前の年代:
紀元前1200年〜紀元前1100年

紀元前1100年 〜 紀元前1000年

こぐま座β星/恒星コーラブ(北の星という意味):天帝の星が、北極星として最も近い位置の部分となる(現在のこぐま座α星/ポラリスほどではなく、すこし離れた位置にあった)。紀元前500年頃にその位置から外れる。

前1100年頃

ヒッタイトの衰退に伴いアッシリア帝国が勢力を広げる。馬や戦車、鉄器を使用した。軍隊の維持は現地での掠奪によるため、残虐行為によって恐れられた。 ヒッタイト新王国滅亡。
フェニキアでアルファベットの使用が始まる。 ギリシアの「暗黒時代」と呼ばれている。
中エラム時代から新エラム時代に継承される。
紀元前1100年のネブカドネザル1世の侵攻から、紀元前539年にアケメネス朝の支配下に入るまでの時代であり、研究においては更に3期に細分される。 アッシリアとバビロニアの争いにバビロニアを助ける形でたびたび介入したが、最後はアッシリア王アッシュールバニパルの攻撃を受けてスサを破壊され、大国としてのエラムの歴史は終わりを告げた。 更にその後、アケメネス朝の支配下に入り、以後エラム人による国家が成立することはなくなった。

前1199年

エジプト第19王朝を統治していた、メンミラー・セテプエンラー・アメンメセスが死去。
ウセルケペルウラー・セテプエンラー・セティ2世が継承して、エジプト第19王朝を統治。

前1098年

エジプト第20王朝を統治していた、ケペルマアトラー・ラメセス10世が死去。
メンマアトラー・セテプエンプタハ・ラメセス11世が継承して、エジプト第20王朝を統治。 この時期に木材獲得のためビブロスに派遣されたエジプト人が記録したのが「ウェンアメン旅行記」。

前???年

ヌビア総督パネヘシが謀反の罪によって失脚。
ヘリホルがヌビア総督に就任。

前???年

スメンデス1世が軍司令官となる。独自にタニス市から海岸に至る三角州地帯を勢力下におく。

前1090年頃

こぐま座星間リーグのコカブが北極星となる。
イスラエルを束ねてきた士師オトニエルが亡くなる。

前???年

クシュ(上ヌビア)副総督兼宰相ヘリホルがアメン大司祭に就任。

前1082年頃

アッシリア王ティグラト・ピレセル1世がイシン第2王朝のマルドゥク・ナディン・アヘ王を破り、北部バビロニアを獲得。

前1080年頃

中国/武王の父/文武丁王が死去。
嫡子である帝乙が即位するはずだが、帝乙の子である帝辛(紂王)代の甲骨文占卜では、帝乙の記載がなく、先王を「文武丁」としている。その一方で、周代の資料には帝乙の記載がある。
帝辛が王として即位(紂王)。
殷墟からは帝辛が埋葬される予定だったと思われる空墓が発見されているために、当時としてはいつ亡くなっても不思議ではない年齢で最期を迎えたと推測されていた事から、かなり高齢になってからの即位出会った可能性がある。 後世、司馬遷によって編纂された『太史公書』(史記)内の殷本紀においては、帝辛が暴君として描かれており、武王が帝辛を討ち、周王となった事がのちに英雄譚として伝わっていく。 しかし、殷墟から出土した甲骨文によれば、帝辛は歴代王と同様に祖先祭祀に努めており、前代まで続いていた人身御供を廃止したことが判明している。また、記載にある酒池肉林の行為などは、実際には神を降ろすための儀式であったとする説もある。 この事から、帝辛の行政は必ずしも暴君としての描写は信憑性が薄い。『史記』の記載は、改革によって隆興した周王朝をより良く見せるために、このような描き方をしたのではないか?という説もある。
【紂王の皇后「妲己」の伝説】
帝辛は、有蘇氏を討った際、有蘇氏が帝辛に献上した娘、妲己を寵愛したとある。
帝辛は彼女のいうことなら何でも聞いたという。師涓に新淫の声・北鄙の舞・靡靡の楽を作らせた。賦税を厚くして鹿台に銭をたくわえ、鉅橋に粟を満たし、狗馬・奇物を収めて宮室いっぱいにした。沙丘の苑台を拡張して、野獣蜚鳥をその中に置いた。鬼神をあなどり、沙丘に大勢の者を集めて楽しみ戯れた。酒をそそいで池とし、肉を掛けて林とし(酒池肉林)、男女を裸にして互いに追いかけさせ、長夜の飲をなした。 その後、妲己は周によって攻められた際に武王により殺された。
『列女伝』巻7孽嬖伝 殷紂妲己においては、炮烙の法を見て妲己が笑ったとされている。 比干が「先王の典法をおさめずに、婦人の言を用いていれば、禍のいたる日も近いでしょう」と諫めた。 すると、妲己は「聖人の心臓に七つの穴があると私は聞いております」と答え、比干の心臓を取り出させて観賞した。 紂王が自殺すると、妲己は武王によって首を斬られ、小白旗に掛けられた。「紂を亡ぼす者はこの女なり」と評論された。
『漢書』外戚列伝の顔師古注には、「弁辞をよく好み、姦を究めること盛んにした。その言を帝辛が用いて民を苦しめた」とある。
1271年〜1358年代において、元の歴史講談小説群である『全相平話』の一節「武王伐紂平話」の中で妲己が妖狐伝説と結び付けられ、妲己はキツネのなりかわりとされた。「千字文」の「周が殷の湯を伐った」に対する注で、殷の紂王(紀元前11世紀頃)を誘惑して国を傾けた妲己は九尾狐であると指摘。明代の「封神演義」が妲己を九尾狐の精としているのは、この説をもとにしている。 日本においては、玉藻前伝説と結び付けられ、天竺の華陽夫人、周の褒姒と共に玉藻前の前歴として語られる事となった。
殺生石の伝説として、1358年において「玄翁和尚が殺生石を打ち砕き、そのかけらが全国に飛散したという」結末がある事から、当時の妲己伝説がそのまま日本に取り入れられた可能性がある。

イスラエル/古代ギリシア人(当時はペリシテ人あるいはフィリスティア人)が北部のガリラヤを制圧。 その地域のイスラエル人が奴隷となる。
テーベがエジプト王朝から独立する。アメン大司祭ヘリホルが、ヘムネチェルテピエンアメン・ヘリホルとしてアメン大司祭国家を起こす。

前1077年頃

アッシリア王ティグラト・ピレセル1世が暗殺される。
この後、アッシリアの国力は低迷し、アラム人の侵入にも悩まされる。

前1076年頃

呂尚(太公望)が、周の軍師となる。 後に斉の始祖。

前1074年頃

アメン大司祭国家テーベの王ヘムネチェルテピエンアメン・ヘリホルが死去。
アメン大司祭国家テーベにおいて、ピアンキが王位を継承する。

前1070年

エジプト第20王朝を統治していた、メンマアトラー・セテプエンプタハ・ラメセス11世が死去。
古代エジプト第20王朝が終焉を迎える。第3中間期が始まる。
アメン大司祭国家の王ピアンキが死去。 アメン大司祭国家において、カーケペルラー・セテプエンアメン・パネジェム1世が王位を継承する。
古代エジプト第20王朝の終焉にともない、エジプト分化は、アメン大司祭国家テーベが中心となる。
下エジプトではタニスで第21王朝が、上エジプトではテーベでアメン大司祭国家が成立。

前1069年

エジプト第參中間朝に入る。
下エジプトであるタニスにおいて、スメンデス1世が新王朝をおこす。
スメンデス1世は、ヘジケペルラー・セテプエンラー・スメンデス1世としてエジプト第21王朝の王となる。
タニスでは、セト神(ステク神)やアジア起源のアスタルテ女神(イシュタール)の信仰が篤く、多くの神殿が建設されていた。

前1068年

伝承ではアテナイ王コドロスがドーリア人の侵入で殺害されアテナイで王制が廃絶。
コドロスの息子メドンはアテナイ最初のアルコンに選出される。

前???年

エジプト第21王朝において、ヘジケペルラー・セテプエンラー・スメンデス1世が、ラムセス11世の娘の一人en:Duathathor-Henuttawyを妻に迎える。 この件により、エジプト第21王朝は、エジプト第20王朝の王族の血統を継承。
スメンデス1世は第20王朝時代に王宮がおかれたペル・ラムセス(ラムセス市)を始めとした各地の古い建造物を解体し、その建材を使って新たな首都タニスを大改修して首都に相応しい都市に作り変えた。

前???年

エジプト第21王朝において、ヘジケペルラー・セテプエンラー・スメンデス1世に、娘マートカラーが生まれる。

前1066年

箕氏朝鮮の誕生(伝説)
朝鮮総体の建国伝説については、箕氏(きし)朝鮮についての伝説と檀君(だんくん)伝説の2つがある。箕氏朝鮮についての伝説によると、箕氏は徳のある人物で、はじめ中国殷王朝の最後の王である紂(ちゅう)王に仕え、紂王の無道を諌めてうとんじられたが、殷を滅ぼした周の武王によって朝鮮に封じられ、民の教化に務めたという。この伝説は、司馬遷の「史記」にのみ記述がみられ、朝鮮側には文献上も伝承としても類話がまったくなく、それらしい遺跡もないという。ただし、後の儒者が文献に取り入れたり、李氏朝鮮の時代に「箕氏廟」が平壌につくられたりしている。
【檀君伝説】
 もうひとつの朝鮮建国神話が、檀君(だんくん、タングン)伝説で、それは次のようなものである。
 天帝桓因(かんいん、ホワンイン)の庶子の王子桓雄(かんゆう、ホワンウン)を人間世界を治めるため地上に降ろすことになった。桓因は桓雄に天符印を三個(剣・鏡・鈴あるいは剣・鏡・曲玉の神器)授けて、「天下って人間界を治めてみよ」と命じた。桓雄は三千の供を率い、太白山頂上の神壇樹(栴檀(せんだん))の木の下に天降り、そこを神市と名づけた。桓雄は風伯・雨師・雲師の三神をしたがえて、穀物・命・病・刑・善悪など人間に関する360余事を司り、人間界を治め、教化につとめた。
 天降った樹の下の洞窟に住む一匹の熊と一匹の虎とが桓雄をしたい、人間になって忠義を尽くしたいと願ったので、桓雄はもぐさ一束とにんにく二十本を与え、洞窟にこもって百日間の修行をすることを命じた。ところが気短な虎は修行に耐えられず逃げ出してしまって人間になりそこねた。熊は首尾よく修行を全うして美女と化した。そこで桓雄はその熊女を娶って王子の檀君王倹(おうけん、ワンゴム)を生ませ、王倹は平壌城(またの名王倹城。今の平壌ではないとする説もある。)に都を定め、はじめて朝鮮の国を開いた。その後、都を白岳山の阿斯達(あしたつ、アサダル)に移し、1500年間国を治めたが、周の武王が箕氏を朝鮮に封じたので、蔵唐京に移り、のちに阿斯達にもどって山に隠れ、山神になった。1908歳もの長寿を全うした。
この説話がはじめて文献としてみられるのは、高麗後期の僧一然(1206?1289年)の「三国遺事」であるという。後に、この檀君による建国の年は、西暦紀元前2333年に比定された。

前1065年-

また当時、カナンでは、民の中から王を求める声が強くなった。 ユダヤの預言者であり、士師(民族指導者)であるサムエルは、王政の非を説いたが、聞き入れられなかった。 そこで、神の指示によって王になるべき男を捜す。

前1065年

魯、燕、衛、晋、曹、蔡、呉、陳、宋、斉、楚の諸侯、成立。

前1054年

アメン大司祭国家において、マサハルタが共同王(アメン大司祭)となる。

前1050年

ギリシアで陶器の原幾何学様式がはじまる。
カナンで制海権を得ていたチェケル人の都市ドルが破壊される。
ギリシアで陶器の原幾何学様式がはじまる。(紀元前1020年頃とも)

前1051年

シルロの神殿にあった契約の箱「アーク」が戦いの勝利を願うために陣地に持ちだされた。
エベン・エゼルとアフェクの間で戦が発生。 イスラエルは大祭司エリの息子であるホフニとピネハスが殺され、契約の箱「アーク」が奪われる。 契約の箱が奪われたという知らせは、それを聞いたエリが座から転げ落ちて死んだ。
ピネハスの妻が生まれた子にイカボド(ヘブライ語で「栄光は何処に」)と名付けられた。

前1050年

フィリスティリア人によって奪われた契約の箱「アーク」が、アシュドッドの街に移送された。 契約の箱がダゴンの神殿にあったとき、ダゴンの像が契約の箱の前にうつむきに倒れているのがその日の翌朝に見つけられた。それから、ダゴンの像が元の位置に置かれたあと、さらにその日の翌朝にダゴンの像が再度契約の箱のまえにうつむきに倒れているのが見つけられ、このときは像の頭部及び腕部が破壊されていた。
契約の箱は、それ受け取ったそれぞれの街にいる人々を腫物で苦しめたため、アシュドッドからガザに移送された。
ガザに到着しても、契約の箱を受け入れたガザにおける腫物と非常な騒ぎが発生したため、エクロンに移送された。
エクロンにおいては、恐ろしい騒ぎで死者が発生し、またそれで死なない人に対しても腫物が発生するという疫病にみまわれ、時間が経つにつれて契約の箱による災いの程度が増していった。 それから、ペリシテ人はどのようにこの疫病を終わらせるかということに関して、ペリシテ人の占い師の助言に従う事となった。
ペリシテ人の5人の支配者を意味する5つの金の腫物と5つの金のねずみの像をイスラエルの神に対する罪の供え物として作った。 それから彼らは金の供え物を契約の箱と一緒に車に載せ、くびきを付けたことがない2頭の牛にその車を引かせた。 一旦、ベト・シェメシュ(ヘブライ語で「太陽の家」または「太陽の神殿」)で停まった。
ベト・シェメシュの古代の都市は、もともとカナン人の太陽神シェメシュにちなんで名付けられ、シェメシュはここで崇拝された。
聖書に登場する古代の都市の遺跡はベト・シェメシュの遺丘でいまだに見ることができ、現在の都市の近くにある。 エル・アマルナの手紙に「ファラオはアダドとシェメシュのようである」とあるように、シェメシュは数回言及され、アダドと共に、最も偉大な神の1体であるとされている。 こののち、契約の箱「アーク」はバアレ・ユダに移送され、以後60年この地にて保管された。

前1048年

武王が帝辛を討つために立ち上がった。 武王は文王(西伯昌)の位牌を掲げ軍を起こした。 その後天の声を聞いた武王はいったん兵を退かせた。

前1046年

アメン大司祭国家において、共同王マサハルタが死去。
武王が牧野の戦いで殷を滅ぼし周を興す(殷周革命)。
周の太公望、当方の地を与えられた。
この地にには、莱(らい)と呼ばれる族がこの地域に住んでいたので、太公望は莱を討ち、現地の風俗に合わせて政治を簡素にし、この地方を安定させた。 三監の乱の時、成王は「東は海に至り、西は黄河に至り、南は穆棱に至り、北は無棣に至る間の五侯九伯が罪を犯した場合、これを討伐して良い」と命じた。
太公望はここに斉を建国する。
姓は姜、氏は呂であるため、戦国時代の斉(嬀斉・田斉)などと区別して姜斉または呂斉とも呼ばれる。
その後も領土を拡大し、春秋時代に入る頃には東の強国となっていた。
斉は海に面していることより塩の生産が行われ、鉄の産出地でもあったため、大いに富み栄えた。

前1045年

サムエルはベニヤミン族のキシュの息子、サウルと出会う。サムエルは彼が神が選んだ人であることを悟って油を注いだ。 (サウルの選びに関してはこれ以外にも「背が誰よりも高かったため選ばれた」ことや、「アンモン人の来襲時、霊が下って先頭にたって出陣したことから選ばれた」など異なる由来を持つ複数の伝承が並行して記述されている。)
※アンモン人とは、アメン司祭国家テーベの民の事。
アメン大司祭国家において、ヘムネチェルテピエンアメン・メンケペルラーが共同王(アメン大司祭)となる。
魯、燕、衛、晋、曹、蔡、呉、陳、宋、斉、楚の諸侯が成立。

前1043年

エジプト第21王朝において、ヘジケペルラー・セテプエンラー・スメンデス1世が死去。 エジプト第21王朝内において、激しい政治闘争が起こる。
エジプト第21王朝において、アメン大司祭国家初代王ヘリホルと妻ノメジトの息子アメンエムニスウ(ネフェルケレス)が王位を継承する。 しかし、これに反対する者も多く、彼の即位に伴って多数の人々がその地位を失い、エジプトからリビアへ追放される。

前1040年

イオニア人の移動が開始。 伝承ではアテナイ王コドロスの子ネイレウスおよびアンドロクロスがイオニアの植民市を建設。

前1039年

エジプト第21王朝において、ネフェルカラー=ヘカウアスト・アメンエムニスウ王が死去。 エジプト第21王朝において、アメン大司祭国家二代王ピアンキの息子プスセンネスが、アアケペルラー・セテプエンアメン・パセバカエムニウト1世(プスセンネス)として王位を継承する。

前???年

エジプト第21王朝において、かつてアメンエムニスウ即位に反対して追放された人々の帰国が許可され、タニス政府とアメン神殿の間で関係改善が図られた。

前???年

アメン大司祭国家の大司祭メンケペルラーが、エジプト第21王朝プスセンネス1世の娘イシスエムケブと結婚する。 アメン大司祭国家と第21王朝の間には極めて濃密な血縁関係が構築された。
これによって両者の間には比較的安定した協力関係が持たれることとなった。
タニスで旧来崇拝されていた、セト神やアシュタルテ女神に代わって、テーベの神であるアメン神、ムト神、コンス神の神殿が建てられた。

前1033年

ダビデが生まれる。 ベツレヘムにすむエッサイの8番目の末っ子として生まれる。

前1032年

アメン大司祭国家の王カーケペルラー・セテプエンアメン・パネジェム1世が死去。
アメン大司祭国家において、ヘムネチェルテピエンアメン・メンケペルラーが王位を継承する。

前1021年

イスラエル王国が建国される。
サウルがイスラエル王国の王に選ばれる。 これにより、イスラエル王制が樹立する。イスラエルはサウル王のもとで団結し、周囲の民族と戦った。
周王朝の王/武王が死去。
周公旦に対立する三監(管叔鮮・蔡叔度・霍叔処)が殷の紂王の子禄父(武庚)を擁して反乱を起こすが鎮圧される(三監の乱・禄父の乱)。
三監の乱の後、殷の故地は東西に分断され、西側(衛)を周公旦の弟康叔に、東側(宋)を殷の紂王の庶兄微子啓に支配させる。 周の国情は極めて不安定であったうえ、成王誦は即位した時はまだ幼少であったので、実際の政務は母の邑姜、叔父の周公旦、太公望呂尚、召公奭(燕の開祖)らが後見した。 成王が成長すると、自ら政務を執るも、『史記』周本紀によると、若くして崩御したと記されている。
子の釗(康王)が後を継いだ。彼の代までが周の確立期と定義されている。 成王の時代に造られた「何尊(宝鶏市博物館蔵)」には「中国」の名が含まれた最古の銘文が刻まれている。

前1020年

フェニキア人、カナリア諸島に来航。 フェニキア人、南スペイン(カディス)に入植。

前1016年

イスラエルの最初の王であったサウルは、アマレク人との戦いで「アマレク人とその属するものを一切滅ぼせ」という神の命令に従わなかった。 また、アマレク人との戦いの最中において、士師サムエルの留守中に神から禁じられていた生贄をささげた。
この内容から、サウル王に加護を与えるイスラエルの神的存在と、サウル王に生贄を捧げさた異なる神的存在(サウル王に取り付いた「悪霊」)があった可能性が見て取れる。 そうでない場合は、この逸話にでてくる神的存在が二役を演じた可能性も考えられる。それはダークロードに近いところにあって、支配階層を好む神的存在である可能性が高い。 サウル王にアマレク人の「一切の殲滅」を要求している事や、のちのフィリスティア(ペリシテ)人との戦いの最中で、ダビデが「万軍の主の御名」と告げているため、おそらく当時イスラエルで奉られていた神は、セフィロトの一柱神ツァバトではないかと思われる。 ただ、本来はエロヒムの分光であるツァバト(アドナイ=ツョバト)がこのような一側面に偏る事はないように思われるので、ツァバト神を名乗った別の存在である可能性が高い。 主なる神の命令に背いたサウル王は、その寵を失った。 神の声を伝えていた士師サムエルは、これ以降サウル王に会うことはなかった。

前1015年

士師サムエルは神の命を受け、サウル王に代わる新たな王を見出して油を注ぐべく、ベツレヘムのエッサイ(イエッセイ)なる人物の元に向かった。 エッサイ(イエッセイ)は自分の息子を順にサムエルに見せるが、どれも王となる者ではなかった。 そこで、一番年下のダビデを連れて来させると、神はその子に油を注ぐよう指示した。
ダビデ、羊飼いをしていたが、士師サムエルに見出される。
サムエルは、神の指示通り、エッサイの第八子で羊飼いの美しい少年ダビデに目をとめてこれに油を注いだ。 一方で、この時点より、主の霊がサウルを離れたため、サウル王は悪霊にさいなまれるようになった。

前1014年

悪霊に取り憑かれたサウル王は、精神を病み始めた。
サウル王の家臣たちは悪い霊におびえるサウル王にたいして、竪琴を弾く者をさがすように進言した。 サウル王は、竪琴の名手を募った。エッサイは息子ダビデが竪琴が巧みであったため、サウル王の下へ向かった。 ダビデが王のそばで竪琴を弾くとサウルの心は安まり気分がよくなった。
聖書では「サウルから悪霊が出て行った」としており、第一サムエル16章の聖書記事は初期の音楽療法とみなされている。 この事から、ダビデは王に仕える事となり、エッサイはダビデをたくさんの献上品とともに送り出した。

前1012年

サウルとイスラエル人たちはペリシテ人との戦いを繰り返していた。
ペリシテ最強の戦士でガト出身のゴリアト(ゴリアテ)はしばしば単身イスラエル軍の前に現れて挑発を繰り返したが、イスラエル兵はこれを恐れた。 従軍していた兄たちに食料を届けるために戦陣をおとずれたダビデは、ゴリアトの挑発を聞いて奮起し、その挑戦を受けることを決意した。 サウル王の前にでたダビデはサウルの鎧と武器を与えられて身にまとったが、すぐにこれを脱ぎ、羊飼いの杖と石投げだけを持って出て行った。 ゴリアトはダビデを見ると「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と侮ったが、ダビデは
「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かってくるが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」と答えた。
ダビデが石を投じるとゴリアトの額にめり込み、ゴリアトはうつぶせに倒れた。ダビデは剣を持っていなかったので、ゴリアトの剣を引き抜いてその首を落とした。ペリシテ軍はこれを見て総崩れになり、追撃したイスラエル軍は大いに勝利した。 これ以降、ダビデは出陣の度に勝利をおさめ、人々の人気を博した。

前1010年

サウル王は、名声をあげていくダビデを妬み、次第にダビデを憎むようになった。
サウルはペリシテ軍の手によってダビデを亡き者にしようと戦場に送り込む奸計を企てた。最初は、ペリシテ人の戦で勝利の戦果を収める事ができたなら、娘のメラブ(サウル王の長女)をダビデに与えるという約束を取り付けた。 ダビデはことごとく勝利をおさめたが、サウル王はメラブをダビデに与えるという約束を果たさず、ミカルの方をダビデと結婚させようとした。 しかし、この上でさらに条件を付ける事にした。
サウル王は、ダビデに対して「ペリシテ人との次の戦で、ペリシテ人の死体から陽の皮100枚を獲得せよ。そうすれば、次女のミカルを与える事にする。」という約束を取り付けた。 これはダビデを戦死させて抹殺する策略であったが、ダビデはまたしても勝利の専科を上げただけではなく、ペリシテ人の陽の皮100枚の獲得をも果たした。
この一件から、ダビデはミカルを妻にした。
サウル王は、ますますダビデを憎む事となり、今度は刺客を放ってダビデ抹殺を図った。 この事を知ったミカルは機転を利かした行動で、サウルが放った刺客からダビデを逃れさせた。ダビデはサウルの刺客からの逃亡に成功するが、この間にサウル王は別の男(アブネル将軍)にミカルを嫁がせた。
サウル王は、今度は家臣たちにダビデ抹殺の命令を下した。
しかし、ダビデの親友であったサウル王の息子ヨナタン(イェホナタン)が、この命令の内容を知り、ダビデに逃げるように告げた。 ダビデには次々と刺客が送られるが、ダビデはことごとくこれを逃れた。

前1009年

ダビデは、サウル王の手を逃れ、各地を転々とする。 しかしある時、エン・ゲディの洞窟に隠れている時、偶然にしてサウル王がそこに入ってきた。 ダビデの周囲の者たちはサウルを仕留めるように勧めたが、ダビデは「神の選んだ人に手をかけられない」としてこれをせず、ひそかにサウル王の上着の裾を切り取った。 ダビデがそこにいた事に全く気づくこともなく、洞窟を出たサウル王の前に姿を現し、上着の裾を示した上で害意のないことを告げた。

前1008年

サウル王が自らダビデの討伐に出向く。 ダビデがサウル王の陣内に侵入すると、サウル王は従者供に眠りこけていた。 ダビデの従者は再びサウルを討つことを進めたが、ダビデはこれを拒み、王の槍と水差しをもって陣営を出た。
その後、ダビデは再びサウル王の前に姿を現し、害意のないことを告げた。

前1006年

イスラエルの王都ギブアの建設

前1004年

サウル王がヨナタンを含む息子(アビナダブ、ヨナタン、マキエ・シュア、イシュバール)たちを率いて、ペリシテ人と戦った。(ギルボアの戦い) しかし、神の寵愛を失っていたサウル王は敗走しギルボア山で息子たちと共に追い詰められた。
ヨナタンを含むサウル王の息子たちは戦死し、四男のイシュバール(エシバアルもしくはイシュ・ボシェト)だけが生き残った。 サウル王は自ら剣の上に身を投じて死んだ。(また「重傷だったサウルに頼まれて家臣がとどめをさした」との異なる伝承もある。) ダビデはサウルがこの山で死んだ故に、この山を呪った。そのために、今日もイスラエル政府による緑化政策にもかかわらず植物が育たないと言われる。
サウルの死を聞いたダビデは衣を引き裂いてこれを嘆いた。 ただ一人生き残ったイシュバールは、アブネルの支援下で暫定王権樹立し、マハナイムを首都として南イスラエル国を継承した。

前1003年

康王が、周王朝第3代王として即位する。( - 993年)
ダビデが神の託宣を受けてユダのヘブロンへ赴きそこで油を注がれた。 ダビデはユダの王となり、イスラエル北部のヘプロンを首都とした。
この事を知ったイシュバール王は、ユダ国と対立する事となった。
ユダ国とイスラエル国の間で戦争が起こる。

前1002年

周の成王死去。息子の姫釗が康王(こうおう)として即位。 「大盂鼎(北京中国国家博物館蔵)」が鋳造される。
康王が将軍の盂に与えた辞令が銘文に残る。
彼の代に周は各諸侯への威信を確立し、国家体制が安定を創出した。

次の年代:
紀元前1000年〜紀元前900年