前の年代:
紀元前1400年〜紀元前1300年

紀元前1300年 〜 紀元前1200年

中国で最古の漢字、甲骨文字が使用される。
アーリア人は一部地域の一部のドラヴィダ人を支配し、階級制度のカースト制を作り出し、アーリア人は司祭階級のブラフミン(バラモン)と、王族・貴族のクシャトリア、一般市民のヴァイシャを独占し、ドラヴィタ系の民族は奴隷階級のシュードラに封じ込められたとされていた。 が、近年の研究ではアーリア人・ドラヴィダ人共に様々な階級に分かれていた事が発覚した。 この頃から、インドでヴェーダ(讃歌)が編纂される。おもに語り継がれた伝承から、デーヴァの神々を賛称した内容にてまとめられていった。
この時、既に梵語(サンクスリット)が発達していたと思われるが、紀元後3世紀にも最編纂されたため、この時代にすでに、4つのヴェーダが存在していたのかさえ、正確な内容は伝わってはいない。 が、現在のヒンドゥー教のように、3身即一の主神(ブラフマー/ヴィシュヌ/シヴァ)を重んじたものではなかった事が伺える。 もしも、この時代にすでに4つのヴェーダが成立していたと考えるならば、神話が実話であった時代は、さらに古い時代まで遡る事ができる、と考えられる。
日本/京都、月輪寺の伝承:この頃、日良(インド)、善界(中国)、太郎房(日本)という3名の天狗が「仏」の命を受けて、日本(の山背国)の地に訪れる。そして以後、人々を守護する事となった。この天狗たちが愛宕権現となった。 天狗という解釈は、そのような存在としてしか言い表せなかったといういう事。翼を持つ3名の天使的存在を示している。役小角との対話では、数万の軍を率いていたとある。
仏とあるので、神話や宗教における「神」ではない。「もともと人間であったもの」あるいは「元々人間でありながら人間の領域を超えた者」(仏教でいう如来=アセンデッド・マスター)など、人間よりも上位知的存在もしくは、サナト・クマラを示している。 そして、この当時より現在に至るまで、ずっと人々が日本の地で栄えていた事をも示している。

前1300年頃

殷の盤庚が黄河南岸の亳(殷)に遷都。
アッシリア帝国がバビロンを占領。
フェニキア人が、エジプトでアルファベットを創始させる。
カナン文明(フェニキアが海の文明であるならば、カナンは山/商業)で、モレク神崇拝のための生け贄の儀式が始まる。(-A.D.400年頃まで)
アッシリア王アダド・ニラリ1世がミタンニ王(ハニガルバドの君主)ワシャサッタを破り首都タイデを占領。
黒海東南にグルジア人によるコルキス王国が成立する。 コルキスはギリシア神話ではプリクソスの金羊毛伝説や、イアソンのアルゴナウタイ伝説の舞台であった。
中央ヨーロッパは後期青銅器時代(ウルネンフェルト文化(骨壺墓地文化)〜紀元前700年頃)。
後期ミケーネ文明(後期ヘラディック期III)。
ミケーネ遺跡の「獅子門」が建設される。アルカディコ橋(カザルマ橋)が建設される。 ミケーネの「「戦士のクラーテル」の邸宅」出土の「戦士のクラーテル(英語版)」が作られる。

前1293年

エジプト第18王朝を統治していた、ジェセルケペルウラー・ホルエムヘブが死去。 遺言によりパ・ラメスがファラオとして即位した。
パ・ラメスは、ホルエムヘブの忠実な腹心で親友であり、ホルエムエブの在位中は軍司令官、宰相の地位にあった。ホルエムヘブの信任は非常に篤かった。 ホムエルヘブの死を以て、第18王朝は終焉した。
パ・ラメスは、メンペフティラー・ラムセス1世として、王朝の統治を開始した。
エジプト第19王朝はじまる。

前1291年

エジプト第19王朝を統治していた、メンペフティラー・ラムセス1世が死去。 息子のセティが王位を継承した。
メンマアトラー・セティ1世が継承して、エジプト第19王朝を統治。

前1279年

ラメセス2世が共同王となる。

前1278年

エジプト第19王朝を統治していた、メンマアトラー・セティ1世が死去。

前1274年

ウセルマアトラー・セテプエンラー・ラメセス2世が継承して、エジプト第19王朝を統治。
カデシュの戦いが起こる。
カデシュの戦いは、紀元前1285年頃にシリアのオロンテス川一帯で起きた、古代エジプトとヒッタイトの戦いである。 戦いの起きた年代は明確には判明していない。 世界で初めて公式な軍事記録に残された戦いであり、成文化された平和条約が取り交わされた世界初となる戦いであるともいわれている。
エジプトのラムセス2世17歳の時、治世4年目にシリア地方北部に侵攻し、ヒッタイトの属国アムル(アムッル)を傘下に治めた。
ヒッタイト王ムワタリはすぐにアムル奪還を目指し、同盟諸国から軍隊を集めて同地に向かった。 進軍途上で二人のヒッタイトのスパイを捕らえたラムセス2世は、ヒッタイト軍がアレッポに居るとの情報をつかみ、防備の薄いうちにカデシュを陥落させようと進軍を速めた。 エジプト軍は、それぞれ神の名を冠したプタハ、セト(ステフ)、アメン(アモン)、ラーの 4つの軍団に分けられていた。 ラムセス2世率いるアメン軍団がカデシュに到着した時、強行軍によって後続の個々の軍団の距離が離れてしまっていた。 再び二人のヒッタイト人を捕らえたラムセス2世は、先の情報が嘘であること、そしてヒッタイト軍がカデシュの丘の背後に潜んでいることを知ったが、時すでに遅かった。 ヒッタイトの2500台の戦車隊が後続のラー軍団に攻撃を仕掛けて壊滅させ、その勢いでアメン軍団にも襲い掛かった。 エジプト軍の敗勢必至であったが、アムルからの援軍が突如現れ、ヒッタイトを撃退した。 エジプト軍は再結集し、戦車隊を破ったが、逃れた戦車隊はオロンテス川を渡って自軍の歩兵部隊と合流した。 戦闘が膠着状態に入り、ムワタリはラムセス2世に停戦を申し入れた。
ラムセス2世はこれを受諾し、両軍とも兵を退くこととなった。 ラムセス2世は負けはしなかったが、多くの死傷者を出したことに加え、領土を獲得することもできなかった。
アムルは後に再びヒッタイトの属国となった。

前???年頃

成長したモーセは、あるとき同胞であるヘブライ人がエジプト人に虐待されているのを見て、ヘブライ人を助けようとしたが、はからずもエジプト人を殺害してしまう。 これが発覚し、セティ1世に命を狙われる事となったモーセは、逃れてミディアンの地(アラビア半島)に住んだ。

前???年頃

モーセが、ミディアン人のツィポラという羊飼いの女性と結婚し、羊飼いとして暮らす。

前???年頃

ある日モーセは、燃える柴のなかから神に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(聖書中では「乳と蜜の流れる地」と言われている現在のパレスチナ周辺)へと導く使命を受ける。 神は、みずからを「わたしはある者」と名乗った。

前1272年?

エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにラムセス2に会い、ヘブライ人退去の許しを求めた。 しかし、ラメセス2世は拒絶し、なかなか許そうとしなかった。

前1272年?

ラムセス2世に1人目の後継者が生まれる。 (ただし、1歳前後で亡くなった?)

前1271年?

神は、ラメセス2世を含めたエジプト王朝に対して10の災いを起こす事を、モーセに伝えた。
モーセは、ラメセス2世に再び会い、神の宣告を伝えた。 しかし、それでもラメセス2世は、考えを変える事はなかった。

前???年(前1271年)

エジプトで10の災いが発生し、多くの死者が出る。
ナイル河の水が血(の色)に変わった。 (7:14-25)
都市中に大量の蛙が発生した。 (8:1-15)
都市中にぶよが発生した。(8:16-19)
都市中に虻が発生した。 (8:20-32)
都市中に疫病を流行した。(9:1-7)
それは、腫れ物を生じさせた。(9:8-12)
エジプトに大量の雹を降った。(9:13-35)
エジプトを大量の蝗が襲った。(10:1-20)
暗闇でエジプトを覆われた。(10:21-29)
エジプト中で長子だけが死亡する事件が発生した。(11章、12:29-33)
この時、ラメセス2世の第1皇子も死去する。
モーゼが、ラメセス2世の迫害に苦しむイスラエルの民を率いてエジプトを脱出した。 (出エジプト記)(有力説の一つ)
※ ※ ※
10の災いおよび海が2つに割れるという大規模な現象は、近年まで架空のものと思われてきた。 これは、過去に科学的な調査が行われ、発生する事自体が不可能との決断が示されてきためである。
しかし、2000年にはいってこれらの災いはすべて自然現象として発生した。 また、それによって原因がかなり正確なところまで解明された事から、現在ではモーセの記録にあった事は実在性が高い事が判明している。

前???年

約60万人の人々がエジプトからシナイ半島に脱出を果たす。

前1270年?

ラムセス2世に2人目の後継者カエムワセトが生まれる。

前???年

モーゼが十戒を授かる。
民数記13章21節〜によると、イスラエルにてアナックに関わる文面が見つかる。
32節:“そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。”
33節:“わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」。”

前???年

モーセとイスラエルの民一行は、神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)に辿り着く。実際の距離にしてだいたい約600kmの距離であるため、移動には1週間はかかっていないものと思われる。 この地の先住民であったカナン人やペリシテ人(いずれもフェニキア系民族と考えられる)を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。
ペリシテ人から見れば、イスラエルの民が侵略してきたとも見える。(この地には、セレスという都市があった。) この頃から「イスラエル人」を自称するようになり、ヘブライ語もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したと考えられる。

前1272年

ラムセス2世30歳の時に、にメルエンプタハが生まれる。

前1269年

ラムセス2世とヒッタイト王ハットゥシリ3世、史上知られている最古の平和条約に調印。

前1263年

アッシリア王シャルマネセル1世がミタンニ王シャトゥアラ2世を撃破し領土を完全に併合。

前???年

ユダヤの民のヌンに息子ホシェアが生まれる。 ヌンの子ホシェアはモーセによってヨシュアと呼ばれるようになる。

前1250年頃

メソアメリカ・オルメカのサン・ロレンソの繁栄始まる。
エラム王ウンタシュ・ナピリシャによりチョガ・ザンビール遺跡のジッグラトが建設される。
ギリシア・エーゲ海周辺で巨大地震。ティリンスの宮殿を含め各地の宮殿が大破する。 ギリシアのミケーネのアトレウスの宝庫が建設される。これはこの時代の蜂窩状墳墓(円形墳墓(トロス))の代表例。
伝承では「建国者」であるテセウスがアテナイ王に即位する。
エジプト「死者の書」の代表作『アニのパピルス』が作られる。

前1244年

ラムセス2世によるアブ・シンベル神殿が完成する(着工は紀元前1264年頃)。

前1240年

ヒッタイトの王トゥドハリヤ4世が即位。
この王の治世にヤズルカヤの祭祀遺跡やエフラトゥン・プナルの水辺祭祀遺跡が築かれる。

前1237年

ニフリヤの戦いで、アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世がヒッタイトの王トゥドハリヤ4世に勝利。

前1235年

アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世がカッシートの王カシュティリアシュ4世を捕縛しバビロニアを征服。
この戦いがもととなり『トゥクルティ・ニヌルタ英雄叙事詩』が編纂される。

前1233年

ラムセス2世の息子である2人目の後継者カエムワセトが亡くなる。

前1232年

ラムセス2世3人目の後継者として、メルエンプタハが選ばれる。

前1230年

メソアメリカ・オルメカのサン・ロレンソの繁栄始まる(チチャーラス相〜紀元前1150年頃まで)。

前???年

ヨシュアはカレブたちと共に、モーセに命じられて自分たちの目指す約束の地であるカナン(パレスチナ)を偵察する。 ヨシュアとカレブはカナン(パレスチナ)のすばらしさを伝えるが、それ以外の者たちはカナンの地に入ることの困難を強調する。
そのため、民は動揺し、モーセに向かって不平を言うが、ヨシュアとカレブだけは不平を言わなかった。
このため、ヨシュアとカレブだけは約束の地に入ることをゆるされるが、他の成人たちには許されなかった。

前1212年

エジプト第19王朝を統治していた、ウセルマアトラー・セテプエンラー・ラメセス2世が死去。90歳 バエンラー・メリネチェル・メルエンプタハが継承して、エジプト第19王朝を統治。当時すでに60歳。

前???年

モーセが120歳の時、後継者としてヨシュアをたてて、その後に亡くなる。

前???年

ヨシュアは指導者として約束の地に入るべくヨルダン川を渡ってエリコ(死海の北西部にある歴史的に最古の街)を攻める。
エリコの城壁は祭司たちが吹く角笛と民の叫びの前に崩壊した。
ヨシュアはエリコの人民を全て虐殺する。

前???年

ヨシュアが民を率いて、カナン(パレスチナ)各地侵略を開始。

前1208年

エジプト王メルエンプタハがペルイレルの戦いでリビア人と「海の民」連合軍に勝利。この戦いを記念した「メルエンプタハ戦勝碑」の記録は「海の民」のについての最古の記録。「海の民」としてアカイワシャ人・トゥルシア人・ルッカ人・シェルデン人・シェケレシュ人の5部族の名が挙げられている。「メルエンプタハ戦勝碑」の碑文には、現存最古の「イスラエル」に言及した一節が見られる。
アッシリアのトゥクルティ・ニヌルタ1世が暗殺される。建設途上の新都カール・トゥクルティ・ニヌルタは放棄され、アッシリアは停滞期に入る。

前1207年

10月30日、カナンで金環食が発生。
2017年10月末にケンブリッジ大学の教授ら(コリン・ハンフリーズ教授と共著者グレーム・ワディントン氏)が ヨシュア記における天文学的出来事の観点から、カナンでのヨシュアの戦いについて発表
カナンとされる地域で日食もしくは金環食が観測されたのは紀元前1500〜1000年間でも唯一この時のみ。
ヨシュア記第10章での「アモリ人の五人の王」とヨシュアの戦いは、この時に行われたものと思われる。

前???年

ヨシュアが抵抗運動を粉砕して全カナン(パレスチナ)を制圧。 その後、カナン(パレスチナ)をレビ族を除くイスラエルの十二族にくじびきによって分配した。

前???年

テーバイ戦争が起きる(伝承に基づくエラトステネス説による)。 このテーバイとアルゴスの戦いが『テーバイ攻めの七将』・『エピゴノイ』のもととなった。
伝承ではアルゴス王ディオメドスらエピゴノイはテーバイ戦争に勝利した後にトロイア戦争に参加している。

前1202年

エジプト第19王朝を統治していた、バエンラー・メリネチェル・メルエンプタハが死去。
メンミラー・セテプエンラー・アメンメセスが継承して、エジプト第19王朝を統治。

前???年

殷の23代王武丁の時代(武丁中興)。 殷墟で発掘された武丁の后妃婦好の墓は唯一盗掘を免れた墓で大量の副葬品が発見された。 同じく発掘された武丁の后妃戊の墓からは殷代最大の青銅器「后母戊大方鼎(北京中国国家博物館蔵)」が出土。

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