前の年代:
紀元前1600年〜紀元前1500年

紀元前1500年 〜 紀元前1400年

北極星が、こぐま座β星/恒星コーラブ(北の星という意味)に入っていく。周(現在の中国)では北極五星のひとつ「帝」と定められ、この星が天帝(太一もしくは太乙、太極)とよばれるようになった。(日本での「太一」は、天帝ではなく「太陽=天照大神」を示しているので同じではない。解釈に注意。)こぐま座β星がもっとも北極星として成り立つのは紀元前1100年頃であり、紀元前500年頃に位置からはずれ、次の北極星に移行する。
ヨーロッパは新青銅器時代を迎える。
ギリシア神話で登場する神々や英雄が現れたのが、この時期と考察されている。その内容は、二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』に語られる。

前1500年頃

アーリア人がインド北部のパンジャブ地方へ進入。 神話期が正しければ、アーリア人は先住民(ドラヴィダ民族)を、吸収したか、アスラ(この時は異端民族を意味している?)として、東もしくは南へ追いやったと考えられる。 この時、ヴィシュヌ神はまだ発生しておらず、アディティ(アーディティア神群)とダイティヤ(ヴァス神群)という位置づけでヴェーダに歌われている。
また、アーリア民族はデーヴァ(デヴァ?)神群とされ、他の敵対する民族はアスラ(悪魔)とした。が、ゾロアスター教以下、東南アジアではデーヴァこそ「悪魔」としている信仰がある(※ディーボ(悪魔)という言葉もここから発生した?)。
現在のヒンドゥー教では、ドラヴィダの主神であった神々(ムルガン等。ルドラ、マルト、シヴァ神等も含まれると思われる)が、吸収されている可能性もあるが、これは現地の神々を傘下に入れてしまう事での思想拡大を狙ったものである、という説も存在いている。 それとは別にもうひとつの可能性として、天使と悪魔(デーヴァ)という西洋の概念そのものを含めてアーリア民族とした場合、これをまとめてデーヴァ神群とした説が出てくる。この場合、同じ先住民族であるにも関わらず、当時、アーリア民族に与した民族はデーヴァ神群として、そして敵対したものがアスラ神群として判別され、思想だけがデーヴァとアスラに定着したという展開説も考えられる。これならば、姿形の思想が同じであるにも関わらず、敵味方に分かれてしまい、独自の発展を遂げたヒンドゥー教の可能性も伺える。
ケルト/地中海文明・メソポタミア文明・インダス/ドラヴィダ文明の三者は、それぞれで伝承する内容は独立していても、概念の骨子は相関関係にあり、当時発生したであろう出来事に共通している。
エーゲ海のサントリニ島で火山爆発。
エジプトで世界最古(と言われている)の数学書と医学全書が著される。
アナトリア半島のヒッタイト人が人工鉄(鉄の精錬法)を発明

前1498年

エジプト第18王朝において、摂政をおこなっていたマートカラー・ハトシェプスト女王が共同王となる。 トトメス3世の存在は無視され、事実上ハトシェプストが全ての権力を握った。 この時、背後にはアメン神官団の協力な補佐があった。 ここにエジプト史上初めて実質的な最高権力を女性が握ることになる。 ハトシェプスト時代は目立った対外遠征が行われておらず、大きな反乱もなく長い平和が続いた。 この平和の中でエジプトの国力は拡大を続けており、数世紀ぶりにプント国(現在のソマリア地方)などアフリカ方面へ大規模な交易隊が派遣された。 これをはじめとして貿易活動は極めて活発化し、数々の建築や芸術も花開いた。 特にハトシェプストが自らのために作らせた巨大な墓、いわゆるハトシェプスト女王葬祭殿は古代エジプト建築の偉大な成果の1つ。 ハトシェプストがその力を大いに発揮していた時代、共同王であったトトメス3世がどのように生活していたのかほとんど記録に残されていない。

前???年頃

トトメス1世によってシリア・パレスチナから排除されたミタンニ王国が、シリア北部のカデシュ王を盟主とした対エジプト同盟を結成させてエジプトの影響力をそぎ落としにかかる。 やがてカデシュ王らにパレスチナの要衝メギドを占領され、シリア北部におけるエジプトの宗主権は失われてしまう。

前???年頃

ヨセフの息子マナセがアラム人女性と結婚し、マキルが生まれた。 ヨセフは孫マキルを見る事ができた。

前1485年頃

ヤコブの息子ヨセフが110歳にて死去。 ヨセフの遺体はエジプトから運び出されてシェケムに葬られた。 この頃より寿命が100歳前後になる?

前1483年

共同王として実権を握っていたマートカラー・ハトシェプスト女王が病死。 メンケペルラー・トトメス3世が全権を継承して、エジプト第18王朝を統治。 トトメス3世はハトシェプスト女王の記録を抹殺することに全力を挙げた。 この時、背後にアメン神官団の協力な補佐があった。 ハトシェプストが建てた多くの記念建造物からその名が削り取られ、ハトシェプストの彫像や彼女の側近の墓はその多くが破壊された。 以後、王名表などの歴史記録にはハトシェプストは正式の王としては記載されなくなる。 この行動については諸説あるが、大きく以下の二つに分かれる。 ・トトメス3世はハトシェプストを簒奪者と見なしており、その恨みからくるもの。 ・ハトシェプストは「トトメス3世が成人するまでの繋ぎ」を自覚しており、確執は存在しなかった。 しかしながら『女のファラオが存在した前例』を残す訳にもいかず、やむなく存在を抹消した。

前1482年

エジプト第18王朝(トトメス3世)が、シリア北部におけるエジプトの宗主権奪還のために、アジア遠征を開始。 メギドの戦いがおこる。 トトメス3世は、進発から10日でガザに到達して町を占領した。 これに対し反エジプト勢力はエジプトからメギドに向かう道を封鎖してエジプト軍を待ち構えたが、トトメス3世はカルメル山の峠道を強行突破して敵軍の虚を着き圧勝した。 反エジプト諸国の軍はメギド市に撤退して篭城したが、これも7ヶ月間の包囲戦の末陥落させた。 トトメス3世は降伏したシリア地方の諸国に対して忠誠を誓わせたが、更にシリアに対する支配を強めるために諸王に対して王子を人質としてエジプトに送ることを定めた。 シリアをいくつかの管区に分けて監督官を置いた。 この戦いの後にも、エジプト第18王朝とシリアの対立は続く。

前???年

レビ族アムラムと妻ヨケベドの間にアロンが生まれる。

前???年

レビ族アムラムと妻ヨケベドの間に娘ミリアムが生まれる。

前???年

カデシュ王をはじめとしてシリア地方の諸国はしばしばエジプトに敵対的な態度を示した。 トトメス3世は以後、夏が訪れるたびにアジア遠征を繰り返し、その回数は治世の終わりまでの間に17回に達した。 一方で、エジプト王朝内においては、エジプトの国力伸張による王側の意識変化や、アメン神官団の勢力があまりに拡大を続けたために、王とアメン神官団の間にはやがて緊張関係が生じるようになった。

前1453年

エジプト第18王朝において、父トトメス3世と共に遠征をおこなっていたアメンヘテプ2世が共同王となる。

前1450年

エジプトにとってシリア地方支配における最大の問題は、同じくシリアへの勢力拡張を狙うミタンニ王国であった。 支配を磐石のものとするためにはミタンニそのものを撃退する必要があった。 これを企図して行われたのがトトメス3世の第8回のアジア遠征で、トトメス3世が行ったアジア遠征の中で最大の規模を持つものである。 エジプト、ミタンニ両国の軍はハラブ(アレッポ)付近で遭遇、戦闘が行われた。 トトメス3世はこれに勝利し、敗走するミタンニ軍を追ってユーフラテス川に到達、更に川を超えて前進し、シリアからミタンニ軍を放逐した。 トトメス3世は勝利を収め、かつてトトメス1世が行ったようにユーフラテス川沿いに境界石を建設すると、帰途に象狩りをするなどの余裕を見せて凱旋した。 この勝利はシリアにおけるエジプトの権利を国際的に承認させる事に繋がった。 ミタンニ以外の当時のオリエント世界の大国、即ちヒッタイトとバビロニア(カッシート朝)がシリアにおけるエジプトの地位を承認する使者を立てた。 なおシリアではカデシュを中心に反エジプトの動きがあったが、やがて完全に鎮圧された。 17回のアジア遠征によってシリア支配を確立したトトメス3世は南方に軍を転じ、ナイル川第4瀑布のナバタ地方までを征服、エジプトは史上空前の勢力を確立するに至った。 ヌビアは第二瀑布を境に下ヌビア(ワワト)と上ヌビア(クシュ)に分割され、それぞれに副総督が置かれてヌビア総督(南の異国の王子)を補佐する体制が築かれた。 以降ヌビアからは毎年300kgに達する金が貢納されたという。

前1450年

エジプト第18王朝を統治していた、メンケペルラー・トトメス3世が老衰にて死去。 アアケペルウラー・アメンヘテプ2世が全権を継承して、エジプト第18王朝を統治。 トトメス3世が征服したシリア諸国では、ただちに反乱の火の手があがった。 しかし、アメンヘテプ2世がすみやかにこの反乱を鎮圧した。 ヌビア地方でも同様にして現地人を威圧すると、以後は比較的平和な時代を継続した。 この時、アメンヘテプ2世は、王とアメン神官団の関係を微妙に変化させていた。

前1450年頃

ギリシャのミケーネ文明が興り、ギリシアを征服、アナトリアまで進出。 クレタ文明滅亡。 ヒッタイト新王国が興る。

前1443年

アメンヘテプ2世がアジア遠征をおこなう。 アメンヘテプ2世は、この遠征について記した石碑をアメン大神殿(カルナック神殿)に収めた。

前1441年

アメンヘテプ2世がアジア遠征をおこなう。 アメンヘテプ2世は、この遠征について記した石碑をアメン大神殿(カルナック神殿)だけでなく、メンフィスのプタハ大神殿にも納めた。 これは同一の石碑を両方に奉納することで神格のバランスを取ろうとしたものと考えられる。 それだけにとどまらず、彼はヘリオポリスのアトゥム神やラー・ホルアクティ神に対しても同様の配慮を見せた。 こうして、アメンヘテプ2世は、アメン神官団との間に一定の距離を取ろうとした。

前???年

アメンヘテプ2世の第2皇子トトメス4世が、夢の中でホル・エム・アケト(ホルス神)から「砂に埋もれたスフィンクスを掘り出せば王位を獲得できる」というお告げを受ける。

前1419年

エジプト第18王朝を統治していた、アアケペルウラー・アメンヘテプ2世が死去。 アメンヘテプ2世の陵墓は後に王家の谷と呼ばれる土地に築かれ、後代には王たちのミイラを墓荒らしから守るために安置する場所として使われた。 第2皇子であるメンケペルウラー・トトメス4世が継承して、エジプト第18王朝を統治。 アメン神官団の影響力の排除を試み、アメン大神官が就任する慣例であった要職に腹心を任じるなどの施策を行う。

前???年

エジプト第18王朝/神官のイウヤと女性神官チュウヤとの間にアイが生まれる。 イウヤとチュウヤは、ミタンニ王国の平民出身であるため、エジプト人ではない。

前???年 エジプト第18王朝/神官のイウヤと女性神官チュウヤとの間にティイが生まれる。

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紀元前1400年〜紀元前1300年