物)が出雲〜但馬(※)のいずれかで、で捕まえて献上した。誉津別命が鵠を遊び相手にすると、言葉を発するようになった。垂仁天皇はここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けたとある。
※当時の出雲は、西は現在の出雲市、東は現在の鳥取県東部までを含めた広大な国であり、但馬(現在の兵庫県)とは隣接していた。鵠が捕らえられたのは、現在の鳥取市周辺が有力。
【古事記】
ある時、垂仁天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、市師池・軽池に浮かべて皇子とともに戯れた。
その時、誉津別命は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、垂仁天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。
鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛んだ末に捕らえられた。しかし誉津別命は鵠を得てもまだ物言わなかった。
ある晩、垂仁天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。
そこで垂仁天皇は、太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。
垂仁天皇は誉津別命を曙立王・菟上王とともに出雲(現:島根県東部)に遣わし、大神を拝させた。
その帰り、肥河(斐伊川)のあたりで岐比佐都美(きひさつみ)が現れ、川下に青葉を山にした飾り物をつくり食事を献上した。その青葉の山をみて誉津別命ははじめて言葉を発し、しゃべれるようになったという。
その帰り、誉津別命は肥長比売と婚姻したが、垣間見ると肥長比売が蛇体であったため、畏れて逃げた。
すると肥長比売は海原を照らしながら追いかけてきたので、誉津別命はますます畏れて、船を山に引き上げて大和に逃げ帰った。
垂仁天皇は誉津別命が話せるようになったことを知って喜び、菟上王を出雲に返して大神の宮を造らせた。
また鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を設けたという。
垂仁天皇は、のちに岐比佐都美(来日田維穂命)を第14代出雲國造に任命している。阿陀勝が岐比佐都美と同一人物であるかは不明。記録上は、野見宿禰から火継式を経ている事は間違いない。
また、日本書紀にある湯河板挙
【釈日本紀】
皇后の夢に多具の国の神・阿麻乃彌加都比売が現れて、「自分にはまだ祝(はふり)がいないので、自分を祭祀してくれる者を与えてくれたなら、皇子は話せるようになり、寿命も延びるであろう」と言った。
そこで垂仁天皇は日置部らの祖・建岡君にこの神がどこにいるかを占わせた。
建岡君は美濃国の花鹿山に行き、榊を折って鬘(髪飾り)を作り、ウケイして「この鬘の落ちたところに神はいらっしゃるだろう」と言った。
すると鬘は空を飛んで尾張国丹羽郡に落ちたので、建岡君は同地に社を建て、また同地も鬘が訛って阿豆良(あづら)の里と呼ばれるようになったとある。

多具の国とは、出雲国の多久川流域とされ、また阿麻乃彌加都比売は『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷にみえる天ミカ津日女(もしくは楯縫郡神名樋山の項の天御梶日女)と同神とされる。
第14代出雲國造の来日田維穂命から、第15代出雲國造の三島足奴命、そして西暦310年頃に出てくる第16代出雲國造の意宇足奴(意宇宿禰)とは大きく、年月を隔てている。
これは、阿陀勝の孫にあたると推測される出雲建(いずもたける)が大和朝廷に反旗を翻し、西暦97年において日本武命によって誅殺されている事から、後に出てくる倭国大乱とも関係性が伺える。
前漢/成帝が死去。
突然の死であったため、死の間際までそばにいた趙合徳が原因との流言が生まれ、孝元皇太后が詳細を調査しようとしたが、趙合徳は自殺してしまう。皇后であった趙飛燕は、哀帝が即位すると皇太后となるが、成帝の皇子を殺害していたことが発覚し、その権力は表面的なものとなった。
孝成皇太后の後楯で哀帝(第12代皇帝)が即位。
王莽が、哀帝の祖母の傅太后・母の丁姫との対立し、大司馬を罷免される。
匈奴/
烏珠留若鞮単于の子である烏鞮牙斯が漢朝にて死去。烏珠留若鞮単于はふたたび子の左於駼仇撣王である稽留昆を入侍させた。

垂仁天皇25年/前5年:丙辰

日本書紀:三月丁亥朔丙申、天照大神を五十鈴川(=現在の伊勢神宮)へ移す。前文に「天照大神の祀を豊耜入姬命(=崇神天皇の娘)から倭姬命(垂仁天皇と皇后の娘)に託す。」とあるが、これば前振り。
倭姫命世記:倭比売命、春三月、飯野高宮より遷幸して 伊蘇宮に坐す。
この時、大若子命に「汝がこの国の名は何そ」と問ふと、「百船度会国、玉綴伊蘇国」と申上げて、御塩浜・林を定めて奉った。この宮に坐して供奉り、御水の在所は御井となづけた。
倭姫命は、「南の山は未だ見ざれど、吉き宮処の有るべく見ゆ」と詔して、宮処を求めに大若子命を遣した。倭姫命は、皇太神を奉戴して小船に乗り、その船に雑々の神財・忌楯桙を留め置き、小河へと幸行された。御船は後れて下がり、駅使等が「御船うくる」と申上げたので、そこを宇久留となづけた。
そこから幸行すると、速河彦が現はれ詣でたので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「畔広の狭田国」と申上げて、佐佐上の神田を進った。その地に速河狭田社を定められた。
さらに幸行すると、高水神が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「岳高田深坂手国」と申上げ、田上の御田を進った。そこに坂手社を定められた。
さらに幸行すると、河が尽き、その河の水は寒かったので、寒河となづけた。そこに御船を留め、御船神社を定められた。そこから幸行した時、御笠服を給ったので、そこを加佐伎といふ。
大川の瀬を渡らむとすると、鹿の完が流れ寄ったので、「是、悪し」と詔して渡らず、その瀬を相鹿瀬(逢鹿瀬)となづけた。
そこから河上を指して幸行すると、砂流れる速き瀬があった。真奈胡神が現はれ参上して、御船をお渡しした。その瀬を真奈胡御瀬となづけて御瀬社を定められた。
そこから幸行して美き地に到った。真奈胡神に、「国の名は何そ」と問ふと、「大河の滝原の国」と申上げた。その地に、宇大の大宇祢奈に荒草を苅り掃ひさせ、宮を造って坐さしめたが、この地は、皇太神の欲ほし給ふ地には有らずと悟った。
また大河の南へ宮処を求めて幸行するに、美き野に到って、宮処求め侘びて、そこを和比野となづけた。
そこから幸行すると、久求都彦が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「久求の小野」と申上げた。
倭姫命は詔して、この御宮処を久求小野(くくのをの)となづけ、久求社を定められた。
久求都彦が、「吉き大宮処有り」と申上げたので、そこに幸行すると、園作神が現はれ参上して、御園地を進った、それを悦ばれて園相社を定められた。
さらに幸行すると、美し小野が有った。
倭姫命はそれを愛で給ひ、そこを目星野となづけた。
その森に円らなる小山があり、都不良となづけた。そこから幸行すると、沢道野があり、沢這小野となづけた。
その時、大若子命が、河から御船を率ゐて、御迎へに参上した。
倭姫命は大く悦ばれ、「吉き宮処あるや」と問ふと、大若子命は「さこくしろ宇遅の五十鈴の河上に、吉き御宮処あり」と申上げた。
倭姫命が悦ばれて問ふに、「此の国の名は何そ」と問ふと、「御船向田国(みふねたむけのくに)」と申上げた。
御船に乗って幸行し、その忌楯桙種々神宝物を留め置いた。所の名は忌楯小野となづけた。
その地から幸行すると小浜があり、鷲取る老翁があった。
倭姫命が、「御水(おもゆ)飲らん」と詔して、「何処に吉き水あらむ」と問ふと、老翁は、寒なる御水を以て御饗を奉った。
それを讃めて水門に水饗神社を定め、浜の名を鷲取小浜となづけた。
かくして二見浜に御船を泊め、大子命に「国の名は何そ」と問ふと、「速雨 二見国」と申上げた。
永くその浜に御船を留めて坐す時、佐見都日女が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、詔を聞かず何も答へずに、堅塩を以て多き御饗を奉った。
倭姫命は慈しんで堅多社を定められた。乙若子命はその浜に御塩と御塩山を定め奉った。
そこから幸行して五十鈴河の後の江に入ると、佐美川日子が現はれ参上したので、「この河の名は何そ」と問ふと、「五十鈴河後」と申上げた。その処に江社を定められた。
また荒崎姫が現はれ参上したので、国の名を問ふと、「皇太神の御前の荒崎」と申上げた。
「恐し」と詔して、神前社を定められた。
この江の上に幸行して御船を泊め、所の名を御津浦となづけた。
更に上に幸行すると、小嶋があり、その嶋に坐して山末や河内を見廻らすと、大屋門の如きところの前に平地があったので、そこに上って、所の名を大屋門となづけた。
 さらに幸行して、神淵河原に坐すと、苗草を戴く耆女が現はれ参上したので、「汝は何する耆女そ」と問ふと、「我は苗草を取る女、名は宇遅都日女(うぢつひめ)」と申上げた。
また、「などか、かく為るそ」と問ふと、耆女は「この国は鹿乃見哉毛為」と申上げたので、そこを鹿乃見となづけた。「何そこれ」と問ふと「止可売」と申上げたので、そこを止鹿乃淵となづけた。
そこから矢田宮に幸行した。次に家田の田上の宮に遷幸し、その宮に坐す時、度会大幡主命、皇太神の朝御饌・夕御饌処の御田を定め奉った。宇遅田々上にある抜穂田のことである。
そこから幸行し、奈尾之根宮(なをしねのみや)なをしねのみやに座す時、出雲神の子出雲建子命(いづもたけこのみこと)、一名伊勢都彦神(いせつひこのかみ)、一名櫛玉命(くしたまのみこと)並びにその子大歳神、桜大刀命(さくらとしのみこと)、山神・大山罪命、朝熊水神(あさくまのみなとのかみ)たちが、五十鈴川の後江で、御饗を奉った。
その時、猿田彦神の裔、宇治土公の祖の大田命が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「さこくしろ宇遅の国」と申し上げ、御止代の神田を進った。
倭姫命が「吉き宮処あるや」と問ふと、「さこくしろ宇遅の五十鈴の河上は、大日本の国の中にも殊勝なる霊地あるなり。
その中に、翁三十八万歳の間にも未だ視知らざる霊物あり。照耀くこと日月の如くなり。惟ふに、小縁の物に在らじ。定めて主の出現御坐さむとする時に、『献るべし』と思ひてここに敬ひ祭り申す。」
これにより彼の処に往き到って、御覧じれば、昔、大神が誓願されて、豊葦原瑞穂国の内の伊勢のかさはや(風早)の国に美し宮処ありと見定められ、天上から投げ降ろされた天の逆太刀・逆桙・金鈴等が、そこにあったので、甚く懐に喜ばれて、言上げされた。
送駅使が朝廷に還り上り、倭姫命の夢の状を返事申上げると、天皇はこれを聞こし食して、大鹿嶋命を祭官に定め、大幡主命を神の国造兼大神主に定められた。
神館を造り立て、物部八十友諸人等を率ゐて、雑雑の神事を取り総べ、天太玉串を捧げて供奉させた。よって斎宮を宇治県の五十鈴川上の大宮の際に興し、倭姫命をして居らしめた。
また八尋機屋を建て、天棚機姫神の孫八千々姫命に大神の御衣を織らしめることは、天上なる儀の如し〔宇治機殿と号す。一名を礒宮〕。
次に、櫛玉命、大年神、大山津見山神、朝熊水神等が饗を奉れる彼処に神社を定められ、神宝〔伊弉諾伊弉冉尊の捧げ持つ白銅鏡二面のこと。日神月神の化れる鏡で、水火二神の霊物となす〕を留め置いた。
前漢/大司馬を罷免された王莽が封国の新都へ追いやられる。
匈奴/
烏孫王の庶子である卑援疐が翕侯(きゅうこう:諸侯)などを率いて匈奴の西界に侵入し、牛などの家畜を盗んで多くの人民を殺した。烏珠留若鞮単于はこれを聞くと、左大当戸の烏夷泠に5千騎を率いさせて烏孫を撃たせ、数百人を殺し、千人あまりと、牛などの家畜を奪い去った。卑援疐はこれに恐れをなし、子の趨逯を匈奴への人質とした。烏珠留若鞮単于はその人質を受けとり、このことを漢に報告した。しかし、漢は中郎将の丁野林・副校尉の公乗音を派遣してその人質を返すよう告げてきた。烏珠留若鞮単于は詔を受けとり、人質を返してやった。

前4年(垂仁天皇26年):丁巳

パレスチナ/イエスキリスト誕生(サナンダの転生)。
伊勢神宮/内宮が創建される。後に、アーク(契約)の聖櫃を奉ったとされる。年代不詳。
倭姫命世記:倭比売命、天照太神を奉遷し、度会の五十鈴の河上に留る。
この年に、倭姫命は、大幡主命、物部八十友諸人たちに詔ふ。
「五十鈴原の荒草・木根を苅り掃ひ、大石・小石を造り平げて、遠山(をちのやま)・近山(こちのやま)の大峡(おほかひ)・小峡(をかひ)の立木を斎部の斎斧で伐り採り、本末は波山祇(はやまつみ)に奉祭り、中間を持出し来て斎鋤で斎柱を立て〔一名天御柱、一名心御柱〕、高天原に千木高知りて、下つ磐根に大宮柱広敷立て、天照太神並びに荒魂宮和魂宮と鎮まり坐し奉る。」
美船神、朝熊水神たちは、御船に乗って、五十鈴の河上に遷幸した。この時、河際で倭姫命の長い御裳の裾の汚れを洗はれた。以来、その河際を御裳須曾河といふ。
采女忍比売に、天の平瓮八十枚を造らせ、天富命孫に、神宝鏡・大刀・小刀・矛楯・弓箭・木綿等を作らせ、神宝・大幣を備へた。
皇太神が倭姫命の夢に現はれ、「我、高天原に坐して、甕戸に押し張り、むかし見て求めし国の宮処は是処なり。鎮り定り給へ」と諭された。
倭姫命は、御送駅使安部武渟河別命、和珥彦国茸命、中臣国摩大鹿嶋命、物部十千根命、大伴武日命、度会大幡主命等に、夢の状を教へ知らせた。
大幡主命は悦び、「神風の伊勢国、百船 度会県(さこくしろ)、宇治の五十鈴の河上に鎮り定まり坐す皇太神」と国寿き申し上げ、終夜ら宴楽舞歌し、日小宮の儀の如く祭った。
倭姫命は、「朝日来向ふ国、夕日来向ふ国、浪音聞えざる国、風音聞えざる国、弓矢柄音聞えざる国、打まきしめる国、敷浪七保国の吉き国、神風の伊勢国の百伝ふ度会県(さくくしろ)の五十鈴宮に鎮り定り給ふ」と、国寿きされた。
倭姫命は、御船に乗り、御膳御贄処を定めた。
嶋(志摩)の国の国崎嶋に幸行し、「朝御饌、夕御饌」と詔して、湯貴潜女ゆきのかづきめ等を定め、還るときに神堺を定めた。
戸嶋、志波崎、佐加太岐嶋を定め、伊波戸いはとに居て、朝御気・夕御気の処を定めた。
倭姫命がここに御船を泊めると、鰭広鰭狭魚、貝つ物、奥つ藻、辺つ藻が寄り来て、海の潮は淡く和み、よって淡海浦となづけた。
伊波戸に居た嶋の名を、戸嶋となづけ、刺す処を柴前(しばさき)となづけた。その以西の海中に七つの嶋があり、以南は潮淡く甘く、その嶋を淡良伎の嶋となづけ、潮の淡く満ち溢れる浦の名を、伊気浦(いきのうら)となづけた。
その処に現はれ参上して、御饗を仕へ奉った神を淡海子神(あはのみこのかみ)となづけて社を定め、朝御饌・夕御饌嶋を定めた。
還り幸行して御船を泊めた処を、津長原つながはらとなづけ、津長社を定められた。
ヨセフ(ダヴィデ王の流れを汲む家系)とマリアが、戸籍登録のために、ガリラヤの町ナザレからユダヤのダヴィデの町ベツレヘムへ赴く。
12月25日、聖書によれば、ユダヤの町ベツレヘム(古代イスラエルダビデの町)でマリアがイエス=キリストを産む。
アウレリウス・アウグスティヌスによれば、13日後に東方より3人のマギ(東方の三博士)が聖母マリアとイエスの元に訪れたと提唱される。
場所については、西方教会では「馬小屋」、正教会やイコン、また外典では「洞窟」と大きく2説に別れる。
12月頃、マタイによる福音書2章16節によれば、数人のマギ(占星術学者)がヘロデ王(ヘロデ=アンティパス)の元に訪れる。ユダヤ人の王がどこに生まれたかという問いに対して、ヘロデ王が祭司長たちや律法学者たちを集めて問い質したところ、預言書にベツレヘムである事が記載されていた事が判明。ヘロデ王はマギたちに場所を知らせ、同時に「王となる者」を見つけたら報告するように命じる。マギたちが先立つ星を頼りに足を進めると、聖母マリアと幼子イエス=キリストの元にたどり着いた。マギたちはイエスに礼拝し、乳香、没薬、黄金を捧げた。そしてヘロデ王には報告はせず、別の道を進んで去った。
イエス=キリストの元に訪れたマギたちを後世では「東方の三博士」と呼ぶ様になる。捧げた贈り物「黄金、乳香、没薬」は、それぞれ「王の象徴、神性の象徴、死と再生の象徴」の意味がある。(※没薬=ミルラの事。当時ではエジプトを中心として埋葬(ミイラ葬)時の防腐剤に用いられていた。現在では、最古の香料としても知られている)
一方で、ヘロデ王はベツレヘムへ赴いたマギたちが違うルートを辿って帰路に着いた事を知ると、「マギたちが訪れたユダヤ人の王」が、自分の地位を脅かす存在として考え、ベツレヘムに在住していた2歳に満たない幼児を全て殺すように命じる。この王命があった直後において、イエスの両親であるヨセフとマリアに神託があり、3名はエジプトに逃れた。この数日後おおよそ12月末頃にベツレヘムにて幼児虐殺(20〜30名が亡くなった)があったものと推測される。

垂仁天皇27年/前3年:戊午

垂仁天皇が、物部十千根大連に勅し、出雲の神宝を調べ、これを手に入れた。
伊雑宮が創建される。
倭姫命世記:秋九月、鳥の鳴声が高く聞えて、昼夜止まず囂ししかったので、倭比売命は「此、異し」と宣して、大幡主命と舎人紀麻良を、使に遣って鳥の鳴く処を見させた。
行って見ると、嶋国の伊雑の方上の葦原の中に稲一基があり、根本は一基で、末は千穂に茂ってゐた。
その稲を白真名鶴が咋へて廻り、つついては鳴き、これを見顕すと、その鳥の鳴声は止んだ。かく返事を申上げた。
倭姫命が宣ふに、「恐し。事問はぬ鳥すら田を作る。皇太神に奉れる物を」と詔して、物忌を始められ、彼の稲を伊佐波登美神をして抜穂に抜かしめて、皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。
その穂を大幡主の女子乙姫に清酒に作らせ、御餞に奉った。
千税を始奉る事、茲に因る也。彼の稲の生ひし地は、千田となづけ、嶋国の伊雑の方上にある。
その処に伊佐波登美の神宮を造り奉り、皇太神の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。彼の鶴真鳥を名づけて大歳神といふ。
同じ処の税を奉る。またその神は、皇太神の坐す朝熊の河後の葦原の中に、石に坐す。彼神を小朝熊山嶺に社を造り、祝奉りて坐す。大歳神と称ふるは是なり。
また明る年秋のころ、真名鶴は、皇太神宮に向かって天翔り、北より来て、日夜止まずに翔り鳴いた。
時は昼の始め。倭姫命は、異しまれて、足速男命を使に見させた。使が行くと、鶴は佐々牟江宮の前の葦原の中に還り行きて鳴いてゐた。
そこへ行って見ると、葦原の中から生へた稲の、本は一基で、末は八百穂に茂り、(鶴は穂を)咋ひ捧げ持って鳴いた。使が見顕すと、鳴声は止み、天翔る事も止めた。かく返事を申上げた。
倭姫命は、歓ばれて詔ふに、「恐し、皇太神入り坐さば、鳥禽相悦び、草木共に相随ひ奉る。稲一本は千穂八百穂に茂れり」と詔して、竹連吉比古等に仰せて、初穂を抜穂に半分抜かしめ、大税に苅らしめ、皇太神の御前に懸け奉った。
抜穂は細税といひ、大苅は太半といひ、御前に懸け奉った。よって、天都告刀に「千税八百税余り」と称へ白して仕奉る。鶴の住処には八握穂社を造り祠った。
また「伊鈴の河の漑水道田には、苗草敷かずして、作り養へ」と詔った。
また「我が朝御饌夕御饌の御田作る家田の堰の水の道の田には、田蛭穢しければ、我田には住まはせじ」と宣った。
【忌詞、祓法】

 また、種々の事を定め給ふ。
 「内の七言」とは、仏を中子といひ、経を染紙といひ、塔を阿良々伎といひ、寺を瓦茸といひ、僧を髪長といひ、尼を女髪長といひ、長斎を片膳といふ。
 「外の七言」とは、死を奈保留といひ、病を夜須美といひ、哭を塩垂といひ、血を阿世といひ、打を撫といひ、完を菌といひ、墓を壌といひ、また優婆塞を角波須といふ。
 また、祓法を定め給ひ、敷蒔、畔放、溝埋、樋放、串刺、生剥、逆剥、屎戸、許々太久の罪をば、天つ罪と告り別けて、生膚断、死膚断、母犯罪、子犯罪、己子犯罪、畜犯罪、白人、古久弥、川入、火焼罪をば、国つ罪と告り分けて、天つ金木を、本打ち切り末切り断ちて、千座の置座に置き足らはして、天つ菅麻は、本苅り断ち末苅り切りて八針に取り刺きて、種々の贖物をば、案上案下に海山の如くに置き足らはして、天つ祝詞の大祝詞事を宣れ、如此く宣らば、天つ神、国つ神は、朝廷を始めて天下四方の国には、罪と云ふ罪は在らじと、清浄に聞し食さむ。掌に其の解除の太詩辞を以ちて、天罪国罪の事を大祓して除け。

 また、年中雑神態、三節祭を定め賜ふ。御贄の嶋に神主等を罷りて、御贄を漁りて、嶋国の国前の潜女が取り奉る玉貫の飽、鵜倉送柄嶋の神戸の進る堅魚等の御贄、国々処々寄せ奉る神戸人民の奉る太神酒、御贄荷前等を、海山の如く置き足らはして、神主部・物忌等、忌み慎みて、聖朝の大御寿を、手長の太寿と、湯津石村の如くに、常磐に堅磐に、天つ告刀の太告言事を以ちて称へ申し、終夜ら宴楽舞詠ひ、歌音の巨く細く大に少なに長く短く、国ほき奉る〔十二詠は別巻に在り、年中行事記に具かなり云云〕。
匈奴/
烏珠留若鞮単于は上書して明年に入朝すると請願。

垂仁天皇28年/前2年:己未

垂仁天皇が、宣託から御神に武器(弓矢、横刀など)を捧げるようになる。
前漢/大司馬を罷免された王莽が、国政復帰の嘆願が多く出された事により、日食を契機に長安に呼び戻される。
前漢/12月、哀帝に寵愛されていた董賢が大司馬に昇進させた。さらに、董賢の妻や妹にまで特権を与えたのみならず、王閎に反対されて取りやめたものの、董賢に禅譲しようとまでも考えていた。
前漢/大月氏(インド)の使者である伊存が前漢の人に「浮屠経」を口伝した(『釈老志』)。中国への仏教伝来説の中でも最古のもの。
ローマ/アウグストゥスがローマ元老院から「国家の父(pater patriae)」の称号を受ける。
プブリウス・スルピキウス・クィリニウスが、アジア州の総督として任命された。
アジア州とは、イスラエルから東側の大陸東部全般を意味しており、アジア州の総督はそれらの国々全域を統括する者として用いられていた。ただし、実際の認識としてはアレキサンダー大王が制圧したインド東部まででしかない。
匈奴/
烏珠留若鞮単于が病にかかり、入朝の延期を請願。

垂仁天皇29年/前1年(西暦0年):アスス暦727年:庚申

天皇の同母弟の倭彦命が死に、多くの人を殉葬する。後に垂仁天皇は、これ以降の殉葬を禁止する。
ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが、紀元525年において、概念上イエスキリストが生まれたのをこの年と提唱した。
1400年頃において、一般化する。
前漢/哀帝が崩御。6月27日、25歳で死去した。嗣子がなかったため、死に臨んで皇帝璽綬を董賢に託したが、太皇太后王氏は詔を発して董賢を罷免し、璽綬も奪った。董賢はその日のうちに自殺する。
王莽は、中山王劉りゅう衎かん(平帝)を擁立して大司馬に返り咲いた。古文経学の大家だった劉歆を始めとした儒学者を多く招き入れて、儒学と瑞祥に基づいた政策を実施する。その一方で民衆の支持を獲得するためには手段を選ばず、次男の王獲を奴僕を殺したことで罪に問い、長男の王宇を謀略を為したことで獄に送って、共に自殺に追い込む。また娘を平帝の皇后に冊立し、宰衡・安漢公となる。
匈奴/
烏珠留若鞮単于が入朝し、衣370襲、錦繍繒帛3万匹、絮3万斤を賜った。

次の年代:
西暦1年〜西暦50年