前の年代:
紀元前1500年〜紀元前1400年

紀元前1400年 〜 紀元前1300年

 

前1400年頃

中国殷王朝の遷都。
モイトゥラの戦いが起こる。
トゥアハ・デ・ダナーン(ダーナ神族)がアイルランドへの移民(フィル・ボルグ)をハーリングの試合で破り、さらに戦闘でも破ったとする記述が見られる。
アカイア人の侵入によりミノア文明が滅ぶ。
ミタンニのキックリ、最古の馬匹学の書(ヒッタイト帝国首都ハットゥシャ(現ボアズカレ)で出土)を著す。
エジプトでガラス窯業が起こる。

前1390年

カッシート王クリガルズ1世が「ドゥル・クリガルズのジッグラト」を建設。

前???年

メンケペルウラー・トトメス4世が、ヒッタイトの危機に対抗するため、ミタンニをはじめとする諸国との間に同盟を締結。シリア方面の情勢を安定させる成果を挙げる。

前1386年

エジプト第18王朝を統治していた、メンケペルウラー・トトメス4世が死去。
ネブマートラー・アメンヘテプ3世が継承して、エジプト第18王朝を統治。
アメン神を崇敬すること篤く、テーベにカルナックのアメン神殿と直結する分神殿としてルクソール神殿を建設している。 このほか、同地に広大な自身の葬祭殿も建設している。
葬祭殿は後に後代の王たちによって破壊されたが、メムノンの巨像と呼ばれる彼の坐像は破壊されずに残り、現在でも形をとどめている。

前1384年

殷の般庚が安陽に遷都する。

前???年

ネブマートラー・アメンヘテプ3世と女性神官ティイが結婚する。ティイは第一王妃となる。

前1380年

シリアの山岳地域にアブディ・アシルタを王とするアムル王国が建国される。

前???年

神官アイと妻テイの間に、ネフェルティティが生まれる。
古代エジプト三大美女の一人と言われる。

前1373年

3月27日、甲骨文から殷の盤庚の治世中の支配地域において、月食があった事が確認されている。

前???年

ネブマートラー・アメンヘテプ3世がネフェルティティに妻の位を与えた。

前???年

ネブマートラー・アメンヘテプ3世が、ミタンニ王トゥシュラッタの娘タドゥキパを妻とする。

前1362年

アメンヘテプ3世と第一王妃ティイの間に、アメンヘテプ4世が生まれる。

前1360年頃

ヒッタイト王国がミタンニ王国を滅ぼす。
この頃、アッシリア帝国が独立する。アッシリアは、メソポタミアのバビロニアより上流の地方で、バビロニアとは異なった民族で、セム人系の民族である。

前???年

ネブマートラー・アメンヘテプ3世が、滅亡したミタンニ王国/最後の王シュッタルナ2世の娘ギルヒパに、妻の位を与えた。

前???年

ネブマートラー・アメンヘテプ3世が、実の娘スィトアムンに妻の位を与えた。

前???年

ネブマートラー・アメンヘテプ3世が、実の娘イシトに妻の位を与えた。

前???年

アメンヘテプ4世が、父の妻であったネフェルティティを王妃として迎えた。
アメンヘテプ4世妻であったネフェルティティの間に、長女メリトアテンが生まれた(?)。

前1350年

アメンヘテプ4世(アクエンアテン)が、共同王となる。

前???年

アメンヘテプ4世妻であったネフェルティティの間に、次女メケトアテンが生まれた(?)。

前1349年

エジプト第18王朝を統治していた、ネブマートラー・アメンヘテプ3世が死去。
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世(アクエンアテン王)が継承して、エジプト第18王朝を統治。 ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、父の妻であったネフェルティティを共同王ネフェルネフェルアテンとして、共同統治を行なった。
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、父の妻であったタドゥキパも、キヤ王妃として迎えた。 ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、長女メリトアテンに妻の位を与え、共同統治者とした。
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世とネフェルティティの間に、三女アンケセンパーテンが生まれる。
エジプトのテーベの神官であるネブアメンの墓が作られる(墓の壁画は大英博物館その他が所蔵)。
トルコ南部のウルブルン岬で交易船が沈没する。この沈没船の船体は1982年に発見され、現時点では世界最古の沈没船とされている。
ヒッタイト王シュッピルリウマ1世がミタンニの都ワシュカンニを攻撃。 ミタンニは敗走し、その途中でトゥシュラッタ王は息子の一人に殺される。 この混乱でヒッタイトはアルタタマ2世を、アッシリアはシュッタルナ3世をミタンニの新王に擁立し対立。
ヒッタイトがアッシリアに勝利しミタンニの新王シャッティワザを擁立し条約を締結。 この条約にはインド・アーリア系のヴェーダの神ミトラ・ヴァルナ・インドラの神名が記録されている。

前???年

スメンクカーラーが、共同王となる。
アクエンアテン王の弟であるのか、息子であるのか、記録が削除されているため、系譜では確定できず。 名の由来は「「生あるものはラー神の出現」というもの。 メンフィスを本拠地にアメン神官団とアクエンアテンとの意見の調整を行っていたと考えられている。
スメンクカーラーがアメンヘテプ4世の長女メリトアテンを妻に迎える。

前???年

ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、エニシャーシ国(現レバノン)の統治者であるサティヤの娘を妻とした。

前???年

ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、次女メケトアテンに妻の位を与え、共同統治者とした。

前1345年

この頃、アメン(アモン、テーベの町の守護神)を祭る神官勢力は、王を抑えるほどの強い勢力になっており、アメンホテプ4世はこれを嫌っていた。 そこで、一般的な推論として、宗教的権力を王権と一本化することを狙い、アメンホテプ4世(アクエンアテン)によるアマルナ(イクナトン)宗教改革が行われる。 アメン神を中心にした多神崇拝を廃止、太陽神アテンの一神崇拝を導入。 太陽神アテンは、太陽そのままの姿の神であり、太陽円盤と言われている。
アテン神に捧げる新都アケトアテン(現アマルナ)を建設。王朝発祥の地テーベを放棄し、アケトアテンに遷都した。 従来の多くの神々の崇拝を禁じて、神々の像を破壊し、唯一神アテンへの信仰に切り替えた。 この事からも、世界最初の一神教といわれる。
ただし、著名な宗教学者のエリアーデは、アメンホテプ4世の宗教を評し、「実際には二神教であった」としている。 というのも彼の宗教ではアテンのみならず、伝統的なエジプト宗教と同じく王たるアメンホテプ4世自身も神であるとされたからである。 アメンホテプ4世自身がアテンを称える詩を執筆している等、単なる政治的理由だけでは説明のつかない事も多い。
アメンホテプ4世は、イクナトンと改名し、民衆に対しても、現人神として崇拝させた。 アメンホテプ4世の像は、妻ネフェルティティの姿も含め、高貴な姿として、 後頭部が長く指が異常に長い、顎が尖る、脂肪の付き方が不自然であるなどマルファン症候群の特徴的な症状を持つような姿で造られている。
ヨーロッパで、ウルネンフェルト文化が起こる。

前1344年

ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、三女アンケセンパーテンに妻の位を与え、共同統治者とした。

前1342年

ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世と実妹(若い方の貴婦人)との間に、トゥトアンクアテン(ツタンカーメン王)が生まれる。
生まれつき爪先が変形しており、左足の人差し指の一部がなく左足の骨の一部も壊死していて、足が不自由だった。

前???年

ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、カッシート朝バビロン王ブルナ・ブリアシュ2世の娘を妻とした。

前???年

ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世と妻ネフェルティティの間に、四女ネフェルネフェルアテン・タシェリトが生まれる。後のファラオ・ネフェルネフェルアテン。

前???年

ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、同父同母の姉妹(実の妹)を妻にした。(名前は判別できず、「若い方の貴婦人」と仮名が付けられている)

前???年

ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世と妻ネフェルティティの間に、五女ネフェルネフェルレが生まれる。

前???年

ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世と妻ネフェルティティの間に、六女セテペンレが生まれる。

前???年

ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世と三女アンケセンパーテンの間に、子供が生まれる。

前???年

神官イウヤの息子アイがアメン大神官となる。

前1336年

エジプト第18王朝を統治していた、ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が退位する。 スメンクカーラー

前1335年

ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世の四女ネフェルネフェルアテン・タシェリトが、共同王ネフェルネフェルアテンとして、エジプト第18王朝を統治。

前1334年

共同王アンクケペルウラー・スメンクカーラーが死去。
ネブケペルウラー・トゥトアンクアテン(ツタンカーメン)王が共同王として即位。
トゥトアンクアテンは、歩くのに杖をついていた虚弱な王であったとされている。 トゥトアンクアメン王が、アンケセンパーテンを妻として迎える。

前1333年

ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が死去。 ネフェルネフェルアテン(メリトアテン)が退位したか死去。トゥトアンクアテンが王位を奪う。
アテン神の信仰から、アメン神の信仰に戻る。 ネブケペルウラー・トゥトアンクアテン(ツタンカーメン)王が継承して、エジプト第18王朝を統治。 伝統的な神であるアムン=ラー(アメン=ラー)の信仰を復活させ、トゥトアンクアムン(「アムン神の生ける似姿」の意)と改名した。
首都をアマルナからメンフィス、テーベに戻した。 アンケセンパーテンも、アテン神からアメン神の信仰に変え、名前をアンケセナーメンと改名した。 王妃アンケセナーメンとの夫婦仲は良かったといわれている。

前???年

ヌビアで反乱が起こるが、ネブケペルウラー・トゥトアンクアメンがこれを鎮圧。

前1330年頃

ミタンニの支配下にあったアッシリア王アッシュール・ウバリト1世が独立(中アッシリア時代)。

前???年

エジプト第18王朝、ヒッタイトとの戦いに勝利する

前1327年

アメン神官であった、アメンホテプ3世の息子アイが共同王となる。

前1325年

アイ王がトゥトアンクアメンを暗殺(?)。(未確定)
エジプト第18王朝を統治していた、ネブケペルウラー・トゥトアンクアメンが死去。
死因は、腐骨や内反足、マラリア(熱帯熱型)が重なっていた状態で、大腿骨の骨折があった。この骨折から数日で死亡した可能性が高いと言われている。 トゥトアンクアメンは王家の谷に葬られた。
ツタンカーメンは王家の谷の陵墓に埋葬される。その陵墓は1922年のハワード・カーター発掘までほとんど盗掘をされていなかった。 2009年のエジプトチームの再調査では、骨のDNAサンプルからケーラー病を患っていたことが判明
ケペルケペルウラー・アイが継承して、エジプト第18王朝を統治。 ケペルケペルウラー・アイは、アンケセナーメンを妻に迎えようとする。
アンケセナーメンはアイとの結婚を嫌い、ヒッタイトの王、シュッピルリウマ1世にその王子を婿に迎えて国王としたいとの手紙を送った。 シュッピルリウマ1世は、王子ザンナンザをエジプトに送ったが、途中で暗殺された。 この暗殺の背後には、ケペルケペルウラー・アイが動いていたという説もある。
ケペルケペルウラー・アイがアンケセナーメンと結婚。

前1324年

ケペルケペルウラー・アイが後継者として、同郷の貴族で軍司令官のナクトミンを使命。

前1323年

エジプト第18王朝を統治していた、ケペルケペルウラー・アイが死去。 軍司令官のナクトミンがケペルケペルウラー・アイにかわって、王位を継承する。この時点ではまだ王に即位していない。

前1321年

王女ムトノメジットと結婚していた将軍ホルエムヘブが王の後継者であるナクトミンを打倒する。
ジェセルケペルウラー・ホルエムヘブが継承して、エジプト第18王朝を統治。アマルナ時代の諸王の事績を抹消する。 また、軍人出身者を神官に任命し、王朝中期以来ファラオの権力を脅かしていたアメン神官団を統制下に置くことでファラオの権力を回復した。
ホルエムヘブは、自らをアメンホテプ3世の後継者として位置づけ、アクエンアテン以降四代の王の存在を抹殺した。 これら諸王の業績を自らのものとしているが、アマルナ諸王特にアクエンアテンの評判が悪かったためか、当時は特に非難を受けることもなかった。 関係が良好であったアイの事跡をも抹消している理由は不明であるが、ナクトミンを重用したことに対する反感と、簒奪者としての汚名から友人であった彼を守るためと二つの理由が考えられる(彼はナクトミンの記念碑及び彫像も破壊している)。 即位後はすでに高齢であった事から、子には恵まれなかった。

前1312年

ヒッタイト王ムルシリ2世の治世9年頃の日食が記録されている。

前1310年

エジプト「死者の書」の代表作『フネフェルのパピルス』が作られる。

前???年

エジプト第18王朝ホルエムヘブが、国中でイスラエル人が勢力を増すのを恐れ、イスラエル人の女性から産まれた男子を殺せという勅命を発した。
勅命をを受けた助産婦の1人はプアといい、もう1人がシフラだった。 ところが、王に命じられたにも関わらず、2人はその通りにはせず、たとえ男の子が誕生しても生かしたままにしておいた。
事実を知った王は彼女たちを呼びつけると「なぜ男の子を生かしているのか?」と問いただした。
シフラたちは機転をきかし、「イスラエル人の女性はエジプト人とは違ってとても丈夫で、助産婦が行く前に子供を産んでしまうのです」といって、その場を切り抜けた。 イスラエルの人々は王の意に反して数を増やし、さらに強力になった。2人の助産婦はその働きが神に認められ、彼女たち自身も子宝に恵まれた。 エジプト王(ホルエムヘブ)は今度は全国民に向け、イスラエル人から産まれた男子は川に放り込めという勅命を発した。

この勅命が発せられた直後に、 レビ族アムラムと妻ヨケベドの間に男子(後のモーセ)が生まれる。 彼女はしばらくは赤子を隠して育てた。 が、3カ月もたつともはや隠しきれなかったので、一計を案じ、瀝青とピッチで防水加工したパピルスの篭に赤子を入れてナイル川の葦の間に置いた。 赤子の姉のミリアムは心配で遠くから篭の様子を見ていた。 そこへエジプト王妃(ホルエムヘブの妻)が水浴びに来て赤子を見つける。 彼女は優しい心の持ち主だったのか、ふびんに思って泣いている赤子を抱き上げた。 ミリアムはすぐにも飛んで行き、「その子に乳を飲ませるイスラエル人の女を連れてきましょう」と申し出た。 こうして、赤子はエジプト王妃の庇護の元に母ヨケベドに育てられた。

少年になると王妃の下へ連れて行かれた。 王妃の養子となり、モーセと名付けられた。

前1302年

ラムセス2世が生まれる
ラムセス2世とモーセの年齢は近かったためか、同じように育てられた。

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